廬城部枳莒喩(いおきべのきこゆ) 古墳時代の豪族。姓は連。生没年不詳
廬城部氏(
伊福部氏)は、
「伊福吉部」・「五百木部」とも表記し、
「いふくべ」とも読み、
大化の改新以前の
部民に由来している。
景行天皇の皇子、
五百城入彦皇子の名代とする説もある。
以下に述べるように、廬城部枳莒喩の息子の武彦(たけひこ)は湯人(ゆえ)として朝廷に仕えていたわけであるが、
そこから湯を扱う下級官吏として、
息吹(いふき)が訛ったものだとする説もある。
『新撰姓氏録』は、「五百木部連」は尾張連と同じ祖先で、
火明命(ほあかりのみこと)の子孫であるとしている。
宮城十二門の一つ、殷富門(いんぷもん)の名前の由来にもなっている。
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推定西暦459年(雄略天皇3年)。
湯人として朝廷に仕えていた息子の廬城部連武彦が伊勢斎宮の稚足姫皇女を犯し妊娠させたと讒言された。
彼は災禍が我が身に及ぶのを恐れて息子を廬城河へ誘い、潜水して鵜飼をする真似をして、不意に息子を打ち殺した。
のちに無罪と分かり息子を殺したことを後悔し、流言を流した阿閉臣国見を恨み殺そうとしたという。
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『日本書紀(巻第十八)』によると、
それからほぼ50年後に「幡媛が物部尾輿の首飾りを盗んだ事件」が発生し、
廬城部枳莒喩は娘の幡媛を采女丁(うねめのよほろ=采女の召使い)として安閑天皇に献上し贖罪した。