山東出兵
作成日:2024/1/6
山東出兵
西暦1919年にドイツ帝国と日本を含む連合国とのあいだでヴェルサイユ条約が締結され、
同条約第156条で
山東省にあったドイツの租借地を日本が継承することが国際社会で認められた。
しかし、
中華民国はこれを不服としてヴェルサイユ条約を調印しなかった。
そして、
中独平和回復協定を
西暦1921年5月20日に北京で条約締結し、
これにより
山東省は
ドイツから
中華民国に返還されるものとされ、ヴェルサイユ条約と矛盾する二枚舌外交となった。
この結果、
日本はヴェルサイユ条約を法的根拠とした
山東省の統治権を主張し、
中華民国は中独平和回復協定を法的根拠にした統治権を主張する対立構造となった。
大日本帝国は、
日露戦争(
西暦1904年 -
西暦1905年)の勝利を経て、
満洲および関東州の租界などの権益をロシア帝国より継承、
清朝とも条約にて継承を確認、
以降、日本は同地への投資を進め、旅順、大連などの大都市が相次いで発展した。
西暦1912年、
辛亥革命により、
清朝に変わり
中華民国が誕生した時、
中華民国が清朝の継承国として条約上の義務を引き継ぐ条約順守能力があるかが、
安定的な大陸経緯の観点から問題となる。
西暦1914年、
欧州大戦(第一次世界大戦)開戦後、
日本はドイツ帝国の権益であった
山東省と租借地の青島(膠州湾租借地)、
植民地である南洋群島を攻略。
翌
西暦1915年、
日本は
中華民国の袁世凱大総統と、
ドイツ権益の引継ぎについて交渉を行い(対華21ヶ条要求)、
5月25日、
山東省に関する条約、
山東省に於ける都市開放に関する交換公文、
膠洲湾租借地に関する交換公文として承認された。
しかしその後、
西暦1916年に袁大総統が没すると、
清朝滅亡後の中原を取りまとめる統一権力がなくなり、
各地の軍閥が群雄割拠、
列強各国と連携しながら離合集散を繰り返す動乱時代に入る。
すると、革命直後の条約順守問題がまた問われる事態に至る。
西暦1919年、
一次大戦の講和会議(ヴェルサイユ会議)が開かれるが、
袁直系の軍閥を率いた段祺瑞は、
大戦末期に対独宣戦布告をしたことを根拠に、
"戦勝国"の立場で、
一旦日本に遷った
山東省の独利権の返還を要求、
4年前に締結した「21か条要求」の継承を拒否する意向を示した。
これと同時期、
ロシア革命の成功を受けて共産主義思想が中原の知識層にも入り込んでおり、
共産主義分子により、
義和団の乱(北清事変)以来の列強による軍の駐留に対する反感も合わさり、
日本をはじめとする列強に対する反帝国主義闘争が慢性的に繰り広げられるようになる。
マルクス経済学者であった陳独秀北京大学教授および同大学生が五・四運動を引き起こし、
西暦1920年5月には中国共産党が結党される。
状況を打開すべく、日本政府は中国と交渉の末、
西暦1922年の日中山東条約及び日中山東還付条約によって青島を含んだ
山東省を中国に還付することとなったが、
膠済鉄道は日本の借款鉄道とされ、
同鉄道沿線の鉱山は日中合弁会社の経営となるなど、
日本は
山東省に一定の権益を確保した。
これは軍縮会議以来、
世界規模で進む軍縮の流れによるものでもある(シベリア出兵も本年終了)が、
中国は21か条も廃棄するよう求め、日本はこれを拒否した。
西暦1927年に入ると、
イギリス租界奪取事件、
上海クーデターをはじめとした中国民衆による暴動事件が起きるなど危険な地帯にあった。
山東省における日本人居留民数は、
昭和2年末の外務省調査によれば、
総計約16940人に達し、
そのうち青島付近に約13640人、済南に約2160人であり、
投資総額は約1億5千万円に達していた。
第一次山東出兵
西暦1927年4月17日、
若槻内閣は昭和金融恐慌への対処を誤って総辞職し、
与党憲政会は憲政の常道によって下野、
4月20日、
立憲政友会の田中義一総裁を首班とする田中義一内閣が誕生した(外相は田中が兼任)。
南軍が
山東省に接近すると、
5月27日、
政府は
山東省の日本権益と2万人の日本人居留民の保護及び治安維持のため、
陸海軍を派遣することを決定。(
第一次山東出兵)
田中首相は英国、米国、
フランス、イタリアの代表を招いて出兵の主旨を説明したが、
特に異見はなかった。
5月28日、
陸軍中央部は在満洲の歩兵第33旅団を青島に派遣待機させる旨の命令を下す。
同旅団は5月30日に大連を出発し、翌日青島に入港、6月1日、上陸を完了した。
7月3日、北軍の孫伝芳系の周蔭人の指揮下の軍が離反して南軍に加担して、
青島奪取を企図する。
済南にあった北軍の張宗昌軍がこれを討伐しようとしたが、
膠済鉄道と電線を切断されるなど、状況が悪化し、
歩兵第33旅団の済南進出が不可能になる恐れが出てきた。
そのため、7月4日、藤田栄介済南総領事は田中外相に旅団の西進を申請し、
7月5日の閣議でその必要が認められ、旅団は7月8日、済南に進出した。
また同8日の閣議で兵力増派の要請が承認され、
在満第10師団の残余と第14師団の一部、内地より鉄道、電信各一個班が7月12日、
青島に上陸した。
7月に入ると、
武漢に拠点を置いていた汪兆銘による武漢軍が将介石軍の側面を脅かしたため、
蒋介石は7月10日に張宗昌に停戦を申し入れたが、北軍は応じず、
7月末から8月始めにかけて、南軍は北軍と決戦して大敗した。
蒋介石は、汪が共産党と絶縁(合作崩壊)したのを受けて、
国民党再合流を優先させて8月13日に下野を宣言し、
北伐は一時的に中断した。
こうした状況から、日本政府は8月24日の閣議で撤兵を決定、
9月8日までに撤兵を完了した。
これらの出兵は日本人と日本権益の保護を目的としていて、
中国民族主義の伸長を恐れる英米も無条件で歓迎した。
第二次山東出兵
下野した蒋介石は同年秋に訪日、田中首相の私邸で田中と意見交換を行う。
会談において蒋介石は、
日本が後援する張作霖軍閥への支援を打ち切るよう求めるが、
田中は、あくまで満洲の治安維持のための後援であるとして譲らず、
会談は物別れに終わった。
西暦1928年4月8日、
蒋介石は北伐を再開、4月末に10万人の北伐軍が
山東省に突入したため、
支那駐屯軍の天津部隊3個中隊(臨時済南派遣隊)と内地から第6師団の一部が派遣され、
4月20日午後8時20分、臨時済南派遣隊が済南到着、
4月26日午前2時半、
第6師団の先行部隊の斎藤瀏少将指揮下の混成第11旅団が済南に到着し、
6千人が
山東省に展開した(
第二次山東出兵)。
山省内で日本軍と北伐軍が対峙し、
睨み合いながらも当初は両軍ともに規律が保たれていた。
第三次山東出兵
西暦1928年5月3日午前、
北伐軍兵士による日本人家屋ならびに日本人への、集団的かつ計画的な、
略奪・暴行・陵辱・殺人事件である、
済南事件が発生した。
5月5日、済南近くの鉄道駅で日本人9人の惨殺死体が日本軍によって発見された。
5月4日午前、日本は緊急閣議を開いて、
関東軍より歩兵1旅団、野砲兵1中隊、
朝鮮より混成1旅団、飛行1中隊の増派を決定した。
5月8日午後の閣議において、
動員1師団の山東派遣および京津方面への兵力増派を承認し、
5月9日、第3師団の山東派遣が命じられた(
第三次山東出兵)。
日本軍は、市内に2千人いる日本人保護のために済南城を攻撃し、
5月10日から11日にかけての夜、北伐軍は城外へ脱出し北伐を再開した為、
5月11日に済南城ならびに済南全域を占領した(済南事変)。
この事件により日本の世論は憤激、中国に対する感情が悪化した。
5月中旬、北伐軍は張作霖軍閥と接敵してこれに勝利し、
張軍の敗勢は覆い難くなる。
日本は、張に奉天への一時撤退を進言し、説得を受けた張は6月3日、
北京を離れる。
しかし、翌4日、奉天への帰途の張が乗車した列車が爆撃を受け、
張は落命する(満州某重大事件)。
直後より、張軍閥の弱体化を狙った関東軍の謀略であったとされたが、
後を継いだ張学良は日本と袂を別ち、
12月、蒋介石率いる国民政府との合流を宣言した。
蒋介石は北伐を終了し、
1929年3月、
山東全域から日本軍が撤退した。
山東出兵その後
当時の田中義一内閣は東方会議を開いて、
中国の内戦である北伐への不干渉を決めており、
軍もこの決定に従って不用意に戦線を拡大することはなかった。
つまり、当時は文民統制が実行されていたわけである。
一方、蒋介石は北伐戦争を妨害されたことを根にもったらしく、
このときから日本との戦争を覚悟していたといわれる。
一方で、関東州の日本軍は、上述の満州某重大事件をはじめ、
露骨な満州政策を行い始めてもいた。
これは日本政府が進めていた軍縮路線(不戦条約宣布とロンドン軍縮条約)と相反するものであり、
政府と関東軍を中心とした軍部の軋轢は次第に深まっていくことになる。
張作霖は満鉄併行線禁止条項に反して鉄道の建設を進め、
満州善後条約で日本が清朝と結んでいた関東州の権益について、
中華民国側と解釈の相違が露呈しはじめる。
張学良は、
条約にも父張作霖が関東軍と結んだ地域に関する契約にも違反しないと主張し、
開発は進められた。
この頃、ドイツの退役将校マックス・バウアー大佐が蒋介石の軍事顧問となり、
軍事顧問団を形成した。
これ以降、ドイツの最新兵器が中華民国にもたらされる(中独合作を参照)。
西暦1929年2月 に李宗仁の乱が起きた。
4月に山東全域から日本軍が撤退した。
5月16日に馮玉祥軍が挙兵を宣言した。
西暦1929年6月、日本は国民政府を正式に承認する。
このときの協定文書で蒋介石は「支那」でなく「中華民国」呼称にするよう要求、
日本も承諾した。