小窓
日本の地震(1000年代後半) 西暦1500年~西暦1999年

作成日:2022/3/4

発生日付順に記載。

1596/09/05_慶長伏見地震

慶長伏見地震  発生:西暦1596年9月5日 子の刻 マグニチュード(M)7.25-7.75程度

慶長伏見地震(けいちょうふしみじしん)は、 文禄5年閏7月13日(西暦1596年9月5日)子の刻に山城国伏見(現・京都府京都市伏見区相当地域)付近で発生した大地震である。 慶長伏見大地震とも呼称される。

現在の京都・伏見付近の有馬-高槻断層帯および六甲・淡路島断層帯を震源断層として発生したマグニチュード(M)7.25-7.75 程度と推定される内陸地殻内地震(直下型地震)である。 地震による死者数の合計は京都や堺で1,000人以上を数えたと伝えられており、 完成間近の伏見城天守もこの地震により倒壊し、 城内だけで600人が圧死したと言われている。 この伏見城は、 西暦1594年築の指月伏見城であり、 桃山丘陵にある現在の伏見桃山城とは異なる。

この地震の4日前には、 現在の愛媛で中央構造線を震源とする慶長伊予地震が、 また前日には現在の大分・別府湾口付近で別府湾-日出生断層帯の東部を震源とする慶長豊後地震(共にM7.0と推定)が発生しており、 双方の地震による誘発地震の可能性が指摘されている。 これらの天変地異が影響して、 同年中に文禄から慶長へ改元が行われた。 また、 兵庫県南部を中心に甚大な被害となった西暦1995年の兵庫県南部地震(M7.3)は、 本地震で破壊された六甲・淡路島断層帯における地下深くの滑り残しが原因で発生したとする説が発表されている。

1703/12/31_元禄地震

元禄地震  発生:西暦1703年12月31日 午前2時ごろ マグニチュード(M)7.9-8.5

元禄地震(げんろくじしん)は、 元禄16年11月23日(西暦1703年12月31日)午前2時ごろ、 関東地方を襲った巨大地震。 震源は相模トラフ沿いの東経139.8度、北緯34.7度の地点と推定され、 房総半島南端の千葉県の野島崎付近にあたる。 マグニチュード(M)は7.9-8.5と推定されている。 元禄大地震(げんろくおおじしん、げんろくだいじしん)あるいは元禄の大地震(げんろくのおおじしん)とも呼ばれ、 大正関東地震に対比して元禄関東地震(げんろくかんとうじしん)の名称もしばしば使用される。

大正12年(西暦1923年)に起きた関東地震(関東大震災)と類似のタイプの海溝型地震である上に、 震源分布図も類似することから大正関東地震以前の相模トラフ巨大地震と考えられている。 ただし、 地殻変動は大正関東地震よりも大きいものであった。 大規模な地盤変動を伴い、 震源地にあたる南房総では海底平面が隆起して段丘を形成した元禄段丘が分布し、 野島岬は沖合の小島から地続きの岬に変貌したという。

江戸時代中期の元禄から宝永年間は巨大地震、 噴火が続発した時期であり、 本地震の4年後の宝永4年(西暦1707年)にはM 8.4-8.6(Mw 8.7-9.3)と推定される宝永地震、 および宝永大噴火も発生している。

1850年代:安政の大地震

安政の大地震(あんせいのおおじしん/だいじしん)  西暦1850年

安政の大地震は、 江戸時代後期の安政年間(西暦1850年代)に、 日本各地で連発した大地震である。
世にいう「安政の大地震」は、 特に西暦1855年(安政2年)に発生した安政江戸地震を指すことが多いが、 この前年にあたる西暦1854年(安政元年)に発生した南海トラフ巨大地震である安政東海地震および、 安政南海地震も含める場合もあり、 さらに飛越地震、 安政八戸沖地震、 その他伊賀上野地震に始まる安政年間に発生した顕著な被害地震も含めて「安政の大地震」と総称される。 安政大地震、 あるいは安政地震とも呼ばれるが、 単に「安政地震」と言えば、 南海トラフが震源と推定される宝永地震や昭和地震に対比して、 安政東海地震と安政南海地震を総称して呼ぶ場合もある。

西暦1854年の伊賀上野地震、 安政東海地震、 安政南海地震および豊予海峡地震は、 安政の前の嘉永7年に発生した地震であり、 当時の文書、日記、瓦版などは「嘉永七年甲寅・・」と記され、 地震後の嘉永7年11月27日(西暦1855年1月15日)に安政に改元されたため、 本来「嘉永の大地震」と呼ぶべきであるが、 明治改元の際、 詔勅で「慶応4年(西暦1868年)を明治元年と改元する」とされ、 慶応4年1月1日に遡り明治元年と改元された例に倣い、 「嘉永7年1月1日に遡って安政元年に改元された」と解釈され、 「安政の大地震」でよいとされる。

歴史年表は嘉永7年1月1日に遡り安政元年とし、 『大日本地震史料』から『理科年表』に至る各種の地震史料はこの方式を採用している。

1911/06/15:喜界島地震

喜界島地震(きかいじまじしん)  西暦1911年6月15日 23時26分

喜界島地震は、 西暦1911年6月15日23時26分、 鹿児島県喜界島南方(北緯28度、東経130度付近と推定)で発生した巨大地震。 規模はマグニチュード 8.0(Mw8.1)。 名瀬測候所で震度6に相当する揺れ(烈)を観測したほか、 那覇測候所などでも震度5相当(強)の揺れがあった。 明治喜界島近海地震明治奄美大島近海地震とも呼ばれる。
この地震は南西諸島で発生した地震としては有史以来最大規模のものである。 フィリピン海プレートがユーラシアプレート(沖縄マイクロプレート)に沈み込む南西諸島海溝で発生した海溝型地震と推定されているが詳細は不明である。 西暦1995年に同じ付近を震源として発生した地震の観測結果から、 西暦1911年の地震は逆断層型と考えられる。
この地震で喜界島で1人が死亡するなど、 計12人が犠牲となった。 家屋の損壊も多く、 沖縄本島まで被害が及んだ。 また加計呂麻島鎮西村(現瀬戸内町)には津波が押し寄せたという。 ただし今村飯田の津波等級では0(1m程度)にとどまる。
震源
震源は奄美大島の東北東の琉球海溝付近とする説(宇津)と琉球列島の西側(G-R)とする説があり、 西暦2011年現在でも決着は付いていない。 今村(1913)による報告書では、 名瀬、東京、京都、恒春の観測結果より大森公式を用いて決定されたとされているが、 震源の位置と深さは、 資料編纂者によって異なる。 代表的な2つの資料を比較すると、 中央気象台[観測要覧]では『余震190回』との記載もあるが、 別な資料では『余震極めて寡少なるは-異例とすべき』とされ、 余震の多い浅発地震とも余震の少ない深発地震どちらの解釈も可能である。 現在の観測では、 沖縄本島、 奄美大島直下のプレートの深さは、 約50km、 想定震源域付近でも約80km とされており、 従来の震源深さを 100km または 160km とする説には矛盾が生じるとの見解もある。 なお、震源深さを 100km と考えた根拠は、 津波が小さかった事とされている。

後藤(2012)は、当時の観測精度が低かったことに注意しつつ震源を再決定したところ、 北緯28.67度 東経130.55度、 深さ60km(周辺の地震活動を勘案すると10km程度か)に求められた。 この結果から、 本地震はプレート境界型地震であった可能性が大きいとしている。
規模
地震の規模は、資料編纂者によって異なる。 日本国内27箇所の観測点の最大震幅データを、 現在の気象庁の方法により評価を行った場合のマグニチュードは、7.8。

津波
都司嘉宣らの研究でも、 津波は1m程度よりも有意に大きかったことが示されていることから、 津波の発生は震源が浅いことを示唆している。

津波に関する口頭伝承の調査が西暦2011年から西暦2012年にかけて行われた。 調査結果によれば喜界島で34件、 奄美大島で19件、 加計呂間島で2件の得られた伝承をまとめると、 この聞き取り調査の結果から、 M 8.0 とされる地震が発生させた津波としては標準的な規模である。 また、津波高の地域差や津波の押し引きに関する情報が得られたことで、 波源域の推定が可能となり、 波源域は喜界島の北~北東方向、 低角逆断層運動と推定された。

1914/03/15:秋田仙北地震 / 強首地震

秋田仙北地震(あきたせんぼくじしん)/ 強首地震(こわくびじしん)   西暦1914年3月15日4時59分44秒

秋田仙北地震(あきたせんぼくじしん)は、 西暦1914年3月15日4時59分44秒に秋田県仙北郡(現・大仙市、旧・西仙北町)を震源として発生した地震である。 別名を強首地震(こわくびじしん)という。 地震の規模はM6.4 - 7.1。震央は北楢岡付近。

秋田市で最大震度の5を記録したほか、 北海道から東海地方にかけて震度1以上の揺れを観測した。 震度の数値はそう大きくはないが、 94名の死者を出した。 当時、各地の震度をまんべんなく測定する体制はとられていなかったため、 仙北地方の震度の記録はないが、 全潰率と全半潰率から求めた震度分布では、 強首村で震度7程度の非常に強い揺れがあったと見られている。 早朝の地震であったことから、 秋田県や警察による被害調査や救援及び救護活動は、 迅速に当日から行われた。
被害
雄物川周辺の低地と横手盆地の被害が大きかったが、 震央から30キロメートル (km) ほど離れた秋田市においても住宅の全潰が報告されている。

人的被害は死者94名、負傷者324名。 家屋被害は全壊640戸、半壊575戸、焼失3戸であった。 その中でも、仙北郡の被害は突出しており、 死者86名、負傷者278名、全壊580戸、半壊483戸、焼失3戸。 被害の大半を占める。

仙北郡の各村の被害状況は、 神宮寺町(現・大仙市、旧・神岡町)宇留井谷地地区が、 全戸数66戸のうち47戸が全壊、 全人口452名で47名の死傷者を出した。 大沢郷村北野目地区では、 全戸数65戸で47戸が全壊、 全人口368名で死傷者50名であった。 家屋の80パーセント (%) 近くが全壊、 人口の10 %以上が死傷した。 特に、強首村強首地区(現・大仙市、旧・西仙北町)では、 全戸数141戸のうち、全壊74戸、半壊38戸、破損29戸。 合計は141戸となり、全ての家屋が壊れた。

奥羽本線は、境 - 刈和野間で不通。 雄物川に架かる木造の橋梁も落橋した
その他
この地震の特徴は、大沢郷村を中心とした、 半径5 km足らずの地域に極端に強い揺れが起こったこと、 前兆となる地震が頻繁に起きていたことである。

この地震では前震が頻発。 前震は、3月3日から始まり、 次第に数を増した。 その後は落ち着くも、震度2程度の地震が毎日あったという。 前日の14日は、2回あり、15日に本震が発生した。 なお、最大余震は、3月28日2時50分に発生したM6.1であった。

1923/09/01:関東大震災

関東大震災(かんとうだいしんさい)  西暦1923年9月1日11時58分

関東大震災は関東地震(関東大地震、大正関東地震)によって南関東および隣接地で大きな被害をもたらした地震災害。 死者・行方不明者は推定10万5,000人で、 明治以降の日本の地震被害としては最大規模の被害となっている。

詳細は「関東大震災【未完】を参照。

1927/03/07:北丹後地震

北丹後地震(きたたんごじしん)  西暦1927年3月7日18時27分39.2秒

北丹後地震は、 西暦1927年3月7日18時27分39.2秒に発生した地震である。 震源は、北緯35度37.9分、東経134度55.8分の京都府丹後半島北部。 Mjma 7.3(Mw 7.0)の地震であった。 兵庫県の豊岡町(現・豊岡市)、 京都府の宮津町(現・宮津市)、 峰山町(現・京丹後市)で震度6(当時)、 京都市、兵庫県洲本市、福井県福井市、敦賀市、奈良県八木町(現・橿原市)、広島県松永町(現・福山市)で震度5を記録した。

北丹後地震という名称は気象庁の指定によるもので、 発生当時から被災地では丹後地震(たんごじしん)、奥丹後地震(おくたんごじしん)、丹後大震災(たんごだいしんさい)、(丹後)峰山地震などとも呼ばれた。

この地震による被害は、広範囲に及び、 震源から150km以上も離れている鳥取県米子でも2戸の倒壊家屋が出た。 さらに、大阪市鶴町一帯では地割れから海水が噴出、 水道管の破裂も相まって付近一帯の家屋が泥水に浸った。 液状化現象が発生したと考えられる。 このほか、京都府木津村、浜詰村では村内各所で熱湯(出典ママ)が噴出する特異な現象が発生している。

被害の総計は、 死者2,925人(京都府内・2,898人)、 負傷者7,806人、 全壊1万2,584棟、 半壊9,443戸、 焼失8,287戸、 全焼6,459戸、 半焼96戸であり、 大災害へと発展した。

地震直後に寒気と降雨が被災地を襲ったため、 被災者は二重の苦しみを負うこととなった。 救援活動は道路や鉄道が寸断されたため海軍の第九駆逐隊も出動、 震災各地に救護隊を上陸させて活動した。

1931/09/21:西埼玉地震

西埼玉地震  西暦1931年9月21日11時19分59秒
  死者:16人、負傷者:146人

埼玉県大里郡寄居町付近(北緯36度9.5分、東経139度14.8分)を震源として発生したマグニチュード Mj 6.9(USGSはMw6.5)の地震である。 震源の深さは3キロメートル (km) であった。 深谷断層帯の一部が活動して発生したと考えられている。

震度5を観測した地点は以下の通り[3]。関東地方の大部分が震度5以上の強震区域に入る。

旧吹上村(現:鴻巣市吹上)付近では推定される最大加速度が震源に近い熊谷よりも大きく家屋の全壊率も高いことから、 より強い揺れが発生したと考えられる。 現地調査により、 埼玉県内の一部地域で「烈震」(震度6相当)の揺れが発生したことが報告されている。

地震の有感域は東北地方から近畿地方に及び、 関東地方の各地で強い揺れを感じ、 広い範囲で震度5が観測された。 この地震により、埼玉県内では16人が死亡し、 負傷者は146人に達した。 家屋被害は全壊206戸、半壊286戸[4]、火災も発生した。 犠牲者や家屋被害は資料によって差違があり、 負傷者114名、全壊家屋207戸とする資料もある。

揺れが強かった地域では、いたるところに地面の亀裂が生じ、 地盤液状化による地下水や土砂の噴出、 井戸水の濁りなどが広い範囲で見られた。 また、隣接する群馬県でも死者5人、負傷者30人、全壊家屋13棟の被害が出た。 余震は最大でおよそ2週間後に発生したM5.6の地震があり、 3週間ほど先まで続いた。

1943/09/10:鳥取地震

鳥取地震  発生:西暦1943年9月10日17時36分54秒
死者:1,083人、 重症者:669人、 全壊家屋:7,485戸、 半壊家屋:6,158戸、 全半焼家屋:267戸

鳥取地震は、 第二次世界大戦中の西暦1943年昭和18年)9月10日17時36分54秒に発生した地震。 震源地は鳥取県気高郡豊実村(現・鳥取市)野坂川中流域(北緯35度28.3分、東経134度11分)。 M7.2 (Mw7.0)。 震源が極めて浅く、 気高郡湖山村(現・鳥取市)で震度6、 遠く瀬戸内海沿岸の岡山市でも震度5を記録した。

昭和の4大地震の一つである。

昭和の4大地震

昭和の4大地震は、 西暦1945年の敗戦前後にかけて、 4年連続で1,000名を超える死者を出した4大地震をいう。

発生順に

1944/12/07:昭和東南海地震

昭和東南海地震   発生:西暦1944年12月7日午後1時36分
死者・行方不明者1,223人、建物全壊36,520件
昭和南海地震(西暦1946年)とは異なるので注意が必要。

昭和東南海地震は西暦1944年12月7日午後1時36分から、 紀伊半島東部の熊野灘、 三重県尾鷲市沖約20キロメートル(北緯33度8分、東経136度6分)から浜名湖沖まで破壊が進行した(震源としては「熊野灘」)、 Mj 7.9(Mw8.2)のプレート境界型巨大地震。 単に「東南海地震」または「1944年東南海地震」と呼ばれることがある。 また当初は遠州沖大地震と呼ばれていたが、 東海地域の軍需工場が壊滅的な打撃を受けたことを隠匿するため、 「東南海地震」に変更したとする説がある。

昭和の4大地震の一つである。 一般に死者・行方不明者は1223名を数えたとされる。

東南海地震震源域で発生した前回の巨大地震である安政東海地震から90年ぶりでの発生となっている。

1945/01/13:三河地震

三河地震   西暦1945年1月13日午前3時38分23秒

三河地震は、 西暦1945年1月13日午前3時38分23秒に愛知県三河湾で発生したマグニチュード6.8(Mw 6.6)の直下型地震である。

昭和の4大地震の一つである。

震源地は三河湾(北緯34度42.1分 東経137度06.8分座標: 北緯34度42.1分 東経137度06.8分)で、 深さは11km。 三重県津市で震度5を記録したが、 震源に近い現在の西尾市などでは震度6(現在の震度階級では7)であったといわれる。

1ヶ月前の西暦1944年12月7日に発生した昭和東南海地震の最大規模の余震とする説があるが、 同地震に影響を受けて発生した誘発地震とする説もある。 地震発生当初は昭和東南海地震(第一次地震)に対して第二次地震とも呼称された。

1946/12/21:昭和南海地震

昭和南海地震   西暦1946年(昭和21年)12月21日午前4時19分
死者・行方不明者:1,443人、 家屋全壊11,591戸、半壊23,487戸、流失1,451戸、焼失2,598戸
昭和東南海地震(西暦1944年)とは異なるので注意が必要。

昭和南海地震は、 西暦1946年(昭和21年)12月21日午前4時19分過ぎに潮岬南方沖(南海トラフ沿いの領域)78キロメートル(北緯32度56.1分 東経135度50.9分)、 深さ24キロメートルを震源としたMj8.0(Mw8.4)のプレート境界型巨大地震である。 「1946年南海地震」とも呼ばれ、単に「南海地震」といえばこの地震を指すことも多い。 発生当時は南海道地震と呼ばれていた。 南西日本一帯では地震動、津波による甚大な被害が発生した。

昭和の4大地震の一つである。

1964/06/16:新潟地震

新潟地震 西暦1964年6月16日13時1分41秒(JST)

新潟地震は、 西暦1964年6月16日13時1分41秒(JST)、 新潟県の粟島南方沖約40km(北緯38度22.2分、東経139度12.7分、深さ34km)を震源として発生した地震である。 地震の規模はM7.5(Mw7.6)。

日本の歴史上、 最大級の石油コンビナート災害をもたらした地震で、 化学消防体制が脆弱な時代背景もあり、 143基の石油タンクが延焼し、 その火災は12日間続いた。

以後、石油コンビナート防災の指標の一つとなっている。 そして、この地震を機に住宅地や工業地帯の液状化現象への本格的な研究が始まった。 また、日本で地震保険ができる直接的な要因となった震災としても知られ、 この2年後、西暦1966年(昭和41年)に地震保険制度が誕生した。 なお、西暦1960年(昭和35年)のテレビのカラー放送開始から4年後に発生したこの地震は、 日本において数多くのカラー映像で被害状況を残すことができた初めての大規模地震である。 被害は新潟県・山形県・秋田県など日本海側を中心として9県に及んだ。
激しい被害で、 海外のメディアも「日本の北西部で大地震が起きる」と伝えるほどの地震ではあったが、 死者が僅か26名だったことから「奇跡」と評されたこともある。

1995/01/17:兵庫県南部地震 / 阪神・淡路大震災

兵庫県南部地震 / 阪神・淡路大震災   発生:西暦1995年1月17日   死者:6,434人

兵庫県南部地震は、 兵庫県南部を震源として(西暦1995年)平成7年1月17日 5時46分52秒(JST)に発生した地震。 兵庫県南部を中心に大きな被害と発生当時戦後最多となる死者6,434人を出す阪神・淡路大震災を引き起こした。 日本で初めて大都市直下を震源とする大地震で、 気象庁の震度階級に震度7が導入されてから初めて最大震度7が記録された地震である。

地震の震源は野島断層(六甲・淡路島断層帯の一部)付近で、 地震により断層が大きく隆起して地表にも露出している。 震央については、 北淡町付近の明石海峡となるが、 気象庁による地震情報で用いる震央地名で大阪湾の水域にあたるため、 気象庁では大阪湾としている。

近畿圏の広域(兵庫県を中心に、大阪府、京都府も)が大きな被害を受けた。 特に震源に近い神戸市市街地(東灘区、灘区、中央区(三宮・元町・ポートアイランドなど)、兵庫区、長田区、須磨区)の被害は甚大で、 当時東洋最大の港であった近代都市での災害として、 日本国内のみならず世界中に衝撃を与えた。 犠牲者は6,434人に達し、 第二次世界大戦後に発生した地震災害としては、 東日本大震災に次ぐ被害規模である。 戦後に発生した自然災害全体でも、 東日本大震災が発生するまでは最悪のものであった。

西暦1995年(平成7年)年7月25日、 激甚災害に対処するための特別の財政援助等に関する法律に基づく激甚災害にする。 気象庁は当地震を「平成7年(1995年)兵庫県南部地震」(英: the 1995 Southern Hyogo Prefecture Earthquake)と命名した。 そして、政府はこの地震によって発生した大規模な災害(震災)について、「阪神・淡路大震災」と命名している。




関連項目
用語集
地震
地震日本紀元前
地震日本0000年代
地震日本1000年代前半
地震日本1000年代後半
地震日本2000年代
地震外国