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日本の地震(1000年代後半) 西暦1500年~西暦1999年

作成日:2022/3/4

発生日付順に記載。

1914/03/15:秋田仙北地震 / 強首地震

秋田仙北地震(あきたせんぼくじしん)/ 強首地震(こわくびじしん)   西暦1914年3月15日4時59分44秒

秋田仙北地震(あきたせんぼくじしん)は、 西暦1914年3月15日4時59分44秒に秋田県仙北郡(現・大仙市、旧・西仙北町)を震源として発生した地震である。 別名を強首地震(こわくびじしん)という。 地震の規模はM6.4 - 7.1。震央は北楢岡付近。

秋田市で最大震度の5を記録したほか、 北海道から東海地方にかけて震度1以上の揺れを観測した。 震度の数値はそう大きくはないが、 94名の死者を出した。 当時、各地の震度をまんべんなく測定する体制はとられていなかったため、 仙北地方の震度の記録はないが、 全潰率と全半潰率から求めた震度分布では、 強首村で震度7程度の非常に強い揺れがあったと見られている。 早朝の地震であったことから、 秋田県や警察による被害調査や救援及び救護活動は、 迅速に当日から行われた。
被害
雄物川周辺の低地と横手盆地の被害が大きかったが、 震央から30キロメートル (km) ほど離れた秋田市においても住宅の全潰が報告されている。

人的被害は死者94名、負傷者324名。 家屋被害は全壊640戸、半壊575戸、焼失3戸であった。 その中でも、仙北郡の被害は突出しており、 死者86名、負傷者278名、全壊580戸、半壊483戸、焼失3戸。 被害の大半を占める。

仙北郡の各村の被害状況は、 神宮寺町(現・大仙市、旧・神岡町)宇留井谷地地区が、 全戸数66戸のうち47戸が全壊、 全人口452名で47名の死傷者を出した。 大沢郷村北野目地区では、 全戸数65戸で47戸が全壊、 全人口368名で死傷者50名であった。 家屋の80パーセント (%) 近くが全壊、 人口の10 %以上が死傷した。 特に、強首村強首地区(現・大仙市、旧・西仙北町)では、 全戸数141戸のうち、全壊74戸、半壊38戸、破損29戸。 合計は141戸となり、全ての家屋が壊れた。

奥羽本線は、境 - 刈和野間で不通。 雄物川に架かる木造の橋梁も落橋した
その他
この地震の特徴は、大沢郷村を中心とした、 半径5 km足らずの地域に極端に強い揺れが起こったこと、 前兆となる地震が頻繁に起きていたことである。

この地震では前震が頻発。 前震は、3月3日から始まり、 次第に数を増した。 その後は落ち着くも、震度2程度の地震が毎日あったという。 前日の14日は、2回あり、15日に本震が発生した。 なお、最大余震は、3月28日2時50分に発生したM6.1であった。

1927/03/07:北丹後地震

北丹後地震(きたたんごじしん)  西暦1927年3月7日18時27分39.2秒

北丹後地震は、 西暦1927年3月7日18時27分39.2秒に発生した地震である。 震源は、北緯35度37.9分、東経134度55.8分の京都府丹後半島北部。 Mjma 7.3(Mw 7.0)の地震であった。 兵庫県の豊岡町(現・豊岡市)、 京都府の宮津町(現・宮津市)、 峰山町(現・京丹後市)で震度6(当時)、 京都市、兵庫県洲本市、福井県福井市、敦賀市、奈良県八木町(現・橿原市)、広島県松永町(現・福山市)で震度5を記録した。

北丹後地震という名称は気象庁の指定によるもので、 発生当時から被災地では丹後地震(たんごじしん)、奥丹後地震(おくたんごじしん)、丹後大震災(たんごだいしんさい)、(丹後)峰山地震などとも呼ばれた。

この地震による被害は、広範囲に及び、 震源から150km以上も離れている鳥取県米子でも2戸の倒壊家屋が出た。 さらに、大阪市鶴町一帯では地割れから海水が噴出、 水道管の破裂も相まって付近一帯の家屋が泥水に浸った。 液状化現象が発生したと考えられる。 このほか、京都府木津村、浜詰村では村内各所で熱湯(出典ママ)が噴出する特異な現象が発生している。

被害の総計は、 死者2,925人(京都府内・2,898人)、 負傷者7,806人、 全壊1万2,584棟、 半壊9,443戸、 焼失8,287戸、 全焼6,459戸、 半焼96戸であり、 大災害へと発展した。

地震直後に寒気と降雨が被災地を襲ったため、 被災者は二重の苦しみを負うこととなった。 救援活動は道路や鉄道が寸断されたため海軍の第九駆逐隊も出動、 震災各地に救護隊を上陸させて活動した。

1931/09/21:西埼玉地震

西埼玉地震  西暦1931年9月21日11時19分59秒
  死者:16人、負傷者:146人

埼玉県大里郡寄居町付近(北緯36度9.5分、東経139度14.8分)を震源として発生したマグニチュード Mj 6.9(USGSはMw6.5)の地震である。 震源の深さは3キロメートル (km) であった。 深谷断層帯の一部が活動して発生したと考えられている。

震度5を観測した地点は以下の通り[3]。関東地方の大部分が震度5以上の強震区域に入る。

旧吹上村(現:鴻巣市吹上)付近では推定される最大加速度が震源に近い熊谷よりも大きく家屋の全壊率も高いことから、 より強い揺れが発生したと考えられる。 現地調査により、 埼玉県内の一部地域で「烈震」(震度6相当)の揺れが発生したことが報告されている。

地震の有感域は東北地方から近畿地方に及び、 関東地方の各地で強い揺れを感じ、 広い範囲で震度5が観測された。 この地震により、埼玉県内では16人が死亡し、 負傷者は146人に達した。 家屋被害は全壊206戸、半壊286戸[4]、火災も発生した。 犠牲者や家屋被害は資料によって差違があり、 負傷者114名、全壊家屋207戸とする資料もある。

揺れが強かった地域では、いたるところに地面の亀裂が生じ、 地盤液状化による地下水や土砂の噴出、 井戸水の濁りなどが広い範囲で見られた。 また、隣接する群馬県でも死者5人、負傷者30人、全壊家屋13棟の被害が出た。 余震は最大でおよそ2週間後に発生したM5.6の地震があり、 3週間ほど先まで続いた。

1943/09/10:鳥取地震

鳥取地震  発生:西暦1943年9月10日17時36分54秒
死者:1,083人、 重症者:669人、 全壊家屋:7,485戸、 半壊家屋:6,158戸、 全半焼家屋:267戸

鳥取地震は、 第二次世界大戦中の西暦1943年昭和18年)9月10日17時36分54秒に発生した地震。 震源地は鳥取県気高郡豊実村(現・鳥取市)野坂川中流域(北緯35度28.3分、東経134度11分)。 M7.2 (Mw7.0)。 震源が極めて浅く、 気高郡湖山村(現・鳥取市)で震度6、 遠く瀬戸内海沿岸の岡山市でも震度5を記録した。

昭和の4大地震の一つである。

昭和の4大地震

昭和の4大地震は、 西暦1945年の敗戦前後にかけて、 4年連続で1,000名を超える死者を出した4大地震をいう。

発生順に

1944/12/07:昭和東南海地震

昭和東南海地震   発生:西暦1944年12月7日午後1時36分
死者・行方不明者1,223人、建物全壊36,520件
昭和南海地震(西暦1946年)とは異なるので注意が必要。

昭和東南海地震は西暦1944年12月7日午後1時36分から、 紀伊半島東部の熊野灘、 三重県尾鷲市沖約20キロメートル(北緯33度8分、東経136度6分)から浜名湖沖まで破壊が進行した(震源としては「熊野灘」)、 Mj 7.9(Mw8.2)のプレート境界型巨大地震。 単に「東南海地震」または「1944年東南海地震」と呼ばれることがある。 また当初は遠州沖大地震と呼ばれていたが、 東海地域の軍需工場が壊滅的な打撃を受けたことを隠匿するため、 「東南海地震」に変更したとする説がある。

昭和の4大地震の一つである。 一般に死者・行方不明者は1223名を数えたとされる。

東南海地震震源域で発生した前回の巨大地震である安政東海地震から90年ぶりでの発生となっている。

1945/01/13:三河地震

三河地震   西暦1945年1月13日午前3時38分23秒

三河地震は、 西暦1945年1月13日午前3時38分23秒に愛知県三河湾で発生したマグニチュード6.8(Mw 6.6)の直下型地震である。

昭和の4大地震の一つである。

震源地は三河湾(北緯34度42.1分 東経137度06.8分座標: 北緯34度42.1分 東経137度06.8分)で、 深さは11km。 三重県津市で震度5を記録したが、 震源に近い現在の西尾市などでは震度6(現在の震度階級では7)であったといわれる。

1ヶ月前の西暦1944年12月7日に発生した昭和東南海地震の最大規模の余震とする説があるが、 同地震に影響を受けて発生した誘発地震とする説もある。 地震発生当初は昭和東南海地震(第一次地震)に対して第二次地震とも呼称された。

1946/12/21:昭和南海地震

昭和南海地震   西暦1946年(昭和21年)12月21日午前4時19分
死者・行方不明者:1,443人、 家屋全壊11,591戸、半壊23,487戸、流失1,451戸、焼失2,598戸
昭和東南海地震(西暦1944年)とは異なるので注意が必要。

昭和南海地震は、 西暦1946年(昭和21年)12月21日午前4時19分過ぎに潮岬南方沖(南海トラフ沿いの領域)78キロメートル(北緯32度56.1分 東経135度50.9分)、 深さ24キロメートルを震源としたMj8.0(Mw8.4)のプレート境界型巨大地震である。 「1946年南海地震」とも呼ばれ、単に「南海地震」といえばこの地震を指すことも多い。 発生当時は南海道地震と呼ばれていた。 南西日本一帯では地震動、津波による甚大な被害が発生した。

昭和の4大地震の一つである。

1964/06/16:新潟地震

新潟地震 西暦1964年6月16日13時1分41秒(JST)

新潟地震は、 西暦1964年6月16日13時1分41秒(JST)、 新潟県の粟島南方沖約40km(北緯38度22.2分、東経139度12.7分、深さ34km)を震源として発生した地震である。 地震の規模はM7.5(Mw7.6)。

日本の歴史上、 最大級の石油コンビナート災害をもたらした地震で、 化学消防体制が脆弱な時代背景もあり、 143基の石油タンクが延焼し、 その火災は12日間続いた。

以後、石油コンビナート防災の指標の一つとなっている。 そして、この地震を機に住宅地や工業地帯の液状化現象への本格的な研究が始まった。 また、日本で地震保険ができる直接的な要因となった震災としても知られ、 この2年後、西暦1966年(昭和41年)に地震保険制度が誕生した。 なお、西暦1960年(昭和35年)のテレビのカラー放送開始から4年後に発生したこの地震は、 日本において数多くのカラー映像で被害状況を残すことができた初めての大規模地震である。 被害は新潟県・山形県・秋田県など日本海側を中心として9県に及んだ。
激しい被害で、 海外のメディアも「日本の北西部で大地震が起きる」と伝えるほどの地震ではあったが、 死者が僅か26名だったことから「奇跡」と評されたこともある。

1995/01/17:兵庫県南部地震 / 阪神・淡路大震災

兵庫県南部地震 / 阪神・淡路大震災   発生:西暦1995年1月17日   死者:6,434人

兵庫県南部地震は、 兵庫県南部を震源として(西暦1995年)平成7年1月17日 5時46分52秒(JST)に発生した地震。 兵庫県南部を中心に大きな被害と発生当時戦後最多となる死者6,434人を出す阪神・淡路大震災を引き起こした。 日本で初めて大都市直下を震源とする大地震で、 気象庁の震度階級に震度7が導入されてから初めて最大震度7が記録された地震である。

地震の震源は野島断層(六甲・淡路島断層帯の一部)付近で、 地震により断層が大きく隆起して地表にも露出している。 震央については、 北淡町付近の明石海峡となるが、 気象庁による地震情報で用いる震央地名で大阪湾の水域にあたるため、 気象庁では大阪湾としている。

近畿圏の広域(兵庫県を中心に、大阪府、京都府も)が大きな被害を受けた。 特に震源に近い神戸市市街地(東灘区、灘区、中央区(三宮・元町・ポートアイランドなど)、兵庫区、長田区、須磨区)の被害は甚大で、 当時東洋最大の港であった近代都市での災害として、 日本国内のみならず世界中に衝撃を与えた。 犠牲者は6,434人に達し、 第二次世界大戦後に発生した地震災害としては、 東日本大震災に次ぐ被害規模である。 戦後に発生した自然災害全体でも、 東日本大震災が発生するまでは最悪のものであった。

西暦1995年(平成7年)年7月25日、 激甚災害に対処するための特別の財政援助等に関する法律に基づく激甚災害にする。 気象庁は当地震を「平成7年(1995年)兵庫県南部地震」(英: the 1995 Southern Hyogo Prefecture Earthquake)と命名した。 そして、政府はこの地震によって発生した大規模な災害(震災)について、「阪神・淡路大震災」と命名している。