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研究者・日本1800年代

作成日:2024/5/9

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飯田汲事

飯田 汲事
いいだ くめじ / いいだ くみじ
生年   西暦1909年2月21日
       長野県下水内郡常盤村
没年   2000年7月17日(91歳)
国籍   日本
研究分野 地震学
出身校  東京帝国大学
 
飯田汲事は、 日本の地震学者・地球科学者。
学位は、理学博士(東京大学・論文博士・西暦1944年)。
名古屋大学名誉教授。
西暦1980年勲三等旭日中綬章。

業績
西暦1939年6月に石本巳四雄と共同で、 「ある観測点で記録された地震動の最大振幅と出現頻度との関係についての式」(石本・飯田の式)を発表した。
津波研究の世界的権威として知られる。 今村明恒とともに設定した津波等級は現在でも広く使われている。 また、過去に起こった地震の調査を多数行った。 とくに濃尾地震の研究は有名。
そのほか、公害、都市計画、物理探査、温泉など、幅広い分野で活躍した。
主な経歴
また、西暦1960年より日本地震学会委員長。 西暦1971年からは日本測地学会委員長を務める。 西暦1978年には日本地震学会の名誉会員となった。

国際的にも活躍し、 西暦1971年には国際測地学・地球物理学連合国際地震地球内部物理学部門執行委員に就任。
西暦1979年には同連合の国際津波委員会委員長に就任した。

今村明恒

今村 明恒(今村 明恆)
いまむら あきつね
生年   西暦1870年6月14日
       鹿児島藩
没年   西暦1948年1月1日(満77歳)
国籍   日本
研究分野 地震学
研究機関 東京帝国大学
出身校  帝国大学
 
今村 明恒(今村 明恆、いまむら あきつね)は、 日本の地震学者。
東京帝国大学教授、 日本地震学会会長。
学位は理学博士(西暦1905年・文部大臣)。

生涯
西暦1870年、 現在の鹿児島県鹿児島市に薩摩藩士・今村明清の三男として生まれる。

鹿児島高等中学造士館予科、第一高等中学校卒業。 西暦1891年、 帝国大学理科大学物理学科入学。 帝国大学大学院では地震学講座に入り、 そのまま講座助教授となる。 西暦1896年からは陸軍教授を兼任し、 陸軍参謀本部陸地測量部で数学を教えた。 西暦1896年の明治三陸地震発生を期に、 西暦1899年に津波は海底の地殻変動を原因とする説を提唱した。 現在では広く受け入れられている説であるが、 発表当時はほとんど受け入れられなかった。 西暦1905年4月10日、 文部大臣から理学博士の学位を授与される。

明恒は、 震災予防調査会のまとめた過去の地震の記録(歴史地震)から、 関東地方では周期的に大地震が起こるものと予想。 西暦1905年に、 今後50年以内に東京での大地震が発生することを警告し、 震災対策を迫る記事「市街地に於る地震の生命及財産に對する損害を輕減する簡法」を雑誌『太陽』に寄稿した。 この記事は新聞にセンセーショナルに取り上げられて社会問題になってしまった。 そして上司であった大森房吉らから世情を動揺させる浮説として攻撃され、 「ホラ吹きの今村」と中傷された(大森・今村論争)。

しかし西暦1923年9月1日に関東大震災(関東地震)が発生し、 明恒の警告が現実のものとなった。 その後、 関東大震災の地震を予知した研究者として「地震の神様」と讃えられるようになった。 翌月には、 摂政宮を務めていた皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)に震災について進講し、 当時の最先端理論であった地震は地球の地殻のせめぎ合いで起きることや大陸漂流説のほか、 今回の震源が相模湾と推測されること、 江戸時代に比べて近代化に伴い可燃性の石油など市中に増えたにもかかわらず消防能力が「殆ど皆無」に低下していたことを指摘。 地震自体の防止は不可能だが、 火災の防止は可能であるとして防災の大切さを訴えた。 この時の手書き原稿『一般地震と関東大地震との就いて』は遺品の一つとして現存しており、 西暦1929年1月には学会誌にほぼ同内容で掲載された。

先立つ西暦1911年には今村式強震計を開発した。

西暦1923年に亡くなった大森の後を継いで地震学講座の教授に昇進する。 西暦1925年に北但馬地震、 西暦1927年に北丹後地震が発生し、 次の大地震は南海地震と考えた明恒は、 これを監視するために西暦1928年に南海地動研究所(現・東京大学地震研究所和歌山地震観測所)を私費で設立した。 明恒の予想通り西暦1944年に東南海地震、 西暦1946年に南海地震が発生した。 東南海地震後には南海地震の発生を警告したものの、 被害が軽減できなかったことを悔やんだと言われる。

西暦1929年西暦1892年に解散していた日本地震学会を再設立し、 その会長となった。 専門誌『地震』の編集にも携わった。 西暦1931年に東大を定年退官したが、 その後も私財を投じて地震の研究を続けた。 西暦1933年に三陸沖地震が発生した際には、 その復興の際に津波被害を防ぐための住民の高所移転を提案した。 また、津波被害を防ぐには小学校時代からの教育が重要と考えて『稲むらの火』の国定教科書への収載を訴えた。 それが実現した後、 西暦1940年に『『稲むらの火』の教え方について』を著して、 その教え方についても詳しく指導している。

西暦1944年12月7日に前述の東南海地震が発生した際には、 陸地測量部が掛川-御前崎の水準測量を行っていた。 この測量は今村の強い働きかけによるものであった。 この測量の時、 地震前日から御前崎が隆起する動きが確認できた。 これが現在の東海地震の発生直前の地震予知が可能であるという根拠とされている。 墓所は多磨霊園。

川端康成

川端康成
かわばた やすなり
生年  西暦1899年6月14日
      大阪府大阪市北区此花町1丁目79番屋敷
      (現・大阪市北区天神橋1丁目79番屋敷)
没年  西暦1972年4月16日(72歳)
      神奈川県逗子市小坪逗子マリーナ
国籍  日本
職業  小説家・文芸評論家
教育  文学士
      東京帝国大学・1924年
出身校 東京帝国大学国文学科
受賞歴 文芸懇話会賞(1937年)
      文化勲章(1961年)
      ノーベル文学賞(1968年)
        ・・・など
川端康成は、日本の小説家・文芸評論家。 日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 1968年に日本人初のノーベル文学賞を受賞した。 位階・勲等は正三位・勲一等。 大正から昭和の戦前・戦後にかけて活躍した近現代日本文学を代表する作家の一人である。

代表作は、 『伊豆の踊子』『浅草紅団』『抒情歌』『禽獣』『雪国』『千羽鶴』『山の音』『眠れる美女』『古都』など。

ノーベル文学賞をはじめ、 多くの文学賞を受賞し、 日本ペンクラブや国際ペンクラブ大会で尽力したが、 多忙の中、 1972年(昭和47年)4月16日夜、 72歳でガス自殺した。 なお、遺書はなかった。

鳥居龍蔵

鳥居龍蔵(とりい りゅうぞう)  西暦1870年5月4日(明治3年4月4日)徳島 - 西暦1953年1月14日

考古学者、人類学者。小学校中退後、独学で学んだ。 坪井正五郎に認められ、東京帝国大学人類学教室の標本整理係となる。 坪井の指導を受け、東大助教授、國學院大學教授、上智大学教授などを歴任。

西暦1939年-西暦1951年には燕京大学 (現北京大学) 客員教授として北京にあって研究を続けた。 日本内地をはじめ海外の諸民族を精力的に調査。 周辺諸民族の実態調査の先駆者で、 その足跡は台湾、北千島、樺太、蒙古、満州、東シベリア、朝鮮、中国西南部など広範囲に及んだ。

考古学的調査のほかに民族学的方面にも観察を怠らず、 民具の収集も行ない、 北東アジア諸民族の物質文化研究の開拓者となった。 また、 それらの調査を背景に日本民族形成論を展開、 後世に影響を与えた。

主著『千島アイヌ』 (西暦1903年) 、 『苗族調査報告』 (西暦1907年) 、 『有史以前の日本』 (西暦1918年) 、 『日本周囲民族の原始宗教』 (西暦1924年) 、 『人類学及び人種学上より見たる北東亜細亜』 (西暦1924年) 、 『人類学上より見たる我が上代の文化』 (西暦1925年) などのほか自伝『ある老学徒の手記』 (西暦1953年) がある。

没後 西暦1965年鳴門市に鳥居記念博物館が創設された。

あ 漢字
あ かな
生年   西暦1943年月日(歳)
      
没年  
国籍   日本
教育  
出身校 
      
職業  
職歴