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卑弥呼 / 卑彌呼

作成日:2021/10/13

卑弥呼(生年不明 - 242年~248年)は、 『魏志倭人伝』等の古代中国の史書に記されている倭国の女王で、 邪馬台国に都をおいていたとされる。
は不明で、封号は親魏倭王

読みは「ひみこ」、「ひめこ」

親魏倭王とは、 魏の皇帝・曹叡から邪馬台国の女王・卑弥呼に対して、 西暦238年(西暦239年説もある)に与えられたとされる封号のこと。
三国志』東夷伝倭人条(『魏志倭人伝』)に記述されている。

「魏志倭人伝」によると三十余国を従え、 西暦239年に魏に使者を遣わし、 明帝から「親魏倭王」の称号を受けたという。

史書の記述

魏志倭人伝の記述

三国志魏志倭人伝」によると、 卑弥呼は邪馬台国に居住し(女王之所都)、 鬼道で衆を惑わしていたという(事鬼道、能惑衆)。
また、卑弥呼は邪馬台国の王というのは間違いという説がある。
この鬼道や惑の意味には諸説あり正確な内容は不明だが、 魏志倭人伝で「輒灼骨而卜、以占吉凶」(骨を焼き、割れ目を見て吉凶を占う)とあるように卜術をよく行う巫女(シャーマン)であった可能性が高い。
ただし中華の史書には、 黎明期の中華道教や、 儒学的価値観にそぐわない政治体制を鬼道と記している例もある。

本人は人前に姿を現さず、弟だけにしか姿を見せなかった。

福岡県糸島市の平原遺跡から八咫の鏡と同じ直径の大型内行花文鏡5枚を始め大量の玉類や装身具が出土していることから、 原田大六は被葬者は太陽神を崇める巫女であったとしたが、 魏志倭人伝における伊都国の重要な役割から、 卑弥呼は伊都国に繋がる系統の巫女であった可能性がある。

既に年長大であり、 夫はいない(年已長大、無夫壻)、 弟がいて彼女を助けていたとの伝承がある(有男弟佐治國)。
王となってから後は、 彼女を見た者は少なく(自爲王以來、少有見者)、 ただ一人の男子だけが飲食を給仕するとともに、 彼女のもとに出入りをしていた(唯有男子一人、給飲食、傳辭出入)。
宮室は楼観や城柵を厳しく設けていた(居處宮室・樓觀、城柵嚴設)。

卑弥呼が死亡したときには、 倭人は直径百余歩(この時代の中国の百歩は日本の二百歩に相当し、約90m)もある大きな塚を作り、 奴婢百余人を殉葬したとされている(卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、殉葬者奴婢百餘人)。
塚の大きさが直径で記されているところから、 前方後円墳ではなく、 円墳ないし丘地形を利用した形状だったと考えられる。

魏書帝紀の記述

三国志・魏書帝紀』の俾弥呼。
『三國志』(三国志)の卷四 魏書四 三少帝紀第四には、正始四年に
「冬十二月倭國女王俾彌呼遣使奉獻」
とある。

年譜

西暦元号出来事史書
57年 建武中元二年 倭奴国が金印を授与される。 後漢書
107年 永初元年 倭国王の帥升が安帝に拝謁を願う。 後漢書
146年 桓帝と霊帝の間(西暦146年 - 西暦189年) - 倭国大乱。 後漢書
173年 倭の女王卑彌乎が新羅に使者を派遣した。 『三国史記』新羅本紀
189年 189年前後か? - 一人の女子がいて、名を卑彌呼という。年増だが嫁がず、神鬼道に仕え、よく妖術を以て大衆を惑わす。 後漢書
193年 倭人が飢えて食を求めて千人も新羅へ渡った。
西暦192年から西暦194年にかけて、新羅高句麗・中国で異常気象や飢饉の記録があるので、 山本武夫はこの頃東アジア一帯が小氷期に見舞われていたとして、倭人の飢饉もその一環とする説を唱えている。
『三国史記』新羅本紀
208年 倭軍が新羅を攻め、新羅は伊伐飡の昔利音を派遣して防いだ。 『三国史記』新羅本紀
時期不明 倭国で男性の王の時代が続いた(70-80年間)が、その後に内乱があり(5-6年間)、その後で一人の女子を立てて王とした。その女子の名を卑弥呼といい、1000人の侍女たちを使えさせたという。
(卑弥呼の即位)
三国志
232年 倭軍が新羅に侵入し、その王都金城を包囲した。
新羅王自ら出陣し、倭軍は逃走した。
新羅は軽騎兵を派遣して追撃、倭兵の死体と捕虜は合わせて千人にも及んだ。
『三国史記』新羅本紀
233年 倭軍が新羅の東方から攻め入った。
新羅の伊飡の昔于老が沙道(地名)で倭軍と戦った。
昔于老は火計をもって倭軍の船を焼いたので倭兵は溺れて全滅した。
『三国史記』于老列伝
238年 景初二年 12月 - 卑弥呼、 初めて難升米らを魏に派遣。 魏から親魏倭王の仮の金印と銅鏡100枚を与えられた。 (難升米の記事では6月の事となっている) 三国志
240年 正始元年 帯方郡から魏の使者が倭国を訪れ、詔書、印綬を奉じて倭王に拝受させた 三国志
243年 正始四年 12月 - 倭王は大夫の伊聲耆、 掖邪狗ら八人を復遣使として魏に派遣、 掖邪狗らは率善中郎将の印綬を受けた。 三国志
245年 正始六年 難升米に黄幢を授与。 三国志
247年 正始八年 倭は載斯、烏越らを帯方郡に派遣、狗奴国との戦いを報告した。 魏は張政を倭に派遣し、難升米に詔書、黄幢を授与。 三国志
時期不明
(242年~248年)
卑弥呼が死に、墓が作られた。
男の王が立つが、国が混乱し互いに誅殺しあい千人余が死んだ。
卑弥呼の宗女壹與」を13歳で王に立てると国中が遂に鎮定した。
倭の女王壹與は掖邪狗ら20人に張政の帰還を送らせ、 掖邪狗らはそのまま都に向かい男女の生口30人と白珠5000孔、 青大句珠2枚、異文の雑錦20匹を貢いだ。
三国志
249年 元号 倭国使臣が新羅の舒弗邯の昔于老を殺した。 『三国史記』于老列伝
266年 泰始二年 倭の遣使が入貢。邪馬台国からの最後の入貢。 『晋書』
287年 倭軍が新羅に攻め入り、 一礼部(地名、場所は不明)を襲撃して火攻めにした。
倭軍は新羅兵千人を捕虜にした。
『三国史記』新羅本紀


関連項目
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