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壹與

作成日:2021/10/14

臺與/台与(とよ)あるいは壹與/壱与(いよ)。 (生年は西暦235年、没年は不明)
日本の弥生時代3世紀に『三国志 (歴史書)』、 魏志倭人伝中の邪馬台国を都とした倭の女王卑弥呼の宗女にして、 卑弥呼の跡を13歳で継いだとされる女性である。
魏志倭人伝中では「壹與」であるが、 後代の書である『梁書倭国伝』『北史倭国伝』では「臺與」と記述されている。

倭の女王卑弥呼(ひみこ)が3世紀の中ごろに死ぬと男王が立ったが、国中は服さず、内乱に発展した。そのような情勢のなかで、卑弥呼と同族の女でシャーマン的性向をもった年13になる壹与が擁立されて倭王となり、内乱は収まったという。『魏志倭人伝』によれば、その直後に中国に朝貢していることがわかるが、それ以後の動静については明確にされていない。

ただ『日本書紀』に引くところの『晋書(しんじょ)』起居注にみえる「倭女王」が壹与とすれば266年までは在位していたことになる。大和(やまと)王権と関係づけて壹与を崇神(すじん)天皇皇女豊鍬入姫(とよくわいりひめ)に比定する見解もあるが、記紀と『魏志倭人伝』を直結するのは避けるべきであろう。

「台与」は「臺與」の代用表記であり、「壱与」は「壹與」の新字体表記である。
臺與の表記・読みについては異説が多く詳細は後記。

事跡

魏志倭人伝によると、

正始8年(西暦247年)に帯方郡太守として王頎が着任した。

倭国は帯方郡へ載斯烏越ら使者を派遣し、 親魏倭王の女王卑彌呼に未だ従わない狗奴国の男王卑弥弓呼を攻撃中であると(王頎に)報告した。
太守は塞曹掾史の張政らを派遣し、 詔書および黄幢(魏帝軍旗)を難升米に授けて和平を仲介した。

後に女王卑弥呼が死ぬと径百余歩の大きな塚を作り、奴婢百余人を殉葬した。

ところが、 後継者として立てた男王を不服として国が内乱状態となり、 千余人が誅殺し合った。
改めて卑彌呼の宗女である壹與を13歳の女王として立てた結果、 倭国は遂に安定した。

張政らは(幼くして新女王となった)壹與に対し、 檄文の内容を判りやすく具体的に説明した。
壹與は倭国大夫率善中郎將の掖邪狗ら二十人を随行させた上で張政らを帰還させた。
その際、 男女生口三十人を献上すると共に白珠五千孔、 靑大勾珠二枚および異文雑錦二十匹を貢いだ。

とされる。

張政が倭に渡った正始8年から、 卑弥呼の死と壹與の王位継承は、 それ程年月が経っていないと思われる。
『日本書紀』の神功紀に引用される『晋起居注』(現存しない)に泰初?2年(西暦266年)に、 倭の女王の使者が朝貢したとの記述がある。
現存する『晋書』武帝紀と四夷伝では、 西暦266年に倭人が朝貢したことは書かれているが、 女王という記述は無い。
江戸時代にはこの女王は卑弥呼と考えられていたが、 卑弥呼は西暦249年(正始10年)までに逝去(『梁書』)してしまっていることから、 近年ではこの倭国女王は台与のことであると考えられている。

なお、 この正始10年(4月に改元されて嘉平元年)(西暦249年)は、 中国では曹操に始まる曹氏の魏から、 司馬懿に始まる司馬氏の晋へ禅譲革命が行われる西暦265年12月(泰始元年)に至る契機となった年である。

この朝貢の記録を最後に中国の史書から邪馬台国や倭に関する記録が途絶え、 次に現れるのは西暦150年の後の義熙9年(西暦413年)の倭王讃の朝貢(倭の五王)である。

台与と後のヤマト王権との関係は諸説あってはっきりしない。


関連項目
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