小窓
後陽成天皇(ごようぜいてんのう、ごやうぜいてんのう)

作成日:2020/6/22

後陽成天皇は、日本の第107代天皇。
正親町天皇の皇子・誠仁親王(陽光院太上天皇)の第一皇子。
《紀》:日本書紀による記述  《記》:古事記による記述
日本の第107代天皇 後陽成天皇(ごようぜいてんのう、ごやうぜいてんのう)

[在位] 天正14年11月7日(西暦1586年12月17日) - 慶長16年3月27日(西暦1611年5月9日)
[生没] 元亀2年12月15日(西暦1571年12月31日)- 元和3年8月26日(西暦1617年9月25日)47歳没
[時代] 戦国時代
[先代] 正親町天皇   [次代] 後水尾天皇
[陵所] 深草北陵(ふかくさきたのみささぎ)。深草十二帝陵
[追号] 後陽成院
[] 初め和仁(かずひと)、西暦1598年(慶長3年)12月に周仁(かたひと)と改めた。
[別称] 茶地丸(幼名)
[父親] 誠仁親王(さねひとしんのう)。追号:陽光院
[母親] 母は勧修寺晴右の娘、勧修寺晴子(かじゅうじ はるこ)。院号:新上東門院。
[皇居] 土御門東洞院殿(つちみかどひがしのとういんどの)

年譜

天皇の系譜(第106代から第118代)
元亀2年(西暦1571年)
12月15日(12月31日)辰刻 降誕
天正14年(西暦1586年)
9月20日(11月1日) 元服
(西暦)
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天正14年(西暦1587年)
11月25日(1月4日) 即位礼
(西暦)
() 大嘗祭
元和3年(西暦1617年)
8月26日(9月25日)巳刻 崩御。於:内裏北御所
元和3年(西暦1617年)
9月20日(10月19日) 大喪儀
(西暦)
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(西暦)
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生涯

天正14年(1586年)7月に正親町天皇の東宮であった誠仁親王が薨去し、その遺子である和仁親王(のちの後陽成天皇)が同年11月7日に、皇祖父である正親町天皇から譲位され受禅した。 後陽成天皇の在位期間は、ちょうど豊臣政権の天下統一と江戸幕府成立の時期をまたいでおり、前半と後半で天皇に対する扱いが変わっている。豊臣秀吉は、支配の権威として関白、太閤の位を利用したために天皇を尊重し、その権威を高める必要があり、朝廷の威信回復に尽力した。 天正16年(1588年)1月、将軍・足利義昭が秀吉とともに参内、征夷大将軍職を朝廷に返上し、朝廷は義昭に准三宮の待遇を与えた。これにより、足利尊氏以来長らく続いてきた室町幕府は名実ともに滅亡した。 同年4月、秀吉の演出した天皇の聚楽第行幸が盛大に行われ、華々しく饗応された。一方、この行幸は豊臣政権の実質的な成立を天下に知らしめる一面もあった[1]。 文禄元年(1592年)以降、秀吉は朝鮮出兵を開始する(文禄・慶長の役)。秀吉の「三国国割」構想によれば、文禄の役で明を征服した暁には後陽成天皇を明の皇帝として北京に遷し、良仁親王か八条宮智仁親王を日本の天皇にして日本民族による征服王朝を確立しようとした[2]。ただし、後陽成天皇は秀吉の外征には反対であり、秀吉に対して「無体な所業」であると諭している[3]。 文禄2年(1593年)、秀吉は文禄の役で日本に持ち帰られた李朝銅活字の器具と印刷書籍を後陽成天皇に献上した。同年、天皇は六条有広や西洞院時慶らに命じ、この技術を用いて「古文孝経」を印刷したと伝えられているが、現存しない(文禄勅版)。これは日本での銅活字を用いた最初の印刷とされている。また、後陽成天皇は慶長2年(1597年)に李朝銅活字に倣って大型木活字による勅版「錦繍段」を開版させている(慶長勅版)[4]。後陽成天皇は秀吉との協調・共生を重視し、秀吉の支援を受けて朝廷の再建を進めて公家たちの前に君臨した[5]。 後陽成天皇は秀吉の勧めで第1皇子の良仁親王を皇位継承者としていた。ところが慶長3年(1598年)に秀吉が没したのちの10月、病気がちなことを理由として皇弟の八条宮への譲位を望んだ[註 1]。多数の公卿からは譲位に対して賛同を得られたが、前関白の九条兼孝から良仁親王の廃太子に反対する意見が述べられた[註 2]。一方、武家では従来は徳川家康が秀吉猶子の八条宮譲位に反対したとされるが、近衛信尹消息から家康は八条宮譲位に賛同、前田利家・前田玄以は良仁親王に譲位等と意見が分かれたことが記されている。最終的には家康から譲位は無用との奏上がなされた[7]。天皇はやむなく八条宮への譲位を断念したが、3年後に家康の了承を得て良仁親王を強引に仁和寺で出家させて第3皇子の政仁親王を立てた[8]。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、丹後田辺城に拠って西軍と交戦中の細川幽斎を惜しみ、両軍に勅命を発して開城させて、八条宮に古今伝授を受けさせた。これにより歌道尊重の帝王として名を残している[9]。戦後、家康は天皇と豊臣家の接近を防ぐため、奥平信昌を京都所司代に任じて天皇の動きを監視した[8]。 慶長8年(1603年)、家康を征夷大将軍に任じ、江戸幕府が開かれた。朝廷権威の抑制をはかる幕府は武家伝奏を設けて更なる監視態勢を整えた[8]。 慶長12年(1607年)2月と慶長14年(1609年)7月には、 宮中女官の密通事件が相次いで発覚した(猪熊事件)。 これらに対して激怒した天皇は京都所司代に彼らの極刑を要請した。 国母の新上東門院が寛大な処置を望んだことや幕府がすべてを死罪とした際の大混乱を懸念したこともあって、 家康は咎人の猪熊教利らを斬罪としたものの、 事件に関与した公家衆5人と女官を蝦夷や伊豆新島などへとそれぞれ配流するにとどめた。 天皇はこの処分を手ぬるいものであり幕府の意向に屈したと考えて不満を抱き、 この一件により天皇は女院とも意志の隔たりを生んで側近の公家衆や生母、 皇后とも逢うことが少なくなって孤独の中で暮らすようになり、 やがて退位するに至った。 猪熊事件を機に慶長18年(1613年)に公家を取締るための公家衆法度が制定され、 また、幕府の宮中に対する干渉を更に強めることとなり、 官位の叙任権や元号の改元も幕府が握る事となっていく。 家康は政仁親王への徳川秀忠の娘和子(のちの東福門院)の入内を後陽成天皇へ求めた。 当初、後陽成天皇は先例のないことを理由として入内を認めなかったが、 度重なる求めの末、これに応じた。 慶長16年(1611年)、退位に反対する幕府を押し切り、 政仁親王(後水尾天皇)に譲位して仙洞御所へ退く。 だが、後水尾天皇とも上手く行かず、 父子の間は長く不和であり続けたと伝えられている。 慶長19年(1614年)11月、 大坂冬の陣が開始されると、 12月に上皇は武家伝奏の広橋兼勝と三条西実条を使者として家康に和議を勧告した。 だが、家康はこれを拒否し、朝廷の介入を許さず、あくまで徳川主導で交渉を進めた。 元和3年(1617年)、崩御、宝算47。 葬儀は火葬で行われた。 後陽成天皇より後の天皇は全員が土葬で葬られているので、 現在において最後に火葬で葬られた天皇である。

人物

儒学や和学に造詣があり、 舟橋秀賢を召して四書の進講を受け、細川幽斎からは和学を学んだ。 その学識は自ら宮人に『伊勢物語』『源氏物語』『詠歌大概』などを講じるほどで、 自著に『源氏物語聞書』『伊勢物語愚案抄』『後陽成天皇宸記』などがあり、 『日本紀神代巻』『古文孝経』『職原抄』などを慶長勅版として刊行している。 また、近臣を動員した収書・書写活動に専心し禁裏本歌書群の基礎を築いた。 こうした活動により禁裏文庫に収められた大量の古典籍は、 譲位・崩御に際して後水尾天皇に引き継がれている。 国ごとに名所を挙げてこれに和歌を添えた名所和歌集の編纂も行った。 秀吉が高野山再興のために興山寺 (廃寺)を開基した際、 木食応其に「興山上人」の号とともに勅額を下賜している。 秀吉に切腹を命じられた豊臣秀次の菩提を弔う日秀尼(秀次の母、秀吉の姉)に、 瑞龍寺 (近江八幡市) の寺号を与えている。 その後、瑞龍寺は日蓮宗唯一の門跡寺院となった

后妃・皇子女

陵・霊廟

陵(みささぎ)は、 宮内庁により京都府京都市伏見区深草坊町にある深草北陵(ふかくさのきたのみささぎ)に治定されている。 宮内庁上の形式は方形堂。 また皇居では、 皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。 灰塚が京都府京都市東山区今熊野泉山町の泉涌寺内にある月輪陵(つきのわのみささぎ)にある。


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