宝暦12年(1762年)、異母弟桃園天皇の遺詔を受けて践祚。だが、実際には桃園天皇の皇子英仁親王(のちの後桃園天皇)が5歳の幼さであったこと、桃園天皇治世末期に生じた宝暦事件では、天皇が幼い頃から自分に付き従っていた側近たちを擁護して側近の追放を要請した摂関家との対立関係に陥ったことから、英仁親王が即位した場合に同じ事態が繰り返されることが憂慮された。このため、五摂家の当主ら[注釈 2]が秘かに宮中で会議を開き、英仁親王の将来における皇位継承を前提に、中継ぎとしての新天皇を擁立することを決定し、天皇の異母姉である智子内親王が英仁親王と血縁が近く、政治的にも中立であるということで、桃園天皇の遺詔があったということにして即位を要請したのである。 この決定は、皇位継承のような重大事は事前に江戸幕府に諮るとした禁中並公家諸法度の規定にも拘らず、「非常事態」を理由に幕府に対しても事後報告の形で進められた。また、明正天皇以来119年ぶりの女帝誕生となった。 即位および大嘗祭は男帝同様に挙行された。女帝の礼服(即位用の正装)と束帯(通常の正装・男帝の黄櫨染に相当)は明正天皇の例に従って白の無地を用いた。[注釈 3]礼服はほぼ男子の礼服に準じた形式で(纐纈裳が加わる)、束帯は裳唐衣五衣のいわゆる十二単であった。明正天皇の時にはまだ復興していなかった大嘗祭・新嘗祭の装束としては、御斎服・帛御服があるが、前者は男子同様の仕立てで髪型が大垂髪であることだけが異なり、後者は白平絹の裳唐衣五衣である。普段は大腰袴姿であった[1]。 代初めの小朝拝にも出御、在位中は正月の諸礼などの対面儀礼にも出御することが多かった。しかし例年の節会の出御は少なく、新嘗祭の出御は譲位直前の1度だけであった。また庭上に降りる四方拝も、御座は設けるものの出御に及ばない例であった。基本的には男帝と同じ儀礼をこなしながらも、種々の便宜上出御を見合わせることも多かったようである[2]。なお、譲位後は色物の装束を着用しており、その控え裂が國學院大學に所蔵されている。
在位9年の後、明和7年11月(西暦1771年1月)、甥である後桃園天皇に譲位して太上天皇となった。 しかし安永8年(1779年)、皇子を残さぬまま後桃園天皇は崩御した。後桜町上皇は廷臣の長老で前関白の近衛内前と相談し、伏見宮家より養子を迎えようとした[注釈 5]が、結局現関白九条尚実の推す9歳の師仁王(閑院宮典仁親王六男、諡号は光格天皇)に決まった。 皇統の傍流への移行以後も、後桜町上皇は幼主をよく輔導したといわれる。上皇はたびたび内裏に「御幸」し、光格天皇と面会している。ことに寛政元年(1789年)の尊号一件に際し、「御代長久が第一の孝行」と言って光格天皇を諭したことは有名である。このように朝廷の権威向上に努め、後の尊皇思想、明治維新への端緒を作った光格天皇の良き補佐を務めたことから、しばしば「国母」といわれる。 天明2年(1782年)、天明の京都大火に際しては青蓮院に移り、ここを粟田御所と号した[注釈 6]。生母青綺門院の仮御所となった知恩院との間に、幕府が廊下を設けて通行の便を図っている。 天明7年(1787年)6月、御所千度参りに集まった民衆に対し、後桜町上皇から3万個のリンゴ(日本で古くから栽培されている、和りんご)が配られた。 晩年は母方の実家として自分を支えた二条家の当主である左大臣二条治孝を関白に就けることを望んだ。しかし、治孝は関白としては「非器」とみなされて、朝廷・幕府両方から現任の鷹司政煕の慰留が行われ、最終的に後桜町上皇の崩御によって阻止されることになった[3]。 文化10年(1813年)、74歳で崩御。後桜町院の追号が贈られた。ちなみに、その後に崩御した光格天皇以降は「院」でなく「天皇」の号を贈られたため、最後の女帝であるとともに崩御後に「院」と称された最後の天皇でもある。
古今伝授に名を連ねる歌道の名人であった。文筆にもすぐれ、宸記・宸翰・和歌御詠草など美麗な遺墨が伝世している。また、『禁中年中の事』という著作を残した。和歌の他にも漢学を好まれ、譲位後、院伺候衆であった唐橋在熙・高辻福長に命じて、『孟子』『貞観政要』『白氏文集』等の進講をさせている。
陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市東山区今熊野泉山町の泉涌寺内にある月輪陵(つきのわのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は石造九重塔。 また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。