小窓
桜町天皇/櫻町天皇(さくらまちてんのう)

作成日:2020/6/24

桜町天皇は、日本の第115代天皇。
中御門天皇の第一皇子。

《紀》:日本書紀による記述  《記》:古事記による記述
日本の第115代天皇 桜町天皇/櫻町天皇(さくらまちてんのう)

[在位] 享保20年3月21日(西暦1735年4月13日)- 延享4年5月2日(西暦1747年6月9日)
[生没] 享保5年1月1日(西暦1720年2月8日) - 寛延3年4月23日(西暦1750年5月28日)31歳没
[時代] 江戸時代
[先代] 中御門天皇   [次代] 桃園天皇
[陵所] 月輪陵(つきのわのみささぎ)
[追号] 桜町院
[] 昭仁(てるひと)。
[称号(幼名)] 若宮。
[父親] 中御門天皇
[母親] 関白太政大臣近衛家熙の娘
[皇居] 京都御所
女御・近衛尚子(このえ ひさこ)。 女院号:新中和門院(しんちゅうかもんいん)。
    入内に際し、正室の近衛熙子が伯母にあたる縁から、江戸幕府第6代将軍徳川家宣の猶子となっている。

年譜

天皇の系譜(第106代から第118代)
享保5年(西暦1720年)
1月1日(2月8日) 降誕
享保18年(西暦1733年)
2月1日(3月16日) 元服
(西暦)
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享保20年(西暦1735年)
11月3日(12月16日) 即位礼
元文3年西暦1738年)
11月19日(12月29日) 大嘗祭
寛延3年(西暦1750年)
4月23日(5月28日) 崩御。於:
(西暦)
() 大喪儀
(西暦)
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(西暦)
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略歴

享保13年(1728年)に立太子、同20年(1735年)に父帝の譲位により践祚。即位直後は朝遅く起きて、昼近くに朝食を召し、夜遅くまで起き、学問よりも和歌や蹴鞠を好むと、右大臣の一条兼香を嘆かせている(『兼香公記』享保20年4月22日条)[1]。だが、後に関白となった一条兼香の補佐と江戸幕府の将軍徳川吉宗の助力を得て朝廷の儀式の復古に力を入れ、大嘗祭の再復活や新嘗祭、奉幣使などの他の儀礼の復活にも力を注ぎ、朝儀の復興を通して天皇の権威向上に努めていたことが窺える。 延享4年(1747年)桃園天皇に譲位して院政を開始するが、寛延3年(1750年)に脚気衝心により31歳で崩御。なお、徳富蘇峰の『近世日本国民史』以来、天皇が幕府の圧力によって譲位したとする説があるが、実際には譲位後においても積極的に政治や学問の振興策を主導しており、むしろ幕府からの干渉を避けるために院政による政治運営を行う狙いがあったと考えられている。実際に天皇は延享3年(1746年)より度々譲位の意向を示していたが、議奏である柳原光綱・広橋兼胤の諫言や院政に反対する江戸幕府の意向もあって押し止められていた[2]が、最終的には譲位を強行したとされている[3]。桜町上皇は表向きには摂政・一条道香(兼香の子)を立てつつ、兼香や武家伝奏らの補佐を受ける形で院政を行っている[4]。ただ、院政を充実させるには残された3年という期間は余りにも短すぎるものであった。 神沢貞幹の『翁草』によると生まれが元旦でそのとき火事があり且つ実績も立派という共通点から聖徳太子の再来といわれ、歴史家としても知られた公家の柳原紀光も「延喜・天暦の治以来の聖代である」と評したという。烏丸光栄に古今伝授を受けるなど歌道に優れ、御製は『桜町院御集』や『桜町院坊中御会和歌』としてまとめられている。また曽祖父・霊元天皇の御製を分類して『桃蕊類題(とうずいるいだい)』を残している。一乗院宮尊賞親王から入木道を伝授され、書にも優れた。

諡号・追号・異名

仙洞御所の宮名である桜町殿により桜町院と追号された。

后妃・皇子女

陵・霊廟

陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市東山区今熊野泉山町の泉涌寺内にある月輪陵(つきのわのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は石造九重塔。 また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。


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