小窓
後二条天皇/後二條天皇(ごにじょうてんのう、ごにでうてんのう)

作成日:2020/6/16

後二条天皇は、日本の第94代天皇。
大覚寺統であり、後宇多天皇の第一皇子。後醍醐天皇の異母兄にあたる。
後二条天皇の即位は鎌倉幕府が朝廷に治天と天皇の交代を要求したことから実現したものだったが、 ここまで半世紀以上にわたって持明院統と大覚寺統による両統迭立を重ねてきた結果、 この天皇の即位後3年半にわたって史上最多となる5代の上皇(後深草院・亀山院・後宇多院・伏見院・後伏見院)が同時に存在することになった。

《紀》:日本書紀による記述  《記》:古事記による記述
日本の第94代天皇 後二条天皇/後二條天皇(ごにじょうてんのう、ごにでうてんのう)

[在位] 正安3年1月21日(西暦1301年3月2日)- 徳治3年8月25日(西暦1308年9月10日)《紀》
[生没] 弘安8年2月2日(西暦1285年3月9日)- 徳治3年8月25日(西暦1308年9月10日)24歳没《紀》
[時代] 鎌倉時代
[先代] 後伏見天皇   [次代] 花園天皇
[陵所] 北白河陵(きたしらかわのみささぎ)
[追号] 後二条院
[] 邦治(くにはる)   [別称] 乾元帝
[父親] 後宇多天皇
[母親] 太政大臣堀川基具の養女で実孫の堀川基子(ほりかわ もとこ/きし)。院号:西華門院。
[中宮] 徳大寺忻子(とくだいじ きんし)。女院号:長楽門院。
[皇居] 二条富小路内裏

年譜

天皇の系譜(第77代から第95代)-->
弘安8年(西暦1285年)
2月2日(3月9日) 降誕
永仁6年(西暦1298年)
6月27日(8月5日) 元服
(西暦)
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正安3年(西暦1301年)
3月24日(5月3日) 即位礼
正安3年(西暦1301年)
11月20日(12月20日) 大嘗祭
徳治3年(西暦1308年)
8月25日(9月10日) 崩御。於:二条高倉殿
(西暦)
() 大喪儀
(西暦)
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(西暦)
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略歴

弘安9年(1286年)10月25日に親王宣下を受け、永仁6年(1298年)6月27日、冷泉万里小路殿で元服。同年8月10日に後伏見天皇(持明院統)の皇太子となる。正安3年1月21日(1301年3月2日)、後伏見天皇の譲位を受けて践祚。同年3月24日に即位。徳治3年(1308年)8月に病を得て、同25日(9月10日)在位7年にして二条高倉皇居で崩御。宝算24。同27日、二条院の加後号として後二条院を追号された。 大覚寺統と持明院統との間で皇位継承をめぐる対立が続いていた時期に、邦治親王の立太子が実現した背景には、祖父・亀山法皇による幕府への強い働きかけがあった。すなわち、伏見天皇・後伏見天皇と持明院統の天皇が2代連続したことについて、大覚寺統は後嵯峨上皇の遺詔に反する決定として、幕府に不服を申立てたのである。即位に際しては、父・後宇多上皇による院政が実現したが、当時は南北朝分裂への過渡期にあたり、「天の下の人、又押し返し、一方に靡(なび)きたる程も、さも目の前に移ろひ変はる世の中かな」[2]と慨嘆される時世であった。さらに、天皇が在位7年で病没したことやその時点で大覚寺統の嫡流を継ぐべき皇子の邦良親王がわずか9歳だったことから、大覚寺統と持明院統とが交互に皇位継承していくという幕府裁定の両統迭立原則が崩壊することになった。その調整策の結果、天皇の異母弟である後醍醐天皇が中継ぎとして即位し、そして皇位継承への幕府の関与に対する異議申し立てに発する討幕運動へと展開していくことになるのである。 なお、天皇は在位中、嘉元元年(1303年)に後二条院歌合を催すなど、歌会・歌合の催行が多く、同3年(1305年)には、自ら『後二条院御集』(原題『愚藻』)を撰集している。また、後宇多上皇の院宣を受けて勅撰集(『新後撰和歌集』)の撰進が行われたが、これは大覚寺統による支配の正統性を誇示する政治的行為でもあった。

后妃・皇子女

陵・霊廟

陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市左京区北白川追分町にある北白河陵(きたしらかわのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は円丘。 徳治3年(1308年)8月28日、北白川殿で火葬し、そのまま陵とした。中世に荒廃したが、元禄探陵の時に当所が陵に擬定され、幕末に修補を加えた。なお、分骨所が父・後宇多天皇の蓮華峯寺陵内にある。 また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。


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