後醍醐天皇の建武の新政から離反した足利尊氏が湊川の戦いで宮方に勝利し、建武3年(1336年)に京都に入ると後醍醐天皇は比叡山延暦寺に逃走する。後醍醐天皇が退位せぬまま、尊氏から治天の君に推戴された光厳上皇の院宣により8月15日に豊仁が即位し(光明天皇)、二人の天皇が並び立つ形となった。光明の即位時には三種の神器は後醍醐のもとにあったが、後醍醐は尊氏と和睦すると神器と称するものを光明側に引き渡し、光明が唯一の天皇であると認めさせられた格好で幽閉された。その後、12月21日に吉野に逃れた後醍醐は自らの退位と光明の登位をともに否認し、南北朝体制が成立する。 貞和4年(1348年)10月27日に光明は、光厳上皇の第1皇子崇光天皇に譲位した。上皇になった後の観応2年(1351年)、足利氏の内紛である観応の擾乱を期に、足利尊氏が南朝に帰順、崇光天皇は廃され、南朝による正平一統が行われる。そして翌年2月、南朝の軍勢が足利義詮を排除して京都を奪回した際に、光厳上皇・崇光上皇・皇太子直仁親王とともに捕らえられる。以後は南朝方により大和国賀名生(奈良県五條市)に軟禁される。 3名の上皇と直仁は正平9年(1354年)3月に河内金剛寺に移され、塔頭観蔵院を行宮とされた。そして、10月になると後村上天皇自らも金剛寺塔頭摩尼院を行宮とした。だが、正平10年(1355年)には一足早く光明上皇のみ解放されて京都に返された。 京へ戻った以後は落髪して仏道に入ったとされる。康暦2年(1380年)6月24日、崩御した。享年59。
三種の神器がない状況での光明の即位は後鳥羽天皇が後白河法皇の院宣により即位した先例に従ったものである。
後醍醐天皇が比叡山に立てこもった際、 主戦派を宥めるため恒良親王に三種の神器を渡し皇位を譲った上で、 足利尊氏と和解し京都に戻った。 そこでもう一組の三種の神器を北朝に譲り渡した。 この時点で光明天皇の「神器なしの即位」という点は解消された。 しかし、後醍醐天皇が逃亡して独自の朝廷を構築した際、 北朝に渡した三種の神器は偽物であると称した。 この段階で三種の神器が3組も存在したことになるが、 状況的にこの時の吉野潜行に三種の神器を帯同していく猶予はなかったと考えられ、 実際に後の正平の一統で後村上天皇は北朝の神器を奪還している。 また、北陸においてもう一人の天皇として在位していた恒良親王は建武5年4月13日(1338年5月3日)に薨去したので、 この段階までは三人の天皇が並立していたともいえる。 もし当時の人々にとって恒良親王の所持していた三種の神器が本物と考えられていたとしたら、 壇ノ浦の戦いにおいて源義経が三種の神器の確保を厳命されていたように、 何かしら言及された史料がありそうだがそのような記述は歴史書にみられず、 恒良親王の神器は親王の捕縛に伴って北朝軍の司令官斯波高経の手を経由して光明天皇に渡ったのか、 金ヶ崎城の落城とともにどこかで消失したのか等、 行方が不詳である。
陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市伏見区桃山町秦長老にある大光明寺陵(だいこうみょうじのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は円丘。崇光天皇陵・治仁王墓と同兆域である。 また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。肖像は京都市東山区の泉涌寺所蔵。