日本の第114代天皇 中御門天皇(なかみかどてんのう)
[在位] 宝永6年6月21日(西暦1709年7月27日)- 享保20年3月21日(西暦1735年4月13日)
[生没] 元禄14年12月17日(西暦1702年1月14日) - 元文2年4月11日(西暦1737年5月10日)36歳没
[時代]
江戸時代
[先代]
東山天皇
[次代]
桜町天皇
[陵所]
月輪陵(つきのわのみささぎ)
[
追号] 中御門院(中御門天皇)西暦1737年6月3日(元文2年5月5日) 追号勅定。
追号の「中御門」は、
平安京大内裏の門の一つである待賢門の別称に因む。
[
諱] 慶仁(やすひと)。西暦1707年5月30日(宝永4年4月29日)命名
[父親]
東山天皇
[母親] 内大臣櫛笥隆賀の娘、
典侍・櫛笥賀子(くしげ よしこ)。院号:新崇賢門院。
[
皇居] 平安宮(土御門東洞院殿)
近衛第
宝永5年(1708年)立太子、同6年(1709年)東山天皇から譲位されて即位。
9歳で即位したため、はじめ父東山上皇が、
ついで祖父霊元上皇が院政を行った。
在位期間は、
第6代将軍家宣から第8代の吉宗にかけての時代に相当する。
この時代の幕府との関係は比較的良好で、
閑院宮家創設が実現し、
さらに霊元院の皇女・八十宮吉子内親王を7代将軍家継の元へ降嫁させる話も出ていたが、
家継の急死で沙汰止みになっている。
享保14年(1729年)には将軍吉宗自ら注文した交趾(ベトナム)広南産の象の「拝謁」を霊元上皇とともに受けている。
この際、象が無位無官であるため参内の資格がないとの問題が起こり、
急遽「広南従四位白象」との称号を与えて参内させた(これは他にも朝廷に献上された珍奇な動物や、愛玩動物において普通に行われていた事である。江戸名所図会には記載があるが、象見物について詳しい烏丸光栄の『光栄卿日記』や三条西公福の『日記』など当時の他資料ではいっさい言及されていず、特筆される事柄でなかったことが伺える)。
拝謁した象は前足を折って頭を下げる仕草をし、初めて象を見た天皇は、
時しあれは 人の国なるけたものも けふ九重に みるがうれしさ
と感銘を和歌に表している。
朝廷の古儀に関心を深めて研究を進め、
『公事部類』の撰著を残した。
また、笛や和歌、書道に秀で、
特に笛はキツネが聴きに来るほどの腕前であったとの逸話が残っている。
享保20年(1735年)桜町天皇に譲位し(在位27年)、
元文2年(1737年)に36歳で
崩御した。
ちなみに天皇の側近であった広橋兼胤の日記によれば、
天皇は十二支の巳に縁があり、
生年が巳年というだけでなく、
崩御したのが巳年巳月巳日巳刻であったという。
陵(みささぎ)は、
宮内庁により京都府京都市東山区今熊野泉山町の泉涌寺内にある月輪陵(つきのわのみささぎ)に
治定されている。
宮内庁上の形式は石造九重塔。
また皇居では、
皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。