ヘロドトスの知名度・重要性に反して、
彼自身の人生について知られていることは少ない。
彼の生涯についての情報源は以下のようなものに限られる。
- ビザンツ帝国で10世紀頃に成立したスーダ辞典におけるヘロドトスと関連する事項への言及。
- 古典古代の作家の断片的な言及。
- ヘロドトス自身の叙述から拾い集められる情報。
スーダによればヘロドトスは
小アジア南部のカリア地方にある都市ハリカルナッソス(現:トルコ領ボドルム)の出身であり、
父親の名はリュクセス、
母親の名はドリュオ(ロイオとも)であったという。
兄弟にテオドロスという人物がおり、
従兄弟(または叔父)に当時高名な詩人パニュアッシスがいた。
ハリカルナッソスは
紀元前900年頃に、
ペロポネソス半島にあるアルゴリス地方の都市トロイゼンから移民したドーリス系ギリシャ人の植民市であった。
しかし
紀元前5世紀にはハリカルナッソスの文化はイオニア化しており、
ヘロドトス自身も
古代ギリシャ語のイオニア方言を話したと推定されている。
また、ギリシャ人と土着のカリア人との間の通婚も盛んであり、
ヘロドトスの家も同様であった。
ヘロドトスの父リュクセス、
従兄弟(または叔父)のパニュアッシスはカリア系の名前であるが、
母ドリュオ(ロイオ)はギリシャ語の名前である。
ヘロドトスとテオドロスの兄弟もまた、
ギリシャ語による命名であることは明白である。
ヘロドトスの名前はギリシャ語で「ヘラ女神の贈り物」と言う意味である。
ヘロドトスの出身家は名門であったようであり、
詩人が身内にいることも彼の生まれ育った環境が知的・文化的に恵まれたものであったことを示す。
ヘロドトスが故郷にいたころ、
ハリカルナッソスは女傑として名高いアルテミシア1世の統治下にあった。
ヘロドトスが彼女を深く尊敬していたことは『
歴史』の描写から明確に読み取ることができる。
その後アルテミシア1世の息子、
または孫で
僭主となったリュグダミスがハリカルナッソスを支配するようになると、
ヘロドトスとパニュアッシスはリュグダミスに反対する政争に加わった。
しかし、パニュアッシスは殺害され、
ヘロドトスも故国を追われてサモスでの亡命生活に入った。
リュグダミスに対する反抗はその後も相次ぎ、
恐らく
紀元前450年代初め頃に彼の政権は打倒された。
この過程にもヘロドトスは関わったとする見解もある。
ヘロドトスはサモスにある程度の期間滞在した後、
アテナイに行き、
ついでイタリアに建設された新植民市トゥリオイに
紀元前444年、
または
紀元前443年に移住した。
この都市は
アテナイの支配者ペリクレスがギリシャ各地から移民を集めて建設した都市であったがヘロドトスが参加した経緯は不明である。
ヘロドトスはサモスを去って以降、
その人生のうちに少なくとも
アテナイ、
キュレネ、
クリミア、
ウクライナ南部、
フェニキア、
エジプト、
バビロニアなどを旅したはずであるが、
その具体的な年代をどのように想定するべきであるか明確ではない。
ただし
エジプトとバビロニアを訪れたのは人生の晩年、
少なくともトゥリオイの市民であった頃であろう。
彼はこれらの旅で得た知見をまとめ『
歴史』と呼ばれる著作を残した。
この著作は失われることなく伝存する
古典古代の歴史書の中では最古のものである。
この中にペロポネソス戦争に触れた記述を残していることから、
ペロポネソス戦争勃発の頃(
紀元前431年)にはまだ生存していたと考えられる。
最後はトゥリオイで死亡したとも
アテナイに戻っていたとも言われるが、
いずれも明確な証拠はない。