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ヘロドトス

作成日:2023/9/5

ヘロドトス  紀元前484年頃 - 紀元前425年

古代ギリシャアテネの歴史家である。 歴史という概念の成立過程に大きな影響を残していることから、 歴史学および史学史において非常に重要な人物の1人とされ、 しばしば「歴史の父」とも呼ばれる。

彼が記した『歴史』は、 完本として現存している古典古代の歴史書の中では最古のものであり、 ギリシャのみならずバビロニア、エジプトアナトリア、クリミア、ペルシャなどの古代史研究における基本史料の1つである。

生没年は不詳であり、 生年は大雑把に紀元前490年から紀元前480年までの間とするのが定説である。 紀元前484年説がしばしば採用されるが、 明確な根拠を伴ったものではない。

没年は紀元前430年以降であることは明白であるが、 これも正確には不明である。 概ね紀元前490年-紀元前480年の間に生まれ、 紀元前430年から紀元前420年の間に、 60歳前後で死亡したとするのが一般的である。

生涯

ヘロドトスの知名度・重要性に反して、 彼自身の人生について知られていることは少ない。 彼の生涯についての情報源は以下のようなものに限られる。 スーダによればヘロドトスは小アジア南部のカリア地方にある都市ハリカルナッソス(現:トルコ領ボドルム)の出身であり、 父親の名はリュクセス、 母親の名はドリュオ(ロイオとも)であったという。 兄弟にテオドロスという人物がおり、 従兄弟(または叔父)に当時高名な詩人パニュアッシスがいた。 ハリカルナッソスは紀元前900年頃に、 ペロポネソス半島にあるアルゴリス地方の都市トロイゼンから移民したドーリス系ギリシャ人の植民市であった。 しかし紀元前5世紀にはハリカルナッソスの文化はイオニア化しており、 ヘロドトス自身も古代ギリシャ語のイオニア方言を話したと推定されている。 また、ギリシャ人と土着のカリア人との間の通婚も盛んであり、 ヘロドトスの家も同様であった。 ヘロドトスの父リュクセス、 従兄弟(または叔父)のパニュアッシスはカリア系の名前であるが、 母ドリュオ(ロイオ)はギリシャ語の名前である。 ヘロドトスとテオドロスの兄弟もまた、 ギリシャ語による命名であることは明白である。 ヘロドトスの名前はギリシャ語で「ヘラ女神の贈り物」と言う意味である。 ヘロドトスの出身家は名門であったようであり、 詩人が身内にいることも彼の生まれ育った環境が知的・文化的に恵まれたものであったことを示す。

ヘロドトスが故郷にいたころ、 ハリカルナッソスは女傑として名高いアルテミシア1世の統治下にあった。 ヘロドトスが彼女を深く尊敬していたことは『歴史』の描写から明確に読み取ることができる。 その後アルテミシア1世の息子、 または孫で僭主となったリュグダミスがハリカルナッソスを支配するようになると、 ヘロドトスとパニュアッシスはリュグダミスに反対する政争に加わった。 しかし、パニュアッシスは殺害され、 ヘロドトスも故国を追われてサモスでの亡命生活に入った。 リュグダミスに対する反抗はその後も相次ぎ、 恐らく紀元前450年代初め頃に彼の政権は打倒された。 この過程にもヘロドトスは関わったとする見解もある。

ヘロドトスはサモスにある程度の期間滞在した後、 アテナイに行き、 ついでイタリアに建設された新植民市トゥリオイに紀元前444年、 または紀元前443年に移住した。 この都市はアテナイの支配者ペリクレスがギリシャ各地から移民を集めて建設した都市であったがヘロドトスが参加した経緯は不明である。

ヘロドトスはサモスを去って以降、 その人生のうちに少なくともアテナイ、 キュレネ、 クリミア、 ウクライナ南部、 フェニキア、 エジプト、 バビロニアなどを旅したはずであるが、 その具体的な年代をどのように想定するべきであるか明確ではない。 ただしエジプトとバビロニアを訪れたのは人生の晩年、 少なくともトゥリオイの市民であった頃であろう。

彼はこれらの旅で得た知見をまとめ『歴史』と呼ばれる著作を残した。 この著作は失われることなく伝存する古典古代の歴史書の中では最古のものである。 この中にペロポネソス戦争に触れた記述を残していることから、 ペロポネソス戦争勃発の頃(紀元前431年)にはまだ生存していたと考えられる。 最後はトゥリオイで死亡したともアテナイに戻っていたとも言われるが、 いずれも明確な証拠はない。

著作

ヘロドトスは現在では日本語で『歴史』(英: The Histories)と言うタイトルで知られる著作を残した。 これは現代風に解釈するならば、 全ギリシャを巻き込むことになったペルシャ戦争を主題にした1種の同時代史であると言える。 この作品冒頭でヘロドトスは以下のように著者名と執筆の目的・方法を書いている。

これは、ハリカルナッソスの人ヘロドトスの調査・探求(ヒストリエー)であって、 人間の諸所の功業が時とともに忘れ去られ、 ギリシャ人や異邦人(バルバロイ)が示した偉大で驚嘆すべき事柄の数々が、 とくに彼らがいかなる原因から戦い合う事になったのかが、 やがて世の人に語られなくなるのを恐れて、 書き述べたものである。
ーヘロドトス、『歴史』巻1序文、桜井訳ー

序文に記された戦いが全ギリシャを巻き込んだペルシャ戦争であり、 異邦人(バルバロイ)がペルシャ人のことであるのは当時を生きた人であるならば誤解の余地のないところであった。

この文章はまた、 著述の方法として調査・探求(historia)というギリシャ語の単語を用いた現存最古の用例である。 最初に著者名を筆記し、 執筆にあたっての主体性と責任の所在を明らかにするこの姿勢は、 ミレトスのヘカタイオスを意識したものであったと見られる。 ヘカタイオスはヘロドトスに先行して各ポリスの伝承などを散文で綴っていたロゴグラポイと呼ばれる文筆家の1人であった。 このような文章は紀元前4世紀には10例ほどが知られており、 ヘロドトスのそれはこうしたものの中でも最古の部類に属する。

ヘロドトスの『歴史』は全9巻からなるが、 この9巻分類はヘロドトス自身によるものではなく、 アレクサンドリアの学者によるものである。 現在に残る『歴史』の全体構成は当初からヘロドトスが構想していたものではなく、 後から彼が追補した際に整えられたものであると推定される。 少なくとも最後の3巻部分は最初の6巻部分よりも先に作られていたことを示す各種の内部証拠が存在する。

執筆姿勢

ヘロドトスが調査・探求して記した『歴史』は当事者や関係者がまだ存命中の出来事についての記録であった。 そしてそのための探求の方法は現代の歴史研究とは異なり、 史料を確認して情報を収集するよりも、 現地を回り関係者に聴取し、 また自ら経験することが主となった。 ヘロドトスは自らの目で確認することに努めたが、 不足する情報は伝聞や証言によって補った。 その中にはヘロドトス自身が疑わしいと考える情報も多々あったが、 彼は信憑性の程度に拘らずそれを『歴史』に掲載している。 このような執筆姿勢は以下のような記述からも明らかである。

この王についての(エジプトの)祭司の話はなお続き、 右の事件の後ランプシニトスは、 ギリシャ人がハデス(冥界)の在るところと考えている地下へ生きながら下ったということで、 ここでデメテルと骰子を争い、 互いに勝敗のあった後、 女神から黄金の手巾を土産に貰い、 再び地上へ帰ったという。 このランプシニトスの下界降りが起縁となって、 彼が地上へ帰ってからエジプトでは祭を催すようになったという。
(中略)このようなエジプト人の話は、 そのようなことが信じられる人はそのまま受け入れればよかろう。 本書を通じて私のとっている建前は、 それぞれの人の語るところを私の聞いたままに記すことにあるのである。
ーヘロドトス、『歴史』巻2§122-123、松平訳ー

一方でこの態度はヘロドトスの著作中において徹底はしておらず、 採録の基準は曖昧であったし、 神々と人間との関わりのような問題についても彼がはっきりと首尾一貫した哲学的姿勢を持っていたわけではない。 ヘロドトスは英雄時代の歴史に立ち入ることはなく、 しばしば触れる神話的伝承についても懐疑的な姿勢を取り、 神々がかつて人間と交わったという説話や神の出現と言った出来事を事実として承認することはしなかった。 この姿勢はしかし神話を明確に拒絶するほど徹底したものでもなかった。 ヘロドトスはまた、 こうした神話的な説話に対して時折風刺を加えてもいる。
テッサリアの住民自身のいうところでは、 ペネイオスの流れているかの峡谷は、 神ポセイドンの作られたものであるというが、 もっともな言い分である。 というのは地震を起こすのがポセイドンで、 地震による亀裂をこの神の仕業であると信ずる者ならば、 かの峡谷を見れば当然ポセイドンが作られたものであるというはずで、 私の見るところ、 かの山間の亀裂は地震の結果生じた物に相違ないのである。
ーヘロドトス、『歴史』巻7§129、松平訳ー

また、 ローマ時代の歴史家プルタルコスやエウセビオスによれば、 ヘロドトスは『歴史』の内容を各地で口演していたという。 このヘロドトスが聴衆に向けて語り聞かせていたという情報は事実であると考えられ、 このことが聴衆を楽しませるための様々な説話・余談の挿入、 本筋からの脱線という『歴史』の特徴を形作ったとも考えられる。

評価

『歴史』の成立

ヘロドトスは一般的に歴史家に分類される。 しかし、ヘロドトス自身には当時、 現代的な意味での「歴史」を書くという明確な意識はなく、 自らを歴史家とはみなしていなかったと考えられる。 なぜならば彼が生きた時代には未だ歴史というジャンルが成立していなかったためである。 ヘロドトスが用いた調査・探求(ヒストリエー)というギリシャ語の単語は英語の history(歴史)やフランス語の histoire(歴史)の語源となったことは広く知られているが、 『歴史』本文においてヘロドトスがこの historia という単語を用いる時、 基本的には「調査」もしくはその方法としての「尋問」という意味で使用されている。 つまり、ヘロドトス自身の意識としては『歴史』は現代の概念でいう「歴史」を書いたものではなく、 「自身による研究調査結果」を語るものであった。 柿沼重剛の指摘によれば、 ヘロドトス以前には historia が意味する「探求」とは神話や系譜、 地誌に関することであったが、 ヘロドトスはこれを「人間界の出来事」にまで広げた点が特筆されるという。

ヘロドトスの没後100年あまりの間に、 ギリシャでは詩とは異なる「歴史」というジャンルが明確に確立された。 後代の人々が歴史と言うジャンルを認識するようになると、 ヘロドトスの仕事はまさにそれを開拓したものであると位置づけられるようになった。 早くも紀元前4世紀に生きたアリストテレスはヘロドトスを歴史家として分類し、 以下のような有名な言葉を残している。

歴史家と詩人は、 韻文で語るか否かという点に差異があるのではなくて
    事実、 ヘロドトスの作品は韻文にすることができるが、 しかし韻律の有無にかかわらず、 歴史であることにいささかの代わりもない
歴史家はすでに起こったことを語り、 詩人は起こる可能性のあることを語るという点に差異があるからである。
ーアリストテレス、『詩学』第9章、松本・岡訳ー

こうして歴史家として称えられたヘロドトスの『歴史』は名著の誉れ高く、 失われることなく、 また名声を損なうことなく現代まで伝えられた古典古代の「歴史書」の中では最古のものであるという主張もある。

歴史の父

ヘロドトスは歴史叙述の成立過程、 史学史において必ず言及される人物であり、 彼の作品『歴史』において歴史学と呼びうるものの最も早い例を見る事ができるとも言われる。

このことからヘロドトスはしばしば「歴史の父(pater historiae)」と呼ばれる。 彼をこう呼んだ最初の人物は古代ローマの政治家・哲学者であるキケロである。 キケロは著作の『法律について』の一節でヘロドトスをこのように呼んでいるが、 それがなぜなのかについて理由を説明していない。 歴史学者大戸千之はそれを以下のように説明している。
ヘロドトスは著作において、 執筆者とテーマ(ペルシャ戦争の調査研究)を明示し、 そしてその調査研究手法として
  • 「自らできる限り調査する」
  • 「情報を突き合わせ吟味・検討する」
  • 「調査結果を正確に報告し、直接的な情報と間接的な情報の弁別、情報に対する評価、自分が信じる情報と信頼はしないが重要な情報の区別を行う」
といった姿勢を示した。 これは後の歴史研究の基本に通じる姿勢であると言えるのである。

ヘロドトス著の歴史書『歴史』

歴史』は、 ハリカルナッソス (現在のトルコ・ボドルム) のヘロドトス (紀元前5世紀、生没年不詳) が記した歴史書である。 この書を著したことにより彼は「歴史の父」と呼ばれる。

紀元前5世紀のアケメネス朝ペルシャと古代ギリシャ諸ポリス間の戦争(ペルシャ戦争)を中心的主題とし、 ペルシャの建国および拡大、 オリエント世界各地の歴史、風俗や伝説をちりばめた地誌でもある。 紀元前443年アテナイによる南イタリア(マグナ・グラエキア)のトゥリオイ市の殖民にヘロドトスは参加し、 この地で記した。 イオニア方言で記述されている。

ヘロドトスは古代世界を旅し、 各地の話を集めて行ったと思われる(それゆえか疑わしい話も少なからずある)。 10世紀後半に東ローマ帝国で編纂されたスーダ辞典によれば、 ヘロドトスは統治者へのクーデターへ参加した為にハリカルナッソスから追放されたとある。 旅はこの機会に行われたと見られている。

ギリシャとペルシャの諍いの原因として、 ヘロドトスは、 絶対的権力を持つペルシャ王と民主的行政府を持つギリシャのイデオロギーの相違が原因であると言及している。 有名なマラトンの戦いは第6巻に含まれている。

構成

後にアレクサンドリアの学者によって9巻に分けられ、 各巻には学芸の女神ムーサたちの名前が冠せられた。 順に、 クレイオ、 エウテルペ、 タレイア、 メルポメネ、 テルプシコラ、 エラト、 ポリュヒュムニア、 ウラニア、 カリオペ。

第1巻-第4巻では、 オリエント各地の成り立ちと、 アケメネス朝ペルシャによる征服活動が、 第5巻-第9巻では、 ペルシャ戦争の経緯が描かれる。

以下の各巻内の章題名は松平千秋によるもの。()内の数字は節数。
第1巻(クレイオ)
作品の始まりでは、ヘロドトスがこの作品を書く理由を述べている。
ギリシャ人やバルバロイによる、偉大にして驚嘆すべき、栄誉なきともいえぬ事績の数々について、
とりわけギリシャ人とバルバロイが何故互いに争い合ったかについて、
この人間の成し遂げたことが後に忘れ去られぬよう、
ハリカルナッソスのヘロドトスはその探求したところを、ここに記す。

伝説時代における東西の抗争 (1-5)
  • リュディアの盛衰 (6-94)
    • 最後のリュディア王クロイソス (26-94)
    • アテナイの賢者ソロン (26-33)
    • スパルタの隆盛 (65-70)
  • ペルシャの興隆 (95-217)
第2巻(エウテルペ)
カンビュセスのエジプト遠征 (1-182)
  • フリュギア人の遺物 (2)
  • エジプトの地理 (2-34)
  • ナイル川 (19-34)
  • 宗教行事について、特にギリシャとの相違点 (35-37)
  • エジプトの動物:ネコ、犬、ワニ、カバ、カワウソ、フェニックス、聖なるヘビ、羽のある蛇、トキ (38-76)
  • エジプトの文化:医療、葬儀式、食べ物、ボート (77-98)
  • トロイア戦争時、ヘレネとパリスのエジプト滞在 (112-120)
  • ロドピス (134-135)
  • 聖職者 (142-143)
  • ラビリンス (148)
第3巻(タレイア)
カンビュセスのエジプト遠征 (1-87)
  • ペルシャ王カンビュセス2世によるエジプト攻撃とプサンメニトス (プサムテク3世)への勝利 (1-16)
  • カンビュセスのエチオピア攻撃とその失敗 (17-30)
ダレイオスによる国内の整備と安定 (88-160)
  • 20のサトラップ(太守) (88-117)
  • インドの文化、金を採集する方法 (98-106)
  • アラビアの文化、スパイスを採集する方法 (107-113)
  • バビロン - ヘロドトスは自分が訪れたことを明言していない為に、訪れていないと見られる (150-160)
第4巻(メルポメネ)
ダレイオスのスキュティア遠征 (1-144)
  • スキュティアの歴史 (5-15)
  • スキュティア以遠の地域の居住民: (16-36)
    • サウロマタイ
    • ブディノイ
    • テュッサゲタイ
    • アルギッパイオイ
    • イッセドネス、アリマスポイ
    • ヒュペルボレオイ
  • スキュティアの地理 (37-45)
  • リビア(アフリカ)、アジア、ヨーロッパの比較 (41-45)
    • フェニキア人のアフリカ大陸周航 (42)
  • スキュティアの川:イストロス川(ドナウ川)、Tyras(ドニエストル川)など (46-58)
  • スキュティアの文化:宗教、葬儀、外国人恐怖症、人口 (59-82)
  • ダレイオス1世によるスキュティアへの攻撃開始、ボスポラス海峡に架かる橋に関する記述 (83-144)
  • スキュティア周辺の諸族の慣習など: (102-119)
    • タウロイ
    • アガテュルソイ
    • ネウロイ
    • アンドロパゴイ
    • メランクライノイ
    • ゲロノイ
    • ブディノイ
    • サウロマタイ
  • ダレイオスのスキュティア攻撃失敗と撤退 (120-144)
アリュアンデスによるリビア攻撃 (145-205)
第5巻(テルプシコラ)
メガバゾス(英語版)によるトラキアおよびマケドニア攻略 (1-22)
イオニアの反乱 (23-126)
  • 紀元前499年 ミレトスの僭主アリスタゴラスがペルシャに反乱 (49-126)
第6巻(エラト)
イオニアの反乱 (1-42)
  • ディオニュシオスによるイオニア海軍の訓練 (11-12)
  • 紀元前493年 ペルシャによるイオニアの反乱の鎮圧 (31-42)
マルドニオスによるギリシャ本土攻撃 (43-45)
  • 紀元前492年 暴風雨のため最初の遠征軍は撤退
ダディス(英語版)およびアルタプレネスによるギリシャ本土侵入 (46-140)
  • 紀元前490年 アテナイ人はマラトンの戦いに勝利 (103-131)
  • スパルタ人は遅れてマラトン参軍 (120)
第7巻(ポリュヒュムニア)
クセルクセスのギリシャ遠征 (1-239)
  • 紀元前486年 ダレイオスの死 (1-4)
  • 紀元前484年 クセルクセス1世による、エジプト人反乱の鎮圧 (5-7)
  • 紀元前480年 クセルクセス1世のギリシャ遠征 (26-130)
  • シュラクサイの僭主ゲロン (152-168)
  • レオニダス1世とギリシャ軍(約6,000名)は、テルモピュライにペルシャ軍の侵入阻止の為に配置 (175-200)
  • テルモピュライの戦い、3日間 (201-239)
第8巻(ウラニア)
クセルクセスのギリシャ遠征 (1-129)
  • アテナイ市民の脱出 (23-55)
  • サラミスの海戦 (56-96)
マルドニオスによるギリシャ本土作戦 (130-144)
  • マルドニオスの率いるペルシャ陸軍がテッサリアで越冬
第9巻(カリオペ)
マルドニオスによるギリシャ本土作戦 (1-98)
  • 紀元前479年 マルドニオスの再侵攻。アテナイ市民の再脱出 (1-3)
  • プラタイアの戦い (19-98)
  • マケドニア王国のアレクサンドロス1世 からギリシャへの攻撃の警告 (44-46)
ペルシャ艦隊の絶滅 (99-122)
  • ギリシャ海軍によるイオニアでのペルシャへの勝利(ミュカレの戦いなど)と反攻 (99-121)

おもな登場人物

未作成