延長4年(926年)、東宮となる。立太子の背景には、兄保明親王とその子慶頼王の二代にわたる東宮の夭折があり、母后穏子は怨霊を恐れて、寛明親王を3歳になるまで幾重にも張られた几帳の中で育てたという。延長8年(930年)先帝の醍醐天皇の危篤を受け9月22日に践祚、醍醐天皇はその7日後に崩御、11月22日に8歳(滿7歳3か月)で即位。政治は、伯父忠平が摂関として取り仕切っていた。
治世中の承平5年(935年)2月、平将門が関東で反乱を起こし、次いで翌年には瀬戸内海で藤原純友が乱を起こした(承平天慶の乱)。朝廷は懐柔策を試みたがうまくいかず、天慶3年(940年)、藤原忠文を征東大将軍に任命して将門征伐軍を送り、藤原秀郷の手により将門は討たれた。翌年には橘遠保により藤原純友が討たれ、乱はようやく収束した。
治世中はこのほかにも富士山の噴火や地震・洪水などの災害・変異が多かった。また病弱のためか入内した女御はわずか2人であり、在位中には全く皇子女に恵まれなかった。このこともあってか、天慶7年(944年)4月に同母弟成明親王(後の村上天皇)を東宮(皇太弟)とし、2年後の天慶9年(946年)4月20日に24歳で譲位し、太上天皇となる。その後、後悔して復位の祈祷をしたともいう。天暦6年(952年)に出家して、仁和寺に入った。同年、30歳で崩御。
陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市伏見区醍醐御陵東裏町にある醍醐陵(だいごのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は円丘。
北西にある父帝醍醐天皇の山科陵からは遠くない位置にある。古くは醍醐天皇陵が「上ノ御陵」、朱雀天皇陵が「下ノ御陵」と呼ばれていた。
また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。