小窓
朱雀天皇(すざくてんのう)

作成日:2020/6/11

朱雀天皇は、日本の第61代天皇。
第60代醍醐天皇の第十一皇子。母は藤原基経の娘、中宮藤原穏子。

《紀》:日本書紀による記述  《記》:古事記による記述
日本の第61代天皇 朱雀天皇(すざくてんのう)

[在位] 延長8年9月22日(西暦930年10月16日)- 天慶9年4月20日(西暦946年5月23日)《紀》
[生没] 延長元年7月24日(西暦923年9月7日)- 天暦6年8月15日(西暦952年9月6日)30歳没《紀》
[時代] 平安時代
[先代] 醍醐天皇
[次代] 村上天皇
[陵所] 醍醐陵(だいごのみささぎ)
[追号] 朱雀院。譲位後、朱雀院を後院としたため、「朱雀院」と追号。
[] 寛明(ゆたあきら)
[父親] 醍醐天皇
[母親] 藤原穏子(ふじわら の おんし・やすこ)
[皇居] 平安宮

年譜

天皇の系譜(第60代から第76代)
延長元年(西暦923年)
7月24日(9月7日) 降誕
承平7年(西暦937年)
1月4日(2月16日) 元服
(西暦)
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延長8年(西暦930年)
11月21日(12月14日) 即位礼
承平2年(西暦932年)
11月13日(12月13日) 大嘗祭
天暦6年(西暦952年)
8月15日(9月6日) 崩御。於:仁和寺
天暦6年(西暦952年)
9月21日(10月12日) 大喪儀
(西暦)
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(西暦)
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略歴

延長4年(926年)、東宮となる。立太子の背景には、兄保明親王とその子慶頼王の二代にわたる東宮の夭折があり、母后穏子は怨霊を恐れて、寛明親王を3歳になるまで幾重にも張られた几帳の中で育てたという。延長8年(930年)先帝の醍醐天皇の危篤を受け9月22日に践祚、醍醐天皇はその7日後に崩御、11月22日に8歳(滿7歳3か月)で即位。政治は、伯父忠平が摂関として取り仕切っていた。

治世中の承平5年(935年)2月、平将門が関東で反乱を起こし、次いで翌年には瀬戸内海で藤原純友が乱を起こした(承平天慶の乱)。朝廷は懐柔策を試みたがうまくいかず、天慶3年(940年)、藤原忠文を征東大将軍に任命して将門征伐軍を送り、藤原秀郷の手により将門は討たれた。翌年には橘遠保により藤原純友が討たれ、乱はようやく収束した。

治世中はこのほかにも富士山の噴火や地震・洪水などの災害・変異が多かった。また病弱のためか入内した女御はわずか2人であり、在位中には全く皇子女に恵まれなかった。このこともあってか、天慶7年(944年)4月に同母弟成明親王(後の村上天皇)を東宮(皇太弟)とし、2年後の天慶9年(946年)4月20日に24歳で譲位し、太上天皇となる。その後、後悔して復位の祈祷をしたともいう。天暦6年(952年)に出家して、仁和寺に入った。同年、30歳で崩御

后妃・皇子女

陵・霊廟

陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市伏見区醍醐御陵東裏町にある醍醐陵(だいごのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は円丘。

北西にある父帝醍醐天皇の山科陵からは遠くない位置にある。古くは醍醐天皇陵が「上ノ御陵」、朱雀天皇陵が「下ノ御陵」と呼ばれていた。

また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。


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