サキタリ洞遺跡(サキタリどういせき)は、
沖縄県南城市にある旧石器時代以降の遺跡。
西暦2007年(
平成19年)に始まった発掘調査以降、
多くの発見がなされ、注目を浴びている。
サキタリ洞遺跡は、
沖縄本島南部、南城市玉城大字前川字浮花原202番地に位置する「ガンガラーの谷」内にある洞窟内に広がる遺跡である。
同地の地権者である株式会社南都の社員が、
洞穴近辺で土器や石器などの遺物を採集したことにより、
遺跡であると認識されるようになった。
沖縄県立博物館・美術館が
西暦2007年(
平成19年)より発掘調査を行っている。
サキタリ洞周辺の地質は、
島尻層群(泥岩)が土台となり、
その上を琉球層群(石灰岩)が覆っている。
サキタリ洞遺跡のある「ガンガラーの谷」周辺は特に石灰岩層が厚く、
雄樋川の浸食によって洞穴群が複雑に発達しており、
有名な玉泉洞とその周辺の洞穴は「玉泉洞ケイブシステム」と呼ばれる大規模な洞穴群を形成している。
周辺には
先史時代の遺跡が多く分布している。
有名なものとして、
港川人骨が発見された港川遺跡(八重瀬町)が1.5キロメートルの距離にある。
また、グスク時代の人骨が発見されたハナンダガマ遺跡(南城市)、
縄文時代晩期の人骨が発見されたガルマンドウ原洞穴遺跡(八重瀬町)、
約7千年前の南島爪形文土器や縄文時代晩期の石棺墓が発見された武芸洞遺跡(南城市)などがある。
主な発見
西暦2010年
西暦2010年(
平成12年)7月から8月にかけて、
縄文時代の遺物を含むフローストーン層の直下から12,000年前のヒトの歯1点とともに石英の石器3点が発見される。
旧石器時代の人骨と石器がともに発見されるのは日本で初めてである。
この発見には二つの意味がある。
ヒトと文化の両方を明らかにすることができる証拠であり、
沖縄の旧石器文化の解明につながる手がかりとなる。
また、12,000年前という年代が、
旧石器時代の発見と縄文時代の発見の空白期に相当し、
それを埋めるものであったことが挙げられる。
西暦2013年
西暦2013年(
平成25年)、
沖縄県最古の約8,000年前の土器が発見された。
表面にヘラなどを押し付けて紋様をつける押引文土器とされる。
従来、沖縄最古の土器は約7,000-6,000年前の無文土器または南島爪形文土器とされてきたが、
この発見により1000年遡ることになった。
2万3千年前の赤 日本最古の着色ビーズ、洞遺跡で発見
沖縄県南城市のサキタリ洞遺跡から
西暦2013年に発見された貝製ビーズが、
顔料で着色された装飾品としては国内最古となることが分かった。
周辺地層の年代分析から、旧石器時代の2万3千年前の着色だと推定している。
調査を進めていた県立博物館・美術館(田名真之館長)が21日、発表した。
沖縄県内では5500年前から顔料の使用が確認されていたが、
大幅にさかのぼることになった。
顔料の具体的な使用目的や場面も明らかになった。
着色された装飾品(縦12・8ミリ、横7・9ミリ、重さ0・7グラム)は、
ニシキツノガイを加工したもの。
日本最古の貝製ビーズとしても知られていた。
着色に使用されたのは鉄分を含む赤色の顔料で、
産地は不明。同じ場所からは顔料原材(約2万3500年前)や顔料の塊(約1万6千~1万3千年前)も出土しており、
後期旧石器時代を通して赤色顔料が使用されていたことが示された。
旧石器時代の顔料で着色された貝製装飾品は、
アフリカからユーラシア大陸、
オーストラリアまで世界各地で広く見られる。
沖縄でも共通性が確認されたことで、
県立博物館・美術館は「沖縄の旧石器人の社会や文化の具体的なありようを探る鍵になるだろう」としている。
サキタリ洞遺跡からは、
これまで世界最古の貝製釣り針(2万3千~2万年前)や、
3万年前の人骨なども出土している。
最古の着色装飾品と関連資料は、
県博で開催されている「海とジュゴンと貝塚人-貝塚が語る9000年のくらし」で12月5日まで展示される。
西暦2014年
西暦2014年(
平成26年)2月、
23,000-20,000年前の貝製のビーズと道具、
人骨が発見された。
旧石器時代の遺跡から貝器が見つかるのは日本で初めてであった。
このうちの貝製ビーズには、
ベンガラとみられる赤い顔料が付着しており、
日本最古の人為的に着色された装飾とされる。
同年12月には、少なくとも9,000年以上前の成人の人骨が発見された。
人骨の頭や胸等には石灰岩が置かれており、
腕の関節が繋がった状態で見つかったことから、
人為的に埋葬された可能性があると考えられており、
仮に埋葬されたものであれば日本国内で最古の埋葬人骨となる。
西暦2016年
西暦2016年(
平成28年)に、
世界最古の釣り針(23,000年前、貝製)が発見された。
また30,000年前の幼児人骨も発見された。
これは日本国内で山下洞人(32,000年前)に次いで古いものである。
白保竿根田原洞穴遺跡(しらほさおねたばるどうけついせき)は、
沖縄県石垣市(八重山列島石垣島)にある旧石器時代から16世紀頃までの複合遺跡である。
全身骨格がほぼ残ったものとしては国内最古の約2万7千年前の人骨が発見されるとともに、
国内で初めての旧石器時代の墓域が確認された。
国の史跡に指定されている。
沖縄県石垣市東部の白保から盛山にかけて分布する洞穴内にある遺跡で、
海岸から約800m、標高30-40mに位置している。
新石垣空港敷地内にあり、
空港建設中の
西暦2007年にNPO法人沖縄鍾乳洞協会が行った調査で、
洞穴内から人間の頭、脚、腕などの骨9点が発見された。
また、その後の調査で1,000点以上の人骨片が出土している。
「竿根田原」の読み方は、沖縄県立埋蔵文化財センターの公式発表や日本考古学協会・日本人類学会での報告では、「さおねたばる」とされている。
これに対して、白保で用いられている「そねたばる」とすべきではないかとの指摘が石垣市議会でなされている。
なお、竿根田原は字白保の小字名であり、方音は「ソンタパリ」という。
...
- 西暦2007年の調査で発見された人骨
-
西暦2007年に発見された人骨のうち、
状態のよい6点について同協会、沖縄県立埋蔵文化財センター、
琉球大学、東京大学等の専門家チームが放射性炭素年代測定を行ったところ、
西暦2010年に、
そのうちの1点の20代-30代の男性の頭骨片(左頭頂骨)が国内最古の約2万年前、
他に2点も約1万8千年前及び約1万5千年前のものと確認された。
- 2010年までの調査で発見された人骨
-
さらに国立科学博物館が、
西暦2010年までに出土した人骨10点の母系の祖先を知る手掛かりとなるミトコンドリアDNA分析した結果、
国内最古の人骨(約2万-1万年前)とされた4点のうち2点はハプログループM7aと呼ばれる南方系由来のDNAタイプであることが明らかとなった
-
西暦2012年度から西暦2016年度にかけて沖縄県立埋蔵文化財センターが行った調査では19体分の人骨が発見され、
西暦2017年5月19日には最終調査結果として以下の点が発表された。
- 発見された人骨は少なくとも19体分以上であり、旧石器時代の人骨発掘としては世界的にも最大級である。
- 人骨のうちの一体(4号人骨)は約2万7千年前(較正年代)のもので、全身骨格がほぼ残った人骨としては国内最古である。
- 4号人骨は、30代から40歳前後の男性のもので、身長は165.2cmと港川人(153cm)より高い。下顎と比較して上顎の歯の摩耗が顕著であり、特殊な歯の使い方をしていた可能性が指摘されている。
- 4号人骨は、仰向けの姿勢で、膝を胸の前に折るとともに、両手が顔の近くになるように肘を曲げられ、地上の岩の間にあった。このため人為的に安置されたと考えられ、風葬の可能性がある。この人骨が発見された場所は、遺跡は日本国内で初めて確認された旧石器時代の墓域である。
これまで、直接測定による日本国内最古の人骨は、
静岡県浜北区の根堅洞窟で発見された浜北人の約1万4千年前であった。
なお、人骨そのものではなく、
周辺の炭化物などから測定した日本国内最古の人骨は沖縄県那覇市山下町第一洞穴で西暦1968年に発見された山下洞人の約3万2千年前のものである。
港川遺跡(みなとがわいせき)または
港川フィッシャー遺跡(みなとがわフィッシャーいせき)は、
沖縄県島尻郡八重瀬町字長毛に所在する旧石器時代から沖縄貝塚時代・グスク時代・近代にかけての複合遺跡。
旧石器人である港川人が出土したことで知られる。
西暦2016年(
平成28年)7月5日に「港川遺跡」として八重瀬町指定史跡に指定された。
港川人人骨発見地が採石場崖面の裂罅(れっか、割れ目、英語でfissure=フィッシャー)であったことから長年「
港川フィッシャー遺跡」と呼ばれてきたが、
西暦2016年(
平成28年)の町史跡指定に伴い正式に「
港川遺跡」となった。
沖縄本島南部、
那覇市より南方約10キロメートルの島尻郡八重瀬町(旧・具志頭村)港川字長毛小字トーガマー原に位置する。
...
アメリカ施政権下の
西暦1967年(
昭和42年)11月、
那覇市でガソリンスタンドを経営していた考古学研究家の大山盛保は、
具志頭村(現・八重瀬町)港川の石材店で入手した庭石(粟石=石灰岩)に、
動物の化石らしきものを見出し、
この石の産地に動物を求めて狩猟をしていた人類もいたのではないかと考えた。
大山は港川・長毛地域の採石場に赴き、
崖の裂罅(れっか、割れ目、英語でfissure=フィッシャー)を発掘すると1万年以上前のイノシシの骨が出土した。
大山はイノシシを捕獲して暮らしていた人間の存在を確信したが、
この考えに同意するのは考古学者の多和田真淳ただ一人であった。
遺跡からはハブ、ネズミ、カエルなど多種多様な動物の骨が出土したが、
人骨はなかなか出ず、
大山は日が暮れて暗くなると車のヘッドライトで遺跡を照らしながら発掘を続けた。
西暦1968年(
昭和43年)1月21日、
大山は港川遺跡から人骨を発見する。
同年3月19日、山下町第一洞穴遺跡の発掘のため来琉していた東京大学教授の鈴木尚らを港川に案内する。
予備調査を行うと、大山が採集していた化石骨のうちに、
ヒトの脛骨2点、上腕骨1点、足の親指、頭骨片が確認された。
西暦1968年末から
西暦1971年(
昭和46年)にかけて第1次調査が、
西暦1974年(
昭和49年)からは本格的な発掘調査が行われ、
完全に近い全身骨が5-9体、姿を現した。
これが港川人である。
発掘調査
- 第一次沖縄洪積世人類発掘調査団
-
西暦1968年(昭和43年)12月25日から西暦1969年(昭和44年)1月7日にかけて、
東京と沖縄の人類学・考古学者の混成チームによる発掘調査が行われた。
団長は渡邊直經(東京大学)。人骨は発見されず。
西暦1970年(昭和45年)8月、
大山が地下約20メートルで完全な化石頭骨と人骨を発見し、
渡邊が緊急調査、頭骨など約40点の人骨片を発見した。
同年11月、大山がほぼ完全な全身骨格を発掘する。
- 第二次沖縄洪積世人類発掘調査団
-
西暦1970年(昭和45年)12月20日から西暦1971年(昭和46年)1月10日にかけて発掘調査が行われた。
団長は田辺義一(お茶の水女子大学)。
人骨数点が出土したが、同調査では地質学的研究に力点が置かれた。
- 第三次沖縄洪積世人類発掘調査団
-
西暦1974年(昭和49年)12月23日から12月29日にかけて発掘調査が行われた。
団長は土隆一(静岡大学)。海水面下より人骨が出土した。
西暦1982年(昭和57年)に本報告書『The Minatogawa Man』(Suzuki and Hanihara eds.1982)が出版された。
- 具志頭村教育委員会の発掘調査
-
西暦1998年(平成10年)から4年間、
4次にわたる本格的な発掘調査が行われた。
旧石器時代の人骨・石器の発見はなし。
港川人
港川人(みなとがわじん、Minatogawa man)は、
約2万~2万2千年前に日本列島南西部の沖縄諸島(現在の沖縄県)に存在していたとされている人類である。
西暦1967年(
昭和42年)、
アマチュア考古学研究家の大山盛保が、
沖縄県島尻郡具志頭村港川(現在の八重瀬町字長毛)の海岸に近い石切場にある裂罅(れっか。割れ目のことで、英語では"fissure"(フィッシャー))で、
多数のイノシシの化石を発掘(港川遺跡)。
翌
西暦1968年(
昭和43年)1月には断片的な人骨を発見した。
大山はさらに発掘を続け、
西暦1970年(
昭和45年)8月から12月にかけて、
4体(男性1体、女性3体)の全身骨格(港川人骨)を発見。
東京大学の鈴木尚により同定が行われた。
この人骨は約2万年前~2万2千年前のものとされ、
石垣島の白保竿根田原洞穴遺跡で約2万7千年前の人骨が発見されるまで、
日本列島で発見され、
全身骨格の形で残っている人骨の中で、
最も古いものであった。
4体の港川人骨の身長は、
男性で約155センチメートル、
女性は144センチメートルと小柄で、
下半身は筋肉質のしっかりとした体型だったが、
上半身は華奢で肩や腕の力は弱く、
握力と咀嚼力は強かったことが骨から読み取れるという。
骨内部のレントゲン調査では「ハリス線」と呼ばれる病気や栄養不足による成長阻害によって生じる筋状の痕跡が見られ、
生活環境が厳しかった可能性が指摘されている。
縄文人との関係
かつて港川人は縄文人の祖先ではないかと考えられてきた。
しかし、国立科学博物館等の研究チームが
西暦2009年(
平成21年)に発表した分析結果によれば、
港川人の顔立ちは、現在の人類では、
オーストラリア先住民やニューギニアの集団に近いという。
国立科学博物館研究主幹(当時)の海部陽介は、
港川人は日本列島本土の縄文人とは異なる集団で、
5万~1万年前の
東南アジアやオーストラリアに広く分布していた集団から由来した可能性が高いと述べている。
そして、その後に、農耕文化を持った人たちが
東南アジアに広がり、
港川人のような集団はオーストラリアなどに限定されたと考えられるとしている。
西暦2021年(
令和3年)には、
男性人骨(港川1号)の
ミトコンドリアDNAの全塩基配列の解読が完了し、
港川人はハプログループMの基盤的な系統に位置しており、
現代の日本人や縄文人、
弥生人に多く見られる祖先型の遺伝子を持つものの、
そのいずれとも特徴が異なっていることが分かった。
港川人は縄文人、弥生人、現代人の直接の先祖でなく、
共通の祖先から枝分かれしたと考えられるという。
沖縄の古代人骨
沖縄の古代人骨としては、
西暦1968年(
昭和43年)に、
那覇市山下町の
山下町第一洞穴遺跡から発見された、
約3万2000年前の旧石器時代の化石人骨(
山下洞人)が知られている。
また、全身骨格としては、
石垣市の白保竿根田原洞穴遺跡から発見された数体の全身骨格のうちのひとつについて、
沖縄県教育委員会は
西暦2017年(
平成29年)に港川人より5千年古い約2万7千年前のものであると発表している。
港川遺跡から約1.5kmの距離にある南城市のサキタリ洞遺跡では、
西暦2014年(
平成26年)に少なくとも9000年以上前の人骨が発掘されており、
調査が行われるとともに、
港川人との関係等についての研究が進められている。
展示
沖縄県立博物館・美術館は「港川人復元模型」や頭骨の複製等を所蔵している。
また、遺跡が所在する八重瀬町にある八重瀬町立具志頭歴史民俗資料館には、
常設展示の1つとして港川人コーナーが設けられており、
全身骨格のレプリカやこれまでの研究成果が紹介されている。
山下町第一洞穴遺跡は、
沖縄県那覇市にある旧石器時代の遺跡。
西暦1962年(
昭和37年)に発見され、
日本最古とされる3万2000年前の
山下洞人の人骨や旧石器が出土した。
沖縄本島南部の那覇市山下町167番地に存在する洞窟である。
現在は公園として整備されている。
沖縄本島南部の地形は、島尻層群と呼ばれる新第三系が土台となり、
それを覆うように琉球石灰岩と呼ばれる石灰岩層がほぼ水平に海岸に沿って広がっている。
島尻層群は海成層であり、
シルト岩を中心にして、
下は厚い砂岩層が発達している。
琉球石灰岩は古い方から、
那覇石灰岩、読谷石灰岩、牧港石灰岩に三区分されている。
那覇港の南岸に平行して東西方向に直線的に連なる海抜40mの那覇石灰岩の丘陵があり、
その北側は急斜面ないし絶壁を形成している。
この丘陵には幾つかの洞穴が開口しているが、
山下町第一洞穴はその北斜面中腹に形成されたものの一つで、
南北に開口する間口は約1.2m、奥行き5.5m、高さ3.2mである。
アメリカ施政権下の
西暦1962年(
昭和37年)、
神事を行っていたコザ市(現・沖縄市)在住の比嘉初子が、
第一洞穴から多くのシカの化石骨を発掘し、
琉球政府文化財保護委員会へ届けたのが発端である。
その中に人為的な加工を施された骨が数点見つかり、
現地を視察した同委員会の宮里栄輝と沖縄大学の高宮廣衞が緊急調査を行うことを決定した。
第一次調査は琉球政府文化財保護委員会が主体となって
西暦1962年12月28日~31日の4日間行われ、
多和田真淳・高宮廣衞を責任者に沖縄大学学生が3人、
それに地主が立ち会った。
さらに
西暦1968年(
昭和43年)、
東京大学に設置された「沖縄洪積世人類遺跡調査団」によって第二次調査が行われた。
...
出土物
- 石器
-
西暦1962年の発掘調査で、
更新世と考えられる木炭層から3点の旧石器が出土した。
この木炭層は、人間により整地された「生活面」と考えられ、
焼土(炉跡)、焼礫集中部(礫群)という遺構が存在していた。
年代は約3万2,000年前と測定されている。
石器の石材は洞穴内に自然に存在したものでなく、
別の場所から持ち込まれた搬入石材であり、
さらに同石材(細粒砂岩)は石器の素材としての条件を十分に満たしたものであった。
つまり、石器として人間によって持ち込まれた石材であったのである。
石器表面の観察では、
3点共に自然礫に人為的な打痕、磨耗痕、
それに打割調整と整形痕が認められ、
石器として使用された製品(人工品)であることが確実とみられる。
- 人骨
-
西暦1968年の第二次発掘調査で、
脛骨1点、大腿骨1点、腓骨1点の計3点の化石人骨片が出土した。
これらの人骨と石器が出土した層準はほぼ同じ時期とされ、
これは日本で初めて両者が供伴した重要な遺跡といえる。(山下洞人)
山下洞人
山下洞人(やましたどうじん)は、
西暦1968年に沖縄県那覇市山下町の山下町第一洞穴遺跡から発見された約3万2000年前の旧石器時代の化石人骨である。
発見されたのは、
8歳程度の幼児(女子)のものとみられる大腿骨、
脛骨、腓骨各1本で、
放射性炭素年代測定では3万2000年前(較正年代では3万6000年前)のものとされた。
これは、更新世(洪積世)後期に相当する。
日本国内最古の人骨とされるが、
人骨から直接抽出されたタンパク質を調べたのではなく、
人骨と一緒に出土した炭化物の年代を測定したもので、信憑性が劣る。