安和2年(969年)、父冷泉帝の弟叔父である守平親王の即位(円融天皇)と共に皇太子になり、永観2年(984年)、同帝の譲位を受けて即位。生後10か月足らずで立太子したのは、摂政であった外祖父伊尹の威光によるものだが、17歳で即位時には既に伊尹は亡くなっており、有力な外戚をもたなかったことは、2年足らずの在位という後果を招いた。
関白には先代に引き続いて藤原頼忠が着任したが、実権を握ったのは、帝の外舅義懐と乳母子藤原惟成であった。義懐と惟成は荘園整理令の発布、貨幣流通の活性化、武装禁止令、物価統制令、地方の行政改革など革新的な政治を行ったが、革新的な政策は関白である頼忠らとの確執を招いた。さらに皇太子懐仁親王の外祖父である右大臣藤原兼家も花山天皇の早期退位を願って、天皇や義懐と対決の姿勢を示した。そのため、宮中は義懐派・頼忠・兼家の三つ巴の対立の様相を呈して政治そのものが停滞するようになっていった。
ここに天皇の女性問題が加わる。藤原為光の娘・藤原?子に劇的に心動かされた天皇は、?子を女御にすることを望んだ。義懐の正室は?子の実の姉であり、天皇は直ちに義懐に義父・為光の説得を命じた。娘婿の必死の懇願に為光も?子の入内を決める。深い寵愛を受けた?子は懐妊するが、寛和元年(985年)7月18日、17歳で死去した。これにショックを受けた天皇は、「出家して?子の供養をしたい」と言い始めた。義懐は天皇の生来の気質から、出家願望が一時的なものであると見抜き、惟成や更に関白頼忠も加わって天皇に翻意を促した。
寛和2年(986年)6月22日、19歳で宮中を出て、剃髪して仏門に入り退位した。突然の出家について、『栄花物語』『大鏡』などは寵愛した女御藤原?子が妊娠中に死亡したことを素因とするが、『大鏡』ではさらに、藤原兼家が、外孫の懐仁親王(一条天皇)を即位させるために陰謀を巡らしたことを伝えている。蔵人として仕えていた兼家の三男道兼は、悲しみに暮れる天皇と一緒に自身も出家すると唆し、内裏から元慶寺(花山寺)に密かに連れ出そうとした。このとき邪魔が入らぬように鴨川の堤から警護したのは兼家の命を受けた清和源氏の源満仲とその郎党たちである。天皇は「月が明るく出家するのが恥ずかしい」と言って出発を躊躇うが、その時に雲が月を隠し、天皇は「やはり今日出家する運命であったのだ」と自身を諭した。しかし内裏を出る直前に、かつて妻から貰った手紙が自室に残ったままであることを思いだし、取りに帰ろうとするが、出家を急いで極秘に行いたかった兼家が嘘泣きをし、結局そのまま天皇は内裏から出た。一行が陰陽師の安倍晴明の屋敷の前を通ったとき、中から「帝が退位なさるとの天変があった。もうすでに…式神一人、内裏へ参れ」という声が聞こえ、目に見えないものが晴明の家の戸を開けて出てきて「たったいま当の天皇が家の前を通り過ぎていきました」と答えたと伝わる。天皇一行が寺へ向かったのを見届けた兼家は、子の藤原道隆や藤原道綱らに命じ三種の神器を皇太子の居所であった凝華舎に移したのち、内裏諸門を封鎖した。 月岡芳年「花山寺の月」(明治23年)
元慶寺へ着き、天皇が落飾したのを見届けたのち、道兼は親の兼家に事情を説明してくるという理由で寺を抜け出し、そのまま逃げて出家はせず、ここで天皇は欺かれたことを知った。内裏から行方不明になった天皇を捜し回った義懐と惟成は元慶寺で天皇を見つけ、そこで政治的な敗北を知り、共々に出家した。この事件は寛和の変とも称されている。出家にともない懐仁親王(一条天皇)へ譲位し、太上天皇となる。
この事件は親王時代に学問を教え、当時式部丞になっていた紫式部の父藤原為時(以降長く出世が途絶える)や、尾張国郡司百姓等解文で有名な藤原元命(甥または叔父が惟成)のその後の出世にも影を落とした。(「尾張国解文」項目参照)
出家し法皇となった後には、奈良時代初期に徳道が観音霊場三十三ヶ所の宝印を石棺に納めたという伝承があった摂津国の中山寺(兵庫県宝塚市)でこの宝印を探し出し、紀伊国熊野から宝印の三十三の観音霊場を巡礼し修行に勤め、大きな法力を身につけたという。この花山法皇の観音巡礼が「西国三十三所巡礼」として現在でも継承されており、各霊場で詠んだ御製の和歌が御詠歌となっている。
この巡礼の後、晩年に帰京するまでの十数年間は巡礼途中に気に入った場所である摂津国の東光山(兵庫県三田市)で隠棲生活を送っていたとされ、この地には御廟所があり花山院菩提寺とし西国三十三所巡礼の番外霊場となっている。
花山院菩提寺の真南に位置する六甲山山頂付近の六甲比命神社の磐座群の中の仰臥岩に、花山法皇、仏眼上人、熊野権現連名の碑がある。静岡県御前崎市の桜ヶ池 (御前崎市)・池宮神社をはじめ瀬織津姫と関わる場所が花山院御領とされた。
出家後の有名な事件としては、長徳2年(996年)花山法皇29歳のとき、中関白家の内大臣藤原伊周・隆家に矢で射られた花山法皇襲撃事件がある。同年1月半ば、伊周が通っていた故太政大臣藤原為光の娘三の君と同じ屋敷に住む四の君(藤原儼子。かつて寵愛した女御藤原?子の妹)に花山法皇が通いだしたところ、それを伊周は自分の相手の三の君に通っているのだと誤解し、弟の隆家に相談する。隆家は従者の武士を連れて法皇の一行を襲い、法皇の衣の袖を弓で射抜く(さらに『百錬抄』では、花山法皇の従者の童子2人を殺して首を持ち去ったという話も伝わっている)。花山法皇は体裁の悪さと恐怖のあまり口をつぐんで閉じこもっていたが、この事件の噂が広がるのを待ち構えていた藤原道長に利用される形で、翌月に伊周・隆家はそれぞれ大宰府・出雲国に左遷の体裁を取って流罪となった(長徳の変)。これにより、あの出家事件の首謀者であった兼家の孫で、道隆の子であった中関白家の伊周はライバルの道長に政治的に敗北することとなり、出世の道は途絶えた。
寛弘5年(1008年)2月花山院の東対にて崩御、紙屋上陵(現在の京都市北区衣笠北高橋町)に葬られた。享年41。死因ははっきりしないが悪性腫瘍によるものと考えられている。
乳母は橘則光の母右近尼。
父親の冷泉天皇も数々の逸話が残る人物であるが、花山天皇は当世から「内劣りの外めでた」等と評され、乱心の振る舞いを記した説話は『大鏡』『古事談』に多い。即位式の際、高御座に美しい女官を引き入れ、性行為に及んだという話が伝わる。出家後も好色の趣味を止めることなく女性と関係を持ち、上記の「長徳の変」と呼ばれる逸話も出家後の話である。また、同時期に母娘の双方を妾とし、同時期に双方に男子を成している。その二人の子を世の人は「母腹宮」(おやばらのみや)「女腹宮」(むすめばらのみや)と呼んだ。
その一方で、彼は絵画・建築・和歌など多岐にわたる芸術的才能に恵まれ、ユニークな発想に基づく創造はたびたび人の意表を突いた。特に和歌においては在位中に内裏で歌合を開催し、『拾遺和歌集』を親撰し、『拾遺抄』を増補したともいわれる。
出家前に入内した正式な后妃は、流産死した?子以外に子は出来ず、天皇の退位・出家とともにこれらの女御は実家に下がった。出家後、乳母子の中務とその娘平平子を同時に寵愛して子を産ませたため、世の人は中務の腹に儲けた清仁親王を「母腹宮」、平子の腹に儲けた昭登親王を「女腹宮」と称した。二人の皇子は寛弘元年(1004年)に冷泉上皇の猶子となり、それぞれ冷泉院の五宮・六宮として親王宣下を受けた。清仁親王は、白川伯王家の祖先となった。 なお『栄花物語』によれば皇女四人のうち、平子腹の皇女一人のみ成長したという。しかし万寿元年(1024年)12月6日にこの皇女(上東門院彰子の女房)は夜中の路上で殺され、翌朝、野犬に食われた酷たらしい姿で発見された(『小右記』)。この事件は京の公家達を震撼させ、検非違使が捜査にあたり、翌万寿2年(1025年)7月25日に容疑者として法師隆範を捕縛、その法師隆範が藤原道雅の命で皇女を殺害したと自白し人々を驚愕させた。藤原道雅の父は花山法皇に矢を射掛けたあの藤原伊周である(事件そのものは7月28日にこの殺害事件を起こした盗賊の首領という者が自首をしたため、藤原道雅からの指示という点は有耶無耶になってしまった)。 又、藤原伊尹の末娘(花山天皇の母・藤原懐子の異母妹で花山天皇には叔母にあたる)九の御方を寵愛していたが、中務や平子等と懇ろになると異母弟の為尊親王を薦めて九の御方と結婚させたという(『栄花物語』)。
退位後の御在所に因んで「花山院」と呼ばれた。すべての天皇は皇居の宮中三殿の一つの皇霊殿に祀られている。
陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市北区衣笠北高橋町にある紙屋川上陵(かみやかわのほとりのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は方丘。
『日本紀略』に葬所は「紙屋川の上、法音寺の北」とあり、「法音寺北陵」とも称したので、幕末に法音寺の旧跡にもとづいて現在地に治定された。
前出の花山院菩提寺には後世の人が作った天皇の墓がある。
また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。