ルワンダ虐殺とは、
東アフリカの
ルワンダで
西暦1994年4月7日から7月18日まで約100日間続いた大量虐殺である。
同年4月6日に発生した
ルワンダのジュベナール・ハビャリマナ大統領と隣国ブルンジのシプリアン・ンタリャミラ大統領の暗殺から、
ルワンダ愛国戦線 (RPF) が同国を制圧するまで、
フツ系の政府とそれに同調する
フツ過激派によって、
多数の
ツチと
フツ穏健派が殺害された。
正確な犠牲者数は明らかとなっていないが、80万人以上や約100万人と推計されており、
後者であれば
ルワンダ全国民の20%に相当する。
NGO「セボタ」によると、
約25万人の女性が強姦被害を受け、
その結果産まれた子供が3000人以上いる。
フツ
フツ (Hutu、フトゥ) は、
アフリカ中央部のブルンジとルワンダに居住する「3つの民族(フツ、
ツチ、トゥワ)」集団の中で最も大きな集団。
CIAによると、ルワンダ人の84%、
ブルンジ人の85%がフツである。
しかし統計により数%の違いがある。
フツと
ツチは同じ宗教、同じ言語を共有している。
文化的に見た場合、
2つの集団の違いは民族性に基づいているというよりも階級的に分けられた、
人工的なものである。
幾人かの学者が指摘するように、
ドイツ及びベルギーの植民地支配がフツと
ツチの民族性の概念を作り上げるのに重要な役目を果たしたと考えられている。
フツとその地域に居住する他の民族集団、
特に
ツチとの間には文化的な違いはほとんど存在しない。
ピグミー系のトゥワ(Twa)とは身体、
特に身長の差異が大きく、
遺伝的にも差異が認められる。
かつては
ツチは「ハム族あるいはナイル系で背が高く鼻が細い」とされ、
フツは「背が低く鼻が広い」とされていた。
ツチ
ツチ(Tutsi、トゥツィ)は、
アフリカ中央部のルワンダとブルンジを中心に居住する「3つの民族」集団の一つ。
16世紀頃の牧畜民に起源を有するとみられる集団で、
少数派であったがルワンダ、
ブルンジで王室を支えていたために、
第一次世界大戦後のドイツ、ベルギーの植民地支配の際に、
農耕民であった
フツや狩猟採集民の
トゥワに対する間接統治者として支配階級となった。
西暦1960年代頃から独立運動が盛んになると多数派のフツと軋轢を生じるようになり、
西暦1994年にはルワンダ紛争で50万人から100万人にも及ぶ
ツチの人々が虐殺されている。
近年では、
ツチもフツも同じ人種(バントゥー系)との見解が主流となりつつあるため「ツチ族」「フツ族」という表現は使われなくなってきており、
本記事も単に「ツチ」「フツ」と表記する。
トゥワ
トゥワ(Twa、バトゥワ:Batwa)は、
中部アフリカ大湖沼地域最古の(主に欧米人から)「ピグミー」と呼ばれる狩猟採集民。
ルワンダでは
フツ、
ツチと同じルワンダ語 (Kinyarwanda) を使用。
ルワンダ愛国戦線
ルワンダ愛国戦線
英語:Rwandan Patriotic Front 略称:RPF
フランス語:Front patriotique rwandais 略称:FPR
ルワンダ愛国戦線は、
西暦1987年、
ルワンダに逃れた
ツチ系難民によって設立されたルワンダの旧反政府勢力。
現在のルワンダ政府はルワンダ愛国戦線と他の政党(キリスト教民主党、イスラム民主党など)との連立政権である。
あ
公立技術学校の虐殺は、
ルワンダ虐殺下で生じた公立技術学校で行われた虐殺。
公立技術学校は、
ルワンダ共和国の首都キガリに存在したサレジオ会系のセカンダリースクールであった。
ルワンダ虐殺さなかの
西暦1994年4月上旬、
2000人を超える
ツチと
フツ穏健派の避難民が
フツ過激派の襲撃から逃れるためにこの学校内へ避難しており、
国連平和維持軍のベルギー兵が学校の警護を行っていた。
しかし同月11日、
国連軍が任務を放棄し撤収したため、
その後すぐに児童数百人を含む避難民約2000人の大半が
フツ過激派民兵のインテラハムウェによって虐殺された。
国連および国際連合ルワンダ支援団の動向
際連合安全保障理事会の国の多くがアフリカの紛争に介入する事に消極的だったことが知られている。
そんな中ベルギーのみが国際連合
ルワンダ支援団に対し確固とした任務を与えることを要求していた。
しかし、
この事件の数日前に当たる
西暦1994年4月7日、
アガート・ウィリンジイマナ首相の警護を行っていた平和維持軍のベルギー兵10人が武装解除の末に殺害される事件が発生したことで、
同国は
ルワンダからの撤退を主張するようになった。
この国連安保理の意向を受け、
国際連合
ルワンダ支援団は国連本部から「国際連合ルワンダ支援団は
ルワンダにいる外国人の避難のみに焦点を当てた活動行うよう」指示を受けた。
この指示により、
2000人の
ツチが避難していたキガリの公立技術学校の警護を行っていたベルギーの平和維持部隊は、
フツ・パワーのプロパガンダを繰り返し叫ぶ過激派
フツに学校を取り囲まれている状況であったにもかかわらず、
同施設の警護任務を放棄して撤収してしまい、
その後校内へ突入した過激派
フツにより避難民が一斉に虐殺される結果となった。
十分な兵員も無く、
難民救助を行うための明確なマンデート(任務)も与えられなかったとはいえ、
国連平和維持軍が避難民を見捨てたことで2000人もの避難民が虐殺されたことで国連の信頼は大きく損なわれる結果となった。
なお、その後の4月15日には、安全保障理事会は国際連合
ルワンダ支援団を2608人から10分の1近い280人にまで減らすという国連安保理決議第912号を決定し、
ルワンダ虐殺期間の国連平和維持軍の活動を著しく抑制している。
また、この事件に関する調査はベルギー政府が要求した後にすら実施されなかったことが知られている。
また
西暦1997年9月、
国際連合
ルワンダ支援団司令官であったロメオ・ダレールは、
ベルギーの平和維持軍兵士10人が殺害された件についてベルギー議会での証言を要求されたが、
コフィー・アナン国連事務総長により同議会での証言は禁じられた。
そのため、ダレールによるベルギー議会での証言は行われなかった。
撤退命令に関して
ベルギーの平和維持部隊の撤退の理由は、
文献により食い違いが見られ、
現場の小隊指揮官が避難民の存在を伏せた報告を上官に行い撤退となったとするもの、
ベルギー軍上層部の判断とするもの、
現場の小隊指揮官の判断で撤退したとするもの、
とする説が知られている。
後に
ベルギーの平和維持部隊における最高指揮官であったリュック・マルシャル (Luc Marchal) 大佐がテレビのインタビューに対し、
自身が判断を行って撤退を命じたと答え、
その理由を国際連合
ルワンダ支援団本部からの命令であり、
国外との唯一の連絡路であったキガリ空港の安全確保を行うためであったとし、
また難民に関しては安全に家に帰れると思ったと述べている。
なお、この判断の責任者に関しては、
国連による報告書でも
ベルギーの平和維持部隊による独自判断と推定されているのみで明確に記されていない。
ヴィエコスラヴ・チュリッチ
ボスニア・ヘルツェゴビナ出身のクロアチア人聖職者で人道主義者のヴィエコスラヴ・チュリッチは、
同学校からの退去を拒否した唯一の「白人」であった。
チュリッチは虐殺が続く中で
ルワンダに留まり続け、
脅迫にあいながらも公然と暴力を非難し続けた。
チュリッチは紛争後の
西暦1998年1月にキヴマ (Kivuma) において何者かによって殺害され、
のちに殉教者の1人として数えられるようになった。
ルワンダにおいて、
チュリッチは「クロアチアのオスカー・シンドラー」として知られており、
キヴマには彼の名にちなんで命名された学校が存在している。