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インダス文明

作成日:2020/5/23

インダス文明(Indus Valley civilization) 紀元前2600年 - 紀元前1800年

インダス文明は、 インド・パキスタン・アフガニスタンのインダス川および並行して流れていたとされるガッガル・ハークラー川周辺に栄えた文明であり、 これら各国の先史文明でもある。
川の名前にちなんでインダス文明、 あるいは、最初に発見された遺跡にちなんでハラッパー文明とも呼ばれる。

狭義のインダス文明は、 紀元前2600年から紀元前1800年の間を指す。
インダス文明の遺跡は、 東西1500km、 南北1800kmに分布し、 遺跡の数は約2600におよぶ。
そのうち発掘調査が行われた遺跡は、2010年時点でインド96、パキスタン47、アフガニスタン4の合計147となっている。

インダス文明以前(メヘルガル遺跡)

メヘルガル遺跡は、 考古学的にも重要な新石器時代の遺跡(紀元前7000年-紀元前2500年)で、 現在のパキスタン、バローチスターン州に位置する。
南アジアで最初期の農耕(小麦と大麦)と牧畜(牛、羊、山羊)の痕跡がある遺跡である。

ボーラーン峠付近、 インダス川の渓谷の西、 パキスタンの現代の都市クエッタの南東にある。
西暦1974年、 フランス人考古学者 Jean-Francois Jarrige の率いる発掘チームが発見した。
発掘調査は西暦1974年から西暦1986年まで続けられた。
495エーカー (2.00 km2) の領域の北東の角にメヘルガルで最も古い居住地跡があり、 紀元前7000年から紀元前5500年ごろの小さな農村と見られる。

初期のメヘルガルの建物は泥レンガ製で、 穀物を蓄える倉があり、 付近で採掘されたで道具を作り、 大きな籠は瀝青で補強している。
六条オオムギ、1粒コムギ、2粒コムギ、ナツメ、ナツメヤシを栽培し、 羊、山羊、牛を育てていた。
紀元前5500年から紀元前2600年ごろには、 石器製作、 皮革なめし、 金属加工などの手工業が盛んになっている。
この場所には紀元前2600年ごろまで継続的に人間が住んでいた。

西暦2006年4月、 科学専門誌ネイチャーは in vivo(生体内で)の人間の歯をドリルで治療した世界最古の証拠がメヘルガルで見つかったと発表した。

メヘルガルI期
考古学者はメヘルガルの年代をいくつかに分けている。
メヘルガルI期は紀元前7000年から紀元前5500年までを指し、 土器を伴わない新石器時代である。
この地域での初期の農業は半遊牧民が行ったもので、 コムギやオオムギを栽培する傍らでヒツジやヤギやウシを飼っていた。
泥製の住居群は4つの区画に分けられている。
多数の埋葬跡も見つかっており、 副葬品として籠、石器、骨器、ビーズ、腕輪、ペンダントなどがあり、 時折動物の生贄も見つかっている。
一般に男性の方が副葬品が多い。

装飾品としては、 貝殻(海のもの)、石灰岩、トルコ石、ラピスラズリ、砂岩、磨いたなどが使われており、 女性や動物の原始的な像も見つかっている。
海の貝殻や付近では産出しないラピスラズリ(アフガニスタン北東部で産する)が見つかっていることから、 それらの地域と交流があったことがわかる。
副葬品として石斧が1つ見つかっており、 もっと地表に近いところからも石斧がいくつか見つかっている。
これらの石斧は南アジアでは最古のものである。

西暦2001年、 メヘルガルで見つかった2人の男性の遺体を研究していた考古学者らは、 インダス文明の人々がハラッパー文化の初期から原始的な歯学の知識を持っていたことを発見した。
その後の西暦2006年4月、 ネイチャー誌は in vivo(生体内)で人間の歯をドリルで治療した世界最古の証拠がメヘルガルで見つかったと発表した。
論文の筆者らによると、 その発見により初期農耕文化の中で原始歯学の伝統が育まれたことを示すという。
ここで我々は、 7500年から9000年前のパキスタンの新石器時代の墓地から発見された9体の成人の遺骨において、 11個の臼歯に穴を開けた痕跡があることを説明する。
これらの発見は、 初期農耕文化の中である種の原始歯学の長い伝統が育まれた証拠である。
メヘルガルII期とIII期
メヘルガルII期は紀元前5500年から紀元前4800年まで、 メヘルガルIII期は紀元前4800年から紀元前3500年までを指す。
II期は土器を伴う新石器時代、 III期は銅器時代後期である。

様々な生産活動の痕跡が見つかっており、 より高度な技術が使われるようになっていった。
艶のあるファイアンス焼きのビーズが作られるようになり、 テラコッタ製の像は精密化していった。
女性の像は色を塗られ、 様々な髪形で装飾品も身につけた姿になっていった。

II期の2つの屈葬墓は、 遺体を赭土で覆った形で見つかった。
副葬品の量は徐々に少なくなっていき、 特に装身具が少なくなり、 女性の墓の方が副葬品が多くなっていった。
最古の鈕印章はテラコッタと骨から作られており、 幾何学的なデザインとなっている。
テクノロジーとしては、 石とでできた条播器、窯、銅を溶かす坩堝などがある。

II期にはさらに遠方と交易していた証拠がある。
特に重要なのはラピスラズリ製のビーズの発見で、 現在のアフガニスタン北東部で産出したものである。
メヘルガルVII期
紀元前2600年から紀元前2000年の間のいずれかの時点で、 この集落はほとんど放棄されており、 それはインダス文明が発展の途中段階にあったころである。

遺跡

ハラッパー
ハラッパー (Harappa) は、インダス文明の都市遺跡。
パキスタン北東のパンジャブ地方ラホールの南西約200kmのラーヴィー川左岸に位置し、 モヘンジョダロと並び称される標式遺跡として知られる。
ハラッパとも。

この遺跡は、 西暦1826年にチャールズ・マッソン(英語版)が発見し、 西暦1853年にアレキサンダー・カニンガムによって発掘され、 特殊な印章が出土する遺跡として西暦1875年に学会に報告されていたが、 当時はまだ特定の文明の遺跡としては知られていなかった。

西暦1921年に、R.B.D.R.サハニの発掘調査によって、 未知の文明の都市遺跡であることが明らかにされた。
その後のサハニによる数次にわたる調査と、 ほぼ同時期に行われたモヘンジョダロの調査によって、 インダス文明の存在と性質が位置づけられ、 インダス文明の別名として知られる、 「ハラッパー文化」の命名の起源になった。

西暦1926年~西暦1934年までM.S.ヴァッツらによる発掘調査、 西暦1946年~西暦1947年には、 M.ウィーラーによる発掘調査が行われた。
西暦1986年以降は、 G.F.ディールズ、 R.H.メドー、J.M.ケノイヤーらによるアメリカ隊が組織的な発掘調査を行っている。

遺跡のレンガ石を周辺住民が利用したり、 東インド会社の鉄道敷設などで遺跡全体の保存状態は悪い。

紀元前3300年~同1700年前後にわたって、 居住が確認され、 古い順から、 ラーヴィー期、 コト・ディジ期、 インダス文明期、 変移期、 H墓地期の5期にわたる文化層が確認されている。

ラーヴィー期の集落は、 遺跡の北側の下層から発見され、 手づくねの多彩文土器を伴うのが特徴である。
すでに紅玉髄や凍石製ビーズの生産を行っていて、 後のインダス文字の起源と考えられる文字が土器の表面に線刻されている。
コト・ディジ期になると、 遺跡の南東部などに集落は拡大し、 周壁が築かれるようになる。

インダス文明期になると、 「城塞」と城門によって隔てられた二つの「市街地」の区分けが明確になり、 さらに「城塞」の北側には、床面積800m2強の2列にならんだ「穀物倉」と、 径3.5mの「円形作業台」18基などが造られる。
「円形作業台」の中央には、 木製の臼をおいて作業をしたと推定され、 脱穀場という説もある。
「穀物倉」と呼ばれる建物は湿気のある川に近く、 穀物の形跡も発見されていないため、 現在では他の用途に使われたと考えられている。
現地の遺跡にある案内板には、 初期の学者が穀物倉と推定したが証拠が発見されていないと書かれている。

「城塞」は、 南北約400m、 東西約200の南北方向に長い平行四辺形で、 「城壁」は、 焼成煉瓦で被われた日干し煉瓦で築かれ、 その基部の厚さは12m、 北西と南東の隅に「見張り台」を置き、 北側と西側に「城門」を設けている。
「城塞」の南側150~200mの地点には、 土坑墓からなるR37墓地が営まれた。
焼成煉瓦を多用し、 インダス式土器一式のほか印章や、 紅玉髄を始めとする各種貴石製ビーズ類が出土している。
R37墓地の北側には、 H墓地があり、 H墓地文化、 後ハラッパー文化の標式遺跡として知られる。
モヘンジョダロ
モエンジョ=ダーロは、 インダス文明最大級の都市遺跡。
モヘンジョダロ、 モエンジョダロ、 モエンジョダーロ、 モヘンジョ・ダーロ、モヘンジョ・ダローなどの表記がある。
紀元前2500年から紀元前1800年にかけ繁栄し、 最大で4万人近くが居住していたと推測される。
しかしその後は短期間で衰退した。
原因としてさまざまな説があげられたが、 近年の研究では大規模な洪水で衰退したと考えられている。

モヘンジョ=ダーロは現地の言葉で「死の丘」を意味し、 歴史学者が足を踏み入れるまでは、 非常に古い時代の死者が眠る墳丘として、 地元民は恐れて近よらない禁忌の領域であった。
この都市の本来の呼び名、 すなわち往時の名称については、 インダス文字が解読されていないため、 ヒントすら得られていない。

遺跡は東西二つの遺丘からなる。
東方に市街地が、西方に城塞が広がっている。
規模としてはほぼ1.6キロメートル四方と推定されるが、 今後の調査によってさらに大きなものに訂正される可能性がある。
遺跡は整然とした都市計画を示し、 道路は直角に交差し、 碁盤の目のように細分されていた。
水道、 汚水の排水システム、 個人用の浴室、 公衆浴場などがすでに存在しており、 水量の季節的変動を考慮して貯水池を十分に整備するまでに水利工学は進歩していた。
また、建築には一定のサイズの煉瓦が使用されていた。
以上のことは、 この地に確固たる社会構造、 強力な階級制度と中央集権制度が存在していたことを意味する。
東丘の市街地
市街地は、東西2本、南北3本の幅10メートルの大路によって12区間に分かたれていたらしい。
一つ一つの区間が、大通りに通ずる1.5~3メートルほどの小路でさらに分けられていた。
市街地全体を囲むような市壁があったかどうかは不明である。
ここでは、一般の家屋から隊商宿といわれる建物、労働者用の粗末な小屋など、さまざまな建物が見つかっている。
家屋は大小さまざまだが、中庭を中心にしそれを囲んでいくつかの部屋を持つように作られ、出入口を大路に面した側には持たず、小路に面して戸口を開くスタイルが一般的だった。
各戸は下水道を備え、汚水は小路の排水溝へ通じ、さらに大路の排水溝へ集められる仕組みになっていた。
西丘の城塞
モエンジョ=ダーロの「城塞」(城塞並みに重厚な建造物であることからそのように呼ばれているが、 城塞とは異なり、 戦争用の遺物は見られない)は、 ハラッパーの場合と同様、 堅固な城壁をめぐらし、 その内側に煉瓦を10メートルほど積み上げた人口の基壇を設け、 東丘を見下ろすように一段高くつくられている。
基壇の上には、問学所と呼ばれる建物や、 会議場あるいは列柱広間と呼ばれる30メートル四方の建物など、 おそらくは市制を司ったであろう公共的な建造物が建ち並んでいる。
ほぼ中央には長辺12メートル、 短辺7メートル、 深さ2.4メートルの、 内面を瀝青で耐水加工した焼成煉瓦造りの大浴場が存在し、 これに接するように、 長辺45メートル、 短辺27.5メートルの範囲内に27ほどの穀物倉の基壇群が存在する。
当初は、 この構造は煉瓦造りの基壇の上に木造の建物が載っていたと推測された。
しかし穀物倉と呼ばれる建物は湿気のある大浴場に近く、 木製の建物の痕跡もなく、 穀物を運び入れるスペースがなく、 穀物の形跡も発見されていないため、 現在では他の用途に使われたと考えられている。
大浴場はある種の祭儀の場であろう、 と考えられていたが、 近年ではさらに、 この大浴場と穀物倉との位置関係が改めて注目されている。
この二つが結びつくことで、 再生・増殖の象徴として機能していたのではないか、 という指摘がなされている。
城塞は、 政治センターとしての役割ばかりではなく、 宗教センターの役割も果たしていたようである。
農業
このインダス河流域の都市社会では、 農業が重要な役割を果たしていた。
人々は小麦を栽培し家畜牛を飼育して生計を立てていた。
広い道路や傾斜路が整備されていたので、 収穫物を載せた荷車が容易に往来できた。 輸送手段とともに食物の保存技術も発達した。

文明遺跡としての発見は、 西暦1922年、 インド考古調査局員であった歴史学者R・D・ボンドパッダーエの発掘調査によってなされた。
西暦1980年、 パキスタンの申請で「英語名:Archaeological Ruins at Moenjodaro (和訳名:モエンジョダーロの考古遺跡)」の名でユネスコ世界遺産の文化遺産に登録された。
遺跡が属する地域一帯では地下水位の上昇による塩害が進行し続けているが、モヘンジョ=ダロはこれを覆い隠していた堆積物が大規模に取り払われた西暦1965年以降、遺構の構成物である煉瓦が塩分を吸い上げて風化してゆく塩分砕屑現象が止まらない。
そうして土に還ってしまった遺構も少なくはなく、 保存の問題が何十年も叫ばれ続けている。
ロータル
ロータル(Lothal) は、 グジャラート州のアフマダーバード南方80km、 サウラシュートラ地域(カーティヤーワール半島)の南側の付け根に位置するインダス文明の都市遺跡。
西暦1954~63年にR・S・ラーオ(Shikaripura Ranganatha Rao)によって発掘調査が行われた。
インダス文明最盛期から後期に至る遺跡で、 C14法で紀元前2600年~1800年頃に機能していたと考えられている。
面積は、7.1haほどである。 都市全体がほぼ正方形の厚い周壁に囲まれ、 基壇上に築かれた「穀物蔵」や「沐浴」施設が設けられた「城塞」と呼ばれている施設が南東部分を占める。
「城塞」よりも低い「市街地」には計画的に配された街路に沿って家屋が連なり、 ビーズの工房跡や火を用いた「祭祀」跡が確認された。
「市街地」の西方には墓地があり、 男女を合葬した例が見られるのが注目される。
また「市街地」の東側の壁に隣接して「ドック」と呼ばれる、 219m×37m、深さ4.5mのレンガ造りの巨大なプール様の施設が確認されている。
ドックは、 運河で近くを流れるサーバルマティー川につなげられていることから、 メソポタミアとの交易のための船の引き込み用施設、 港湾施設ではないかと考えられたが、 構造上無理があるという指摘もあり、 貯水槽と考える研究者もいる。
ドーラビーラ
ドーラビーラ(Dholavira)は、 インド、グジャラート州に所在するインダス文明の大都市遺跡のひとつであり、 ハラッパーやモヘンジョ・ダロと同様の注目度がある。
地元ではKotada Timba Prachin Mahanagar Dholavira(コターダ・ティムバ・プラーシン・マハーナガル・ドーラビーラ)と呼ばれている。
北緯23度52分東経70度13分のカッチ湿原のなかにあるカディール島(Khadir)に立地し、 雨季になると南北の川に水が流れ、 周囲を水に囲まれるようになる。
ドーラビーラの居住がはじまったのは、 紀元前2900年頃からで、 紀元前2100年ごろから徐々に衰退に向かっていく。
そして短期間の放棄と再居住がおこなわれ、 最終的に放棄されるのは、紀元前1450年ごろである。
ドーラビーラは西暦1967年に発見された。
インド亜大陸で5番目に大きなインダス文明遺跡と目されている。
西暦1989年以降、 インド考古局の R・S・ビシュト(R. S. Bisht)の指揮によって発掘調査がおこなわれている。
発掘調査によって、 ドーラビーラの複雑で精緻な都市計画と建造物を日の目にさらすことになった。
ドーラビーラは、 同じく港湾都市であったロータルよりも古かったと考えられ、 その居住の範囲は100ヘクタールを超える壮大なものである。
ハラッパーやモヘンジョ・ダロに比類した「城塞」と「市街地」で構成された構造をもち、 外壁で囲まれた範囲は東西方向770~780m、南北620~630mに達する。
外壁の外側にも街を支える人々の居住地が広がっている。

「城塞」は、 都市の南西部に位置し、 一辺140m、 高さ15m、 幅10mの壁に囲まれて聳え立つような威圧感を示す。
東西南北にそれぞれ「城門」をもち、 西側には外郭ともいうべき施設があり、 北側には儀礼を行ったと考えられる350m×80mの広場のような長方形の施設がある。
城塞の南西隅には、直径4mの巨大な井戸があって、 城塞の中央を東西方向に横切る「通り」の南に面した2ヶ所の半地下式の「沐浴場」に水路でつながっている。
「城塞」の城壁は、内部に向かって傾斜していて、少なくとも北門の近くと東門の近くには雨受けが設けられ、 東門近くの雨受けには、 滑り台のような石板が備えられて、 雨水を集水溝に流し、 集水溝に集められた水は「城塞」の地下にある水路を通って城塞の西側にある外郭の特別な貯水槽に集められる仕組みになっていた。
「城塞」は神聖な空間と考えられていることから、 そこに降る雨は特別な意味をもたされていたのかもしれない。
また外郭には紅玉髄などをビーズに加工する「官営」とも推定される工房が設けられていた。

「城塞」の東門を出ると、 階段が設けられた幅25m以上、 岩盤までくりぬいて深さ7mに達する貯水槽がある。
また「城塞」の南方向にも幅35m以上、 横26m、深さ7mの貯水槽が発見されており、 両者はべつものなのかつながるのかは今後の調査を待ちたい。
ドーラビーラの周辺は降水量が少なく雨季に集中的に降る雨水で増水した南北の川をたくみにせき止めて、 標高の高い貯水槽から低い貯水槽へ水がたまるように外壁のすぐ内側、西側、北側、南側に幅数十メートルの貯水槽が設けられていた。

ドーラビーラの建造物は、 この「街」の周辺で採掘される石灰岩を、 モヘンジョダロの煉瓦と似たような大きさに切り出した直方体の石を積み上げて立てられている。
石を積み上げている建物の構造や、 この地域で採取される石灰岩が水をよく浸透させ、 土へしみこませることから街自体に乾燥と暑さをしのぐ構造をもたせていたのかもしれない。
一方で、 発掘調査をおこなっているビシュト博士は、 石灰岩に見られるピンク色の文様から街全体がピンク色に見えたかもしれないと考えている。

ドーラビーラで特筆すべき重要な発見は、 「城塞」の北の城門を下った左脇の部屋の地中から10文字分と思われる「インダス文字」が発見されたことである。
文字は、 縦30cmを測り、 材質は石灰の一種を用いたと思われ、 土の中におかれただけのようなデリケートな状態で発見された。
そのため、 インド考古局の発掘調査団ではビニールシートと土を交互に重ねて文字自体に圧力がかからないように丁寧に埋めて保存している。
この文字の性格については、 地面に木板の痕跡がのこっていることから北門に掲げられた「看板」の文字ではないかと考えられている。
つまり看板本体は落下した後腐ってなくなったが文字だけは残ったのである。
10文字でよく目立つのは、 楕円を六等分したような車輪のような4文字である。
インダス文字研究の権威として知られるヘルシンキ大学のアスコ・パルボラ博士は、 この文字は太陽を意味していて権力を象徴している可能性が高いとする。
この「看板」に書かれた文字は、 王族一家の名称か神聖なる神の名前か都市自体の名前ではないかと考えられている。

遺物は、 インダス式印章やハラッパー式の土器はもちろん、 動物骨、粗製の赤色土器や二彩土器などの在地系の土器が出土する一方、 紅玉髄製などのビーズ、 金製品や銀製品、 テラコッタやメソポタミアとのつながりをうかがわせる土器などをはじめとする膨大な量の出土をみた。
これらの成果から考古学者たちは、 ドーラビーラは、 グジャラート地方で採取される良質の紅玉髄を加工、輸出するとともに、 その流通を統御する役割をもったインダス文明と西アジアにおいて重要な交易センターのひとつであると考えている。

滅亡

砂漠化説
インダス文明が存在した地域は現在砂漠となっている。
インダス文明が消えたのは、この砂漠化によるのではないかという説がある。
砂漠化の原因としては、紀元前2000年前後に起こった気候変動があげられている。
大西洋に広がる低気圧帯は、 一時北アフリカと同じ緯度まで南下し、 さらにアラビア・ペルシャ・インドにまで及んで、 雨をもたらし、 緑豊かな土地になっていた。
しかしやがてこの低気圧帯は北上し、 インドに雨をもたらしていた南西の季節風も東へ移動して、 インダス文明の栄えていた土地を現在のような乾燥地帯にしてしまった、 という説である。
衰退後の植物相や動物相には大きな変化が見受けられないことから、 気候の変動を重視する説は見直されている。

インダス文明が森林を乱伐したために砂漠化が進行したという説もある。
しかし、 乾燥化説については、 ラクダの骨や乾地性のカタツムリが出土していること、 綿の生産が行われていたことなどは、 川さえあれば気温の高い乾燥ないし半乾燥地帯で文明が興りえたことを示し、 「排水溝」も25ミリの雨がふっただけでももたない構造であり、 煉瓦を焼くにも現在遺跡の周辺で茂っている成長の早いタマリスクなどの潅木でも充分間に合ったのではないかという反論があり、 決定的な説となってはいない。
河流変化説
紀元前2000年頃に地殻変動が起こり、 インダス川の流路が移動したために河川交通に決定的なダメージを与えたのではないかという説。
インダス遺跡はインダス川旧河道のガッカル=ハークラー涸河床沿いに分布している。
気候変動説
気候変動によってインダス文明が衰退したとする説である。
4200年前には、 地中海から西アジアにかけて冬モンスーンが弱く乾燥化が起き、 メソポタミア文明ではアッカド王国崩壊の一因になったという説がある。
こうしたモンスーン変動がインダス文明の地域にも影響を与えたとされる。
2012年にはアバディーン大学が中心の研究グループが発表し、 2013年には京都大学が中心のグループがネパールのララ湖を調査して3900年前から3700年前にかけて夏モンスーンが激化していたことを明らかにした。
また、 遺跡の数はインダス文明の盛期ハラッパー文化期よりも後期ハラッパー文化期のほうが多く、 規模が縮小している。
これらの点から、 夏モンスーンの激化がインダス川流域に洪水を起こし、 インダス川流域に位置するモヘンジョダロなどの大都市から周辺への移住が起きたとする。

また、 インダス文明期には、 海面が現在よりも2mほど高かったという調査がある。
これにより遺跡の分布を調べると、 インダス川流域以外のグジャラートやマクラーン海岸の遺跡の多くが海岸線に近くなる。
そこで、 海岸線に近いインダス文明の人々は大河によって生活するのではなく、 海上交易などを行っていた海洋民であったが、 海面低下により生活が変化したとする説も提唱されている。
後述のように、 インダス文明はメソポタミアやペルシャ湾地域と交易を行っていたことが確認されている。
アーリア人侵入説
インダス文明滅亡の原因は古くから論争があり、 第二次大戦後にはM.ウィーラーによるアーリア人侵略説をはじめとする外部からの侵略説が唱えられた。
発掘調査によって埋葬もされずに折り重なるおびただしい人骨が確認されたために外部からの侵入による虐殺説が唱えられた。
また、 『リグ・ヴェーダ』などの戦争記事がその根拠のひとつとされた。
しかし、 当時の発掘調査は、 層位関係を考えずに地表からの深さのみを記録して行われた調査であったために同時期の人骨ではなかった。
その他、 虐殺跡とされた人骨には外傷の形跡がなく、 アーリア人の侵入とインダス文明衰退の年代には相違があり、 『リグ・ヴェーダ』の記述の史実性にも問題が指摘され、 現在では否定されている。

日本においても第2次世界大戦前にアーリアン学説を補強する学説が発表された。
この説では、 インダス文明は南インドを中心に暮らしているドラヴィダ人の祖先によりつくられたと推定されている。
また、 ドラヴィダ人は、 紀元前13世紀に起きたアーリア人の侵入によって、 被支配民族となり、 先住民族であるドラヴィダ族を滅ぼしてヴァルナという身分制度を作り上げたという説がある。