金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)

作成日:2019/10/14

稲荷山古墳第1主体(礫槨)の出土品。
剣身の中央に切っ先から柄(つか)に向かって、表面57文字、裏面58文字の計115文字の銘文が刻まれている。
古墳時代の刀剣に刻まれた銘文としては最長である。

埼玉古墳群近くの埼玉県立さきたま史跡の博物館内で、 窒素ガスを封入したケースに保管・展示されている。

概要

西暦1968年に行われた稲荷山古墳の後円部分の発掘調査の際、 画文帯環状乳神獣鏡や多量の埴輪とともに鉄剣が出土した。
その歴史的・学術的価値から、 同時に出土した他の副葬品と共に西暦1981年に重要文化財に指定され、 2年後の西暦1983年には「武蔵埼玉稲荷山古墳出土品」として国宝に指定された。

名前の「金錯」は「金象嵌(きんぞうがん)」の意味である。

この鉄剣には表面57文字、裏面58文字の計115文字の漢字銘文が彫られている。

西暦1978年、腐食の進む鉄剣の保護処理のためX線による検査が行われた。
その際、 鉄剣の両面に115文字の漢字が金象嵌で表されていることが判明する(新聞紙上でスクープとなり社会に広く知れ渡ったのは西暦1978年9月)。

当初、 古墳の発掘は愛宕山古墳で行われる予定であったが、 崩壊の危険があるため稲荷山古墳に変更された。

銘文の内容

表面の銘文
【原文】
辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比垝其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比
【読み下し文】
辛亥の年七月中記す。
乎獲居(おわけ)の臣。
上祖(遠い祖先)、名は意富比垝(おほひこ)。
其の児、多加利(たかり)の足尼(すくね)。
其の児、名は弖已加利獲居(てよかりわけ)。
其の児、名は多加披次獲居(たかひしわけ/たかはしわけ)。
其の児、名は多沙鬼獲居(たさきわけ)。
其の児、名は半弖比(はひて)。
【現代語訳】
辛亥の年七月中に書きます。(「辛亥の年(しんがいのとし)」は西暦471年と考えらる)
(私の名前は)ヲワケの臣。
遠い先祖の名前はオホヒコ。
その子(の名前)はタカリのスクネ。
その子の名前はテヨカリワケ。
その子の名前はタカヒシワケ。
その子の名前はタサキワケ。
その子の名前はハテヒ、
裏面の銘文
【原文】
其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也
【読み下し文】
其の児、名は加差披余(かさひよ/かさはら)。
其の児、名は乎獲居(をわけ)の臣。
世々(先祖代々)杖刀人(たちわき=帯刀/はせつかべ=丈部)の首とり、奉事し来たり今に至る。
獲加多支鹵大王(わかたけるだいおう)の寺、斯鬼の宮に在る時、吾天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根源を記す也。
【現代語訳】
その子の名前はカサヒヨ。
その子の名前はオワケの臣です。
先祖代々杖刀人首(大王の親衛隊長)として今に至るまでお仕えしてぎました。
ワカタケル大王の朝廷(住まい)が、シキの宮におかれている時に、私は大王が天下を治めるのを助けました。何回もたたいて鍛えあげたよく切れる刀を作らせて、私と一族のこれまでの大王にお仕えした由緒を書き残しておくものです。
冒頭の「辛亥年(しんがいのとし)」は西暦471年と考えられ、 作刀者の「ヲワケの臣(しん)」の8代の系譜。
「杖刀人首(じょうとうじんのかしら)」の職について「ワカタケルの大王(おおきみ)」(雄略天皇か?)の政治の補佐役を務めたことが書かれている。

特色

115文字という字数は日本のみならず他の東アジアの例と比較しても多い。
この銘文が日本古代史の確実な基準点となり、 その他の歴史事実の実年代を定める上で大きく役立つことになった。

また西暦1873年(明治6年)、 熊本県玉名郡和水町(当時は白川県)にある江田船山古墳(えたふなやまこふん)からは、 銀象嵌の銘文を有する鉄刀が出土した。
この鉄刀の銘文にも当時の大王の名が含まれていたが、 保存状態が悪く、 肝心の大王名の部分も字画が相当欠落していた。
この銘文は、 かつては「治天下犭复□□□歯大王」と読み、 「多遅比弥都歯大王」(日本書紀)または「水歯大王(反正天皇)」(古事記)にあてる説が有力であった。
しかし稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣の銘文が発見されたことにより、 「治天下獲□□□鹵大王」と読み、 「獲加多支鹵大王(ワカタケル大王、雄略天皇)」にあてる説が有力となっている。
このことから、 5世紀後半にはすでに大王の権力が九州から東国まで及んでいたと解釈される。

金象嵌の材質

西暦2000年と翌西暦2001年にかけて行われた、 金象嵌の材質調査(蛍光X線分析)によって、 象嵌に使われている金には、 銀の含有量が少ないもの(10%ほど)と多いもの(30%ほど)の2種類あることが判明した。
その2種類の金は、 表は35字目、裏は47字目から下の柄側には銀の含有量が少ないもの、 切先側には銀の含有量が多いものが使われている。
2種類の純度の違う(結果として輝きの異なる)金を鉄剣銘文の上下で使い分けた理由は不明である。

考証

年代
辛亥年は西暦471年が定説であるが一部に西暦531年説もある。
通説通り西暦471年説をとるとヲワケが仕えた獲加多支鹵大王は、 日本書紀の大泊瀬幼武(オオハツセワカタケ)天皇、 すなわち21代雄略天皇となる。
銘文に獲加多支鹵大王が居住した宮を斯鬼宮として刻んでいる、 雄略天皇が居住した泊瀬朝倉宮とは異なるものの、 当時の磯城郡には含まれていることにはなる。
この通説に則れば、 21代雄略天皇の考古学的な実在の実証となりうる。
田中卓は、 斯鬼宮と刻んだ理由を雄略天皇以前の数代の天皇は磯城郡以外に宮を置いており、 当時の人にとって磯城宮といえば雄略天皇の宮のことであったためであるとし、 『記紀』で雄略天皇の宮を泊瀬朝倉宮と呼ぶのは後世に他の天皇が磯城郡に置いた宮と区別するためそう呼称したものであるとした。
オホヒコ
銘文にある「オホヒコ」について、 『日本書紀』崇神天皇紀に見える四道将軍の1人「大彦命」とみなす考えがある。

復元

西暦2007年(平成19年)、 メトロポリタン美術館特別顧問の小川盛弘、 刀匠の宮入法廣らが鉄剣の復元を企画。
刀身彫刻師、 研師など各分野の職人が賛同し、 同年2月に制作を開始した。
しかし、 鉄の素材や鍛えの回数、象嵌、砥石などで問題が噴出し、 試作や実地調査を繰り返して当時に近い物を割り出すなどの末に、 ようやく西暦2013年(平成25年)6月に完成、 11月13日に埼玉県に寄贈した。
11月14日(埼玉県民の日)から、埼玉県立さきたま史跡の博物館で特別公開された。


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