小窓
文徳天皇 / 文德天皇(もんとくてんのう)

作成日:2020/6/9

文徳天皇は、日本の第55代天皇。
諱は道康(みちやす)。
田邑帝とも。 仁明天皇の第一皇子。
母は左大臣・藤原冬嗣の娘、皇太后・順子。

《紀》:日本書紀による記述  《記》:古事記による記述
日本の第55代天皇 文徳天皇 / 文德天皇(もんとくてんのう)

[在位] 嘉祥3年3月19日(西暦850年5月4日)- 天安2年8月27日(西暦858年10月7日)《紀》
[生没] 天長4年8月(西暦827年)- 天安2年8月27日(西暦858年10月7日)32歳没《紀》
[時代] 平安時代
[先代] 仁明天皇   [次代] 清和天皇
[陵所] 田邑陵(たむらのみささぎ)
[和風諡号] 和風諡号
[] 道康(みちやす)。
[別称] 御陵の在所によって別名を「田邑帝」(田村帝)ともいう。
[父親] 仁明天皇   [母親] 藤原順子(ふじわら の のぶこ)
[皇居] 平安宮
[女御] 藤原明子、藤原多賀幾子
[更衣] 紀静子

年譜

天皇の系譜(第51代から第59代)
天長4年(西暦827年)
8月 仁明天皇の第一皇子(道康親王)として誕生
母は左大臣・藤原冬嗣の長女・藤原順子(のぶこ)である。
藤原冬嗣は文徳天皇の外祖父となった。
冬嗣は藤原北家、 右大臣・藤原内麻呂(房前の孫)の次男である。
房前邸が武智麻呂邸の北にあったため、 房前の末裔は北家といわれるようになり、 房前が北家の祖となる。
承和9年(西暦842年)
2月26日(4月10日) 元服
8月4日 道康親王が16歳で立太子される。
承和9年(842年)7月、「承和の変」が起きて皇太子・恒貞親王が廃され、 8月4日に道康親王が16歳で立太子される。
「承和の変」の解決にあたった藤原良房(冬嗣の次男)の娘・明子(あきらけいこ)が道康親王(文徳天皇)の女御として入内する。
嘉祥3年(西暦850年)
3月19日 仁明天皇の譲位により践祚。(3月21日の資料もあり)
3月25日 第四王子・惟仁親王(後の清和天皇)誕生。
文徳天皇が東宮だった頃に女御として入内した良房の娘・明子が、 譲位を受けられた直後の3月25日に第四王子・惟仁親王(清和天皇)を産む。
4月17日(6月1日) 「即位の宣命」を発せられ、道康親王が文徳天皇として24歳で即位される。
11月25日 惟仁親王(後の清和天皇)立太子。
11月25日、 「皇太子を立て給ふの策命(和文体の宣命)」を発せられ、 生後8ヶ月の惟仁親王(後の清和天皇)を皇太子に立てられる。
第一皇子の惟喬親王(母は紀名虎の娘・静子)、 第二皇子で同母弟の惟条親王(これえだしんのう)、 第三皇子・惟彦親王(母は滋野奥子)らを差し置いての、 しかも生後8ヶ月という幼児で立太子された。
仁寿元年(西暦851年)
11月23日(12月19日) 大嘗祭
仁寿元年(西暦852年)
11月23日(12月19日) 大嘗祭
斉衡4年(西暦857年)
2月19日() 藤原良房が太政大臣宣下を受け、人臣初の太政大臣となる。
4月21日() 天安に改元される。
天安2年(西暦858年)
8月23日() 文徳天皇が突然ご不例に倒れられる。
皇太子・惟仁親王は9歳とまだ幼く、 天皇としては第一皇子の惟喬親王にまず即位させ、 第四皇子・惟仁親王の成長を待って皇位を譲ることを望まれた。
しかし惟仁親王(清和天皇)の義父である太政大臣・良房が外孫・惟仁親王の即位を願っているので、 これを憚り、 惟喬親王(15歳)の身のことも思いこれを断念された。
8月27日(10月7日) 崩御。於:冷然院新成殿
9月6日(10月16日) 大喪儀

后妃・皇子女

陵・霊廟

陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市右京区太秦三尾町にある田邑陵(たむらのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は円丘。遺跡名は「太秦三尾古墳」。

中世以降、陵の所在地はまったく不明となっており、江戸時代には天皇の杜古墳(京都市西京区御陵塚ノ越町)が候補とされていた。幕末の谷森善臣の比定に従い、現在宮内庁によって京都市右京区太秦三尾町に陵墓が定められているが、これは横穴式石室を持つ古墳時代後期とみられる円墳であり、平安時代の陵墓としては不適当と考えられている[3]。

また皇居では宮中三殿のひとつ皇霊殿において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。


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