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清和天皇 / 淸和天皇(せいわてんのう)

作成日:2020/6/9

清和天皇は、日本の第56代天皇。
後世、武門の棟梁となる清和源氏の祖。 文徳天皇の第四皇子。
母は太政大臣・藤原良房の娘、女御・明子。

《紀》:日本書紀による記述  《記》:古事記による記述
日本の第56代天皇 清和天皇 / 淸和天皇(せいわてんのう)

[在位] 天安2年8月27日(西暦858年10月7日) - 貞観18年11月29日(西暦876年12月18日)《紀》
[生没] 嘉祥3年3月25日(西暦850年5月10日) - 元慶4年12月4日(西暦881年1月7日)31歳没《紀》
[時代] 平安時代
[先代] 文徳天皇
[次代] 陽成天皇
[陵所] 水尾山陵(みずのおやまのみささぎ)
[] 惟仁(これひと)
[別称] 水尾帝(みずのおてい、みずのおのみかど)、貞観帝、素真(法名)
[父親] 文徳天皇
[母親] 藤原明子(ふじわら の あきらけいこ、ふじわら の めいし)
[皇居] 平安宮

年譜

天皇の系譜(第51代から第59代)
嘉祥3年(西暦850年)
3月25日(5月10日) 文徳天皇の第四皇子(惟仁親王)として誕生。
文徳天皇が践祚して4日目に、藤原良房邸で誕生した。
母は藤原良房の娘・明子である。
藤原良房は藤原冬嗣(北家)の次男である。
嵯峨天皇の皇女が臣籍降下され、 源潔姫として良房の妻となり、 この二人の間に生まれた娘が明子である。
11月 惟仁親王が生後8ヶ月で立太子される。
第一皇子の惟喬親王(7歳、母は紀静子)、 第二皇子の惟条親王(これえだしんのう、5歳、母は紀静子)、 第三皇子の惟彦親王(1歳、母は滋野奥子)と3人の異母兄がおられたが、 藤原良房を外祖父とする惟仁親王が生後8ヶ月で立太子される。
これまでおよそ考えられないことであったが、 母が良房の娘で、 惟仁親王が良房の外孫であることから、 良房の権勢により生まれた皇位継承であった。
また惟仁親王(清和天皇)の母方の祖母が嵯峨天皇の皇女の源清姫であったことも影響している。
斉衡4年(西暦857年)
2月19日() 外祖父の藤原良房が太政大臣宣下を受ける。
尚この時は先帝・文徳天皇の御世である。
天安2年(西暦858年)
8月27日() 先帝・文徳天皇が崩御
11月7日(12月15日) 惟仁親王(後の清和天皇)が文徳天皇の崩御を受け践祚。9歳で即位。
病床の文徳天皇は皇太子が幼少であることを危惧し、 6歳年長の惟喬親王に中継ぎとして皇位を継承させようとしたが、 実現しなかった。
幼少の為、良房が外戚として政治の実権を握った。
天安3年(西暦859年)
4月15日() 元号が貞観に改元される。
11月16日() 大嘗祭
貞観6年(西暦864年)
1月6日(2月16日) 元服
清和天皇が15歳になられ、藤原良房が摂政を辞した。
貞観8年(西暦866年)
閏3月10日() 「応天門の変」勃発。
応天門(朝廷内での政務・儀式を行う朝堂院の正門)が放火されるという事件があり、 大納言の伴善男は左大臣・源信の犯行であると告発した。
しかし太政大臣・藤原良房の進言があって源信は無罪となった。
源信は嵯峨天皇の皇子であるが、 皇紀1474年=弘仁5年(814年)、 異母弟の弘、 常とともに源朝臣の姓を賜与されて臣籍降下された。
文徳天皇の御世の斉衡4年には左大臣に昇進した。
嵯峨天皇の七男で、 官位は正二位・左大臣、 贈正一位で、 皇族であり初代源氏長者である。
その後、 密告があり伴善男父子に嫌疑がかけられ、 詮議の結果、 伴善男父子は有罪となり、 伊豆国への流刑に処された。
これにより、 古代からの名族であった伴氏(大伴氏)は没落する。
これも結果としては藤原氏による他氏(伴氏)排斥事件の一つとなった。
伴善男が源信を失脚させたかったのか、事件の真相は定かではない。
8月19日() 清和天皇(17歳)は「天下の政を摂行せしむ」とする摂政宣下の詔を改めて渙発される。
清和天皇(17歳)は貞観6年(西暦864年)に摂政を辞していた藤原良房に「天下の政を摂行せしむ」とする摂政宣下の詔を改めて渙発される。
皇族以外の臣民で初めて摂政となったのであるが、 以後、 良房の子孫は相次いで摂政・関白に就くこととなる。
12月27日() 藤原長良(良房の兄)の娘・高子が入内される。
貞観10年(西暦868年)
12月16日() 女御・高子が貞明親王(陽成天皇)を産む。
貞観11年(西暦869年)
2月1日() 第一皇子の貞明親王(後の陽成天皇)が生後3ヶ月で立太子される。
ご自身は生後8ヶ月で立太子されたが、 さらに短い生後間もなくの立太子であった。
天皇ご自身はまだ20歳であるから、 この異例の立太子も摂政良房の意向であることは明らかである。
貞観14年(西暦872年)
9月2日() 摂政・藤原良房(69歳)が死去。
この時天皇は23歳になっておられた。
良房亡き後、 良房の養子の藤原基経(37歳)が補佐して、 天皇親政を開始される。
基経は良房の死後、 清和天皇・陽成天皇・光孝天皇・宇多天皇の四代に仕え、 朝廷の実力者として政権を担う。
天皇から朝政を任され、後に史上初の関白に就任する。
なお、関白は摂政とは異なり、最終的な決裁者は関白ではなく, あくまでも天皇である。
天皇の言葉に対し、「関白(あずかりもう)す」ことから来ている言葉である。
養父・良房が史上初の臣民摂政で、 基経が史上初の臣民関白となり、 藤原北家の最初の絶頂期を迎える。
そして皇位継承問題にも、 良きにつけ悪しきにつけ、深く干渉することになる。
貞観18年
11月29日() 藤原基経が摂政宣下を受ける。
良房は男の子に恵まれず、 兄・長良の息子・基経を養子としていた。
基経の実父は長良で養父が良房である。
貞観18年(西暦876年)
天皇は、第一皇子である9歳の貞明親王(後の陽成天皇)に譲位し、太上天皇となる。
在位19年(18年22日)27歳の時、第一皇子である9歳の貞明親王(後の陽成天皇)に突然譲位し、太上天皇となる。
摂政の基経が幼少の天皇を補佐した。
ご自身も九歳で即位され、 ここでまた9歳になられた皇子・貞明親王に譲位されたのである。 地震や津波などの天災が続き、 これがご自身の不徳と詫びられ譲位されたのであった。
元慶3年(西暦879年)
5月8日() 地震や津波などの天災が続いたため、清和上皇は身の不徳を詫びるために出家された。
10月より畿内巡幸の旅に出た。
元慶4年(西暦880年)
3月 丹波国水尾の地に入り、絶食を伴う激しい苦行を行った。
元慶4年(西暦881年)
12月4日(1月7日) 譲位されて4年後、31歳で崩御。宝算31。於:円覚寺(粟田院)
水尾を隠棲の地と定め、 新たに寺を建立中、 左大臣源融の別邸棲霞観にて病を発し、 粟田の円覚寺に移されたのち崩御
この時点で、次の陽成天皇はまだ13歳であった。
陽成天皇即位後の清和上皇が国政に関わったという記録は見えないものの、 藤原基経の摂政任命及び上皇の崩御その日に行われた基経の太政大臣任命には上皇の意向が働いていたとする説もある。
清和天皇の皇子の多くが臣籍降下され、源姓を賜り、後の清和源氏の祖となった。
元慶4年(西暦881年)
12月7日(1月10日) 大喪儀

后妃・皇子女

この子孫の多くが臣籍降下して清和源氏となった。
中でも枝葉広く栄えたのが第六皇子貞純親王の子経基王の子孫で、 源頼朝・足利尊氏をはじめ武家源氏の大半がこの系統から出た(もしくは後裔を自称した)。

陵・霊廟

陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市右京区嵯峨水尾清和(水尾山腹)にある水尾山陵(みずのおやまのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は円丘。

洛東の上粟田山にて火葬され、遺骨は生前の希望から洛西の水尾に埋葬された。所在がほぼ確かな平安時代の天皇陵の1つである。

また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。


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