小窓
後堀河天皇(ごほりかわてんのう、ごほりかはてんのう)

作成日:2020/6/14

後堀河天皇は、日本の第86代天皇。
高倉天皇の第二皇子の守貞親王(後高倉院)の第三皇子。

《紀》:日本書紀による記述  《記》:古事記による記述
日本の第86代天皇 後堀河天皇(ごほりかわてんのう、ごほりかはてんのう)

[在位] 承久3年7月9日(西暦1221年7月29日)- 貞永元年10月4日(西暦1232年11月17日)《紀》
[生没] 建暦2年2月18日(西暦1212年3月22日)- 天福2年8月6日(西暦1234年8月31日)23歳没《紀》
[時代] 鎌倉時代
[先代] 仲恭天皇   [次代] 四条天皇
[陵所] 觀音寺陵(観音寺陵、かんおんじのみささぎ)
[追号] 後堀河院   [] 茂仁(とよひと)
[父親] 守貞親王(もりさだ しんのう)
[母親] 母は、持明院基家の娘、持明院陳子(じみょういん ちんし/のぶこ)。称号:北白河院
[皇后] 三条有子(さんじょう ゆうし/ありこ)
[中宮] 近衛長子(このえ ながこ)、九条竴子(くじょう しゅんし/よしこ)
[皇居] 平安宮

年譜

天皇の系譜(第77代から第95代)
建暦2年(西暦1212年)
2月18日(3月22日) 降誕
承久4年(西暦1222年)
1月3日(2月15日) 元服
(西暦)
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承久3年(西暦1221年)
12月1日(12月16日) 即位礼
貞応元年(西暦1222年)
11月23日(12月27日) 大嘗祭
天福2年(西暦1234年)
8月6日(8月31日) 崩御。於:
(西暦)
() 大喪儀
(西暦)
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(西暦)
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略歴

承久3年(1221年)の承久の乱により、鎌倉幕府は後鳥羽上皇・土御門上皇・順徳上皇の三上皇を配流し、仲恭天皇を退位させた。次代皇位継承者には、乱の首謀者である後鳥羽上皇の直系子孫を除外し、後鳥羽上皇の兄・守貞親王(行助入道親王)の三男であり、出家していなかった茂仁王(後堀河天皇)を即位させた。また、茂仁の母である持明院棟子(北白河院)の存在も注目される。彼女の父・基家は源頼朝の妹婿である一条能保の叔父、母は平頼盛の娘(平治の乱の際に源頼朝の命を救った池禅尼の孫にあたる)であり、鎌倉幕府にとっても彼女が生んだ茂仁は皇位継承者として望ましい存在であったと考えられる[1]。 茂仁王も十楽院僧正仁慶の弟子となり、すでに十楽院に入室していたが、まだ正式に出家していなかった。立太子礼を経ずして、仲恭天皇廃位後同日の承久3年7月9日(1221年7月29日)践祚、同年12月1日(1222年1月14日)即位。 後堀河天皇はこのとき10歳であったので、父親の守貞親王に太上天皇の尊号を奉り上皇(後高倉院)として、院政を行わせた。この時代は、主に承久の乱の後処理が行われていた。貞応2年(1223年)5月、守貞親王薨去。 貞永元年10月4日(1232年11月17日)、院政を行うべく、まだ2歳の四条天皇に譲位。3日後に太上天皇となる。しかしながら、元来病弱であり、院政開始後2年足らずの天福2年8月6日(1234年8月31日)に23歳で崩御した。その崩御が中宮?子の死から間もない時期だったため、かつて天皇から天台座主の地位を約束されたものの反故にされた僧正仁慶の怨霊の祟りや、後鳥羽上皇の生霊のなせる怪異であるなどと噂されたといわれる。

后妃・皇子女

陵・霊廟

陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市東山区今熊野泉山町の泉涌寺内にある觀音寺陵(観音寺陵、かんおんじのみささぎ)に治定eされている。宮内庁上の形式は円丘。 また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。


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