冷泉天皇の第二皇子。冷泉天皇が弟・守平親王(円融天皇)に譲位してから7年後、天延4年(976年)に冷泉上皇と、女御藤原超子の間に生まれた。その超子の父は当時正三位権大納言であった藤原兼家である。
七歳で母を失い、父帝・冷泉上皇は精神病を患っていたため、その後見は薄弱であった。外祖父兼家に容姿が酷似し風格があったといい、兼家の鍾愛を受けて育ったことが『大鏡』に見える。
花山天皇の寛和2年(986年)6月23日、花山天皇は出家し懐仁親王(7歳・一条天皇)に譲位した。一条天皇は円融上皇と女御藤原詮子(超子の同母妹)の子であり、居貞親王の従弟にあたる。同年7月16日、11歳の居貞親王は兼家の後押しで東宮となる。冷泉・円融両統の迭立に基づく立太子であったが、東宮の方が天皇より4歳年上であったため、「さかさの儲けの君」といわれた。この立太子の理由は次の様に考えられている。すなわち、兼家は冷泉・円融の両天皇に娘を入内させていたが、円融天皇と不仲であったこと、冷泉天皇は超子との間に3人の親王を儲けていたことから、冷泉系をより重要視していた[1][2]。また、孫(一条帝)は天皇、娘詮子は皇太后となり、自らは摂政となった兼家の自己顕示欲によって、もう一人の孫である居貞親王も東宮とされた[3]。
一条天皇の朝廷では、外舅(母の兄弟)にあたる道隆・道兼・道長三兄弟が先後して政権を掌握し、それぞれ後宮政策を布いていた。東宮の居貞親王は正暦2年(991年)藤原済時の娘?子を妃とし、同5年(994年)には敦明親王を儲けた。ところが、外舅である三兄弟の身内から入内した妹の藤原綏子と道隆の娘である藤原原子は早世してしまい、寛弘年間には東宮妃?子のみになってしまった。
寛弘8年(1011年)危篤状態の一条帝は崩御数日前に譲位し、36歳の居貞親王はようやく即位することとなった。皇太子には中宮藤原彰子の子、敦成親王(後一条天皇)が立った。
翌長和元年(1012年)道長の次女妍子が入内して中宮となるが、三条天皇は東宮時代からの妻である?子を皇后とし、二后並立状態となる。同2年(1013年)妍子は禎子内親王を出産する。外孫の早期即位を図る道長と親政を望む三条天皇との関係は円滑を欠いていたが、道長の娘・妍子がいながら?子を立后したこと、妍子との間には女児しか儲けられなかったことにより、道長と三条天皇の関係は決定的なものとなった[4]。
長和3年(1014年)三条天皇は眼病を患う。 仙丹の服用直後に視力を失ったといわれる[5]。 道長は天皇の眼病を理由にしきりに譲位を迫った。 更にこの年と翌年、内裏が相次いで焼失[6]。 病状の悪化もあり、同5年(1016年)三条天皇は皇后?子の子敦明親王の立太子を条件に、 道長の勧めに従い第二皇子の後一条天皇に譲位し、太上天皇となる。翌寛仁元年(1017年)4月に出家し、程なく42歳で崩御した。
同年8月9日、敦明親王は道長に無言の圧迫を掛けられ、自ら東宮を辞退した。このことにより冷泉・円融両系の両統迭立に終止符が打たれ、皇位は永く円融天皇の直系に帰したが、三条天皇の血統もまた禎子内親王(後三条天皇の母)を通じて以後の皇室へ受け継がれていくことになる。
後院(譲位後の居所)の名称によって「三条院」と追号された。大正以後「?院」の追号は廃止され、「三条天皇」となる。
陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市北区衣笠西尊上院町にある北山陵(きたやまのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は円丘。
衣笠鏡石町に火葬塚がある(一条天皇火葬塚と同所)。
また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。