小窓
航空機事故詳細

作成日:2025/6/13

事故発生日:西暦1958年2月6日
便名:英国欧州航空 (BEA) 609便(機体記号:G-ALZU)
機種:エアスピード AS.57 アンバサダー2
死者:乗員6人乗客38人、合計44人の内23人が死亡(重傷7人)
状況:ミュンヘンの悲劇は、 西暦1958年2月6日、 西ドイツ(当時)・ミュンヘンのリーム空港(現在のミュンヘン空港とは異なり、メッセゲレンデの場所にあった空港)で起こった航空事故である。
イングランドフットボールリーグのチーム、マンチェスター・ユナイテッドのチャーター機の乗員乗客44名のうち、23名が死亡した。 そのうち選手は死亡8人、重傷7人。 ...
英国欧州航空(British European Airways、略称・BEA)のチャーター機・BE609便は、 選手の1人がパスポートを忘れたためベオグラードを1時間遅れで出発した。 チャーター便に割当てられたレシプロ・プロペラ機のエアスピード アンバサダーは短・中距離用機材でブリテン島まで無着陸飛行する航続能力はなく、 給油のためにミュンヘンへ立ち寄った。 給油後、2度離陸を試みるが速度が上がらず中止した。 不安を感じ当時安全とされた後部座席に移る者もいたが、 皮肉にもこれが犠牲者を増やす結果となった。 午後3時4分、3度目の離陸を試みるが離陸速度に達せずオーバーランし、 フェンスを突き破り300 m離れた空家へ突っ込み炎上した。 乗客のうち乳児1人は生存した選手であるハリー・グレッグが救出した。

西ドイツの調査委員会報告では当初、 翼に付着した氷で翼形が変わり、 必要な揚力が得られなかったことが原因で、 その確認を操縦士である事故当時36歳であった英空軍出身の機長ジェームズ・セインが怠ったためとされた。 セインは自身を信じて実験を行い西ドイツ当局に訴えたが、 西ドイツは頑なに自分達の過失を認めなかった。 当時の英国首相ハロルド・ウィルソンの発言によりマスコミが再度事故を取上げ、 68年イギリスの事故調査委員会の調査では、 離陸前の写真、 救出作業員の証言、 関係者証言に基づく実験によって滑走路上のシャーベット状になった氷雪(スラッシュ)が原因とされた。 この事故で得られた経験は、 これ以降世界中の常識となった。 事故後11年してセイン元機長の濡れ衣は晴れたが、 事故後解雇されてから心臓発作により54歳で亡くなるまで故郷でひっそりと養鶏で暮らした。

西ドイツがセインに責任を負わせたことを頑なに撤回しなかったのは、 翼が凍っていたならばセインの責任だが、 空港の滑走路上の氷雪がシャーベット状となった氷雪(スラッシュ)が原因ならば雪を放置した空港即ち西ドイツの過失ということになるため、 主任捜査官ハンス・ライケルが目撃者達の証言等を握り潰していたからであった。 その目撃者の内の1人は、 事故直後現場へ駆け付け、副操縦士を救出した男性であった。 彼は「救出のために主翼へよじ登った際に氷はなかった」と証言していた。 また、事故当時に空港にいた西ドイツの男性パイロットも目撃者の1人であった。

1955年より開始されたヨーロッパクラブ選手権であるチャンピオンズカップに初めてイングランド代表として乗り込んだのが、 当時黄金時代を迎えていたマンチェスター・ユナイテッドだった。 しかしこの参戦は孤立主義を掲げていたイングランドサッカー協会の警告を無視したもので、 国内リーグの日程を調整してもらうことも出来ず、 強行日程を強いられた。

準々決勝に進出したマンチェスター・ユナイテッドはユーゴスラビアの強豪、 レッドスター・ベオグラードと対戦。 ホームで2-1と勝利した後、 2月5日(水曜日)に敵地・ベオグラードに乗込み3-3の引分け、 総計5-4で準決勝進出を果たす。 現代でこそ当たり前となった水・土の連戦であるが、 当時の航空事情は良くなく、 共産圏の国で試合をしてまた帰って来るというのは、 強行日程であった。 また、土曜日には上位直接対決が控えており、 帰国を焦っていた事情もあった。 イングランドサッカー協会が日程を調整していれば余裕があった。 さらには、この時期は欧州全土を熱波が襲っていたという。