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第二次世界大戦・戦後の出来事

作成日:2024/5/31

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生田警察署襲撃事件(いくたけいさつしょしゅうげきじけん)

生田警察署襲撃事件  第1回目:西暦1945年12月24日  第2回目:西暦1946年1月9日

生田警察署襲撃事件とは、 現在の兵庫県神戸市中央区にある生田警察署が襲撃された事件である。 在日朝鮮人(当時は法的には朝鮮半島は日本の領土)からなる暴徒によって西暦1945年昭和20年)12月24日、 および翌西暦1946年昭和21年)1月9日の2回続けて発生した。
第1回目の襲撃事件

西暦1945年12月24日午後9時頃、 50名を超える朝鮮人の暴徒が「岡山の刑事を出せ」と叫びながら署内に侵入。 署員を拳銃・日本刀・匕首を突きつけて軟禁した上で、 岡山県警察部の捜査員を探し始めた。 襲撃以前、 岡山市内にて7人組による拳銃強盗事件が発生しており、 強盗犯を追って岡山県警の捜査官が神戸市まで出張にきていた。 この捜査員に生田署が協力していたため、 暴徒の襲撃を受けることになった。 『兵庫県警察史 昭和編』447頁には、 報復を仕掛けたのは朝鮮人の一団であったが、 元の拳銃強盗事件の犯人が朝鮮人であったかどうかは記されていない。
捜査員らが脱出に成功した一方で、 暴徒によって署内の警察電話線が切断されたため、 警察署は外部との連絡手段を絶たれてしまった。 その後、事件を聞きつけた連合国軍部隊(当時日本は連合国軍の占領下)によって暴動が鎮圧された。
第2回目の襲撃事件

翌年西暦1946年1月9日、 三宮ガード下で賭博団(国籍未詳)が検挙されたことを受け、 30人から40人の朝鮮人が犯人の奪還を目的に生田署内へ再度侵入したが、 この事件も進駐軍の協力を得て鎮圧し、 首謀者3人を検挙した。

一勝地村農家6人殺害事件(いっしょうちむらのうか6にんさつがいじけん)

一勝地村農家6人殺害事件(いっしょうちむらのうか6にんさつがいじけん)   発生日:西暦1946年8月29日

一勝地村農家6人殺害事件とは、 西暦1946年8月29日に、 熊本県球磨郡一勝地村(現・球磨村)で発生した強盗殺人事件。

西暦1946年8月29日夕方、 一勝地村内の一軒家が燃えているという通報が警察に入った。 翌朝に実況見分を行い、 完全に白骨化した一家6人の焼死体を発見した。 当初は失火による事故死と思われたが、 頭蓋骨が陥没しているのを発見したことで、 一転して放火殺人事件となり捜査を開始した。

周辺の聞き込み捜査を開始したところ、 隣村の村長が「一昨日、被害者宅に梨を買いに行った者がいる」との情報を得て、 警察はその人物を聴取した。 その人物によると「被害者宅に梨を買いに行った時、被害者から「お宅の集落の朝鮮人も梨を買いに来たが、金が無いからと腕時計を置いていった」と言われた」と証言した。 そこで、その朝鮮人の家に行くと作業服が干してあり、 それには血痕らしきものが付着していた。 容疑が深まったため、 家にいた朝鮮人2人を逮捕した。 取り調べの結果、 もう1人犯人がおり、 近々朝鮮に帰る予定であることを自白した。 熊本県警察部は、 朝鮮語を話せる巡査に犯人の追跡を厳命し、 犯人は佐賀県鳥栖市で逮捕された。

西暦1950年1月20日、犯人2人の死刑が執行された。 ...

犯人3人は戦時中、九州北部の炭鉱で働いていたが、 終戦となり帰国することになった。 ところが帰国費用がなかったので強盗を計画し、 金がありそうな被害者宅に「帰りが遅くなったので泊めてほしい」という名目で一泊することになった。 ところが、被害者一家から親切なもてなしを受けたため、 さすがに良心の呵責を感じたのか、 この夜は犯行を決行できなかった。 翌日の夜、前日のお礼ということで酒を携えて被害者宅に乗り込み、 家人が寝静まったのを見計らって、 家族6人を殺害した後、 たんすの中から15800円を盗み、 証拠隠滅のため家に放火して逃走した。

一審の熊本地方裁判所八代支部は、 犯人全員に死刑を言い渡した。 その内2人は控訴し、 二審の福岡高等裁判所で1人は一審同様死刑、 もう1人に無期懲役を言い渡し、 刑が確定した。

小平義雄逮事件(こだいらよしおじけん)

小平義雄逮事件(こだいらよしおじけん)   犯人逮捕日:西暦1946年8月20日

小平義雄逮事件は、西暦1945年昭和20年)から西暦1946年昭和21年)にかけて、 東京都とその周辺で発生した連続強姦殺人事件である。 太平洋戦争末期から敗戦直後の東京において、 言葉巧みに若い女性に食糧の提供や就職の斡旋を持ちかけ、 山林に誘い出したうえで強姦して殺害するという手口で行われた連続殺人事件である。

初めの強姦・殺人事件から1年以上を経た1946年昭和21年)8月17日、 7人目と思われる被害者女性が遺体となって発見されたが、 直前にこの女性と会っていた小平義雄(当時41歳)が逮捕され、 犯人であると判明した。 小平が他の事件への関与も自供したことから、 一連の連続強姦殺人事件が発覚した。 小平は10件の事件について起訴された。 小平は、否定した3件が証拠不十分で無罪、7件が有罪となった。 小平は40名の女性に関係を迫り、 殺さなかった30名は「人目につくおそれのあったこともあるが、大部分が素直にいうことを聞いたから」という。 西暦1948年(昭和23年)11月16日、 小平に対する死刑判決が確定し、 翌年10月5日に宮城刑務所で刑が執行された。

なお、最後の第7の事件で被害者となった17歳女性は、 大相撲の幕内格行司・式守伊三郎(後の立行司・第24代木村庄之助)の実娘だった。

女性へ職の斡旋をして山林に誘い出して殺害する似たような事件が西暦1947年昭和22年)に発覚したが、 これは「第二小平事件」と呼ばれた。 西暦また1971年昭和46年)に発生した連続殺人事件の犯人・大久保清は「群馬の小平」とも言われた。

金比羅丸事件(こんぴらまるじけん)

金比羅丸事件(こんぴらまるじけん)   発生日:西暦1946年8月23日

金比羅丸事件は、広島県の鞆の浦沖合いで発生した強盗放火殺人事件。 西暦1946年昭和21年)8月23日の朝、 広島県沼隈郡鞆町(現在の福山市鞆町)沖合いの燧灘(ひうちなだ)で貨物船が炎上しているのが発見された。 消防団と警察は漁船などで急行し消火活動を行ったが、 貨物船は沈没こそ免れたものの全焼した。 消火活動の際に同船から甲板員が救助されたが、 船長と機関長は射殺されていた。

生き残った甲板員の証言によれば、 金比羅丸は広島県豊田郡大長村(現在の呉市豊町大長)所有の貨物船で、 大長村からミカンを載せ、 青物商親子5人とともにで8月21日に出発した。 そして翌日に岡山県笠岡町(現在の笠岡市)でミカンと青物商親子をおろして8月23日未明に帰途についたが、 その際3人の男に便乗させて欲しいと頼まれ同乗を許した。 しかし、午前6時ごろに備後灘で3人組が豹変し、 船長と機関長を射殺し甲板員は船底に逃げ込んで身を隠すことに成功したが、 3人は船に放火して貨物船の伝馬船で逃走したという。

甲板員の証言を裏付けるように鞆の浦の仙酔島に金比羅丸の伝馬船が乗り捨てられており、 そこには犯人が脱ぎ捨てたワイシャツがあった。 しかし、犯人の人相はわかったが金比羅丸は灰になっており犯人に繋がる証拠が殆どなくなっており、 事件は迷宮入りになった。

事件発生から2年が経過した西暦1948年11月になって迷宮入りした金比羅丸事件の再捜査が大規模に展開された。 そうしているうちに西暦1949年1月になって「大阪市在住の甲が主犯で、共犯は乙と丙である」という投書が捜査本部にあった。 そこで大阪にいる甲の身辺調査をしたところ三人にかつて雇用関係があり甲は拳銃二丁持っていた事が判明した。 4月に3人を検挙し、事件は解決した。

一審の広島地方裁判所尾道支部は西暦1951年に甲に死刑、 西暦1952年1月に乙に無期懲役、 丙に懲役10年を言い渡している。

坂町事件

坂町事件(さかまちじけん)  発生:西暦1946年昭和21年)9月22日

坂町事件とは、 西暦1946年昭和21年)9月22日に、 新潟県岩船郡保内村(現・村上市)で発生した暴動事件。

この事件で、朝鮮人12人が逮捕され、 12人は新潟軍政部に移されたが、 新潟県外への追放と闇米の買出しをしない旨の誓約書提出だけで全員釈放された。

この事件を新潟日報が報道すると、朝鮮人は新潟日報を襲撃した。

事件の発端

日本では当時、生活必需品の多くが配給制であった。

太平洋戦争終結直後、 兵役からの復員や外地からの引き揚げによる人口増加、 アメリカ軍の空襲による交通網破壊などにより、 生活物資が圧倒的に不足していた。 特に人口が増えた都市部での食料難は深刻で、 東京や大阪では餓死する者もいた。 この様な状況のため、 非合法に設けられた独自の市場「闇市」が全国各地に多数できた。

闇市は国民の生活を助けたが、 暴力団や在日朝鮮人、 中国人が関わっている場合も多かった。

このうち、 新潟県北部では、 在日本朝鮮人連盟が新発田市に事務所を置き、 羽越本線坂町駅を中継基地として、 大量の闇米を関西方面に出荷していた。 当時、1日あたり50俵が坂町駅を経由したといわれている。

事件の概要

西暦1946年9月22日午前0時50分頃、 村上警察署の加藤巡査部長は署長の指令により警察官7人を指揮し、 坂町駅構内で、闇米輸送の取締りを行っていた。 駅のホームには40~50人の朝鮮人・中国人がいたが、 彼らは一斉に姿をかくした。 加藤は、置き去りにされた中身が米の荷物7、8個を発見。 待合室にいた人々に誰の荷物か聞いたところ、 15人くらいの集団の中から中国人が「俺のものだ!」と名乗り出た。 加藤が身分証明書の提示を求めたところ、 他の者が「殴れ!」「叩け!」と叫び、 これを合図に集団が襲いかかって来た。 警察官らが応戦しているとホームに列車が到着し、 列車内から朝鮮人20人ほどが下車し集団に加勢した。 朝鮮人らは警察官らに暴行を加えた後、 発車間際の列車に乗り込み逃走した。 同日午後、 また闇米を(坂町駅から)運搬しようとしているとの情報が村上警察署に入った。

午後4時頃、 河津警部補以下10人の私服警察官が坂町駅前の丸屋旅館をパトロールした結果、 闇米を発見。 取り締まろうとしたところ、 14~15人(約50人との記録もあり)の朝鮮人・中国人が襲いかかってきた。 警察側が攻撃できないことを知ると、 彼等は殴る蹴るの暴行に加え、 パトカーを破壊したり、 警察官の警察手帳をとりあげたりした。 河津警部補は拉致された。 警察側は逮捕はせず、一旦引き上げた。

警察は戦後しばらくの間、 朝鮮人や中国人を逮捕しにくい状況であった(朝鮮が日本から独立した事や、中国が戦勝国になった事などが理由とされる)。

その後、GHQの新潟支部の係官が現地に到着し、 朝鮮人・中国人に対して「日本に在住している限り、日本の法律に服さなければならない事」、 「警察官の闇米取締を拒否する事は、連合国の指令に反するものである事」を言い渡し、 取り締まりを許可した。 GHQの許可が出た事で、警察は厳しい取り締りが可能となり、 12人が逮捕された。

七条警察署襲撃事件(しちじょうけいさつしょしゅうげきじけん)

七条警察署襲撃事件は、 西暦1946年昭和21年)1月24日に京都府京都市下京区で発生した襲撃事件。

西暦1946年1月18日、 京都府七条警察署は、 ヤミ米買出しをしていた朝鮮人を物価統制令違反として現行犯逮捕した。 連行途中、犯人は隙を見て逃走、 在日本朝鮮人連盟の支部に逃げ込んだ。 警察は引渡しを要求したが『我々は戦勝国民である。敗戦国の警察の言うことなど聞かない』として朝連側は拒否した。

1月24日、朝鮮人40人が七条警察署に押しかけ、署長に抗議した。 また、終戦直後より朝鮮人と対立していた被差別部落出身の的屋・博徒は、 「不良在日外国人、七条署に押しかける」の報に接し、 急遽500人が警察の応援に駆けつけた。 このとき的屋の側には、 朝鮮人排除を助けることで警察に恩を売り、 その見返りとして闇市で自分たちへの取締を手加減してもらおうという意図があったとされている。

そして、署長が朝鮮人に手錠をかけられようとしたとき、 署員とともに的屋・博徒も署長室になだれ込み、 朝鮮人を実力で排除した。

朝鮮人は反撃のために約700人を集結させ、他方、 七条警察署側は図越組組長図越利一に応援を要請し図越は子分等を総動員して迎え撃つ準備を整え、 そして七条警察署近くの京都駅前で的屋・博徒と大乱闘になった。

警察はMPの出動を要請し、 MPが駆けつけたことで漸く沈静化した。

この事件で、被差別部落民1人、朝鮮人数人が死亡、負傷者多数にのぼった。

七条警察署巡査殺害事件
  (しちじょうけいさつしょじゅんささつがいじけん)

七条警察署巡査殺害事件(しちじょうけいさつしょじゅんささつがいじけん)   発生:西暦1946年6月9日

七条警察署巡査殺害事件は、 西暦1946年昭和21年)6月9日に京都府京都市下京区で発生した殺人事件。

西暦1946年6月9日未明、 パトロール中の七条警察署(西暦2012年廃署)の巡査が、 不審人物5人を発見し職務質問をしようとしたところ、 中の1人から突然発砲された。

巡査は警笛を鳴らして追跡したが、 弾は巡査の左胸部に命中しており、 まもなく力尽きて倒れこんだ。 巡査は駆けつけた署員に犯人の特徴を詳細に述べた後、 直ちに進駐軍用救急車で病院に運ばれたが、 同日午前3時5分に死亡した。

京都府警察部は、直ちに捜査を開始し、犯人の朝鮮人5人を逮捕した。

占領下のドイツでバイゾーンが成立
  (せんりょうかのドイツでバイゾーンがせいりつ)

占領下のドイツでバイゾーンが成立
米英仏ソ4国による分割占領下のドイツに於いて、 英米統合占領区域(いわゆる「バイゾーン」)が成立。

バイゾーン (Bizone) または バイゾニア (Bizonia) は、 第二次世界大戦後の占領下のドイツにおけるアメリカ合衆国とイギリスの連合国による占領区域である。 後にフランスの占領区域を加えてトライゾーン (Trizone) またはトライゾニア (Trizonia) もしくはウェストゾーン (Westzone) になった。 西暦1949年、 トライゾーンはドイツ連邦共和国(旧西ドイツ)になった。

西暦1946年、 ソビエト連邦がドイツの東側から工業化の進んだ西部への農産物の輸送を停止した。 対抗策としてアメリカの軍の管理者であるルシアス・クレイ(Lucius D. Clay)はルール地方からソビエト支配地域への電力の供給を停止した。 その結果、 ソビエト連邦はアメリカの政策に反対する宣伝運動を展開して4つの地域に妨害を始めた。

アメリカとイギリスは、 自らの占領地域に1947年1月1日「バイゾーン」を設け、 ドイツ西部に新しい政治秩序の構築を要求した。 これが、ドイツが東ドイツと西ドイツへ分断される最初の段階となった。

富坂警察署襲撃事件(とみさかけいさつしょしゅうげきじけん)

富坂警察署襲撃事件   発生:西暦1946年1月3日

富坂警察署襲撃事件とは、 西暦1946年昭和21年)1月3日に東京都小石川区(現・文京区)で発生した暴動事件である。 終戦直後の混乱もあって犯人逮捕・特定には至らず、未解決事件となった。

西暦1945年12月30日、 警視庁富坂警察署は管内で発生していた連続拳銃強盗事件の容疑者として在日朝鮮人3人を逮捕した。 当時の富坂警察署は戦災で焼失しており、 小石川国民学校の校舎を間借りしている状態であったため、 3人の容疑者は警視庁本部と大塚警察署の留置場にそれぞれ留置されていた。

西暦1946年1月2日、 容疑者のひとりを富坂警察署へ護送して取り調べた後、 署内の留置場に留置した。

西暦1946年1月3日正午、 春日町交差点において多くの不審者を乗せたトラック2台が富坂警察署方面へ向かうのを、 交通整理にあたっていた警察官が発見、 直ちに署に連絡した。 連絡を受けてまもなく、 例のトラックが富坂警察署に到着、 警察官の制止を振り切って約80人の朝鮮人が署内に乱入し、 留置中の在日朝鮮人の即時釈放を要求した。

危険を察知した警部が警察電話を通じて、 警備隊の応援を要請したところ、 在日朝鮮人20人が電話室に乱入し占拠した。 これにより外部との連絡が絶たれた。

交渉にあたった署長は「朝鮮人は留置していない」と突っぱねたが、 情報が漏れていたらしく、 在日朝鮮人たちが留置場を探し始めた。 これを阻止しようとした警察官に対して殴る蹴るの暴行を加えて負傷者を続出させた。 在日朝鮮人はついに留置場を発見、 中にいた容疑者を連れ出し、 「署長は、朝鮮人は留置していないと我々を欺いた」と署長を責め立てた後、 富坂警察署の前を通りかかったトラックを奪って逃走した。

富山駅前派出所襲撃事件(とやまえきまえはしゅつじょしゅうげきじけん)

富山駅前派出所襲撃事件(とやまえきまえはしゅつじょしゅうげきじけん)   発生:西暦1946年8月5日

富山駅前派出所襲撃事件は、 西暦1946年昭和21年)8月5日に、 富山県富山市で発生した事件。

西暦1946年8月5日午後6時50分頃、 富山駅において闇米取り締りを実施し、 朝鮮人3人を検挙した。 しかし、それを見ていた朝鮮人2人が妨害し、3人を逃走させた。

そのため自治隊員2人を公務執行妨害罪で逮捕し、 富山駅前派出所に連行したところ、 朝鮮人約30人が包囲し険悪な雰囲気となった。 署に救援を頼んだが、 その前に大乱闘となった。

その直後に、 救援隊が駆けつけて朝鮮人たちを実力で排除した。 この乱闘で警察官1人が負傷した。

直江津駅リンチ殺人事件(なおえつえきリンチさつじんじけん)

直江津駅リンチ殺人事件(なおえつえきリンチさつじんじけん)   発生:西暦1945年12月29日

直江津駅リンチ殺人事件は、 西暦1945年昭和20年)12月29日に、 新潟県中頸城郡直江津町(現:上越市)の国鉄信越本線(現:えちごトキめき鉄道妙高はねうまライン)直江津駅で発生した朝鮮人による殺人事件。

西暦1945年12月29日午後7時頃、 新潟発大阪行の列車が国鉄信越本線黒井駅に到着した。 3人組の朝鮮人が列車に乗車しようとしたが、 満員のため乗車することが出来なかった。 そこで彼らは列車の窓ガラスを叩き割り無理やり乗車しようとしたところ、 ある男性の乗客(当時29歳のセールスマン)に阻まれたため、 已む無くデッキにぶら下がり次の直江津駅まで行く破目になった。

列車が直江津駅に到着すると、 3人組は自分たちを阻んだ男性に対して、 「乗降口から乗れないので仕方なくガラスを壊して乗ろうとしたのに何故妨害した」と詰め寄った。 男性に「窓から乗り込むという方法はない」と反論されたため、 その男性を直江津駅のプラットホームに引きずり降ろし、 駅の備品であるパイプやスコップを持ち出して男性に襲い掛かり、 メッタ打ちにした。 男性は頭や左眼などに十数か所の傷を負い、絶命した。

警察が緊急配備したところ、 直江津の病院で傷の手当てをしていた3人組を突き止めた。 そして容疑を認めたため、殺人犯として緊急逮捕した。

犯人は3人とも朝鮮人で、 戦時中は工場に勤務していたが、 終戦後は闇米ブローカーに転身した。 事件当日も農家から米を買い集め大阪方面に売りに行く途中であった。

犯人の朝鮮人3人は殺人の容疑で検事局に送られたが、 まもなく逃走し行方知れずになったため、 司法で裁かれることはなかった。 ...

このような事件が起きたのは、 当時の特殊な時代背景による。 連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の担当官として終戦直後の日本に駐留し、 後にハーバード大学教授となったエドワード・ワグナー(朝鮮史)は、 『日本における朝鮮少数民族』(原著1951年)という論文で次のように記している。

戦後の日本においては、 朝鮮人少数民族は、 いつも刺戟的な勢力であった。 数においては大いに減ったものの、 朝鮮人は、依然として実に口喧(くちやかま)しい、 感情的・徒党的集団である。 かれらは絶対に敗戦者の日本人には加担しようとせず、 かえって戦勝国民の仲間入りをしようとした。 朝鮮人は、一般に、 日本の法律はかれらに適用され得ないものとし、 アメリカ占領軍の指令も同じようにほとんど意に介しなかった。 そのため、 国内に非常な混乱をおこした。

当時は、一部の在日朝鮮人は「第三国人(準戦勝国民)」を自称し、 あるいは「朝鮮進駐軍」を名乗り、 各地で不法占拠、闇市掌握、暴動、 警察署などへの襲撃事件(生田警察署襲撃事件、富坂警察署襲撃事件、長崎警察署襲撃事件、富山駅前派出所襲撃事件、坂町事件、新潟日報社襲撃事件、尾花沢派出所襲撃事件などなど)を繰り返し、 社会問題となっていた。 駅や電車における秩序も崩壊状態にあり、 少林寺拳法創設者・宗道臣も、 自著「秘伝少林寺拳法(光文社 1983年)」において以下のように述懐している。

大きな駅に着いた時、大変なことが始まった。 第三国の連盟の腕章を巻いた、あまり風体のよくない若者が、 窓から無理やりに乗り込んできた。 周囲の人たちを押し退け、突き飛ばして場所をとり、 氷が溶けて水の流れ出る臭い魚の箱をたくさん積み込んだのである。 総勢七人のその連中はまったく言語道断で、 座っている者を追い立てて、全員が座り込んだ。 (中略) それから少しして連中の一人が、 「さあ、寝るとしようか」と言って立ち上がった。 どうするのか見ていると、 網棚の上の荷物を払い落とし始めた。 棚の上に寝るつもりである。 立っている人間の方を踏み台にして、 棚に這い上がったその男は、 まだ場所が十分でないのか、 足元の荷物を蹴り落とした。 ところがその荷物が運悪く、 子どもを抱いていた婦人の上に落ち、 子どもに当たったので、 火のついたように泣きだしてしまった。 それまで辛抱に辛抱を重ねていた私は、 とうとう我慢できなくなり、 つい無意識のうちに「無茶をするな」と大声で怒鳴ってしまった。

不可解な動機に見える「直江津駅リンチ殺人事件」も、 このような特殊な時代背景から起きた事件である。

長崎警察署襲撃事件(ながさきけいさつしょしゅうげきじけん)

長崎警察署襲撃事件(ながさきけいさつしょしゅうげきじけん)  発生:西暦1946年5月13日

長崎警察署襲撃事件は、 西暦1946年昭和21年)5月13日に長崎県長崎市で発生した、 在日朝鮮人・中国人による警察署襲撃事件。

長崎市西浜町の長崎自由市場では、 物価統制令違反のヤミ物資が公然と販売され、 それに並行して暴力行為も頻発していた。 長崎県警察部では、 これら不法事案の断固取締を決断し、 検挙の準備を進めていた。

西暦1946年5月13日午前10時30分、 280人の警官隊が一斉取締を開始し、 日本人150人、 朝鮮人26人、 中国人6人を検挙、 長崎警察署に連行した。 その直後、 在日本朝鮮人連盟や中国人団体が長崎警察署に押しかけ、 被疑者の即時釈放を要求したが、 署長は取調前の釈放はできないと拒否した。

午後2時30分頃、 朝鮮人や中国人など総勢約200人がバッドや鉄棒を持って長崎警察署を包囲・襲撃した。 これにより警察官1人が死亡、10人が重軽傷を負った。 その後、余勢をかって東浜町派出所や港町派出所も襲撃し、 警察官に対し暴行を加えている。

捜査の結果、 中国人7人は進駐軍に引き渡され、 朝鮮人60人は検察に送致された。

新潟日報社襲撃事件(にいがたにっぽうしゃしゅうげきじけん)

新潟日報社襲撃事件(にいがたにっぽうしゃしゅうげきじけん)   発生:西暦1946年昭和21年)9月29日

新潟日報社襲撃事件とは、 西暦1946年昭和21年)9月29日に新潟県新潟市で発生した朝鮮人16名による暴力事件。 西暦1946年9月23日付の新潟日報夕刊は、 「MPも出動、坂町で深夜の乱闘」と題して、 朝鮮人や在日中国人が新潟県岩船郡保内村(現・村上市)内で起こした新潟日報社襲撃事件の記事を掲載した。 読売新聞も事件を報じた。

西暦1946年9月26日、 在日本朝鮮人連盟などの朝鮮人16人が新潟日報社を訪れ、 新潟日報社と読売新聞社の両社に対して、 「坂町事件の報道に誤りがあると認め、ラジオ放送を通じて新潟県民に誤報であったという声明を出せ」と要求した。 両社は「即答はできない」として、 29日まで猶予してもらうことになった。 その後読売新聞社は、 9月28日になって譲歩し、 誤報を認め謝罪記事を掲載することで話がついた。

9月29日、朝鮮人16人が再度新潟日報社を訪れ、 新潟日報社側の返答をせまった。 新潟日報社は「警察の捜査結果をまって善処する」と答え、 彼等の要求を拒んだため、 朝鮮人側は憤慨し、 茶碗を投げつけたのを合図に一斉に暴れだし、 社内の備品を破壊した。 新潟警察署は、 朝鮮人らを暴力行為等処罰ニ関スル法律違反で逮捕した。

最終的に9人が起訴され、 裁判の結果、 暴力行為等処罰ニ関スル法律違反と業務妨害罪で有罪の判決が下った。

日光中宮祠事件(にっこうちゅうぐうしじけん)

日光中宮祠事件(にっこうちゅうぐうしじけん)  発生:西暦1946年5月4日

日光中宮祠事件は、 西暦1946年(昭和21年)に発生した強盗放火事件である。 事件名はこの事件を元に松本清張が執筆した小説及びテレビドラマの題名であり、 現在ではこちらの事件名で呼ばれることが多い。

当初一家無理心中と警察は判断したが、 事件から9年後、 強盗放火殺人事件と判明する。 犯人の2人は西暦1960年に死刑が確定したが、 当時としては異例の長期間にわたって死刑執行が行われず、 2人の死刑執行は判決確定後14年、 事件発生から28年後の西暦1974年6月6日に行われた

西暦1946年5月4日未明、 栃木県中禅寺湖畔の上都賀郡日光町(現在の日光市)中宮祠の旅館から出火し、 周囲を含めて6棟が全焼。 旅館の焼け跡から経営者のH(当時46歳)と妻(同42歳)、 Hの義父(同72歳)とHの三男(同11歳)、 次女(同8歳)、 三女(同5歳)の6人の焼死体が発見された。 6人が寝床に入ったままの状態で死亡していたばかりか後頭部を切られた跡があるなど、 他殺と思われる不審な点もあったにもかかわらず、 日光警察署は無理心中と結論づけて被疑者死亡として捜査を打ち切った。

しかし、 事件の真相は当日投宿していた在日朝鮮人のAとBが帳場に盗みに入ったところを家族に発見されたため、 旅館の台所にあった包丁で一家6人を刺殺、 現金400円と小切手480円と背広などを奪い放火して逃亡したというものであった。

ひめゆりの塔建立(ひめゆりのとうこんりゅう)

ひめゆりの塔   建立:1946年4月5日   除幕:1946年4月7日
現在のひめゆりの塔1957年6月建立

ひめゆりの塔は、 沖縄戦末期に沖縄陸軍病院第三外科が置かれた壕の跡に立つ慰霊碑。 現在の沖縄県糸満市にある。 慰霊碑の名称は、 当時第三外科壕に学徒隊として従軍していたひめゆり学徒隊にちなんでいる。 「ひめゆり」は学徒隊員の母校、 沖縄県立第一高等女学校の校誌名「乙姫」と沖縄師範学校女子部の校誌名「白百合」とを組み合わせた言葉で、 元来は「姫百合」であったが、 戦後ひらがなで記載されるようになった。 なお、植物のヒメユリとは関係がない。

「塔」と名はついているが、 実物は高さ数十センチメートルでそれほど高くはない。 これは、終戦直後の物資難な時代に建立された事と、 アメリカ軍統治下に建立されたという事情によるものである。 また、この種の慰霊碑は、沖縄県(特に沖縄本島)には非常に多くあり、 ひめゆりの塔はそれらのうちで一番古いものではない(最古のものは、ひめゆりの塔と同じく金城和信らが米須霊域に建てた「魂魄の塔」(こんぱくのとう)であるとされている)。 しかし、 西暦1949年に石野径一郎によって碑に関する逸話が小説化されると、 直後に戯曲化され、 さらに同名の映画が作られ有名となった。 沖縄戦の過酷さ、悲惨さを象徴するものとして、 現在でも参拝する人が絶えない。

ひめゆりの塔から伊原第三外科壕跡を挟んだ奥には慰霊碑(納骨堂)が建てられており、 さらに、その奥には生存者の手記や従軍の様子などを展示した「ひめゆり平和祈念資料館」がある。 また、敷地内や隣地には沖縄戦殉職医療人の碑など複数の慰霊碑や塔が建てられている。

金城和信(きんじょう・わしん) 西暦1898年3月1日 - 西暦1978年11月17日

沖縄県島尻郡(しまじりぐん)真和志村(まわしむら)の第8代村長(首長)である。 第二次世界大戦後、 戦没者の遺骨を集め「魂魄の塔」を建てた。

次にひめゆり学徒隊終焉の壕を探り当て、 収骨収納して、傍らに「ひめゆりの塔」を建立、 更に海岸近くにある壕から鉄血勤皇隊(健児隊)の収骨をなし、 壕奥に収納の後、壕入口をふさぎ、「健児之塔」(沖縄師範学校)の碑を建立した。

この三基の慰霊塔が、沖縄戦後の慰霊塔建立の嚆矢(こうし。物事のはじめの意)と言われる。

また、金城和信の娘二人はひめゆり学徒として戦場に駆り出され亡くなった

伊原第三外科壕跡(いはらだいさんげかごうあと)  所在地:沖縄県糸満市  戦争遺跡である

かつて行われた沖縄戦で軍病院職員やひめゆり学徒隊の避難場所として使われていた。 また伊原第三外科壕跡は現在で言う病棟のような使われ方をしており、 連日けが人や伝染病患者が運び込まれ、 ひめゆり部隊の学生たちが世話をしていた。

この壕は激戦地沖縄で実際に使われていたが、 敵からの攻撃を防ぐような設備はなかったため、 度々攻撃による被害を受けていたようだ。 付近にはひめゆりの塔など戦争犠牲者の慰霊碑や慰霊塔があり、戦争関連スポットとして知られている。

広島県佐伯郡吉和村尊属殺人事件
  (ひろしまけんさえきぐんよしわむらそんぞくさつじんじけん)

広島県佐伯郡吉和村尊属殺人事件(ひろしまけんさえきぐんよしわむらそんぞくさつじんじけん)
発生日:西暦1946年(昭和21年)9月16日

広島県佐伯郡吉和村尊属殺人事件は、 西暦1946年昭和21年)9月16日未明に、 広島県佐伯郡吉和村(現:広島県廿日市市吉和)で 当時19歳の少年が母親(当時49歳)と妹(当時16歳)を撲殺し、 死体を自宅近くの井戸に遺棄する事件が発生。

犯人は死刑判決となり、死刑制度合憲判決がでた。

同事件の刑事裁判では、 日本国憲法施行後の日本における死刑制度の存在は違憲であるか、 合憲であるかが争われた(違憲審査)。 最高裁判所大法廷(塚崎直義裁判長)は西暦1948年昭和23年)3月12日、 死刑制度は憲法第36条で禁止された「残虐な刑罰」には該当せず、 合憲であるとして被告人側の上告を棄却し、 死刑を確定させる判決を言い渡した。 以降はこの判例における憲法解釈が死刑制度存置の根拠とされ、 日本の裁判所はこの判例に従って死刑判決を宣告してきたとされている。