小窓
後円融天皇/後圓融天皇(ごえんゆうてんのう、ごゑんゆうてんのう)

作成日:2020/6/20

後円融天皇は、日本の北朝第5代天皇。 後光厳天皇の第二皇子。母は左大臣広橋兼綱の養女、崇賢門院・藤原仲子(実父は、岩清水八幡宮社務法印紀通清)。仲子の姉の紀良子を母としている足利義満とは従兄弟同士に当たり、また同い年である(新暦では1つ違いになる)。

《紀》:日本書紀による記述  《記》:古事記による記述
日本の北朝第5代天皇 後円融天皇/後圓融天皇(ごえんゆうてんのう、ごゑんゆうてんのう)

[在位] 応安4年3月23日(西暦1371年4月9日)- 永徳2年4月11日(西暦1382年5月24日)《紀》
[生没] 延文3年12月12日(西暦1359年1月11日)- 明徳4年4月26日(西暦1393年6月6日)35歳没《紀》
[時代] 室町時代・南北朝時代
[先代] 後光厳天皇   [次代] 後小松天皇
[陵所] 深草北陵(ふかくさきたのみささぎ)。深草十二帝陵
[追号] 後円融院
[] 緒仁(おひと)   [別称] 光浄(法名
[父親] 後光厳天皇
[母親] 広橋仲子(ひろはし ちゅうし/なかこ)、藤原 仲子、紀 仲子
[皇居] 京都御所

年譜

天皇の系譜(第96代から第105代)
延文3年(西暦1359年)
12月12日(1月11日) 降誕。於:一条東洞院
(西暦)
() 元服
(西暦)
() 
() 
応安7年(西暦1375年)
12月28日(1月30日) 即位礼
永和元年(西暦1375年)
11月23日(12月16日) 大嘗祭
明徳4年(西暦1393年)
4月26日(6月6日) 崩御。於:小川仙洞御所
(西暦)
() 大喪儀
(西暦)
() 
() 
(西暦)
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生涯

応安4年(1371年)3月21日に親王宣下を受け立太子され、 わずか2日後に後光厳天皇の譲位を受けて即位。 これには後光厳天皇と崇光上皇の間に皇太子擁立の対立が有り、 後光厳が幕府の管領である細川頼之の支持などを受け、 後光厳天皇の皇子の緒仁親王が即位した。

貞治7年(1368年)に足利義満が将軍に就いたが、 年若いために管領細川頼之が後見しており、 応安7年(1374年)までは後光厳上皇による院政が行われていた。 永和元年(1375年)には新後拾遺和歌集となる勅撰 和歌集を義満の執奏により下命。 南朝対策など政治は膠着状態であったが、 春日神木の入洛など寺社勢力による強訴が相次ぎ朝廷儀式は衰退するなど、 深刻な状況であった。 康暦元年(1379年)閏4月に斯波義将などの動きで頼之が失脚すると義満の政治手腕が発揮され朝廷の再建に当たるとともに、 徐々に朝廷の事務にも介入を始める。 永徳2年(1382年)4月11日に息子の後小松天皇に譲位して、 上皇として院政を敷くが、 義満が院別当となった上、 朝廷の事務に積極的に介入したため実権はなかった。

永徳3年(1383年)の元旦、 仙洞御所を訪問した足利義満との面会を拒否した。 以後、義満は仙洞に参内せず他の公卿も遠慮したため、 仙洞の機能が停止することになる。 2月1日には出産を終えて宮中へ戻った妃の厳子に対して義満との密通を疑ってこれを殴打、 母親の広橋仲子の説得や義満による医師の派遣も効果がなく、 11日には愛妾の按察局が義満との密通を疑われて出家させられた。 困惑した義満は二条良基と協議して、 15日に上皇の信頼が厚い裏松資康・広橋仲光を派遣して上皇の相談に当たらせようとしたが、 これを聞いた上皇は義満が自分を配流しようとしていると思い込み、 持仏堂に籠って切腹自殺を図るなどの騒動を起こしている。 18日に義満が院に出向いてめるとようやく上皇の心理は和らいだものの、 治天の君の権威は失墜して再び蘇ることはなかった。 一条経嗣は「聖運之至極」(皇室の命運が極まった)と書き記している。 明徳3年(1392年)閏10月に義満の斡旋によって南朝との和平が成立して南北朝時代が終結したが、 明徳4年(1393年)4月26日に崩御。 宝算36。崩御直前に落飾して法名を光浄と称した。

近年の説として、 朝廷の再建を巡る方針などで足利義満と後円融天皇が対立した結果、 義満は後円融天皇を退位させて治天の権限を剥奪した上で、 自らが新帝・後小松天皇の後見(父代わり)になって朝廷再建を進める路線に至ったとして、 従来"足利義満の皇位簒奪計画"の証拠とされてきた事項の多くは「足利義満と後円融天皇の対立」という個人的な対立を「幕府と朝廷の対立」に拡大解釈したものに過ぎないとする説がある。

后妃・皇子女

陵・霊廟

陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市伏見区深草坊町にある深草北陵(ふかくさきたのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は方形堂。深草北陵には持明院統歴代が葬られており、「深草十二帝陵」とも称される。 崩御の翌日に泉涌寺において火葬し、その遺骨を納めた深草法華堂が現陵にあたる。 また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。


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