大国主が出雲の美保岬にいたとき、 鵝(蛾の誤りとされる)の皮を丸剥ぎにして衣服とする小さな神が、 海の彼方から天の羅摩船(あめのかがみのふね)に乗って現れた。
大国主はその小さな神に名を尋ねたが答えがなく、
従者もその名を知らなかった。
そこにヒキガエルの多邇具久が現れて、
「これは久延毘古(クエビコ)なら知っているでしょう」と言った。
久延毘古に尋ねると、
「その神は神産巣日神の御子の少名毘古那神である」と答えた。
久延毘古は山田のかかしで、 歩行できないが、 天下のことは何でも知っている神である。
神産巣日神は少名毘古那を自分の子と認め、
少名毘古那に大国主と一緒に国造りをするように言った。
大国主と少名毘古那は協力して葦原中国の国造りを行った。
その後、
少名毘古那は常世に去った。
大国主は、
「これから一人でどうやって国を造れば良いのか」と言った。
その時、
海を照らしてやって来る神がいた。
その神は、
「我は汝の幸魂奇魂(さきみたまくしみたま)である。丁重に私を祀れば、国造りに協力しよう」
と言った。
どう祀るのかと問うと、
大和国の東の山の上に祀るよう答えた。
この神は現在御諸山(三輪山)に鎮座する神(大物主)である。
『日本書紀』第八段 一書第六に、
続いて大己貴命は少彦名命に、
「我らの造りし国は善く成せりと言えるか」と語った。
少彦名命は、
「成せる有れば、成らざるも有り」と答え、
この会話の後、
少彦名命は熊野の御碕(みさき)にて、
「遂に常世郷(とこよのくに)に適(いでま)しき。」または、
「淡嶋(あわのしま)に行き、粟莖(あわがら)に上ったところ、彈(はじ)かれ常世郷に渡り着いたとも言う」とあり、
『古事記』より細かい描写がなされる。
なお、
これ以降「大己貴命」が「大己貴神」と敬称が変わる。
その後、
国の中の未完成な所を、
大己貴神は一人で能(よ)く巡り造り、
そして出雲国に到る。
言葉に出して、
「そもそも葦原中国は最初より、荒芒(あら)びたり。岩や草木に至るまでことごとく能(よ)く強く暴(あら)し。しかし私が摧(くだ)き伏せ、和順(まつろ)わざる(従わない者)莫(な)し」と言った。そして続けて、「今この国を理(おさ)むるは私一身(ひとり)だけだ。私とともに天下を理むべき者は、果たしているか」と言ったとある。
『古事記』とは違い、
少彦名命が常世郷に渡った後に、
大己貴命は単身で葦原中国の国造りを行っている。
その後は『古事記』と同様に、
輝く幸魂奇魂と遭遇する。
その神が大三輪(おおみわ)の神なりとある。
最後に少彦名命と遭遇するシーンとなり、
初め大己貴神が国を平げ出雲国の五十狹狹(いささ)の小汀(おはま)で飲食しようとした時、
海上から人の声がした。
驚いて探したが、
どこにも姿が見えない。
しばらくして、
「一人の小男(おぐな)が白斂(かがみ)の皮を舟とし、
鷦鷯(さざき)の羽を衣として、
潮水(うしお)の隨(まにま)に浮かんでやって来た」とあり、
『古事記』とは描写が異なる。
そして、
大己貴神が掌に取り置きて玩(もてあそ)ぶと、
飛び跳ねてその頬を突いた(もしくはかじった)。
そこでその物色(かたち)を奇妙に思い、
使を遣わし天神(あまつかみ)に報告した。
すると、
高皇産霊尊(たかみむすひ)が、
「私が産んだ子は一千五百柱もいるが、
その中の一人はとても悪く(わがまま・やんちゃ)て教えに従わなかった。
指の間から漏れ落ちたのが、
きっと彼だろう。宜しく愛でてこれを養(ひた)せ」と答えたとあり、
これが少彦名命であるとある。
『古事記』と大きく違うのが、 神皇産霊尊の子でなく高皇産霊尊の子となる事と、 久延毘古は存在しない事である。