吉野の盟約(よしののめいやく)
天武天皇と、
皇后の鸕野讚良(後の
持統天皇)が、
その間にもうけた
草壁皇子を次期天皇であると事実上宣言した盟約。
吉野の誓いとも。
西暦679年5月30日(
天武天皇8年5月5日)に
天武天皇と鸕野讚良皇后、
天武天皇の皇子である
草壁皇子(次男、17歳)、大津皇子(三男、16歳)、高市皇子(長男 25歳)の三名、
そして
天智天皇の皇子である川島皇子(次男 22歳)、志貴皇子(七男)の二名は吉野へ行幸した。
翌日の
西暦679年5月31日(
天武天皇8年5月6日)、
天武天皇は
草壁皇子を次期天皇とし、
異母兄弟同士互いに助けて相争わないことを誓わせた。
そのうち志貴皇子は、この盟約が記録上の初登場であった。
彼らは7日に飛鳥に還ったが、
10日にも6皇子は大殿の前で
天武天皇のもとに集まっている。
天武天皇がこのようなことを行った背景には、
自身の即位が関係している。
天武天皇の兄である
天智天皇は実子の大友皇子(
弘文天皇)に皇位を継がせたが、
天武天皇は
壬申の乱により自分の甥である大友皇子を自殺に追い込んで
即位した過去があった(この頃はまだ大和政権以来の兄弟継承の慣習から父子継承への過渡期だった)。
自分の子たちが同じ事態にならないよう防ぐ狙いがあったのだろう。
...
結果的に、
天武天皇の望みは果たされなかった。
西暦681年(
天武天皇10年)に
草壁皇子は皇太子となるが、
器量優れたライバルの大津皇子も政治に参加することとなり、
天武天皇の後継は曖昧なものとなった。
天武天皇亡き後、
草壁皇子の母の鸕野讚良皇后は大津皇子に謀反の疑いをかけ、
自殺に追い込んでしまう。
さらに
草壁皇子も即位することなく28歳で早世し、
鸕野讚良皇后が自ら天皇に即位して(
持統天皇)草壁の遺児の珂瑠皇子(
文武天皇)に中継ぎするも、
文武天皇も25歳で早世した。
天武天皇直系の天皇は
孝謙天皇(称徳天皇)を最後に断絶し、千年どころか百年たたずにほとんど滅亡してしまった。
ほかの4皇子も皇位につくことはなかった。
しかし、そのうち志貴皇子は、
薨去から54年後に息子の白壁王(
光仁天皇)が即位し、
春日宮御宇天皇の贈号を受け追尊されることとなった。
生前の志貴皇子は、
冠位四十八階で吉野の盟約に参加した諸皇子が叙位を受ける中、
叙位を受けた記録がなく、
持統朝でも叙位や要職への任官記録がないなど不遇な扱いで、
皇位継承とは全く無縁な人生だったが、
子孫は現在の皇室にまで繋がっている。