大阪駅清水太右衛門殉職事故
西暦1907年(
明治40年)5月31日 18時頃(鉄道人身障害事故)
大阪駅の駅員・清水太右衛門(岐阜県羽島郡小熊村出身)が同駅西第一踏切で踏切番として勤務中、
遮断機をくぐり線路に入った幼女を発見。
そのとき西成線の上下列車が同時に迫ってきた。
太右衛門は踏切内に飛び込み間一髪で幼女を救ったが、
列車と接触して重傷を負い、
幼女を気遣いながらも22時間後に入院先で死亡した。
死亡前には事故の目撃者の1人から10円もの寄付があり、
大阪駅長が発起人となって義捐金を集め太右衛門に贈ろうとしていた。
この出来事に心をうたれた人々が太右衛門の功績を後世に伝えるため、
西暦1907年10月に現場付近(現・北区梅田三丁目)に「清水太右衛門殉職碑」が建立された。
西暦1945年の大阪大空襲で破壊されたため、
西暦1956年に国鉄総裁十河信二の揮毫で再建された。
西暦2007年に大阪駅の改装工事のため、
阪神高速池田線梅田出入口付近に移設、
これ以来JR社員によって数十年ぶりに命日に慰霊式が行われるようになった。
西暦2011年1月、
ノースゲートビルディングと立体駐車場をつなぐ通路に移設された。
そこからも後に撤去されたが、
正式な移設先は2020年現在決まっていない。
現場となった踏切は大阪駅高架化に伴い昭和初期に廃止された。
西暦1942年(
昭和17年)に太右衛門の行為を描いた紙芝居が大阪鉄道局によって制作された。
慰霊碑移設の新聞記事を見た作者の息子から
西暦2011年6月に紙芝居がJR西日本に寄贈された。
『大阪駅物語』によって紙芝居が作られた事自体は知られていたが、所在は不明だった。