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列車事故1900年代前半

作成日:2024/7/13

発生日付順に記載する。

東海道本線山崎駅-高槻駅間列車脱線事故

東海道本線山崎駅-高槻駅間列車脱線事故   西暦1900年明治33年)8月4日 19時45分頃(列車脱線事故)

東海道本線山崎駅 - 高槻駅間(当時島本駅は未開業)で下り第105混合列車(蒸気機関車・客車12両・貨車11両)が走行中突然、 前から11両目の客車と次位の貨車3両が脱線し、 その4両のうち2両が築堤下に転落し1人が死亡、 2名が負傷した。

事故原因は不明とされてきたが、 後年の二軸貨車の競合脱線事故の最初のものと考えられている。

信越本線横川駅-軽井沢駅間乗務員乗客転落事故

信越本線横川駅-軽井沢駅間乗務員乗客転落事故   西暦1901年明治34年)7月13日

信越本線横川駅を発車し、 軽井沢駅へ向かって登坂中の長野行き第51列車において、 20時40分ごろ1C1形蒸気機関車の蒸気管が突然破裂し、 噴出した蒸気によって機関助士2名が車外に飛ばされて重軽傷を負った。

機関士は非常制動をかけたがブレーキが効かず、 列車は重力によって自然停止した後に退行し始めた。

このとき乗客は40人おり、うち1人が退行前に飛び降りて無事に軽井沢駅にたどり着いたが、 退行開始後に飛び降りた日本鉄道副社長男爵の毛利重輔とその息子の2人が列車に巻き込まれて死亡した。 技術者だった毛利は碓氷峠の急勾配で退行し始めたということは制動不能になったと判断、 その恐ろしさを知っていたため、 ほかの乗客にも飛び降りることを勧めて飛び降りたという。

列車は約1.9 km退行したが、 機関士の必死の操作により停車に成功し、 残った乗客は無事だった。

倉賀野駅-高崎駅間列車爆発事故

倉賀野駅-高崎駅間列車爆発事故   西暦1907年(明治40年)5月6日 18時40分頃

高崎線の倉賀野駅 - 高崎駅を走行中の512列車で、 14両目の3等車の網棚に吊ってあった乗客の携帯品(危険物)が落下して爆発、 車体の上部が吹き飛び4人が死亡、20人が負傷した。

危険物の中身は不明。

大阪駅清水太右衛門殉職事故

大阪駅清水太右衛門殉職事故   西暦1907年明治40年)5月31日 18時頃(鉄道人身障害事故)

大阪駅の駅員・清水太右衛門(岐阜県羽島郡小熊村出身)が同駅西第一踏切で踏切番として勤務中、 遮断機をくぐり線路に入った幼女を発見。 そのとき西成線の上下列車が同時に迫ってきた。 太右衛門は踏切内に飛び込み間一髪で幼女を救ったが、 列車と接触して重傷を負い、 幼女を気遣いながらも22時間後に入院先で死亡した。 死亡前には事故の目撃者の1人から10円もの寄付があり、 大阪駅長が発起人となって義捐金を集め太右衛門に贈ろうとしていた。

この出来事に心をうたれた人々が太右衛門の功績を後世に伝えるため、 西暦1907年10月に現場付近(現・北区梅田三丁目)に「清水太右衛門殉職碑」が建立された。 西暦1945年の大阪大空襲で破壊されたため、 西暦1956年に国鉄総裁十河信二の揮毫で再建された。 西暦2007年に大阪駅の改装工事のため、 阪神高速池田線梅田出入口付近に移設、 これ以来JR社員によって数十年ぶりに命日に慰霊式が行われるようになった。 西暦2011年1月、 ノースゲートビルディングと立体駐車場をつなぐ通路に移設された。 そこからも後に撤去されたが、 正式な移設先は2020年現在決まっていない。

現場となった踏切は大阪駅高架化に伴い昭和初期に廃止された。

西暦1942年昭和17年)に太右衛門の行為を描いた紙芝居が大阪鉄道局によって制作された。 慰霊碑移設の新聞記事を見た作者の息子から西暦2011年6月に紙芝居がJR西日本に寄贈された。 『大阪駅物語』によって紙芝居が作られた事自体は知られていたが、所在は不明だった。

上信電鉄転落事故

上信電鉄転落事故 西暦1907年明治40年)8月17日

高崎発の列車が、 洪水により橋脚が傾いた烏川(からすがわ)鉄橋に進入したため川中に転落(機関車・緩急車1両・客車1両)。 即死1名・軽重傷8名を出した。

九州線中原駅構内列車衝突事故

九州線中原駅構内列車衝突事故   西暦1908年明治41年)5月17日

九州線(前年に九州鉄道を国有化したもの)中原駅で、 混合列車と駅に停留中の貨車が衝突。

この衝撃で貨車2両がプラットホームに乗り上げ駅舎を破壊、 待合室にいた2名が死亡、6名が負傷した。

銭函駅-軽川駅間列車脱線事故

銭函駅-軽川駅間列車脱線事故   西暦1908年明治41年)6月20日 11時53分頃

函館本線の銭函駅 - 軽川駅(現・手稲駅、ほしみ駅・星置駅・稲穂駅はすべて未開業)間を走行中の11列車が線路上の材木に乗り上げ、 機関車と客車4両、郵便緩急車1両が脱線転覆した。

乗客1名が死亡、20名が負傷。

東海道線蒲郡駅構内列車衝突事故

東海道線蒲郡駅構内列車衝突事故   西暦1908年(明治41年)9月2日

東海道線蒲郡駅で、旅客列車と貨物列車が衝突、 双方の機関車および客車3両と貨車4両が脱線し破壊、 乗客5名と職員1名が死亡し、8名が負傷した。

奥羽線赤岩信号所構内列車転覆事故

奥羽線赤岩信号所構内列車転覆事故   西暦1909年(明治42年)6月12日

奥羽線赤岩信号所で発生した列車転覆事故。 赤岩信号所を発車した列車が急勾配の第13号隧道内において空転を頻発した。 その際、後部補助機関車内の機関手および機関助手は蒸気により窒息し昏倒。 異常に気づいた本務機関車の機関手は非常制動をしようとしたが後退し始めた。 そのまま列車は赤岩信号所構内に侵入、脱線転覆した。

木造の客貨車は粉砕され、旅客は1人死亡、27人負傷。職員は3人死亡、3人が負傷した。

東海道線大垣駅列車追突事故

東海道線大垣駅列車追突事故   西暦1912年明治45年)6月17日 11時27分頃

東海道線大垣駅に停車していた軍用丁号列車に後続の貨物第459列車が追突し、 貨物列車の機関車が脱線、 軍用列車の客車4両が大破した。

兵士7名死亡、51名負傷。 貨物列車の速度の出し過ぎが原因。

大垣駅の遠方信号機の停止現示で制動を執るも、間に合わず追突した。

函館本線列車転落事故

函館本線列車転落事故 西暦1913年(大正2年)8月28日 2時45分頃

函館本線目名駅 - 熱郛駅で、 急行第4列車が土砂崩壊で埋まった線路に突入し立往生、 目名駅へ引き返そうと後退したが、 第1貝殻沢橋梁に差しかかったところで築堤が崩壊し、 2両目の客車が転落、1等寝台車など3両が横転した。

7名死亡、67名負傷。この事故を機に、目名・上目名間のルートが変更となった。

8月27日から28日にかけて北海道に台風が上陸、 北海道全域で家屋浸水3,800戸などの被害が出た。 この台風被害による死者は、 本件鉄道事故による7名の他、銭函で家屋流失などによる23名、 釧路で漁船遭難による14名、 札幌で豊平川堤防決壊による死者3名などとなっている。

当時は目名駅と上目名駅間の区間は現在とはルートが異なっており、 目名駅の南で目名川を渡らず、国道5号を横切り、目名川右岸を迂回していた。 事故が起きたのは目名川支流の郡界沢川に架けられていた鉄橋である。 なお北海道庁・蘭越町の記録では、 この事故による死者7名、負傷者は62名。 上目名駅の開業は事故の1ヶ月後の9月21日。

北陸本線列車脱線事故

北陸本線列車脱線事故 西暦1913年大正2年)10月3日 17時18分頃

北陸本線細呂木駅 - 大聖寺駅間(牛ノ谷駅は未開業)を走行中の下り第530旅客列車が敦賀起点55マイル30チェーン付近に差し掛かった際、 約80m前方で右側切取斜面の土砂が豪雨により崩壊して線路が埋没していることに気が付き緊急停止の手配を執ったが及ばず土砂に突入した。 機関車は土砂に乗り上げデッキ以下埋没、 次位の客車は粉砕されその他客車2両が小破し、 職員4名と乗客6名が負傷、 乗客1名が即死、 1名が現場で手当て中に死亡、 2名が病院へ搬送後に死亡する惨事となった。

現場は不通区間両端に仮乗降場を設け、 4日より徒歩連絡による運行が開始、6日に全面復旧した。

北陸線東岩瀬駅列車正面衝突事故

北陸線東岩瀬駅列車正面衝突事故   西暦1913年(大正2年)10月17日

北陸本線東岩瀬駅(現・あいの風とやま鉄道線東富山駅)で、 上り列車と行き違いを行う予定の下り臨時貨物列車第43列車がオーバーランを起こして本線に進入、 上り対向転轍機外方約24mの箇所に停車した。 手信号による退行中の午前4時23分ごろ、 今庄駅前運送店主催の善光寺参詣の旅行者を乗せた、 上り臨時団体旅客列車第700列車が停止信号を冒進し衝突した。 上り旅客列車は前部に客車10両を、 後部に貨車12両を連結した編成であったが、 うち客車6両が転覆脱線、 客車2両が破損、 貨車1両が脱線。 旅客24名が死亡(うち18名即死)、 旅客106名、 職員1名が負傷した。
(日本経済評論社『事故の鉄道史 疑問への挑戦』では即死21名、救出後事故当日中に死亡した者3名、23日午後に死亡した者2名、重軽傷者104名としている)。

下り貨物列車のオーバーラン、 上り旅客列車の停止信号の見落とし(上り旅客列車の乗務員は、夜間に信号を照らす石油ランプの火が消えていたために信号を確認できなかったと証言した)、 またはブレーキ操作の遅れが衝突の原因とされている。 ...

下り貨物列車運転士及び上り旅客列車運転士は起訴され、 西暦1914年大正3年)4月7日、 上り旅客列車運転士に禁錮8か月、 下り貨物列車運転士に罰金200円の刑が確定した。 事故の発端であるオーバーランを起こした下り貨物列車側よりも上り旅客列車側の処罰が重い理由は、 明治42年制定の列車運行及信号取扱心得第168条において「遠方信号機が確認できない場合は当該信号機に最大の制限のある危害信号(現在の停止信号)の現示があるものとして徐行し、 必要に応じて停車しなければならず、 場内信号機が停止信号であるならばその手前で停車しなければならない」との規定に違反していたためである。

また、 西暦1915年大正4年)2月1日付で鉄道院の部内処分が行われ、 上り旅客列車側の遠方信号機の灯火を理由に東岩瀬駅長が減俸処分、 下り貨物列車の緩急車へのブレーキ管の接続が不完全だったにもかかわらず(つながってはいたが、ブレーキはかからない状態だった)発車させ、 その際に虚偽報告をした事故当時の富山駅助役(処分発令時は事故の責任により金沢運輸事務所運輸課員に降格されていた)が同じく減俸処分、 部下(上り旅客列車乗務員)への監督責任により糸魚川機関庫主任が譴責処分となっている。

この事故を機に安全側線が採用され、日本全国に整備された。 安全側線は低速でのオーバーランに対しては有効であるが、 運転士が停車操作を行わない場合は安全に停車できず、 有効長が短いため砂利盛りに乗り上げるなどして脱線転覆し結局本線を支障することがある。 その結果発生した事故の例として、 後年に発生した参宮線六軒事故、 常磐線三河島事故などがある。 これらの事故を教訓にATS、ATCなどのさらなる安全設備が進展した。

東海道線西ノ宮駅列車脱線事故

東海道線西ノ宮駅列車脱線事故   西暦1914年大正3年)3月16日(列車脱線事故)

午前3時半ごろ、神戸発大阪行の貨物第579列車が西ノ宮駅(現・西宮駅)付近で脱線した。

37両中、14両が脱線。

東海道線熱田駅列車脱線事故

東海道線熱田駅列車脱線事故   西暦1914年大正3年)5月18日 3時4分頃

東海道線熱田駅において上り第10旅客列車が定時で同駅を通過しようとした際、 対向第24号転轍機のトングレールが基本レールに密着しておらずボギー客車3両が脱線・傾斜し、 乗客1名が死亡、16名が負傷した。

原因は事故当該の第10列車の前に熱田駅へ進入した中央線第551列車の到着後に第24号転轍機を転換しようとしたところ、 連動機に異常が生じたため検査を行っていたが、 信号手が転轍手との連絡を怠り既に連動機の故障が復旧し正当方向へ転轍機が転換したものと思い込んで第10列車に対して進行を指示する信号を現示したことであった。

東北本線滝沢駅列車脱線事故

東北本線滝沢駅列車脱線事故   西暦1915年大正4年)5月29日

東北本線滝沢駅を20時11分に発車した上り第238混合列車が同駅第1号(ロ)転轍機を通過中、 26両目の三等緩急車の車輪が同転轍機のトングレールに乗り上げ約11m進行後脱線し、 第1号(イ)転轍機の転轍標識に衝突するとともに前後4両の客車も脱線した。 その後も列車は進み続け第1号(イ)転轍機より約183m進行したところでようやく停止した。

これにより乗客1名が死亡、職員1名と乗客23名の合わせて24名が負傷した。

北陸線列車転落事故

北陸線列車転落事故   西暦1916年大正5年)6月11日 13時15分頃

北陸本線魚津駅 - 滑川駅間を第201列車(客車12両・貨車7両牽引)が走行中、 角川鉄橋の手前で後部貨車が脱線、 築堤下や川へ転落した。

この影響で4両目の3等客車も橋下へ転落し、11名が死亡、21名が負傷した。

軌道の安定を欠いていたところへ、 有蓋貨車が高速で通過し浮き上がったのが原因と推定された。

東北線列車正面衝突事故

東北線列車正面衝突事故   西暦1916年大正5年)11月29日

東北本線(現・青い森鉄道線)下田駅 - 古間木駅(現・三沢駅)間(当時向山駅は未開業)で、 下り臨時旅客列車と上り貨物列車が正面衝突。 軍隊入営兵士ら29名が死亡した。

当時、東北本線は単線で通票閉塞方式をとっていた。 当日夜、古間木駅助役と駅員1人が勤務時間中に外出し飲酒した。 先に戻ってきた駅員は下り臨時旅客列車の運転の連絡を受けて閉塞扱いをしたのち就寝し、 駅に戻った助役も寝てしまった。 その後、下り臨時旅客列車の運転を知らされていない別の駅員が、 到着した上り貨物列車に渡す通票が見当たらないために助役を起こして指示を仰いだ。 泥酔した助役は閉塞機から通票が取り出せないのは故障だと判断し、 針金を差し込む不正操作で通票を取り出して上り貨物列車に渡し発車させてしまった。 当時の閉塞機は通票が引っかかって取り出せなくなる故障が時として起こっており、 その際は針金などを差し込んで通票を取り出していたが、 この事故を機に、 不正扱いができないよう閉塞機の改良が進んだ。

岩越線雪崩事故

岩越線雪崩事故   西暦1917年大正6年)1月22日 - 23日

1月22日、岩越線(現・磐越西線)徳沢 - 豊実間で旅客列車の一部の車両が雪崩により埋没、 無事だった客車で乗客を避難させた。 翌23日、この列車の救援に向かった機関車が堆雪により停車、 除雪作業中に雪崩の直撃を受けた。

死者9名。なお同線では同年3月にも雪崩による鉄道事故と、 松野トンネル崩壊事故が発生している。

信越本線熊ノ平駅列車脱線事故

信越本線熊ノ平駅列車脱線事故   西暦1918年大正7年)3月7日

熊ノ平駅を軽井沢方面へ発車した貨第191列車(10000形電気機関車2両・貨車10両・有蓋緩急車1両)の本務機関士が、 第20号トンネル通過中に異臭・異音を感じ、緊急停車した。 故障は軽微であったことから運行継続を決断し、 再発車しようとしたが起動せず、 碓氷峠の急勾配を退行し始めた。 機関士は制動を試みたが発電ブレーキが故障して効かず、 10か所のトンネルを通過暴走して熊ノ平駅の引込線に突っ込み、 第10号トンネル終点側出口付近の岩壁に衝突した。 列車は転覆して大破。

これにより乗務員1名、 熊ノ平駅転轍手1名の計2名が即死、 補助機機関士・後部車掌の2名が重傷後死亡で計4名が犠牲となり、 ほか4名が負傷した。

山陰本線列車脱線事故

山陰本線列車脱線事故 西暦1918年大正7年)7月12日

午前9時43分、 山陰本線湖山駅 - 宝木駅間(鳥取大学前駅・末恒駅は未開業)を走行中の第605混合列車が、 進行方向左側の築堤が約66mに渡って深さ約1 - 3m陥没している箇所に進入した。 このため貨車8両・客車2両が転覆、客車3両が傾斜、客車2両が脱線し、 乗客2名が後に死亡、職員11名と乗客45名が負傷した。

下関駅構内爆発事故

下関駅構内爆発事故   西暦1918年大正7年)7月26日

山陽本線下関駅(旧)構内で関門連絡船に積込み中の弾薬搭載の貨車が爆発。 作業員ら34名が死亡、51名が負傷した。 さらに鉄道貨車7両が粉砕し118両が脱線したうえに、 下関駅構内にいた急行列車の客車窓ガラスも破壊されたため、 列車の乗員乗客55名も負傷した。

山手線恵比寿駅踏切障害事故

山手線恵比寿駅踏切障害事故   西暦1918年大正7年)8月5日

14時8分頃、山手線恵比寿駅の構内踏切において鉱山用火薬を積んだ荷車が急坂を降り下り、 そのまま同線下り線に進入し身動きが取れなくなった。 同踏切の踏切番と協力し荷車を踏切外へ出そうとしたが、 そこへ目黒駅を定刻で発車した下り第185列車が接近。 運転士は進路を支障する荷車を認め制動を執ったが及ばず衝突し、 積荷の火薬が爆発したため電車1両が焼損、 職員9名と乗客29名が負傷、荷車の挽子1名が死亡した。

東海道線列車多重衝突事故

東海道線列車多重衝突事故   西暦1918年大正7年)10月27日

東海道線川崎駅4番線に停車中の下り第321貨物列車が発車時刻となったため同駅を発車したところ、 上下本線の亘り線が反位に転換していたため第321列車は上り本線に進出した。 これを認めた同駅駅員はすぐに下り方隣駅の鶴見駅へ対向の上り第604貨物列車の発車を抑止するよう依頼したものの、 既に第604列車は鶴見駅を発車していたためなす術がなく、 20時21分に両列車は正面衝突した。 これにより両列車の機関車が大破、 貨車5両粉砕、 3両転覆、 2両が脱線した上に散乱した貨物が隣接する下り電車線を支障し、 そこへ進行してきた下り第947電車がこれに乗り上げて脱線。

貨物列車の職員2名が死亡、4名が負傷し、 電車の職員1名が負傷する多重衝突事故となった。

東海道線垂井駅転覆事故

東海道線垂井駅転覆事故   西暦1919年大正8年)7月29日 22時46分頃

東海道線垂井駅を通過中の神戸発東京行きの12急行列車が、 垂井駅東方の相川橋梁付近で停車中の第308単行機関車列車に衝突、 急行列車の機関車は線路下の畑に転落、 1両目の緩急車と2両目の一等寝台車は粉砕された。

この事故で死者1名、重軽傷者21名を出した。

急行列車には神戸の海運事業家として知られた内田信也が家族(母、兄)と共に乗車しており、 内田と母は重傷、 内田の兄は即死した。 原因は駅員の不注意によるもので単行機関車を下り線に入れ替えることを忘れそのまま放置したことによる。

東海道線人身障害事故

東海道線人身障害事故   西暦1919年大正8年)10月12日 22時25分頃

東海道線蒲田駅 - 大森駅間の池上街道近くの地点で、 池上本門寺御会式に参拝した群衆が柵を超えて線路内に立ち入り、 走ってきた932電車と衝突し8名が死亡、 3名が負傷した。 群衆が線路内に立ち入った理由は不明。

北陸線列車衝突事故

北陸線列車衝突事故   西暦1920年大正9年)8月10日

北陸本線熊坂信号所(現:牛ノ谷駅)- 大聖寺駅間の熊坂隧道内において、 10時30分頃下り第229不定期貨物列車とモーターカーが衝突しモーターカーは大破。

職員5名が負傷しうち2名が後に死亡した。

モーターカーは小松駅 - 粟津駅[注 4]間の今江踏切の架道橋への切替工事にあたっての現場視察のため、 金沢保線事務所長がその他の保線職員と共に乗り込み美川駅より駅長に無断で運転していた。 その後、 熊坂隧道東坑口にて第229列車の退避のため一旦モーターカーを線路から取り外したものの、 通過時刻を過ぎても第229列車が通過しなかったためモーターカーの運転を再開し熊坂隧道へ進入したところ、 定刻より約3分遅れで運転していた第229列車と衝突したものである。

鹿児島線赤間駅列車衝突事故

鹿児島線赤間駅列車衝突事故   西暦1920年大正9年)11月27日

上り第76貨物列車が鹿児島本線赤間駅4番線を定刻より7分遅れの午前7時3分に出発し、 下り本線を横断して上り本線へ進出中、 前区間での遅れを取り戻そうと回復運転を行っていた下り第469貨物列車が同駅の場内信号機の停止現示を冒進し、 第76列車の前部より6両目の車両に衝突。これにより第76列車の貨車6両と第469列車の機関車及び貨車15両が脱線転覆し、職員1名が即死、2名が負傷した。

磐越西線小島山トンネル列車脱線火災事故

磐越西線小島山トンネル列車脱線火災事故   西暦1921年大正10年)3月20日 18時8分

磐越西線五十島駅 - 馬下駅間(当時東下条駅・咲花駅は未開業)にある小島山トンネルの東側出口で、 雪混じりの土砂が堆積しているところに上り列車が突入し脱線。 多数の重軽傷者が発生する中、 郵便係員用のストーブから出火し全車両に延焼した。死者9名。

北陸線列車雪崩直撃事故

北陸線列車雪崩直撃事故   西暦1922年大正11年)2月3日

北陸本線(現・えちごトキめき鉄道日本海ひすいライン)親不知駅 - 青海駅間にあった勝山トンネル西口で、 65列車(蒸気機関車2296(2120形)牽引、6両編成)が雪崩の直撃を受け客車2両が脱線大破した。 乗員乗客200名のうち、乗客89名・鉄道職員1名、合わせて90名が死亡した。

事故原因は、 豪雪による積雪が、 季節外れの大雨によって緩んだために発生した雪崩に巻き込まれたものだった。 雪崩による鉄道事故の犠牲者数では、 現在に至るまで日本で最悪の数字である。

山陰本線保津川橋梁付近列車脱線事故

山陰本線保津川橋梁付近列車脱線事故   西暦1922年大正11年)4月3日 17時45分

山陰本線亀岡駅 - 嵯峨駅(現・嵯峨嵐山駅)間にある保津川橋梁付近で、 園部発京都行き110列車の4 - 6両目貨車が脱線し、 後方の客車も貨車から切り離された後、脱線した。

即死者3名、負傷者多数。 山陰本線の前身である京都鉄道の設立者でもある実業家の田中源太郎も巻き込まれて死亡している。

事故翌日の報道によれば、 事故の原因は現場付近で急ブレーキをかけたことにより、 積み荷の材木が線路に落下したこととされる。

東北本線久田野駅列車脱線事故

東北本線久田野駅列車脱線事故   西暦1923年大正12年)1月9日

東北本線久田野駅において、 2時33分頃に上り第402旅客列車が同駅出発信号機の停止信号を冒進して側線の車止めを突破。 機関車及び客車2両が脱線大破し、 乗客6名が即死、職員1名と乗客27名が負傷した。

所定では第402列車は久田野駅を通過し白河駅で対向の下り第705列車との行き違いを行う予定であったが、 当日は第402列車の遅延のため行き違い駅を久田野駅に変更しており、 第402列車は同駅に臨時停車する手筈であった。 しかし、第402列車の運転士は同駅場内信号機の現示を見落とし減速しないまま進行し、 出発信号機の停止信号に気が付いて制動を執ったものの及ばず側線に突入した。

筑豊本線折尾駅列車衝突事故

筑豊本線折尾駅列車衝突事故   西暦1923年大正12年)1月28日

14時25分頃、 筑豊本線折尾駅に定刻より5分遅れて停車中の若松発伊田(現:田川伊田駅)行き下り第721旅客列車に、 定刻より5分早く同駅を通過しようとした後続の若松発直方行き下り第103貨物列車が衝突し、 第721列車の客車2両が脱線大破、 客車1両が破損し第103列車の機関車及び貨車2両が脱線。 乗客1名が死亡、職員1名と乗客77名が負傷した。

当日、 折尾駅では13時30分頃に筑豊本線下り信号機の腕木が故障し、 助役の指示により信号取扱補助者と通信工手の2名が関係信号機の点検及び試験を行っていた。

14時18分頃、 上り方隣駅の本城信号所より、 第103列車の本城信号所 - 折尾駅間への進入許可を求められ折尾駅助役はこれを承認したが、 第721列車が下り線に停車中であるため、 一時試験を中止し下り場内信号機に停止信号を現示するよう連絡するべきところこれを怠った。

その後、助役は上り第88列車の出発信号機を転換するため詰所を出たところ、 下り場内信号機が、 進行を指示する信号を現示していることに気が付き、 直ちに信号を停止現示とした。 しかし、既に後続の第103列車は、 下り遠方信号機及び場内信号機の進行を指示する信号の現示を確認して、 通過速度で折尾駅に進入しており、 停車中の第721列車を認めた運転士が急制動を執ったものの及ばず衝突した。

折尾駅助役は業務上過失致死罪に問われ、 同年11月26日に罰金400円又は200日間の労役場留置が言い渡された。

参宮線列車転覆事故

参宮線列車転覆事故   西暦1923年大正12年)4月16日

参宮線(現・紀勢本線)下庄駅 - 一身田駅間(亀山駅より約8.1km地点)で、 湊町(現・JR難波)発鳥羽行き急行62列車が脱線転覆した事故。

死者15名、負傷者約160ないし200名。

この日は先発の第60列車が定員オーバーにより連結器が破損して2時間以上遅れ、 その間に、 名古屋方面から来た乗客を乗せるため亀山駅より臨時列車が第60列車のダイヤに沿って発車(臨時60列車)、 遅れて到着した第60列車は第62列車のダイヤに沿って運転、 さらにその後ろを走っていた第62列車は下庄駅で上り第310列車を待ち合わせたため、 32分遅れで発車した。

事故現場では、 この第310列車の通過後40分間は列車が来ないことになっており、 この間にレールを交換する予定であった。 しかし、それを知らせる標識は一切出しておらず、 レールを外し終わったところに62列車が差しかかり脱線・転覆した。

機関車は線路の敷かれていた築堤上に停車、 しかし木造客車7両のうち4輪単車の1 - 3両目は築堤の下に落ちて大破、 同じく4輪単車の4・5両目も折り重なるようにして大破、 線路上に残っていたボギー車の6・7両目も破損した。 そして築堤下に落ちたうちの1両は写真では一切確認出来ないほど大破した。

根府川駅列車転落事故

根府川駅列車転落事故   西暦1923年大正12年)9月1日(関東大震災)

熱海線(現・東海道本線)根府川駅のホームに停止しようとしていた、 下り真鶴行き列車(960形蒸気機関車977牽引、乗客約150名)が、 関東地震によって引き起こされた地滑りに遭遇し、 ホームごとおよそ45m下の海中に転落、 客車8両のうち最後部の2両[注 5] が波打ち際に残ったほかは海中に没した。 鉄道省の記録では、 列車の乗客と乗務員合わせて111名が死亡。 さらにホームにいた駅員3名が死亡、 乗客約20名が行方不明、 これも合計すると死者行方不明者は約130名となっているが、 死者数は資料によって異なっている。

また、 根府川駅で下り事故列車と交換するはずであった東京行き上り列車は、 遅延していたため寒ノ目山トンネルを出た所で地すべりに遭遇し、 客車6両をトンネル内に残して960形蒸気機関車(979[58])が埋没、 職員4名と乗客2名が死亡した。

関東大震災では12件の鉄道事故が発生し、 犠牲者が出た事故は7件あったが、 根府川駅における事故が最大の犠牲者を出していた。

東海道線裾野駅列車脱線事故

東海道線裾野駅列車脱線事故   西暦1923年大正12年)9月6日 19時10分頃

東海道本線(現・御殿場線)下り臨時貨物"ロ"列車は、 現車33両で機関車逆行運転で御殿場駅を27分遅れの18時47分に発車後、 速度が徐々に増加する傾向があり注意運転を行っていたが、 富士岡信号場(現・富士岡駅)手前より再度速度が増加。 制動を執るも速度は落ちず、 隣の岩波信号場(現・岩波駅)通過時には既に手の施しようがない状態となった。

その後も暴走を続けたまま裾野駅進入時に転轍機附帯曲線部で機関車と貨車29両が脱線、 うち23両が大破した。 これにより職員12名が死亡、 1名が負傷したほか、 臨時貨物列車が沼津駅まで運行されることを知り係員の拒絶を振り切って乗車していた公衆のうち1名が死亡、 5名が負傷した。

高崎線本宿信号場列車脱線事故

高崎線本宿信号場列車脱線事故   西暦1923年大正12年)9月17日 6時36分頃

高崎線本宿信号場(現・北本駅)に上り第104旅客列車が進入する際、 第5号(ロ)転轍機のトングレールが基本レールに密着しておらず鎖錠桿が不転換となったが、 当務助役は鎖錠桿の不具合と即断し手信号により第104列車を進入させ、 同転轍機にて機関車及び客車3両が脱線、 客車1両が転覆し職員4名と乗客9名が死亡、 職員3名と乗客37名が負傷した。 当時は関東大震災直後ということもあり乗客が多く、 炭水車上や機関車のデッキ上、 客車間に多数の乗客・職員が乗っていたことから被害が拡大した。

事故原因となった第5号(ロ)転轍機の不密着の原因は不明であるが、 トングレールと基本レールの間にサイダー瓶の破片が多数存在したことから、 投げ捨てられたサイダー瓶がトングレール可動部に挟まって不密着状態となった可能性があると推定された。

東海道線宮原信号所列車脱線事故

東海道線宮原信号所列車脱線事故   西暦1923年大正12年)12月31日

東海道本線宮原信号所(塚本駅構内)を東京発糸崎行き第31旅客列車が通過の際、 信号所助役が誤って本線ではなく北方貨物線へ進路を構成していた上、 第31列車機関士が下り場内信号機の1つ外方の半自動信号機が進行現示であったことから、 下り本線場内信号機も進行現示であると思い込み前方注視を怠り、 本線場内信号機の約100m手前で停止現示を認め、 急制動の手配を執るも及ばず、 制限速度を超過した状態で渡り線上を進行。 第6号転轍機付近で脱線転覆し乗客20名が負傷した。

宮原信号所では、 第31列車の通過前の15時40分頃に、 駅手が、 吹田西信号所より、 次の通過列車が第31列車であるとの通報を受けていたが、 同列車は平時であれば宮原を14時50分に既に通過しており、 時刻表上では次の通過列車は、 北方貨物線へ向かう第411貨物列車であったため、 助役は駅手に対し、 吹田西信号所へ再度次通過列車の列車番号を問い合わせるよう命じた。 問い合わせを受けた吹田西信号所は再度第31列車が通過すると通報したものの、 助役は、 第31列車は既に通過済みとしてこれを無視して、 北方貨物線への進路を構成し、 下り半自動信号機と下り北方貨物線場内信号機に進行信号、 下り本線場内信号機に停止信号を現示していた。

宮原信号所助役及び第31列車機関士は業務上過失往来危険罪及び殺人予備罪に問われ、 西暦1924年大正13年)10月10日に、 助役は禁錮5年、 機関士は禁錮3年の判決が下された。

箱根登山鉄道電車脱線転落事故

箱根登山鉄道電車脱線転落事故   西暦1926年大正15年)1月16日

小田原電気鉄道(現・小田急箱根)鉄道線小涌谷駅 - 宮ノ下駅間の80‰の下り勾配を走行していた、 箱根湯本行き単行電車(チキ1型チキ5)のブレーキが効かなくなり、 加速してカーブで脱線。 築堤から12メートル下に落下し、 民家2軒(留守で誰もいなかった)を半壊させた。 この事故で17名が死亡、10名が負傷した。 唯一無傷だったのは途中で飛び降りた乗客1名のみだった。

事故原因は、 鉄道省による調査では線路・車両共に異常は見つからず、 電車運転士が速度制御に失敗したと推定されたが、 重傷の運転士は当時の記憶を喪失しており、 詳細を調査できず原因不明として処理された。

事故車のチキ5は廃車となった。 その後、 西暦1950年に、 チキ1型の台車などを流用したモハ1形が製造されたが、 車両番号は台車の流用元の番号に100を足したものとされたため、 105号が当初から存在しない状態となっている。

山手線池袋駅旅客転落事故

山手線池袋駅旅客転落事故   西暦1926年大正15年)3月15日

山手線品川発外回り第1015列車(4両編成)が池袋駅に停車中に車掌が閉扉したところ、 扉へ押し寄せる乗客が多く完全に閉扉できていなかったが、 車掌は安全確認を怠り漫然と運転士へ発車合図を送ったため、 複数の乗客が乗り切れていない状態で列車が発車。

乗客数名が列車に引きずられるなどしてホーム上へ転倒したほか、 2両目中央扉から乗車しようとしていた乗客1名が列車とホームの隙間から軌道内へ転落して死亡した。

山陽本線安芸中野駅-海田市駅間脱線事故

山陽本線安芸中野駅-海田市駅間脱線事故   西暦1926年大正15年)9月23日

鉄道省山陽本線安芸中野駅 - 海田市駅間で、 豪雨により築堤が崩壊し線路が浮き上がっていた場所に、 東京発下関行きの下り特急第1列車(事故後の西暦1929年昭和4年)に「富士」と命名)が差し掛かり、 築堤下に脱線転覆し、 死者34人、負傷者39人の犠牲者を出した列車脱線事故である。

事故列車はヨーロッパ - アジア間国際連絡運輸の一部を担うものであり、 著名人が多数犠牲となった。 木造客車の車体強度の弱さが指摘され、 この事故と参宮線における事故(参宮線列車転覆事故のことか???)により木造車両の製造を中止し、 翌年から鋼製客車が製造されるようになった。

前日の9時30分に東京駅を出発し下関に向かっていた下り特急第1列車は、 28977号蒸気機関車(18900形、後のC51形178号機)が11両の客車を牽引していた。 途中停車駅である広島県の山陽本線糸崎駅を1時46分に出発し広島駅に向かっていた。 中野村(のちの瀬野川町、現在の広島市安芸区)にある安芸中野駅を定刻より3分遅れの3時28分に通過。 そこから少し離れた神戸起点295.6 km付近の築堤が、 豪雨による畑賀川決壊により溢れ出た川水によって破壊され、 築堤が崩壊し、線路が浮き上がっていた。 見回りをしていた消防団員が危険を察知し踏切番に急停車の信号を依頼をしたが間に合わず、 3時30分、列車がその地点にさしかかり脱線転覆した。 事故の5分前には現場を下り貨物列車が無事に通過しており、 僅かの差で遭難することになった。 ...
現場付近の恒久的な対策として、 従来の築堤をかさ上げするとともに、 脱線箇所である神戸起点295.6km付近の築堤については、 再び地盤が浸食によって崩壊することのないように、 盛土構造とはせず、 全長20mの橋桁が掛けられた。 この橋は下に道路も水路もない構造になっているが、 洪水の際に溢れ出た水の逃げ道にするための工夫である。 畑賀川に掛かる鉄橋も嵩上げと中央橋脚の撤去が行われた。 慰霊碑は安芸中野駅近くにある専念寺境内に建立されている。

阪急十三駅三重衝突事故

阪急十三駅三重衝突事故   西暦1926年大正15年)10月14日

阪急神戸線十三駅構内を走行中、 神戸(後に上筒井駅に改称され廃止)発梅田行列車(500形508+509+510)が宝塚線の引上線へ誤進入。 その後、電動貨車1208号が510号と接触。 さらに、神戸行列車(600形604+602+606)が510号と接触し、 三重衝突事故となった。

事故車両はすべて鋼製車両だったため、 死者はなく、 負傷者3人のみにとどまった。

三河鉄道若林駅正面衝突事故

三河鉄道若林駅正面衝突事故   西暦1928年昭和3年)4月1日

三河鉄道三河本線(現・名鉄三河線)若林駅に停車しようとした下り貨物列車が、 ブレーキ故障により冒進し単線区間に進入、 同駅付近で対向の旅客列車と正面衝突した。

翌日の報道では乗客44名のうち生命危機1名、重傷6名、軽傷13名とされている。

東京市電大曲衝突事故

東京市電大曲衝突事故   西暦1928年昭和3年)7月3日

事故当日の朝、 東京市電の21系統厩橋発早稲田行電車(1471形1632号)が、 竹町停留所付近で空気ブレーキの故障を起こし、 同停留所で客扱いを中止して早稲田車庫への回送を決定。 春日町停留所まで単独運行したあとに、 大塚行きの電車との連結運転で伝通院停留所へ到着。 同停留所から次の早稲田行きの電車に連結するために、 早稲田方面の線路に侵入したところ、 安藤坂の自然傾斜により電車は暴走を始める。

同車の監督運転士が暴走する電車に飛び乗り、 運転士と共に電車を制動させようとするも失敗し、 坂下の大曲交差点に差し掛かっていた、 38系統早稲田発錦糸堀行きの電車(1001形1056号)の運転士が、 回送車の監督運転士の危険を知らせる絶叫に気づいて電車を発進させるも、 間に合わずに側面に衝突した。

朝ラッシュで乗客を満載していた錦糸堀行き電車は、 民家の板塀を突き破った状態で横倒しとなり、 回送車は運転台をもぎ取られた状態で停止。

回送車の監督運転士が即死し、33名が重軽傷を負った。

北陸線柳ヶ瀬トンネル窒息事故

北陸線柳ヶ瀬トンネル窒息事故   西暦1928年昭和3年)12月6日

北陸本線刀根駅 - 柳ヶ瀬駅間(後に新線切替に伴い当該区間は柳ヶ瀬線に分離、1964年〈昭和39年〉廃止)にある柳ヶ瀬トンネル(単線)を走行していた上り556貨物列車(D50形蒸気機関車2両、前部本務機D50 64、後部補機D50 206)が、 トンネル内の25 ‰の登り坂で空転を起こして速度が低下し、 出口まで25 mの地点で走行不能となった。 トンネル内に煤煙が充満したため上り貨物列車の乗員10名が窒息したが、 かろうじて前部本務機の乗務員3名が這い出て昏倒した。

トンネル直前にあった雁ヶ谷信号所で待機していた、 下り553貨物列車の機関車が救助のために牽引し、 トンネル外に押し出したが、 下り機関車の乗務員2名も昏倒した。 結果、上下の貨物列車の乗務員12名全員が窒息し、 上り貨物列車の車掌・荷扱手、機関助士見習の3名が死亡した(一部に5名死亡の記録もある)。 ...

事故原因は、 2日前に別の鉄道事故で1日間不通になったことにより、 滞貨していた貨物を大量に牽引していたため重量が超過していたこと、 レールに積雪があり車輪が空転していたこと、 風が貨物列車にとって追い風となり、 煤煙がまとわりついて拡散しなかったことがあげられている。 しかし、最大の原因は柳ヶ瀬トンネルが西暦1884年明治17年)に開通したトンネルであり、 明治時代の小さな蒸気機関車にあわせた規格のトンネル断面(後年の標準規格の71 %のサイズしかなかった)で建設されていたことである。 そのため、昭和時代になって大型蒸気機関車が通行するようになると、 空間に余裕がなくなり、 煤煙が充満して当該窒息事故が発生した。

事故対策として、 全国の長大トンネルで、 列車が入ると煤煙にまかれないように遮断幕を下ろす設備が整備されたほか、 蒸気機関車の運転室に煤煙が入らないように、 集煙装置がつけられるようになった。

信越線列車・除雪車正面衝突事故 1929年(昭和4年)2月1日