小窓
光孝天皇(こうこうてんのう、くゎうかうてんのう)

作成日:2020/6/10

光孝天皇は、日本の第58代天皇。
仁明天皇の第三皇子。母は藤原総継の娘、贈皇太后沢子。
漢風諡号を持つ古代最後の天皇であり、 漢風諡号の奉呈はその後、 千年近く経った江戸末期の光格天皇による復興まで待つことになる。

  《紀》:日本書紀による記述  《記》:古事記による記述
日本の第58代天皇 光孝天皇(こうこうてんのう、くゎうかうてんのう)

[在位] 元慶8年3月5日(西暦884年2月5日)- 仁和3年8月26日(西暦887年9月17日)《紀》
[生没] 天長7年(西暦830年)- 仁和3年8月26日(西暦887年9月17日)58歳没《紀》
[時代] 平安時代
[先代] 陽成天皇
[次代] 宇多天皇
[陵所] 後田邑陵(のちのたむらのみささぎ)。小松山陵(小松山陵(こまつやまのみささぎ)とも。
[] 時康(ときやす)
[別称] 仁和帝(にんなのみかど)または、山陵の名を以て小松帝(こまつのみかど)
[父親] 仁明天皇
[母親] 藤原沢子(ふじわら の たくし/さわこ)
[皇居] 平安宮

年譜

天皇の系譜(第51代から第59代)
天長7年(西暦830年)
() 降誕
承和3年(西暦836年)
1月7日() 四品に叙品。
承和10年(西暦843年)
2月2日(3月6日) 元服
嘉祥元年(西暦848年)
1月13日() 常陸太守に任官。
嘉祥3年(西暦850年)
5月17日() 中務卿を兼任。
仁寿元年(西暦851年)
11月21日() 三品に昇叙。中務卿・常陸太守如元。
仁寿3年(西暦853年)
常陸太守を止む。
斉衡3年(西暦856年)
6月() 上野太守を兼任。
貞観2年(西暦860年)
1月15日() 上野太守を止む。
貞観6年(西暦864年)
上野太守を兼任。
貞観8年(西暦866年)
1月13日() 上野太守を止め、大宰帥を兼任。
貞観12年(西暦870年)
2月7日() 二品に昇叙。大宰帥・中務卿如元。
貞観13年(西暦871年)
1月28日() 大宰帥を止む。
貞観15年(西暦873年)1月13日、上野太守を兼任。
貞観15年(西暦873年)
1月13日() 上野太守を兼任。
貞観18年(西暦876年)
12月26日() 中務卿を止め、式部卿を兼任。
元慶元年(西暦877年)
10月17日() 上野太守を止む。
元慶4年(西暦880年)
1月11日() 常陸太守を兼任。
元慶6年(西暦882年)
1月7日() 一品に昇叙。式部卿・常陸太守如元。
(西暦
() 
884年(元慶8年)1月11日、大宰帥を兼帯。 2月8日、受禅
元慶8年(西暦884年)
1月11日() 大宰帥を兼帯。
2月23日(3月23日) 即位礼
元慶8年(西暦884年)
11月22日(12月13日) 大嘗祭
仁和3年(西暦887年)
8月26日(9月17日) 崩御。於:仁寿殿
仁和3年(西暦887年)
9月2日(9月22日) 大喪儀
(西暦)
() 
() 
(西暦)
() 
() 

略歴

幼少より太皇太后橘嘉智子の寵愛を受ける。 843年(承和10年)、父仁明天皇の御前で元服して親王となり、 四品に叙せられる。 以後、中務卿、式部卿、相撲司別当、大宰帥、常陸太守、上野太守と、 親王が就任する慣例となっている官職のほぼすべてを歴任し、 882年(元慶6年)、一品に叙せられ親王の筆頭となった。

陽成天皇が母方の叔父である藤原基経によって廃位されたのち55歳で即位。
藤原基経は母方の従兄弟にあたる。
『徒然草』には即位後も、 不遇だったころを忘れないようかつて自分が炊事をして、 黒い煤がこびりついた部屋をそのままにしておいた、 という話があり、 『古事談』にも似たような逸話がある。
基経を関白として、前代に引き続いて政務を委任した。
その際、 基経は陽成天皇の弟であり、 やはり自身の甥である貞保親王にいつか天皇を継がすであろうと斟酌し、 即位と同時にすべての子女を臣籍降下させ、 子孫に皇位を伝えない意向を表明していた。
だが、 基経は妹である高子と仲が悪く、 その子である貞保親王を避けていた為に次代の天皇の候補者が確定していなかった。
じきに病を得たため、 仁和3年8月25日に子息・源定省(後の宇多天皇)を親王に復し、 翌8月26日に立太子させた。
同日に天皇は58歳で崩御(死亡)し、 定省親王が践祚した(宇多天皇)。

宮中行事の再興に務めるとともに諸芸に優れた文化人でもあったとされる。和歌・和琴などに秀でたともされ、桓武天皇の先例にならって鷹狩を復活させた。また、親王時代に相撲司別当を務めていた関係か即位後相撲を奨励している。晩年は、政治改革を志向するとともに、親王時代の住居であったとされる宇多院の近くに勅願寺創建を計画するも、いずれも実現を見ぬままに終わり、跡を継いだ宇多天皇の「寛平の治」及び仁和寺創建に継承されることになる。

『日本三代実録』に「天皇少く(わかく)して聡明、好みて経史を読む。容止閑雅、謙恭和潤、慈仁寛曠、九族を親愛す。性、風流多く、尤も人事に長ず」と評されている。

后妃・皇子女

ほか后妃・皇女多数

陵・霊廟

陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市右京区宇多野馬場町にある後田邑陵(のちのたむらのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は円丘。「小松山陵(こまつやまのみささぎ)」とも。

江戸時代には陵の所在はまったくの不明となっており、明治期になり京都市右京区宇多野馬場町の現陵の場所に定められた。ただし、比定に確たる根拠があったわけではなく、仁和寺の西南にあたる現在の場所は文献記録とも矛盾すると指摘されている[2][3]。

上記とは別に、京都府京都市右京区御室大内にある宮内庁の御室陵墓参考地(おむろりょうぼさんこうち)では、光孝天皇が被葬候補者に想定されている[4]。

また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。


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