幼少より太皇太后橘嘉智子の寵愛を受ける。 843年(承和10年)、父仁明天皇の御前で元服して親王となり、 四品に叙せられる。 以後、中務卿、式部卿、相撲司別当、大宰帥、常陸太守、上野太守と、 親王が就任する慣例となっている官職のほぼすべてを歴任し、 882年(元慶6年)、一品に叙せられ親王の筆頭となった。
陽成天皇が母方の叔父である藤原基経によって廃位されたのち55歳で即位。
藤原基経は母方の従兄弟にあたる。
『徒然草』には即位後も、
不遇だったころを忘れないようかつて自分が炊事をして、
黒い煤がこびりついた部屋をそのままにしておいた、
という話があり、
『古事談』にも似たような逸話がある。
基経を関白として、前代に引き続いて政務を委任した。
その際、
基経は陽成天皇の弟であり、
やはり自身の甥である貞保親王にいつか天皇を継がすであろうと斟酌し、
即位と同時にすべての子女を臣籍降下させ、
子孫に皇位を伝えない意向を表明していた。
だが、
基経は妹である高子と仲が悪く、
その子である貞保親王を避けていた為に次代の天皇の候補者が確定していなかった。
じきに病を得たため、
仁和3年8月25日に子息・源定省(後の宇多天皇)を親王に復し、
翌8月26日に立太子させた。
同日に天皇は58歳で崩御(死亡)し、
定省親王が践祚した(宇多天皇)。
宮中行事の再興に務めるとともに諸芸に優れた文化人でもあったとされる。和歌・和琴などに秀でたともされ、桓武天皇の先例にならって鷹狩を復活させた。また、親王時代に相撲司別当を務めていた関係か即位後相撲を奨励している。晩年は、政治改革を志向するとともに、親王時代の住居であったとされる宇多院の近くに勅願寺創建を計画するも、いずれも実現を見ぬままに終わり、跡を継いだ宇多天皇の「寛平の治」及び仁和寺創建に継承されることになる。
『日本三代実録』に「天皇少く(わかく)して聡明、好みて経史を読む。容止閑雅、謙恭和潤、慈仁寛曠、九族を親愛す。性、風流多く、尤も人事に長ず」と評されている。
陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市右京区宇多野馬場町にある後田邑陵(のちのたむらのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は円丘。「小松山陵(こまつやまのみささぎ)」とも。
江戸時代には陵の所在はまったくの不明となっており、明治期になり京都市右京区宇多野馬場町の現陵の場所に定められた。ただし、比定に確たる根拠があったわけではなく、仁和寺の西南にあたる現在の場所は文献記録とも矛盾すると指摘されている[2][3]。
上記とは別に、京都府京都市右京区御室大内にある宮内庁の御室陵墓参考地(おむろりょうぼさんこうち)では、光孝天皇が被葬候補者に想定されている[4]。
また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。