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事件1000年代

作成日:2024/1/7

発生日付順で記載する。

1627/??/??:紫衣事件

紫衣事件(しえじけん)  発生:西暦1627年寛永4年)

紫衣事件は、 江戸時代初期における、 江戸幕府の朝廷に対する圧迫と統制を示す朝幕間の対立事件。 江戸時代初期における朝幕関係上、 最大の不和確執とみなされる事件。
また、 後水尾天皇はこの事件をきっかけに幕府に何の相談もなく譲位を決意したとも考えられており、 朝幕関係に深刻な打撃を与える大きな対立だった。
紫衣と事件に至る事情
紫衣(しえ)とは、紫色の法衣や袈裟をいい、 古くから宗派を問わず高徳の僧・尼が朝廷から賜った。 僧・尼の尊さを表す物であると同時に、 朝廷にとっては収入源の一つでもあった。
これに対し、 江戸幕府はかねてより寺院・僧侶間の訴訟・争論に対処しており、 公家の不行跡である猪熊事件と併せて、 宗教界・朝廷の統制を行う必要性を認識していた。 慶長18年(西暦1613年)、 幕府は公家衆法度と共に「勅許紫衣竝に山城大徳寺妙心寺等諸寺入院の法度」(「勅許紫衣法度」「大徳寺妙心寺等諸寺入院法度」)を定め、 さらに慶長20年(西暦1615年)には禁中並公家諸法度を定めて、 朝廷がみだりに紫衣や上人号を授けることを禁じた。
一 紫衣の寺住持職、先規希有の事也。近年猥りに勅許の事、且つは臈次を乱し、且つは官寺を汚し、甚だ然るべからず。向後に於ては、其の器用を撰び、戒臈相積み智者の聞へ有らば、入院の儀申し沙汰有るべき事。(禁中並公家諸法度・第16条)
事件の概要
このように、幕府が紫衣(しえ)の授与を規制したにもかかわらず、 後水尾天皇は従来の慣例通り、 幕府に諮らず十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与えた。 これを知った幕府(3代征夷大将軍・徳川家光)は、 寛永4年(西暦1627年)、 事前に勅許の相談がなかったことを法度違反とみなして多くの勅許状の無効を宣言し、 京都所司代・板倉重宗に法度違反の紫衣(しえ)を取り上げるよう命じた。

幕府の強硬な態度に対して朝廷は、 これまでに授与した紫衣着用の勅許を無効にすることに強く反対し、 また、大徳寺住職・沢庵宗彭や、 妙心寺の東源慧等ら大寺の高僧も、 朝廷に同調して幕府に抗弁書を提出した。

寛永6年(西暦1629年)、 幕府は、沢庵ら幕府に反抗した高僧を出羽国や陸奥国への流罪に処した。

この事件により、 江戸幕府は「幕府の法度は天皇の勅許にも優先する」という事を明示した。 これは、元は朝廷の官職のひとつに過ぎなかった征夷大将軍とその幕府が、 天皇よりも上に立ったという事を意味している。

天皇は寛永6年(西暦1629年)11月8日、 幕府への通告を全くしないまま次女の興子内親王(明正天皇)に譲位した(高仁親王が夭折していたため)。
その後
寛永9年(西暦1632年)、 大御所・徳川秀忠の死により大赦令が出され、 紫衣事件に連座した者たちは許された。 配流された僧のうち、 沢庵は徳川家光の帰依を受けたことで家光に近侍し、 寺法旧復を訴えた。

寛永18年、 事件の発端となった大徳・妙心両寺の寺法旧復が家光より正式に申し渡され、 幕府から剥奪された大徳寺住持正隠宗智をはじめとする大徳寺派・妙心寺派寺院の住持らの紫衣も戻されている。

1926/??/??:福岡連隊差別事件

福岡連隊差別事件は、 西暦1926年に起こった、 旧日本陸軍・福岡歩兵第24連隊(通称福岡連隊)における差別事件。

水平社幹部だった井元麟之が入隊後、 被差別部落出身の同僚から差別の報告を受け、 軍当局に抗議。 軍側は一度は講演会開催を約束するも、これを中止。 同時期に、軍は宿泊予定地に入っていた部落への入営を拒否。 これによって水平社と軍は決裂。 軍は水平社が連隊の爆破、襲撃を画策しているとの事件を警察と協力して捏造。 これに抗議して、岐阜連隊入営中の北原泰作が西暦1927年に天皇閲兵の際に直訴。 これらの事件の結果、陸軍は融和読本を編集して将兵に勉学させる事とした。

1930/05/01:川崎武装メーデー事件

川崎武装メーデー事件は、 西暦1930年5月1日に神奈川県川崎市で発生した日本共産党による暴力デモ事件。

当時の共産党は田中清玄委員長を中心とする「武装共産党」の時代であり、 日本各地で警察を標的としたテロを繰り返していた。 そして西暦1930年5月1日のメーデーに乗じた暴動計画を警視庁はいち早く察知し、 メーデー当日の早朝に共産党本部を急襲し、 竹槍などの武器を押収した。

神奈川県警察部も、 神奈川県下の共産党が暴動を企てているとの情報がもたらされ、 警戒を強めていた。

西暦1930年の神奈川県のメーデー会場は、 川崎稲毛神社の境内であった。

9時55分、 メーデー実行委員会の副委員長が開会宣言を行おうとしたところ、 「日本共産党日本共産青年同盟」と大書した旗を掲げ、 竹槍や拳銃で武装した集団が乱入した。 警察はこれを阻止しようとし大乱闘になった。 その際、共産党側は拳銃を発砲し、警察官を負傷させた。 また、メーデー実行委員会のメンバーたちにも刺傷させた。 約20分後、警察の応援部隊も到着し犯人8人を逮捕した。

メーデーの大会そのものは協議の結果、 参加者全員に対する身体検査の実施と引き換えに14時から再開された。

この事件で負傷した警察官3人には、 翌年の西暦1931年4月29日に功労賞等が授与された。

なお、この一件については、事件直後から共産党内でも批判の声があがり、 西暦1930年のプロフィンテルンの国際大会でも批判の対象となった。

1936/02/26:二・二六事件

二・二六事件(ににろくじけん、にいにいろくじけん)とは、 西暦1936年2月26日から2月29日にかけて発生した日本のクーデター未遂事件。

皇道派の影響を受けた陸軍青年将校らが1,483名の下士官・兵を率いて昭和維新を唱えて蜂起し、 政府要人を襲撃するとともに永田町や霞ヶ関などの一帯を占拠したが、 最終的に青年将校達は下士官兵を原隊に帰還させ、 自決した一部を除いて投降したことで収束した。 この事件の結果、岡田内閣が総辞職し、 後継の広田内閣(廣田内閣)が思想犯保護観察法を成立させた。

この事件での死亡者

1948/04/09:デイル・ヤシーン事件

デイル・ヤシーン事件は、 第一次中東戦争直前の西暦1948年4月9日、 当時イギリスの委任統治領であったパレスチナエルサレム近郊のデイル・ヤシーン村(ダイル・ヤーシーン、デイル・ヤーシンとも書かれる。現在は西エルサレムの一部)で起こったユダヤ人武装組織による住民の虐殺事件。

デイル・ヤーシーン村は、 イギリス委任統治領パレスチナ政府の統計によると、 西暦1945年時点の人口は610人であり、 事件当時の人口は、 村民の証言から750人前後と推測されている。

事件当時、 イギリス委任統治領では、 イスラエル独立前から、 ユダヤ人とアラブ人間の武装勢力によるテロが激化し、 実質上の戦争状態に入っていた。 西暦1948年4月、 ユダヤ人武装組織イルグン、レヒの部隊が、 エルサレム西部のアラブ人村落のデイル・ヤシーン村を包囲し、 村を占拠したのち、 老人、女性、子供も含む非武装の村民たちを虐殺した。 犠牲となった住民の総数は、 事件後に出された推定では254人とされ、 それが広く流布されていたが、 最近の研究では107人から120人の間であると推定する説もある。 過大な数字が流布したのは、 イルグン・レヒ側が、 自発的に虐殺を成果として宣伝したためとしている。

本事件の後、 危険を感じた数十万人とも言われるアラブ人住民が現在のイスラエル領を脱出し、 ヨルダンやエジプト領のキャンプに逃れ、 パレスチナ難民となった。 ユダヤ側は直ちに事件を起こしたイルグンを非難する声明を出し、 ダヴィド・ベン=グリオンはトランスヨルダンのアブドゥッラー1世国王に謝罪の書簡を送る。 また、ユダヤ機関とハガナーは「非常に不愉快な事件」として非難した。 しかし、イスラエル領となる地域から大量のアラブ人が脱出したことは、 イスラエル建国の上で非常に好都合であったことは否定できず、 イスラエル政府はパレスチナ難民の帰還を認めていない。

デイル・ヤシーン村は現在イスラエル領になり、 虐殺された犠牲者の土地や財産は、 ユダヤ人のものとなっている。

1988/06/18:リクルート事件

リクルート事件(リクルートじけん)とは、 西暦1988年6月18日に発覚した日本の汚職事件である。

リクルートの関連会社であり、 未上場の不動産会社リクルートコスモスの未公開株が賄賂として譲渡された。 贈賄側のリクルート関係者と、収賄側の政治家や官僚らが逮捕され、 政界・官界・マスコミを揺るがす、大不祥事となった。

当時、第二次世界大戦後の日本において最大の贈収賄事件、 ひいては戦後日本最大の企業犯罪とされた。

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