遠間栄治は、明治三十七年北海道紋別郡湧別村(現遠軽町)に生まれた。
すでに二十歳の頃から大形の黒曜石石器に関心を持ち、
昭和初期には黒曜石の尖頭器や石刃などを郷土誌に資料紹介している。
一方で遠間は、遠軽町町会議長を務めた人物でもあった。
昭和三四年、遠間は、幌加沢遺跡から採集された大量の石器を公開すべく、
私財を注ぎ込んで遠軽町郷土資料館を設立し、自ら館長を務めた。
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遠間の収集した膨大な資料は、散逸することなく、
新しくなった遠軽町先史資料館に収められている。
陳列ケースに並ぶ、
尖頭器・両面調整石器・石刃・石刃石核・細石刃石核・細石刃などの石器類は、
本州の同種の石器の数倍という巨大さで細石刃石核と呼ぶには、
はばかられるシロモノも多い。
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遠間資料は、
今日筑波大学の研究グループの努力によって写真・図化され、
『湧別川』という報告書として資料化がなされている(筑波大学遠間資料研究グループ編一九九〇)
洞爺丸台風と遠間栄治
1954年、15号台風が北海道に上陸し、青函連絡船・洞爺丸の沈没と言う忌まわしい惨事となった。 この洞爺丸台風が、白滝遺跡群の一つ、幌加沢遺跡遠間地点発見の契機になったことはあまり知られていない。(「日本人はるかなる旅展」 http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/2/2-21.html )
被害状況の調査、そして蛾の幼虫の大発生による二次被害を防ぐため倒木の処理にあたっていた白滝営林署の作業員が、倒木の下から30㎝を越す大きな両面加工石器が発見したことから始まる。 遠軽町の遠間栄治が経営する映画館で夜のみアルバイトをしていた作業員は、遠間が熱心に石器や土器を集めているのを知っていた。早速、遠間に伝えられた。 人の出入りすら拒む深い森の中で、地中深く眠っていた石器との感動的な出会いである。 大発見を確信した遠間は、その後、汽車と徒歩で足繁く通い、時に作業員に託しつつ資料の収集を続けた。山を降りるときには、リュックに一杯、黒曜石が溢れていたという。集められた膨大な資料は、遠間の没後、遠軽町先史資料館に一括して移管され、展示されている。
旧石器時代に繰り広げられた人類拡散のドラマを、石材や石器のみで語りつくすことはできない。しかし、旧石器時代の社会や文化の研究にとって石材研究は大きな可能性を秘めている。新たな石材を前にして、人類は技術をどのように応用し、刷新したのか、技術の伝播・受容、その変遷の原理が究明できるかも知れない。 又、石材の獲得が集団との関係で成り立ち、互いに支えあう関係にあったとすれば、当時の集団関係を解き明かす有力な材料を提供しょう。 何よりも、遠隔地に運ばれる黒曜石の道を辿ることで、直接には人々の移動の行跡を解明できるし、そもそもの移動の目的を探ることも可能になるに違いない。
北海道では、旧石器時代に続く縄文時代、続縄文時代(本州の弥生時代)は勿論、鉄器の流入が認められるオホーツク文化、そして鉄器の普及で道具が大きく刷新される擦文時代(鎌倉時代頃)にあっても、黒曜石が道具の素材として用いられ続けた。鉄器文化の流入が遅れたという見方もあるが、北海道にこそ黒曜石が豊富であったという証でもある。 白滝は、その主要な産地として重要な歴史的役割を担ってきた。
赤石川を中心とした白滝遺跡群は、旧石器時代の希有な大遺跡群であることは言うまでもないが、二万年間以上にわたって人類によって利用され続けた大規模な原産地遺跡、広い意味での歴史的産業遺跡としての特色がある。これほどの長期にわたって人類を支え続けた原産地遺跡は、世界的に見てもまさに希有な例である。しかも重要なことは、近年の破壊を受けることも無く、豊かな自然ともども殆ど手付かずの状態で残されている点である。
名実共に、人類の世界遺産として後世に残すのに相応しい遺跡群である。
白滝赤石山の黒曜石原産地と白滝遺跡群は、広大な未調査地域が残されている。無尽蔵?に包蔵されている人類の活動に関る情報を想うと、多くの謎を秘めた魅力溢れるフィールドであり続けるに違いない。
(「北の黒曜石の道・白滝遺跡群」 木村 英明著 抜粋)
朝永振一郎
ともなが しんいちろう
| 生年 | : | 西暦1906年3月31日 |
| | | 東京府東京市小石川区 |
| | | (現・東京都文京区) |
| 没年 | : | 西暦1979年7月8日(73歳) |
| 国籍 | : | 日本 |
| 分野 | : | 物理学 |
| 出身校 | : | 京都帝国大学 |
| 業績 | : | 繰り込み理論の発明による |
| | | 量子電磁力学の発展への寄与 |
| 受賞歴 | : | 文化勲章(1952年) |
| | | ノーベル物理学賞(1965年) |
| | | 勲一等旭日大綬章(1976年) |
朝永 振一郎は、
日本の物理学者。理学博士(東京帝国大学・1939年)。
東京教育大学名誉教授。
相対論的に共変でなかった場の量子論を超多時間論で共変な形にして場の演算子を形成し、
場の量子論を一新した。
超多時間論を基に繰り込み理論の手法を発明、
量子電磁力学の発展に寄与した功績によりノーベル物理学賞を受賞した。
東京生まれで、少年時代以降は京都育ち。
なお、朝永家自体は長崎県の出身。武蔵野市名誉市民。
量子電気力学における基礎的研究のためにノーベル物理学賞を受賞した朝永振一郎は、
湯川秀樹の永遠のライバルと言えよう。
京都一中、第三高等学校、京都帝国大学、と湯川秀樹と同じ年に入学、
卒業し、
玉城教授の指導のもとに量子力学の研究者として出発している。
湯川も朝永も、
父親が京大教授でよく似た家庭に育ち、
お互いに切磋琢磨したのであろう。
朝永振一郎は、
大学卒業の頃の湯川のことをこう語っている。
「湯川くんは考えだすとぶつぶつと独り言を言ってうるさいので、僕は図書館に逃げることにしていたよ」
舛岡富士雄(ますおか ふじお)
西暦1943年5月8日 -
舛岡富士雄は、日本の電子工学研究者。
フラッシュメモリの発明者として知られており、
西暦1980年代にNOR型フラッシュメモリおよびNAND型フラッシュメモリを開発した。
西暦1988年には、
初期の非平面型3Dトランジスタである初のGate-all-around(GAA)MOSFET(GAAFET)トランジスタも発明している。
元
東芝社員。東北大学名誉教授。
現在は日本ユニサンティスエレクトロニクス株式会社最高技術責任者(CTO)として、
Surrounding Gate Transistor(SGT)の開発を行っている。
紫綬褒章(
西暦2007年)、
文化功労者(
西暦2013年)、
瑞宝重光章(
西暦2016年)。
...
フラッシュメモリ発明にまつわるエピソード
東芝に入社後、
高性能なメモリを開発したが売れないことに業を煮やした舛岡は、
営業職を志願し、
アメリカ合衆国のコンピュータ会社を回った。
結局全然売る事ができず、
1年もたたずに営業職からは外される。
しかし、この時に何度も営業先に言われた「性能は最低限でいい。
もっと安い製品はないのか」という言葉から、
性能の向上ばかり考えず、
需要に見合った機能を持つ製品を低コストで作るべきだと悟る。
結果、情報を1ビットごとではなく一括消去するという、
あえて性能を落としてコストを1/4以下にする方法を思いつき、
フラッシュメモリが発明されるに至った。
東芝退社とその後
その後、
東芝は舛岡を地位こそ研究所長に次ぐ高い地位だが、
反面、
研究費も部下も付かない技監(舛岡曰く窓際族)に昇進させようとした。
研究を続けたかった舛岡は、
何とか研究を続けられるよう懇願したが受け入れられず、
西暦1994年に
東芝を退社した。
西暦1992年に
東芝は当時は未熟だった市場拡大を目的としてNAND型フラッシュメモリの技術をサムスン電子に供与したが、
サムスンは巨額投資を重ねることで
東芝を追い抜いて世界のフラッシュメモリのシェアで首位に立っている。
東芝のNAND型フラッシュメモリも利益の大部分を稼ぎ出す主力事業に育ったが、
西暦2017年にも
東芝首脳部の判断への批判があり舛岡も
東芝だけではなく、
日本にも自身の開発した技術を正しく評価してくれる者がいなかったと嘆いている。
その後、東北大学大学院や、
退官後に就任した日本ユニサンティスエレクトロニクス等で、
フラッシュメモリの容量を10倍に増やす技術や、
三次元構造のトランジスタ(Surrounding Gate Transistor)など、
現在も研究者として精力的に研究活動を行っている。
裁判
舛岡は自身が発明したフラッシュメモリの特許で、
東芝が得た少なくとも200億円の利益のうち、
発明者の貢献度を20%と算定。
本来受け取るべき相当の対価を40億円として、
その一部の10億円の支払いを求めて
西暦2004年3月2日に
東芝を相手取り、
東京地裁に訴えを起こした。
西暦2006年7月27日に
東芝との和解が成立、
東芝側は舛岡に対し8700万円を支払うこととなった。