西暦1870年、
現在の鹿児島県鹿児島市に薩摩藩士・今村明清の三男として生まれる。
鹿児島高等中学造士館予科、第一高等中学校卒業。
西暦1891年、
帝国大学理科大学物理学科入学。
帝国大学大学院では地震学講座に入り、
そのまま講座助教授となる。
西暦1896年からは陸軍教授を兼任し、
陸軍参謀本部陸地測量部で数学を教えた。
西暦1896年の明治三陸地震発生を期に、
西暦1899年に津波は海底の地殻変動を原因とする説を提唱した。
現在では広く受け入れられている説であるが、
発表当時はほとんど受け入れられなかった。
西暦1905年4月10日、
文部大臣から理学博士の学位を授与される。
明恒は、
震災予防調査会のまとめた過去の地震の記録(歴史地震)から、
関東地方では周期的に大地震が起こるものと予想。
西暦1905年に、
今後50年以内に東京での大地震が発生することを警告し、
震災対策を迫る記事「市街地に於る地震の生命及財産に對する損害を輕減する簡法」を雑誌『太陽』に寄稿した。
この記事は新聞にセンセーショナルに取り上げられて社会問題になってしまった。
そして上司であった大森房吉らから世情を動揺させる浮説として攻撃され、
「ホラ吹きの今村」と中傷された(大森・今村論争)。
しかし
西暦1923年9月1日に関東大震災(関東地震)が発生し、
明恒の警告が現実のものとなった。
その後、
関東大震災の地震を予知した研究者として「地震の神様」と讃えられるようになった。
翌月には、
摂政宮を務めていた皇太子裕仁親王(後の
昭和天皇)に震災について進講し、
当時の最先端理論であった地震は地球の地殻のせめぎ合いで起きることや大陸漂流説のほか、
今回の震源が相模湾と推測されること、
江戸時代に比べて近代化に伴い可燃性の石油など市中に増えたにもかかわらず消防能力が「殆ど皆無」に低下していたことを指摘。
地震自体の防止は不可能だが、
火災の防止は可能であるとして防災の大切さを訴えた。
この時の手書き原稿『一般地震と関東大地震との就いて』は遺品の一つとして現存しており、
西暦1929年1月には学会誌にほぼ同内容で掲載された。
先立つ
西暦1911年には今村式強震計を開発した。
西暦1923年に亡くなった大森の後を継いで地震学講座の教授に昇進する。
西暦1925年に北但馬地震、
西暦1927年に北丹後地震が発生し、
次の大地震は南海地震と考えた明恒は、
これを監視するために
西暦1928年に南海地動研究所(現・東京大学地震研究所和歌山地震観測所)を私費で設立した。
明恒の予想通り
西暦1944年に東南海地震、
西暦1946年に南海地震が発生した。
東南海地震後には南海地震の発生を警告したものの、
被害が軽減できなかったことを悔やんだと言われる。
西暦1929年、
西暦1892年に解散していた日本地震学会を再設立し、
その会長となった。
専門誌『地震』の編集にも携わった。
西暦1931年に東大を定年退官したが、
その後も私財を投じて地震の研究を続けた。
西暦1933年に三陸沖地震が発生した際には、
その復興の際に津波被害を防ぐための住民の高所移転を提案した。
また、津波被害を防ぐには小学校時代からの教育が重要と考えて『稲むらの火』の国定教科書への収載を訴えた。
それが実現した後、
西暦1940年に『『稲むらの火』の教え方について』を著して、
その教え方についても詳しく指導している。
西暦1944年12月7日に前述の東南海地震が発生した際には、
陸地測量部が掛川-御前崎の水準測量を行っていた。
この測量は今村の強い働きかけによるものであった。
この測量の時、
地震前日から御前崎が隆起する動きが確認できた。
これが現在の東海地震の発生直前の地震予知が可能であるという根拠とされている。
墓所は多磨霊園。