小窓
大国主の国づくり(おおくにぬしのくにづくり)

作成日:2019/8/7

大国主の国づくりとは、 日本神話での大国主(大己貴命)の葦原中国の国造りのこと。
古事記』と『日本書紀』での記載をまとめる。

古事記

大国主が出雲の美保岬にいたとき、 鵝(蛾の誤りとされる)の皮を丸剥ぎにして衣服とする小さな神が、 海の彼方から天の羅摩船(あめのかがみのふね)に乗って現れた。

大国主はその小さな神に名を尋ねたが答えがなく、 従者もその名を知らなかった。
そこにヒキガエルの多邇具久が現れて、 「これは久延毘古(クエビコ)なら知っているでしょう」と言った。
久延毘古に尋ねると、 「その神は神産巣日神の御子の少名毘古那神である」と答えた。

久延毘古は山田のかかしで、 歩行できないが、 天下のことは何でも知っている神である。

神産巣日神は少名毘古那を自分の子と認め、 少名毘古那に大国主と一緒に国造りをするように言った。
大国主と少名毘古那は協力して葦原中国の国造りを行った。
その後、 少名毘古那は常世に去った。

大国主は、 「これから一人でどうやって国を造れば良いのか」と言った。
その時、 海を照らしてやって来る神がいた。

その神は、
  「我は汝の幸魂奇魂(さきみたまくしみたま)である。丁重に私を祀れば、国造りに協力しよう」
と言った。
どう祀るのかと問うと、 大和国の東の山の上に祀るよう答えた。
この神は現在御諸山(三輪山)に鎮座する神(大物主)である。

日本書紀

日本書紀』第八段 一書第六に、

大己貴命(おおあなむち)と少彦名命(すくなひこな)は協力して天下(あめのした)を営んだ。
この世の人々や家畜のために、 病の治療法を定め、 鳥獣や昆虫の害を攘(はら)う為に、 禁(とど)め厭(はら)う法「禁厭」を定めた。
以来人々はみなその恩恵を蒙(こうむ)っている

とあり、 まず2神を医薬神・農耕神として解説する。

続いて大己貴命は少彦名命に、 「我らの造りし国は善く成せりと言えるか」と語った。
少彦名命は、 「成せる有れば、成らざるも有り」と答え、 この会話の後、 少彦名命は熊野の御碕(みさき)にて、 「遂に常世郷(とこよのくに)に適(いでま)しき。」または、 「淡嶋(あわのしま)に行き、粟莖(あわがら)に上ったところ、彈(はじ)かれ常世郷に渡り着いたとも言う」とあり、 『古事記』より細かい描写がなされる。
なお、 これ以降「大己貴命」が「大己貴神」と敬称が変わる。

その後、 国の中の未完成な所を、 大己貴神は一人で能(よ)く巡り造り、 そして出雲国に到る。
言葉に出して、 「そもそも葦原中国は最初より、荒芒(あら)びたり。岩や草木に至るまでことごとく能(よ)く強く暴(あら)し。しかし私が摧(くだ)き伏せ、和順(まつろ)わざる(従わない者)莫(な)し」と言った。そして続けて、「今この国を理(おさ)むるは私一身(ひとり)だけだ。私とともに天下を理むべき者は、果たしているか」と言ったとある。

古事記』とは違い、 少彦名命が常世郷に渡った後に、 大己貴命は単身で葦原中国の国造りを行っている。
その後は『古事記』と同様に、 輝く幸魂奇魂と遭遇する。
その神が大三輪(おおみわ)の神なりとある。

最後に少彦名命と遭遇するシーンとなり、 初め大己貴神が国を平げ出雲国の五十狹狹(いささ)の小汀(おはま)で飲食しようとした時、 海上から人の声がした。
驚いて探したが、 どこにも姿が見えない。
しばらくして、 「一人の小男(おぐな)が白斂(かがみ)の皮を舟とし、 鷦鷯(さざき)の羽を衣として、 潮水(うしお)の隨(まにま)に浮かんでやって来た」とあり、 『古事記』とは描写が異なる。

そして、 大己貴神が掌に取り置きて玩(もてあそ)ぶと、 飛び跳ねてその頬を突いた(もしくはかじった)。
そこでその物色(かたち)を奇妙に思い、 使を遣わし天神(あまつかみ)に報告した。
すると、 高皇産霊尊(たかみむすひ)が、 「私が産んだ子は一千五百柱もいるが、 その中の一人はとても悪く(わがまま・やんちゃ)て教えに従わなかった。
指の間から漏れ落ちたのが、 きっと彼だろう。宜しく愛でてこれを養(ひた)せ」と答えたとあり、 これが少彦名命であるとある。

古事記』と大きく違うのが、 神皇産霊尊の子でなく高皇産霊尊の子となる事と、 久延毘古は存在しない事である。


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