小窓
仁明天皇(にんみょうてんのう、にんみゃうてんのう)

作成日:2020/6/9

仁明天皇は、日本の第54代天皇。
嵯峨天皇の第二皇子。
母は橘清友の娘、皇后橘嘉智子(檀林皇后)。
正子内親王は同父母の妹でありかつ同年の生まれのため、双子の妹と推測される。

  《紀》:日本書紀による記述  《記》:古事記による記述
日本の第54代天皇 仁明天皇(にんみょうてんのう、にんみゃうてんのう)

[生没] 弘仁元年(西暦810年)- 嘉祥3年3月21日(西暦850年5月6日)41歳没《紀》
[在位] 天長10年2月28日(西暦833年3月22日)- 嘉祥3年3月19日(西暦850年5月4日)《紀》
[時代] 平安時代
[先代] 淳和天皇   [次代] 文徳天皇
[陵所] 深草陵(ふかくさのみささぎ)
[和風諡号] 日本根子天璽豊聡慧尊(やまとねこあまつみしるしとよさとのみこと)。
      和風諡号を奉贈された最後の天皇である。
[] 正良(まさら)   [別称] 深草帝(ふかくさのみかど)。御陵の在所より。
[父親] 嵯峨天皇
[母親] 橘嘉智子(たちばな の かちこ)。檀林寺を創建し、檀林皇后(だんりんこうごう)と称された。

年譜

弘仁元年(西暦810年)
降誕
弘仁14年(西暦823年)
8月1日(9月8日) 元服
(西暦833年)天長10年
2月28日() 叔父に当たる淳和天皇の譲位を受けて即位。
当初、 淳和天皇の皇子恒貞親王を皇太子に立てたが、 承和9年(842年)の承和の変により、 恒貞は廃せられ、 代わりに仁明天皇の第一皇子道康親王(文徳天皇)が立太子した。
これには自らの息子に皇位を継がせたい帝の意思と、 それを利用して甥である道康を立太子させたい藤原良房の陰謀があったと言われている。
3月30日(3月6日) 即位礼
(西暦)
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天長10年(西暦833年)
11月15日(12月29日) 大嘗祭
承和9年(西暦842年)
承和の変
承和10年(西暦843年)
文室宮田麻呂が謀反を企てているとの告発を受け、宮田麻呂一族を流罪に処した。
この件の遠因は諸説あるが、 承和の変の影響であるとも、 良房ら藤原北家が貿易利権を独占したいとの思惑の中、 同じく貿易に関与している宮田麻呂を排除した。
などの説がある。
承和12年(西845年)
更衣との密通を疑い、側近の藤原有貞を地方官に左遷する。
自身の更衣であり子(貞登、当時は源登)をも成した三国町と、 女御藤原貞子の弟で自身の幼少期からの側近の藤原有貞の密通を疑い、 地方官に左遷する。
嘉祥3年(西暦850年)
2月22日() 『続日本後紀』嘉祥3年2月22日条には天皇が朝廷の会議に御簾を隔てて参加していたとする記事がある。
天皇は幼少時から病弱であったとされ、 『続日本後紀』には7歳の頃からの様々な病歴が記載され、 即位後もしばしば薬(丹薬・石薬)の調薬をして医師並みの知識を有していたとされる。
また、 『三代実録』の藤原良相の薨去の記事では、 天皇は良相ら側近に自分が作成した薬の試飲を命じたとする記事が載せられている。
『続日本後紀』嘉祥3年2月22日条には天皇が朝廷の会議に御簾を隔てて参加していたとする記事があり、 既に重病であった自分の姿を見せないように御簾で隠して議論を聞いていたことが伺える(天皇はその1か月後に崩じている)。
3月19日(5月4日) 病により、文徳天皇に譲位。
3月21日(5月6日) 太上天皇位に就くことなく、2日後に崩御。於:清涼殿。宝算41。
3月25日(5月10日) 大喪儀
(西暦)
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(西暦)
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略歴

江戸時代の儒学者・頼山陽は、 天皇が恒貞親王が度々皇太子を辞退した際には受け付けず、 事件にかこつけてこれを廃して自分の実子を立てたことを厳しく非難している(『日本政記』)。

后妃・皇子女

陵・霊廟

陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市伏見区深草東伊達町にある深草陵(ふかくさのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は方形。

これは文久の修復のさいに造られたもので根拠が乏しく、本来の深草陵は同区深草瓦町の善福寺周辺と考えられている。

また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。


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