生後間もなく母・苡子が没し、祖父の白河法皇の下に引き取られて養育された。誕生から7か月で立太子され、父・堀河天皇の死後、5歳で即位する。幼いころの大病がもとで、病弱な体となる。
幼い鳥羽天皇は政務を執る事ができず、また当時の摂関の藤原忠実は立場が弱く白河法皇の風下にあり、実際の政務は白河法皇が執った。永久5年(1117年)、白河法皇の養女である藤原璋子(待賢門院)が入内、翌年には中宮となり5男2女を儲ける。保安4年(1123年)1月23日、第一皇子・崇徳天皇に譲位、その後も実権は白河法皇が握り続けた。父親の堀河天皇の在位中は、摂関家や天皇が実権を全て、あるいはある程度は握っていたが、このように鳥羽天皇の治世において白河院政が本格化した。
白河法皇崩御の後、大治4年(1129年)より院政を敷く。白河法皇の勅勘を受けて宇治に蟄居していた前関白・藤原忠実を天承元年(1131年)に呼び戻し、娘の泰子(高陽院)を入内させ、上皇の妃としては異例の皇后とした。また、白河法皇の側近であった藤原長実・家保兄弟らを排除して院の要職を自己の側近で固める[1][2]。有力な院司として、藤原顕頼や藤原家成がいる。また伊勢平氏の平忠盛の内昇殿をゆるし、政権に近づけた。さらに白河法皇の後ろ盾を失った待賢門院璋子にかわり、長承2年(1133年)頃より藤原得子(美福門院)を寵愛した。永治元年(1141年)、23歳であった崇徳天皇を譲位させ 、得子所生の第九皇子・体仁親王(近衛天皇)を3歳で即位させた。康治元年(1142年)に東大寺戒壇院で受戒し法皇となる。
久寿2年(1155年)に近衛天皇が早世すると、第四皇子で崇徳上皇の同母弟である雅仁親王(後白河天皇)を即位させた。これにより崇徳上皇が院政を敷く可能性は失われる。間もなく病に力を奪われ力尽きるが、この後白河天皇即位が保元の乱が勃発する原因となった。
父・堀河天皇と並ぶ笛の名人として知られ、譲位後に崇徳天皇が朝覲行幸に訪れた際に自ら笛を演奏して歓待している(朝覲行幸では子である天皇が父である院に対する孝養の一環として楽器を演奏するのが通例であった)。また、催馬楽や朗詠にも優れ、天永3年(1112年)の白河法皇の60歳の御賀の際には自ら催馬楽を披露している[3]。
中宮・藤原璋子(待賢門院)は、幼少より白河院の養女となって溺愛されており、『古事談』では、鳥羽院が崇徳天皇を「叔父子」(祖父・白河院の子、叔父である子の意)と呼んでいたとしている。
鳥羽の安楽寿院御所にて崩御し、遺諡によって、鳥羽院と追号された[4]。明治以後、院号は廃止され、鳥羽天皇となった。
陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市伏見区竹田浄菩提院町にある安樂壽院陵(安楽寿院陵:あんらくじゅいんのみささぎ)に治定されている[5]。宮内庁上の形式は方形堂。
生前の保延5年(1139年)、鳥羽の安楽寿院境内に三重塔(本御塔)の寿陵を営み、崩御後遺詔により遺骸をこの塔下に納めた。その後本御塔は焼失し、慶長17年(1612年)に仮堂が建てられたが、やがて所伝が混乱し、近衛天皇陵(現・安楽寿院南陵)が鳥羽天皇陵であると誤認される時代が元禄以後幕末まで続いた。元治元年(1864年)の修陵にあわせてお堂(法華堂)も立て直され、正式に鳥羽天皇陵として修正され、現陵とされている。
なお、鳥羽法皇は久安4年(1148年)頃に藤原得子(美福門院)の墓所として三重塔(新御塔)を建て、得子の死後にはその遺骸を納めるように言い残したが、得子は新御塔に入るのを拒否し、遺言通りに火葬されて遺骨は高野山に納められた。その後、新御塔には近衛天皇の遺骨が納められることとなった。
また皇居では、宮中三殿のひとつの皇霊殿において他の歴代天皇や皇族とともに鳥羽天皇の霊が祀られている。