応徳3年(1086年)11月26日、立太子と同日に8歳で父白河天皇から譲位され即位した。このような短期間での立太子・即位は、異母弟の輔仁親王に皇統が移ることを避けるための白河天皇の強い意向によるものだったという。 即位に伴い、義理の外祖父にあたる関白藤原師実が摂政となり実権を握り、摂関政治への回帰が見られた。白河上皇は師実を信頼し、院庁の人事も師実の人選に任せており、一方の師実も白河上皇に摂関の任命権を委ねるなど、この時期には師実と上皇は協調関係にあり、白河上皇に院政を敷く意志は無かった。堀河天皇が成人して関白も藤原師通に代わると、上皇の政治関与に批判的な師通は、自ら政務を執ろうとする堀河天皇に協力的であり、親政に近い状態が現出することとなった(『後二条師通記』・『中右記』)。上皇自身も後見の役目を終えたことに加え、天皇の准母である?子内親王の薨去を機に出家して政務への意欲を失っていた時期でもあったためこの体制が許容されていた。しかし承徳3年(1099年)に師通が死去すると、若い藤原忠実は堀河天皇を補佐するに足りず、天皇は法皇に政務を相談せざるを得なかった。またかつての師実との協調関係から法皇は摂関家にも強い影響力を持ち続け、結果として白河法皇の院政が成立した。 堀河天皇は「末代の賢王」(『続古事談』)と評される賢帝として知られた。関白師通との提携による朝政にも熱心に取り組み、「天が下治まりて、民安く世のどかなり」(『発心集』)といわれた。しかし白河院の政務への関与が再び強まると、天皇の興味は趣味の世界に移っていった。叔母にあたる中宮・篤子内親王の薫陶を受け、学問・和歌・管弦に才能を発揮して廷臣らに慕われたが[1]、生来病弱で、在位のまま宝算29で崩御。臨終の様子は乳母・藤原兼子 (伊予三位)の妹である典侍・藤原長子の『讃岐典侍日記』に詳しい。
性格は上品かつ優雅であり、その誠実な人柄は宮廷社会でも人望を集めたという。 政務への情熱を趣味に傾けるようになってからは、音楽、特に管弦を愛好した。夜の御殿の壁に笛の譜を貼って覚えるほどの熱の入れようで、その腕前も藤原忠実をして「全ク比類ナシ」と感嘆せしめるほどのものだった[2]。 また和歌にも優れ、康和4年(1102年)には歌人たちに恋の歌を詠ませた「堀河院艶書合」を主宰、また当時評判の歌人14名[3]に100首の和歌を詠ませた「堀河百首」を編んでいるが、これが組題百首の嚆矢である。勅撰和歌集には『金葉和歌集』などに9首が入集している。 現存しない堀河天皇の日記が「先皇御記」として『江記』天仁元年(1108)十一月二十二日条、鳥羽天皇の大嘗会記事に見える。
陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市右京区竜安寺朱山の龍安寺内にある後圓教寺陵(後円教寺陵:のちのえんきょうじのみささぎ)に治定されている[5]。宮内庁上の形式は円丘。同じ朱山にある一条天皇陵と同域である。 また皇居では、宮中三殿のひとつの皇霊殿において他の歴代天皇や皇族とともに堀河天皇の霊が祀られている。