小窓
月氏(げっし)

作成日:2023/10/8

月氏(げっし)は、 紀元前3世紀から1世紀ごろにかけて東アジア・中央アジアに存在した遊牧民族とその国家名。 紀元前2世紀匈奴に敗れてからは中央アジアに移動し、 大月氏と呼ばれるようになる。 大月氏時代は東西交易で栄えた。 『漢書』西域伝によれば羌に近い文化や言語を持つとあるが、 民族系統については諸説ある。

秦の始皇帝(在位:紀元前246年 - 紀元前210年)の時代に、 中国の北方では東胡と月氏が強盛であった。 一方、匈奴は陰山の北からオルドス高原を領する小国にすぎず、 大国である東胡や月氏の間接支配を受けていた。 ある時、匈奴単于頭曼は、太子である冒頓を廃して、その弟を太子にしようと冒頓を月氏へ人質として送った。しかし、頭曼は冒頓がいるにもかかわらず月氏を急襲してきた。これに怒った月氏は冒頓を殺そうとしたが、あと少しの所で逃げられてしまう。匈奴に逃げ帰った冒頓は父の頭曼を殺して自ら単于となり、さっそく東の東胡に攻め入ってこれを滅ぼし、そのまま西へ転じて月氏を敗走させ、次いで南の楼煩・白羊河南王を併合し、漢楚内戦中の中国にも侵入し、瞬く間に大帝国を築いた。

その後も依然として河西回廊の敦煌付近にいた月氏であったが、 漢の孝文帝(在位:紀元前180年 - 紀元前157年)の時代になって匈奴老上単于配下の右賢王の征討に遭い、 月氏王が殺され、その頭蓋骨は盃(髑髏杯)にされた。 王が殺された月氏は二手に分かれ、 ひとつがイシク湖周辺へ逃れて大月氏となり、 もうひとつが南山羌(現在の青海省)に留まって小月氏となった。

歴史

大月氏(だいげっし)

イシク湖周辺に逃れてきた月氏の残党(大月氏)は、 もともとそこにいた塞族の王を駆逐してその地に居座った。 しかし、老上単于(在位:紀元前174年 - 紀元前161年)の命により、 烏孫の昆莫が攻めてきたため、 大月氏はまた西へ逃れ、 最終的に中央アジアのソグディアナ(粟特)に落ち着いた。 そこで大月氏はアム川の南にあるトハリスタン(大夏)を征服し、 その地に和墨城の休密翕侯(きゅうびつきゅうこう)、 雙靡城の雙靡翕侯(そうびきゅうこう)、 護澡城の貴霜翕侯(きしょうきゅうこう)、 薄茅城の肸頓翕侯(きつとんきゅうこう)、 高附城の高附翕侯(こうふきゅうこう)の五翕侯を置いた。

一方、前漢では日々匈奴の侵入に悩まされていたため、 遂に西方の月氏と共同で匈奴を討つべく、 武帝(在位:紀元前141年 - 紀元前87年)の時代に張騫を使者とした使節団を西域に派遣した。 張騫は匈奴に捕われるなどして10年以上かけ、 西域の大宛・康居を経て、ようやく大月氏国にたどり着いた。 この時の大月氏王はかつて匈奴に殺された先代王の夫人で、 女王であった。 大月氏王は張騫の用件を聞いたが、 やむなく移動してきた現在の土地が豊かで国家は安泰しており、 すでに復讐の心は無く、 漢が遠い国であることもあり、 同盟を組むことはなかった。

クシャーナ朝

それから100余年、 護澡城の貴霜(クシャン)翕侯である丘就卻(きゅうしゅうきゃく)が他の四翕侯を滅ぼして、 自立して王となり、貴霜王と号した。 丘就卻は安息(パルティア)に侵入し、高附(カーブル)の地を取った。 また、濮達国・罽賓国を滅ぼし、 その支配下に置いた。 丘就卻は80余歳で死ぬと、その子の閻膏珍(えんこうちん)が代わって王となる。 閻膏珍は天竺(インド)を滅ぼし、将一人を置いてこれを監領したという。 この政権はクシャーナ朝を指すものであり、 丘就卻はクジュラ・カドフィセス、閻膏珍はヴィマ・タクトに比定される。 しかし中国ではそのまま大月氏と呼び続けた。

キダーラ朝

『魏書』列伝第九十に
大月氏国、北は蠕蠕(柔然)と接し、(柔然から)たびたび侵入を受けたので、遂に西の薄羅城(バルフ)へ遷都した。
その王寄多羅(キダーラ)は勇武で、遂に兵を起こして大山(ヒンドゥークシュ山脈)を越え、南の北天竺(インド)を侵し、
乾陀羅(ガンダーラ)以北の五国をことごとく役属した。

とあり、この頃の大月氏はクシャーナ朝の後継王朝であるキダーラ朝を指し、 中国ではキダーラ朝までを大月氏と呼んだことが分かる。 その後キダーラ朝は匈奴(エフタル、フーナ)の侵攻を受けた。

小月氏(しょうげっし)

詳細は「羯」を参照
月氏から分かれて南山羌(現在の青海省)に留まった小月氏は、 その後も生き長らえ、三国時代の記録に
敦煌西域の南山中(チベット高原)、 婼羌の西から葱嶺(パミール高原)までの数千里にわたって、 月氏の余種である葱茈羌・白馬羌・黄牛羌がおり、 それぞれに酋豪がいた

とある。

また、『魏書』にある小月氏国は上記の小月氏ではなく、 クシャーナ朝の後継王朝であるキダーラ朝の君主キダーラの子が治める分国で、 都は富楼沙城(ペシャーワル)にあった。

昭武九姓(しょうぶきゅうせい)

詳細は「昭武九姓」を参照
『北史』・『隋書』・『新唐書』に見える昭武九姓はいずれも月氏の子孫であり、 月氏が敦煌・祁連にいた時代、張掖祁連山北の昭武城に拠っていたことから、 中央アジアに西遷後、自分たちの故地を忘れぬよう昭武氏を国姓とした。