「針間之伊那毘能大郎女」または「伊那毘能大郎女」と表記される。
吉備臣らの祖の若建吉備津日子(孝霊天皇の皇子)の女で、
櫛角別王・大碓命・小碓命・倭根子命・神櫛王らの母親とされる。
また、妹として伊那毘能若郎女が記され、同じく景行天皇の妃であったという。
「播磨稲日大郎姫」と表記され、景行天皇2年3月3日に皇后に立てられた。
大碓皇子(おおうすのみこ)・小碓尊(日本武尊)の母とされるが、
この他に稚倭根子皇子(わかやまとねこ)の母とする説も注している。
また、稲日大郎姫の名の異説として「稲日稚郎姫」を挙げており、
これは『古事記』で妹とされた伊那毘能若郎女に通じる。
なお、景行天皇52年条に薨去記事がある。
記紀のイナビノオオイラツメは、
『播磨国風土記』の賀古郡・印南郡条に登場する「印南別嬢」と同一人と考えられる。
「ワキイラツメ」の名は、『古事記』で妹とされ、
『日本書紀』で別名とされた「ワカイラツメ」の名に通じる。
風土記によれば、
印南別嬢の父は丸部臣の祖・比古汝茅(ひこなむち、彦汝命か)、
母は吉備比売(きびひめ)である。
景行天皇は印南別嬢を妻問いに播磨へと出向いた。
別嬢は身を隠したが、天皇に探し当てられ、
2人は城宮(加古川町木村?)で結ばれた。
年経て没した後は日岡に墓を造ったが、
遺骸を運ぶときに川の中に沈んでしまい、
櫛箱と比礼(薄い肩掛け)のみを埋葬したという。
しかし彦汝命は成務天皇と同世代であり、
印南別嬢の父とする系譜関係に疑問を呈せられることもある[要出典]。
陵(みささぎ)は、宮内庁により兵庫県加古川市加古川町大野にある日岡陵(ひのおかのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は前方後円。遺跡名は「日岡陵古墳」で、墳丘長約80メートルの前方後円墳である。