出生・生い立ちは明らかでないが、兄・長慶天皇が践祚した正平23年/応安元年(1368年)3月から8月までの間に立太子され[3]、東宮(皇太弟)として既に天皇の政務を補佐していたようである。 弘和3年/永徳3年(1383年)冬に長慶天皇の譲位を受けて践祚。当時の行宮は栄山寺(奈良県五條市)であったらしい。この皇位交替の背後には、室町幕府への姿勢をめぐって強硬派の長慶と和平派の後亀山との間で内部対立があり[4]、最終的に参議楠木正儀ら和平派の台頭が契機で後亀山の即位が実現したと考えられている。在位の9年間はちょうど南朝政権の衰退期に相当する。政令が及ぶ範囲は大和・河内・和泉・紀伊などの行宮を中心とした地方の他、九州の征西府や四国の河野氏の勢力域に限られ、将軍足利義満の下で隆盛を極める幕府との実力差は否定すべくもなかった。宗良親王や懐良親王が世を去り、威勢を失った南朝にとって、和平による合一は必至の情況となっていた。 元中9年/明徳3年(1392年)和泉・紀伊守護である大内義弘が南朝の吉田宗房や阿野実為と接触して下交渉を始める。10月には義満から吉田兼煕を通じて両朝講和のための条件提示がなされ、天皇はついにこれを受諾した(明徳の和約)。同月28日に南朝君臣は神器を奉じて吉野を出立し、閏10月2日に京都大覚寺に到着。同月5日に三種の神器のみが大覚寺から北朝・後小松天皇の土御門内裏に移された[5]。ここに南北朝時代は終わり、皇統は北朝の一統に帰することとなった。これに伴い、南朝元号である元中は廃絶し、天皇の弟で東宮位にあった護聖院宮(惟成親王か)は事実上廃太子された。後亀山は後年、両朝合一を決断した理由に関して、自らの運命をひとえに天道神慮に任せ、民間の憂いを除くためだったと述懐している[6]。合一後、大覚寺を仙洞とした後亀山は「大覚寺殿」と称されて、幕府の被扶養者としての待遇に甘んじなければならなかった。 明徳5年(1394年)2月6日、天竜寺にて初めて義満と面会し、その結果、同月23日に「不登極帝(即位しなかった天皇)」として太上天皇(上皇(じょうこう))の尊号を贈られた。その詔書は、延元元年/建武3年(1336年)11月2日北朝・光明天皇が南朝・後醍醐天皇(後亀山の祖父)に対して太上天皇号を贈った例に準ずるものとされたが[7]、幕府が旧北朝と後亀山双方の体面を保つために採用した苦肉の策であった。 応永4年(1397年)11月27日、尊号および兵仗を辞退し、義満もこれを了承。その後は出家を遂げて金剛心と号し、ひたすら隠遁生活に入る。それでも、阿野実為・公為父子や六条時煕など、わずかな公家が側近として仕えており、吉田兼煕・兼敦父子が神道を進講することもあった。 ところが、同17年(1410年)11月27日突如嵯峨を出奔して吉野に潜幸し、以来ここで6年を過ごしている。この事件に関して、『看聞日記』には生活上の困窮によるものとするが、当時の幕府が講和条件の一である両統迭立を破って、後小松天皇皇子の躬仁親王(後の称光天皇)の即位を目論んでいたことから、そのような動静に不満を抱く後亀山法皇の抗議行動であったとも考えられる。 しかし、その甲斐もなく、同19年(1412年)称光天皇が践祚。 同22年(1415年)これに反発した伊勢国司北畠満雅が蜂起するも、説成親王(後亀山の弟か)の調停によって幕府との和睦が成立したため、 翌23年(1416年)9月に広橋兼宣らの仲介で法皇は大覚寺に還御した。 東国情勢などで不安要素を抱えていた幕府は、旧南帝を吉野の山中に放置しておくことの危険性を熟知していたので、 所領回復を条件に後亀山の還御を再三要請したのである。 同31年(1424年)4月12日、 雷鳴のとどろく夜に大覚寺で崩御。 宝算は75とも78ともいう[1]。 後亀山が果たせなかった皇位回復の遺志は子孫の小倉宮に受け継がれ、 やがて後南朝による幕府への抵抗運動を惹き起こした。
正平20年(1365年)の『内裏三百六十首歌』に「無品親王」として、天授元年(1375年)の『五百番歌合』に「源資氏」の隠名で詠進したのは、親王時代の後亀山院か。同2年(1376年)の『千首和歌』には「光長朝臣」の隠名で詠進したが、『新葉和歌集』には入らず、勅撰集は『新続古今和歌集』に3首のみが入集する。なお、『吉野拾遺』下には、幼時の「ひろなりの皇子」が侍臣の嘘を見抜いて才知を示すという逸話が見えている(ただし、この「ひろなり」は長慶天皇のことと解する説もある)。
後村上天皇の第二皇子。母については、阿野実為の女とする系図[8]があるが、これは世代的に整合せず、あるいは長慶天皇と同母で、二条師基の猶子・嘉喜門院かと思われるものの確証はない[3]。 后妃は一切不詳[9]。一次史料に確認できる皇子女は、次の1皇子のみである。 生母不詳 皇子:小倉宮恒敦(?-1422) - 親王宣下の有無は不詳 近世の南朝系図は以下の后妃・皇子女を挙げているが、長慶天皇との混同もあるため、そのままには信頼できない。 中宮:源(北畠)信子[10] - 北畠顕信女 第三皇子:良泰親王(小倉宮、1370-1443) 皇子:行悟法親王(1377-1406) - 実際は長慶天皇皇子 第一皇女:泰子内親王 - 二条冬実室 女御:藤原(二条)教子 - 二条教基女 第一皇子:世泰親王(1360-1377) - 実際は長慶天皇皇子 典侍:藤原(日野)邦子(権典侍局) - 日野邦光女 第二皇子:師泰親王(長徳寺宮、1362-1423) 皇子:真阿(1374-1440) - 十念寺開基 生母不詳 皇子:琮?(?-1448) - 十念寺2世
陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市右京区嵯峨鳥居本小坂町にある嵯峨小倉陵(さがのおぐらのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は石造五輪塔。小倉山の東麓に所在する。 奉葬当時の史料はないが、『山城名勝志』『南朝紹運録』『拾遺都名所図会』『山陵志』『系図纂要』などの近世文献は当所を陵として挙げている。幕末修陵の際に正式にここを陵と定め、福田寺の後方に当たることから福田寺陵と称したが、明治12年(1879年)現陵号に改定。伝承によれば、福田寺は法皇の小倉殿を浄土宗寺院に改めたものという。中世以降荒廃したが、大聖寺(上京区)の尼宮により禅寺として再興、同寺末寺となり、明治15年(1882年)吸収されて廃寺に至った。なお、当陵の他、『歴朝要紀』『陵墓一隅抄』は百重原陵(大阪府交野市私市の獅子窟寺内)を南方陵として挙げているが、これは同所にある亀山天皇供養塔の訛伝であろう。 天皇宸筆としては、わずかに「観心寺縁起奥書」(重要文化財、観心寺蔵)と「宝篋印陀羅尼」(重要文化財、松尾寺蔵)の2点のみが知られている。 また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。