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三国時代(中国)

作成日:2024/8/12

三国時代は、 中国の時代区分の一つ。

広義では黄巾の乱が勃発した西暦184年から、 西晋による中国再統一(西暦280年)までを指す。

狭義では、 後漢滅亡した西暦220年あるいは魏・呉・蜀の三国が分立した西暦229年から、 蜀漢が滅亡した西暦263年までを指す。 当項目では広義の三国時代について記載する。(後漢末)

西暦215年に曹操(華北地域)、 劉備(巴蜀・荊州地域)、 孫権(江南地域)によって後の三国のそれぞれの勢力範囲が概ね確立した。 西暦220年に曹操の子の曹丕が漢の献帝から禅譲を受けて魏を建国し、 西暦221年に劉備が漢(蜀漢)、 西暦229年に孫権が呉の皇帝としてそれぞれ即位し、 三国が正式に鼎立した。

年表

西暦159年允恭天皇10年)
  • 外戚の梁冀が宦官の力を借りた後漢第11代皇帝・桓帝に誅殺された。このあと、宦官が中央を牛耳るようになる
西暦184年允恭天皇10年)
  • 太平道の教祖張角が黄巾の乱を起こす。広義の三国時代の始まり(- 西暦280年)
西暦784年允恭天皇10年)
  • あああ
  • (この年)
    • あああ

歴史

前史

黄巾の乱

黄巾の乱(こうきんのらん)簡体字:黄巾之乱 繁体字:黃巾之亂; )

黄巾の乱は、 後漢末期の西暦184年(中平元年)の中国において、 太平道の信者が教祖の張角を指導者として起こした組織的な農民反乱である。

目印として黄巾と呼ばれる黄色い頭巾を頭に巻いたことからこの名がついた。 現代中国では黄巾起義ともいい、 小説『三国志演義』では反乱軍を黄巾賊と呼んでいる。 五行説では黄色は「土」を表し「火徳」の漢王朝の後を継ぐのは「土徳」の王朝であるという当時の認識があった[要出典]。

この反乱は後漢の衰退を招き、 劉備の蜀、 曹操の魏、 孫権の呉が鼎立した三国時代に移る一つの契機となった。
太平道
太平道(たいへいどう)

太平道は、後漢末の華北一帯で民衆に信仰された道教の一派。『太平清領書』を教典とし、教団組織は張角が創始した。教団そのものは黄巾の乱を起こしたのち、張角らの死を以て消滅した。




梁冀(りょう き)  ? - 西暦159年

梁冀は、 後漢の政治家・外戚。字は伯卓

安定郡烏氏県の人。 後漢草創期の功臣の一人の梁統の玄孫。 曾祖父は梁竦。 祖父は梁雍。 父は梁商(和帝の生母の梁貴人の甥)。 妹は順帝の皇后梁妠と桓帝の皇后梁女瑩。

子は襄邑侯梁胤(字は寿仁)と梁伯玉。 孫は城父侯梁洮(梁胤の子)。

梁冀は、 後漢の第11代皇帝・桓帝(かんてい)の時代にも権勢は衰えず政治を握り続けた。 桓帝は単超ら5人の宦官と謀って梁冀派の宦官の張惲を逮捕し、 兵を動員して梁冀の邸宅を囲んだ。 自身の末路を悟った梁冀は妻子らと共に自害した。

没収された梁冀の財産は国家の租税の半分ほどあり、 梁冀に連座して死刑になった高官は数十人、 免職になった者は300人余りになり、 一時朝廷は空になるほどだったという。