フランスによる植民地支配からの解放を目指すインドシナ共産党は、
第二次世界大戦勃発やフランスの対独降伏によって動揺するインドシナ植民地政府に対する人民蜂起を指導したが、いずれも失敗した。やがて、ヴィシー政権と結んだ日本軍の仏印進駐が行われた。インドシナ共産党は、日仏両国からの解放を目指した。
西暦1941年2月、
コミンテルンの指導を受けたホー・チ・ミン(胡志明)が中国経由で帰国すると、
中越国境に近いカオバン省(高平省)の山中に基地を置き、
直接ベトナム革命を指導することになった。
ホー・チ・ミンはより広範な人民大衆を結集して反仏抗日民族統一戦線を樹立するために同年5月19日、
ベトナム独立同盟、略称ベトミン(越盟)を結成した。
第二次世界大戦中ベトミンは重慶駐在のアメリカの情報機関OSSから武器援助を受けるなどしてゲリラ闘争を行い、
山中に革命根拠地を拡大したが、
平地の日仏軍には対抗すべくもなかった。
しかし
西暦1944年にはフランスのヴィシー政権は崩壊し、
西暦1945年になるとアジア・太平洋における日本の敗色も濃くなってきた。
ベトナム駐留日本軍(第38軍)は3月9日、
明号作戦を発動してフランス植民地軍を攻撃して武装解除し、
インドシナ植民地政府を打倒した(仏印処理)。
すると、フランスの庇護で生き延びた阮朝は、
日本への恭順を宣言し、
ベトナム帝国を樹立した。