中宮所生の嫡出の皇子として誕生し、生後1か月の11月26日に立太子。
父の順徳天皇が、
祖父の後鳥羽上皇と共に鎌倉幕府執権であった北条氏追討の挙兵(いわゆる承久の乱)に参加するため、
承久3年(1221年)4月20日に譲位され4歳で践祚。
同年、祖父の後鳥羽上皇が承久の乱を起こしたが、
北条泰時率いる幕府軍に敗北。
後鳥羽上皇・順徳上皇はそれぞれ隠岐・佐渡に、
土御門上皇も自ら望んで土佐に配流された。
7月9日に幕府の手によって仲恭天皇は皇位を廃され、
高倉天皇の第二皇子である守貞親王(後高倉院)の皇子・茂仁王(後堀河天皇)が即位した。
仲恭天皇は幼児で、
将軍(摂家将軍)九條頼経の従兄弟であることから、
その廃位は予想外であったらしく、
後鳥羽上皇の挙兵を非難していた慈円でさえ、
幕府に仲恭天皇の復位を願う願文を納めている。
まもなく母親の実家である摂政・九條道家(天皇の叔父、頼経の父)の邸宅に引き渡され、
天福2年(1234年)に17歳で崩御。
歴代の天皇の中で、在位期間が最も短い天皇である。
即位後わずか78日で廃され、 即位式も大嘗祭も行われなかったため諡号・追号がされず、 九条廃帝(くじょうはいてい)、 承久の廃帝(じょうきゅうのはいてい)、 半帝、後廃帝と呼ばれていた。 明治3年(1870年)5月、 明治政府(太政官)は、 大友皇子、淡路廃帝、九条廃帝に天皇号の追諡を行うことにして、 神祇官および大学に追諡の撰定を命じた。 九条廃帝は4歳で登極、在位78日で廃位、 以後17歳で亡くなるまで生家の九条邸で隠棲されていたため、 諡号撰定の根拠にすべき事績は全くなかった。 神祇官でも苦心の結果、 天皇が第三子であったことから「仲」の字を、 また諡は本来敬を表すものであるということから「恭」の字を選び、 両者で「仲恭」の諡号を撰定するに至った。 政府はこれに対して弾正台などの意見も聞き、 7月20日に「仲恭」と決定し、 同年7月23日に神祇官で祭典執行、 祝詞をして奉諡を行った。 翌日、『太政官日誌』(明治3年第28号)で、 弘文天皇(大友皇子)、 淳仁天皇(淡路廃帝)とともに仲恭天皇の諡号が布告された。
陵(みささぎ)は、 宮内庁により京都府京都市伏見区深草本寺山町にある九條陵(九条陵、くじょうのみささぎ)に治定されている。 宮内庁上の形式は円丘。 上記とは別に、 京都府京都市東山区本町にある宮内庁の東山本町陵墓参考地(ひがしやまほんまちりょうぼさんこうち)では、 仲恭天皇が被葬候補者に想定されている。 皇居では、 皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。 また若宮八幡宮社(京都府京都市東山区)では、左相殿に祀られる(東山本町陵墓参考地の場所にかつて存在した塚本社からの移祀)。