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航空機事故詳細

作成日:2025/1/18

1785年6月15日

事故発生日:西暦1785年6月15日
便名:----
機種:ロジェ気球のプロトタイプ
死者:2人(ピラートル・ド・ロジェとピエール・ロマン)
状況:係留していない熱気球による史上初の有人飛行を行ったピラートル・ド・ロジェは、 ピエール・ロマンを伴いモンゴルフィエ兄弟の開発したロジェ気球でイギリス海峡の横断を試みたが、 上空で気球が爆発し2人とも事故死する。
2人は熱気球の事故で死亡した最初の犠牲者であり、 記録に残る最も古い有人飛行中の航空事故である。
178506?? - 19591116では日付は記載されていない。

1908年9月17日

事故発生日:西暦1908年9月17日
便名:----
機種:ライトフライヤー
死者:トーマス・セルフリッジ陸軍中尉
状況:バージニア州アーリントン郡の陸軍基地フォート・マイヤーで、 オーヴィル・ライトが操縦するライトフライヤーがデモフライト中に墜落。 同乗していたセルフリッジが死亡。
世界初の固定翼機による死亡事故であり、 セルフリッジは初の犠牲者となった。

1919年5月20日

事故発生日:西暦1917年5月20日
便名:芝浦上空遊覧
機種:玉井式3号機
死者:2人
状況:日本飛行学校がグラハム・ホワイトの複葉機を模して製作した三座式機体の試験飛行と宣伝を兼ねて東京上空を飛行した。
東京日日新聞のカメラマンが同乗して行われた二度目のフライトの際、 着陸降下中に高度30~40メートルで左の上翼が真っ二つに折れ墜落、炎上した。
墜落地点は東京都港区新芝橋の南70メートル付近で、 操縦者の玉井清太郎と同乗していたカメラマンは炎の中から救出されたが死亡した。

1919年7月21日

事故発生日:西暦1919年7月21日
便名:グッドイヤー ウィングフット・エア・エクスプレス(飛行船)
機種:グッドイヤー タイプFD
死者:乗員乗客5人中3人と地上の10人が死亡(負傷者27人)
状況:ウィングフット・エア・エクスプレス墜落事故(Wingfoot Air Express Crash)は、 1919年7月21日、アメリカ合衆国のシカゴ上空で飛行船が火災を発生して墜落した事故で、 乗員1人と乗客2人と破片が墜落した銀行の従業員の10人が死亡し、 27人が負傷を負った事故である。
ウィングフット・エア・エクスプレスはグッドイヤーの所有する飛行船で、 シカゴ市内のグラント・パークからホワイトシティ遊園地(White City amusement park)に乗客を運んでいた。
1919年7月21日午後4時55分頃、 乗員3人と乗客2名が搭乗した飛行船はシカゴ上空、 高度1200フィートで火災を起こした。 乗員3人はパラシュートで脱出し、 パイロットと機関士1名は無事であったが、 機関士1名はパラシュートに火が移り死亡した。 乗客のホワイトシティ遊園地の広報会社の社員は脱出できず死亡し、 シカゴ・ヘラルド・アンド・イグザミナーのカメラマンはパラシュートで脱出したが、 両足を骨折し、後に病院で死亡した。 ...
シカゴのジャクソン通りとラザール通りに面したイリノイ・トラスト貯蓄銀行ビルでは、 大きい天窓のあるメインホール付近に150人の従業員が働いており、 炎上した飛行船の破片が天窓を破って落下し、 10人の死者と27人の負傷者が出たと報じられた。
この事故によってシカゴは市の上空の飛行規則を整備し、 グラント・パークの滑走路が廃止され、 シカゴ・エア・パーク(後のシカゴ・ミッドウェー国際空港)が作られることになった。

1923年2月22日

事故発生日:西暦1923年2月22日
便名:朝日第11号機
機種:白戸式25型
死者:1人
状況:東西定期航空会の機体が悪天候の中洲崎を離陸して三方ヶ原飛行場まで荷物を運び、 貨物を引き渡したのち東京へ引き返す最中に箱根の明神ヶ岳(神奈川県南足柄市と箱根町の境)に激突。
新聞社が運用する通信機の初の遭難事故。

1924年3月19日

事故発生日:西暦1924年3月19日
便名:不詳
機種:飛行船
死者:5人
状況:横須賀市で係留訓練を終えた飛行船が霞ヶ浦に帰投する途上、 茨城県相馬郡上空で爆発、墜落した。

1924年7月5日

事故発生日:西暦1924年7月5日
便名:不詳
機種:サムルソン2A2型
死者:2人
状況:東西定期航空会の機体が立川で試験飛行中に墜落。

1926年4月6日

事故発生日:西暦1926年4月6日
便名:不詳
機種:日本航空輸送研究所 横廠式ロ号甲型
死者:2人(うち1人は旅客)
状況:飛行中に火災が発生し、 兵庫県神戸市沖合に墜落。 旅客の死者が発生した初めての事故。

1926年4月18日

1927年4月1日

事故発生日:西暦1927年4月1日
便名:不詳
機種:不詳
死者:2人
状況:大阪府木津川飛行場(大阪府大阪市大正区にあった飛行場)の敷地内に墜落。

1927年8月10日

事故発生日:西暦1927年8月10日 - 西暦1927年8月19日
便名:----
機種:ロッキード ベガなど合計6機
死者:死者3人、行方不明者7人
状況:カリフォルニア州・オークランドをスタートしてハワイ州・ホノルルに向かう長距離エアレース「ドール・エアダービー」に15機が参加していた。
まず3機がスタート前に墜落して3名が死亡、 4機が何らかの事情によってリタイアした。 スタートした8機の内、 2機が離陸中に墜落、 幸いにも死者は出なかったが無事にスタートした6機の内、 2機が途中棄権、 もう2機が遭難してしまい、 無事にゴール出来たのは残りの2機だけだった。
更に遭難した2機を捜索した途中棄権の1機も遭難してしまい計3機が遭難、 乗員の7名が行方不明になるなど大惨事になってしまった。

1927年8月22日

事故発生日:西暦1927年8月22日
便名:KLMオランダ航空 ロッテルダム行き(機体記号:H-NADU)
機種:フォッカー F.VIII
死者:乗員乗客11人中1人が死亡(8人が負傷)
状況:1927年KLMオランダ航空フォッカー F.VIII墜落事故とは、 1927年8月22日にKLMオランダ航空のフォッカー F.VIII(機体記号:H-NADU)が、 尾部垂直安定板またはラダーの構造破損によりケント州アンダーリバーに墜落した航空事故である。
事故機はサリー州クロイドン発オランダ・ロッテルダム・ヴァールハーフェン空港行きの国際定期便として運航していた。 乗務員2人のうち1人が死亡し8人が負傷した。

1927年9月7日

事故発生日:西暦1927年9月7日
便名:オールド・グローリー号
機種:フォッカー F.VII
死者:乗員3人全員が死亡
状況:オールド・グローリー号(Old Glory)はフォッカー F.VIIa単発機で、 1927年9月6日、 アメリカ合衆国ニューヨークからイタリアのローマまでの無着陸飛行に挑戦して遭難した飛行機である。
ニューヨーク・デイリー・ミラー紙の社主、 ウィリアム・ランドルフ・ハーストが宣伝のためにニューヨークからローマまでの大西洋横断飛行を企画し、 スポンサーとなった。 当初、ニューヨークのルーズベルト飛行場から出発の予定であったが、 より長い滑走路を持つメイン州のオールドオーチャードビーチ飛行場を使うことにされた。
1927年9月6日12時33分にオールドオーチャードビーチ飛行場を出発した。 乗員はパイロットがジェームズ・デウィット・ヒル(James DeWitt Hill)、 航法士がロイド・バートード(Lloyd W. Bertaud)が搭乗し、 ニューヨーク・デイリー・ミラーの記者、 ミラー・フィリップ・ペインが同乗した。 14時55分には飛行が順調であるという連絡があったが、 15時55分には異常の連絡があった。 レース岬の東方、 350マイルで汽船「カリフォルニア」によって23時57分に目撃されたのが最後であった。
翌日の3時57分と4時3分に遭難信号が送られ、 65マイルほどの位置にいた船舶のトランシルヴァニアが、 予想のコースに向かったが、 5時間後に到着した場所は強風と雨の悪天候であった。 さらに4隻の船舶が参加して30時間の捜索が行われたが、 オールド・グローリー号は発見されなかった。 ハーストは汽船カイル(SS Kyle)を手配し捜索を続け、 9月12日に飛行機の残骸を発見したが、 乗組員は発見できなかった。

1927年11月3日

事故発生日:西暦1927年11月3日
便名:不詳
機種:不詳
死者:不詳(10数人死傷)
状況:京都府安井飛行場(京都府船井郡京丹波町にあった)で開催された曲芸飛行大会にて、参加した機体が誤って観客席に墜落。

1928年5月4日

事故発生日:西暦1928年5月4日
便名:中島飛行機 試験飛行機(機体記号:J-BAKB)
機種:中島 N-36 試作1号機(中島 ブリストル ジュピター 6型 空冷星形9気筒 420馬力)
死者:乗員8人全員が死亡
状況:1927年に逓信省航空局が依頼した日本初の準国産旅客機の試作に対して、 中島飛行機、 三菱航空機(初代)、 愛知時計電機の3社が翌年までにそれぞれ試作機を完成させた。
中島飛行機の試作機は5月3日に初飛行を終えた後、 満席状態での飛行試験を行うため、 翌4日に8人が搭乗して離陸したところ、 高度約100メートルで逆さまとなり、 墜落して炎上した。

1928年5月25日

事故発生日:西暦1928年5月25日
便名:イタリア号
機種:イタリア(半硬式飛行船)
死者:乗員16人中8人が死亡
状況:飛行船での探検飛行による北極点到達後、 ノルウェーのニーオーレスンへの帰還途中に高度が保てなくなり墜落。
直後に飛行船の操縦キャビンが氷塊に衝突し船体から外れたため、 乗員の一部が氷上に取り残された。
気嚢側に取り残された6人は行方不明となり、 生存した8人は7月12日までに救助された。

1930年10月5日

事故発生日:西暦1930年10月5日
便名:----
機種:ロイヤル・エアシップ・ワークス R101(硬式飛行船)
死者:乗員乗客54人中48人が死亡
状況:R101は1929年に完成したイギリスの硬式飛行船である。 1930年10月5日、 フランスで48人の犠牲者を出す事故を起こした。 飛行船の事故による死者数では1937年のヒンデンブルク号爆発事故による犠牲者数を上回り、 1933年のUSS アクロンの事故に次ぐものであった。 R101の事故によってイギリスの硬性飛行船の開発は停止することになった。
当初、1930年9月26日に予定された試験飛行は強風のために10月1日に延期され、 17時間の試験飛行が行われた。 10月4日にトムソン卿ら12人の乗客を乗せて、 R101はカラチに向けて出発した。 離陸直後に姿勢制御のためにバラストの水を放出し、 異常に低い高度で飛行するのが、 通過したイギリスやフランスで目撃された。
翌5日、フランスのパリ近郊のボーヴェに墜落し、 原因には諸説あるが炎に包まれ、24時間燃え続けた。 乗員と乗客、合わせて54人のうちトムソン卿を含む46人が即死し、 2人が後に病院で死亡し、 48人が犠牲となった。 R101の事故はイギリスの飛行船の開発を中止させ、 成功していたR100も運行を停止し、 1931年にスクラップにされた。

1931年6月22日

事故発生日:西暦1931年6月22日
便名:日本航空輸送 福岡発大阪行き(機体記号:J-BCAO)
死者:乗員乗客3人全員が死亡
状況:福岡県にあった太刀洗飛行場から大阪に向かって離陸したが、 有視界飛行中に梅雨時の霧に突入したため高度を下げたところ、 朝倉郡夜須村(現在の福岡県朝倉郡筑前町)の冷水峠付近の山腹に激突した。 事故機に搭乗していた乗客1名は日本における商業定期便最初の犠牲者となった。
この事故がきっかけとなり、 翌1932年6月1日から朝倉郡秋月村(現在の朝倉市)の陣屋山(標高584m)山頂に航空灯台(八丁越灯台)が建設され、 11月1日に試験点灯された。

1932年2月27日

事故発生日:西暦1932年2月27日
便名:日本航空輸送 白鳩号(機体記号:J-BCDO)
機種:ドルニエ ワール
ドルニエ Do J(Dornier Do J)は、 ドイツの高翼単葉の全金属製双発飛行艇。 クラウディウス・ドルニエの手により設計・開発が行われた。 初飛行は1924年。
ヴァール(Wal; ドイツ語で「鯨」。「ワール」とも表記)という愛称でもよく知られている。
死者:乗員5人全員が死亡
状況:大阪府の木津川飛行場(大阪府大阪市大正区にあった。大阪飛行場とも呼ばれた)から福岡県の名島水上飛行場(福岡県糟屋郡多々良村名島の多々良川河口付近(現在の福岡市東区名島)にあった水上機専用の水上飛行場)に向かっていた旅客飛行艇が、 吹雪による視界不良で迷い込んだ八幡市(現在の北九州市)郊外の河内貯水池(福岡県北九州市八幡東区の人造湖)に墜落。 乗客はいなかったが乗員全員が殉職した。
この事故の調査のために文部省航空評議会に事故調査委員会が設けられた。 調査の結果、機体は吹雪に耐え切れなくなり空中分解したことが判明した。 一連の経緯は事故調査に参加した寺田寅彦の随筆集に記述がある。

1932年9月15日

事故発生日:西暦1932年9月15日
便名:朝日新聞社 取材機(機体記号:J-BBAA)
機種:デ・ハビランド DH.80A プス・モス(de Havilland DH.80A Puss Moth)
英国のデ・ハビランド・エアクラフト社で設計され、 1929年から1933年にかけて生産された3座の高翼単葉機である。 本機の飛行速度は200 km/h(124 mph)に達し、 当時としては高性能な民間機の1機種であった。
死者:乗員2人全員が死亡
状況:日本と満洲国の間で締結された日満議定書の調印式の写真を日本本土に輸送していた朝日新聞社機が、 日本海を横断飛行中に行方不明になった。 広範囲を捜索したが、 鳥取県東伯郡沖の海上に取材機の破片と思われる残骸が発見されたことから、 乗員2人は殉職したと判断された。
事故原因は不明であるが、 競争相手よりも先んじて式典の写真を輸送するため、 悪天候のなかを輸送していた最中であった。

1933年4月4日

事故発生日:西暦1933年4月4日
便名:----
機種:アクロン(USS Akron, ZRS-4)
死者:72人(生存者3人)
状況:アクロン (USS Akron, ZRS-4) は、1930年代にアメリカ海軍が運用した硬式飛行船である。 船名は、建造を担当したグッドイヤー社の本社が存在する都市名(オハイオ州アクロン)に因む。 1933年4月4日12時30分頃、ニューイングランド沖合にて突風に巻き込まれて墜落し、 生存者3名のみで乗員73名が死亡する事故となり、 これは飛行船史上最悪の死亡事故となった。 天候を無視した過酷な訓練が原因とされる。 この墜落事故によって同乗していたウィリアム・A・モフェット海軍少将(“アメリカ海軍航空隊の父”と呼ばれる人物だった)も殉職した。 生存者4名は現場に居合わせたドイツの船により救出されたが、 そのうち1名は後日亡くなった。 死亡者が多数であった原因には、 任務上、洋上長時間飛行が前提であったにもかかわらず、 乗組員用の救命胴衣を搭載していなかったこと、 救命いかだも1艘しか装備されておらず、 またそれを使用する時間の余裕がなかったことが大きいとされる。
アクロン号の後、1935年にメイコン号も墜落事故を起こし、 アメリカ海軍が所有していた大型硬式飛行船の機体は1932年に退役済みのロサンゼルス (ZR-3) を除いてすべて失われている。 ヒンデンブルク号爆発事故も重なり、 硬式飛行船の建造は行われることは無くなった。
その後、アクロン号の教訓からアメリカ海軍とグッドイヤー社は骨格を持たない小型の軟式飛行船の増産に着手する。 それらは主に沿岸での対潜哨戒任務に用いられ、 第二次世界大戦中を通じて160機以上が運用された。
アクロン号の残骸は2003年にNR-1により撮影されているが、深深度にあり、 現場の透明度が低いためガーダーを撮影するにとどまっている。

1935年5月18日

事故発生日:西暦1935年5月18日
便名:1) ソビエト連邦 マクシム・ゴーリキー号(機体記号:CCCP-I20)
   2) ソ連空軍 戦闘機
機種:1) ツポレフ ANT-20
   2) ポリカルポフ I-5
死者:両機の乗員乗客36人全員と地上の9人が死亡
状況:1935年5月18日、 イヴァーン・ヴァシーリエヴィチ・ミヘーエフとニコラーイ・セミョーノヴィチ・ジューロフの操縦によるマクシム・ゴーリキー号はANT-14、R-5偵察機、I-5戦闘機の3機と共にモスクワ上空のデモ飛行のために離陸したが、 翼の近くで突然宙返りしたニコラーイ・パーヴロヴィチ・ブラーギンの操縦するI-5と、衝突して墜落した。 この墜落で操縦クルーと招待された党幹部の計45人が死亡し、 機体も全損してわずか1年ばかりの生涯を閉じた。 ソ連当局は、ブラーギンが急接近した状態で無理な宙返りをしたのが事故の原因だと発表したが、 この宙返り自体が事前に当局から命じられたものであったとされている。
その後、1938年に旅客機としてANT-20bisが1機製造された。 ANT-20bisはエンジンの強化で主翼の6基のみでの飛行が可能になっていた。 ANT-20bisは登録記号「PS-124」が与えられた後にアエロフロートでモスクワ - ウズベキスタン間の定期飛行に就役したが、 1942年に事故で墜落し、 乗員36名全員が死亡した。

1935年6月22日

事故発生日:西暦1935年6月22日
便名:日本航空輸送 郵便機(機体記号:不詳)
機種:中島飛行機 P-1 (郵便機) 死者:乗員1人全員が死亡
状況:大阪-名古屋を結ぶ郵便機が岐阜県竹ヶ鼻町内(現在:岐阜県羽島市竹鼻町)に墜落。 操縦士は墜落した町の出身者で、 郷里の上空を飛ぼうとした際にエンジントラブルに遭ったと見られている。 墜落した周辺の民家5戸が全焼したが、 死者は操縦士1人にとどまった。

1936年11月19日

事故発生日:西暦1936年11月19日
便名:フランス航空省主催「パリ東京間100時間懸賞飛行レース」
機種:コードロン・ルノー・シムーンC631
死者:なし(操縦していたアンドレ・ジャピーが重傷)
状況:フランスと日本を75時間15分で結び、 14,000km以上の距離を飛行した。
香港から東京へ向かう途中、 佐賀県の脊振山(福岡県福岡市早良区と佐賀県神埼市との境)に激突し墜落。重傷を負った。

1937年5月6日

事故発生日:西暦1937年5月6日
便名:ドイツ飛行船運輸 (DELAG) ヒンデンブルク号
機種:ツェッペリン LZ 129(硬式飛行船)
死者:乗員61人乗客36人、合計97人の内35人と地上の1人が死亡
状況:ヒンデンブルク号爆発事故は、 1937年5月6日にアメリカ合衆国ニュージャージー州マンチェスター・タウンシップにあるレイクハースト海軍飛行場で発生した、 ドイツの硬式飛行船・LZ129 ヒンデンブルク号の爆発・炎上事故を指す。
この事故で、乗員乗客35人と地上作業員1名、合計36名が死亡し多くの乗客が重傷を負った。 映画、写真、ラジオなどの各メディアで広く報道されたことで、 大型硬式飛行船の安全性に疑問が持たれ、 飛行船時代が幕を閉じる契機となった。
1912年4月14日に起きたイギリスの豪華客船タイタニック号沈没事故、 1986年1月28日に起きたアメリカのスペースシャトル・チャレンジャー号爆発事故などとともに、 20世紀の世界を揺るがせた大事故の一つとして知られている。 ...
ヒンデンブルク号は、マックス・プルス船長の指揮の下、 定期運航でフランクフルトを発ち(現地時間1937年5月3日20時20分、アメリカ東部時間5月3日14時20分、日本時間5月4日4時20分)、 2日半かけて大西洋を横断したが、 向かい風の中を飛行したため予定より8時間遅れていた。 しかも雷雨の影響により、 着陸はさらに遅れることとなった。
予定より12時間遅れとなった現地時間(アメリカ東部時間)5月6日19時25分(日本時間5月7日8時25分、ベルリン・フランクフルト時間5月7日1時25分)頃、 ニュージャージー州マンチェスター・タウンシップのレイクハースト海軍航空基地着陸の際に、 尾翼付近から突如爆発。 炎は瞬く間に船体を焼き尽くし、 ヒンデンブルク号は爆発から僅か32秒(34秒、37秒とも)で墜落、 乗員・乗客97人中35人と地上の作業員1名が死亡した。
このときの様子は写真・映像およびラジオ中継により記録され、 現在も事故直後の様子を知ることができる。 また、映像技術の発展に伴い、 モノクロ映像だったヒンデンブルク号の映像を処理してカラー化されたものも出ている。

事故発生当時は水素ガス引火による爆発事故ということで、 浮揚ガスに水素ガスを用いるのは危険だとする説が流布された。
着陸直前に船尾が下がった状態であったことから、 爆発が起きた船尾で水素漏れが起きていたという説もある。
ツェッペリン社は原因については一切公表しなかったが、 濡らした外皮に電流を流して発火させる実験を行い、 外皮が事故の原因であるとの結論に達していた。 この事実をツェッペリン社が公表しなかったのは、 保険金の問題もしくは国家社会主義ドイツ労働者党 (ナチス) の圧力が原因であると考えられている。 その後、ツェッペリン社は外皮塗料を改良した新型機を製造したが、 アドルフ・ヒトラーの指示により解体された。
その後、1997年にNASA・ケネディ宇宙センターの元水素計画マネジャー、アディソン・ベインが当時の証言、 映像分析、そして実物の外皮の分析により、 事故の原因はヒンデンブルク号の船体外皮の酸化鉄・アルミニウム混合塗料(テルミットと同じ成分である)であると発表した。
彼の説は
ヒンデンブルク号の着陸の際、飛行中に蓄積された静電気を逃がすためのロープが下ろされた瞬間に、外皮と鉄骨の間の繋ぎ方に問題があったために十分に電気が逃げず、電位差が生じて右舷側尾翼の前方付け根付近で放電が起こったことから外皮が発火・炎上した。
というもので、 現在ではこの説が有力になりつつある(この場合、浮揚ガスが水素でなくヘリウムの場合でも飛行船の外皮は炎上する。ただし、水素と違ってヘリウムは爆発はしない)。
以上の説は、1999年にイギリスのトゥエンティ・トゥエンティ制作のテレビ番組 "Secrets of the Dead, What Happened to the Hindenburg?" でベイン自身の解説とともに取り上げられ、 日本でも翌2000年6月16日にNHK総合で「ドキュメント 地球時間 ヒンデンブルク号 豪華飛行船の悲劇」として放送された。
また、「ドイツ政府の工作員による自爆テロだったのではないか」という陰謀説もある。 当時、「大型固定翼機の実用化を進めていたドイツにとって、『飛行船はもはや時代遅れ』という見方が強まっており、 大衆の目前で飛行船の危険性を印象づけることで航空機への転用を図ろうとした」という理由であるが、 この説には証拠となる証言や物的証拠は一切存在せず、 また体面を非常に気にしていたナチス政権が大事故で全世界に醜態をさらすことを許すのかという点で無理があり、 ツェッペリン飛行船製造会社とナチスは仲が悪かったという状況証拠のみを根拠としている。
また、ナチスを嫌うツェッペリン社社長エッケナー博士による破壊工作という説もあるが、 これも製造会社とNSDAPの不仲という状況以外に根拠はない。

1937年5月26日

事故発生日:西暦1937年5月26日
便名:フランス航空省主催「パリ東京間100時間懸賞飛行レース」
機種:コードロンC635シムーン
死者:なし(乗員2名軽傷)
状況:悪天候により高知県の戸原海岸に不時着、転覆して大破。
マルセル・ドレ(fr:Marcel Doret)と機関士が軽傷を負った。

1937年5月27日

事故発生日:西暦1937年5月27日
便名:日本航空輸送研究所
機種:愛知時計電機 AB-4飛行艇
死者:乗員5人全員が死亡
状況:濃霧の中、大阪府堺市を飛行中に高さ200メートルの工場の煙突に衝突して墜落炎上。乗員は全員死亡した。

1938年2月5日

事故発生日:西暦1938年2月5日
便名:----
機種:ソビエト連邦 SSSR-V6 オソアヴィアヒム(半硬式飛行船)
死者:乗員19人中13人が死亡
状況:SSSR-V6 オソアヴィアヒムは、 流氷に閉じ込められたイワン・パパーニンの極地探検隊の救助のためムルマンスクに派遣されることになった。 モスクワの基地からムルマンスクまでの飛行の間に極地の天候に対する飛行特性がテストされた。 1938年2月5日、16時45分、 ムルマンスクの280km南の、カンダラクシャの近くの高地に衝突し、 乗員19人のうち13人が犠牲となった。
公式の発表では革命前の古い地図の地形が間違っていたことが事故原因としたが、 視界の悪かったことと、 操縦ミスが事故の原因であったとされる。
犠牲者はモスクワのノヴォデヴィチ墓地に葬られ、 墜落現場には1968年に記念碑が建てられた。 SSSR-V6 オソアヴィアヒムの事故はソビエトの飛行船の開発に打撃を与えた。

1938年7月28日

事故発生日:西暦1938年7月28日
便名:パンアメリカン航空 “ハワイ・クリッパー”
機種:マーチン M-130
死者:乗員乗客15人全員が死亡
状況:グアムからマニラに向かっていた旅客飛行艇が失踪。機体は発見されなかったが、フィリピン近海で炎上して墜落する飛行物体が目撃されており、なんらかの機械トラブルに遭遇したと見られている。一方で現場海域が当時日本の国際連盟委任統治領であった南洋群島に近かったことから、大日本帝国海軍が関与したという陰謀説が主張されており、ロナルド・W・ジャクソンによる著書『消された飛行艇』(1980年発表)では、日本が航空技術獲得のためにハイジャックしたなどと想像している。

1938年7月29日

事故発生日:西暦1938年7月29日
便名:大日本帝国南洋庁
機種:ダグラス DF型飛行艇
死者:乗員7人全員が死亡
状況:横須賀から南洋諸島のサイパン島を経由してパラオに向かう予定の南洋庁の飛行艇が、 機体トラブルのため小笠原諸島の父島近海に不時着したとの通信があったが、 その後の捜索で痕跡を発見することが出来なかった。 不時着後沈没したと見られている。

1938年8月24日

事故発生日:西暦1938年8月24日
便名:1) 日本飛行学校 訓練機(機体記号:J-BIDH)
   2) 日本航空輸送 旅客機(機体記号:J-BJDO)
機種:1) アンリオ (en) HD.14 EP-2
   2) フォッカー スーパーユニバーサル
死者:両機の乗員5人全員と地上の80人が死亡
状況:大森区(現在の東京都大田区)上空で空中衝突。1機が工場に墜落し爆発炎上したため、付近の市民も数多く巻き込まれた。

1938年12月8日

事故発生日:西暦1938年12月8日
便名:大日本航空 富士号(機体記号:J-BBOH)
機種:中島飛行機 DC-2
死者:乗員乗客12人中10人が死亡
状況:台北から那覇に向かっていた旅客機の右エンジンが魚釣島上空で故障。 片方のエンジンのみで飛行を続けたものの慶良間諸島の久場島付近の海上にSOSを発信した上で不時着水した。 直ちに船舶が救助に向かったが、 乗客2人を救助できたものの他の10人は犠牲になった。

1939年5月17日

事故発生日:西暦1939年5月17日
便名:大日本航空 球磨号(機体記号:J-BCOZ)
機種:ロッキード L-14-WG3B スーパーエレクトラ
死者:乗員乗客11人中6人が死亡
状況:西暦1939年(昭和14年)に発生した、 民間航空機による航空事故(離陸失敗事故)である。
西暦1939年5月17日、 大日本航空のロッキード スーパーエレクトラ「球磨号」(双発レシプロ機、機体記号:J-BCOZ)は、 福岡から朝鮮の京城(現:大韓民国・ソウル)を経由し、 中華民国の北京に向かう下り便として運航されるはずであった。
午前11時21分に和白村にあった雁ノ巣飛行場(福岡第一飛行場、現:福岡市雁の巣レクリエーションセンター)から離陸したが、 直後に左エンジンがトラブルを起こして出力が低下したため失速、 きりもみ状態で海岸近くのマツ林に墜落。 墜落と同時にガソリンが爆発、 マツ林に延焼した。
この事故で乗員3名乗客8名のうち乗員2名乗客4名の6名が犠牲となり、 5名が重軽傷を負う惨事となった。

1940年2月5日

事故発生日:西暦1940年2月5日
便名:大日本航空 阿蘇号(機体記号:J-BBOT
機種:中島飛行機 DC-2
死者:0人
状況:福岡から那覇を経由して台北に向かっていた旅客機が、 エンジントラブルにより尖閣諸島の魚釣島の海岸に不時着した。
乗員乗客13人は無事に救助されたが、機体は現地にて放棄された。

1940年12月20日

事故発生日:西暦1940年12月20日
便名:三菱航空機(初代) 試験機 妙高号
機種:三菱航空機 MC-20
死者:乗員13人全員が死亡
状況:耐空証明取得のため試験中の双発旅客機が東京湾に墜落。 搭乗していた三菱航空機社員、 逓信省航空局の職員、 海軍士官ら全員が死亡。
機体は翌年2月に引き揚げられたが原因は不明とされた。

1941年12月1日

事故発生日:西暦1941年12月1日
便名:中華航空 上海号
機種:ダグラス DC-3
死者:乗員4人乗客14人、合計18人の内16人が死亡
状況:上海号不時着事件は、 日華事変(日中戦争)時に発生した航空機事故である。 事故そのものよりも事故機に軍事機密書類が搭載されていたことから、 日本軍が震撼したとされる事件である。
上海号は、 台北飛行場から南京国民政府の広東へ向けて飛行していた。 予定では台北から3時間で広州に到着するはずであった。
しかし、汕頭上空通過の通信を最後に通信が途絶えた。 中華航空やその他の飛行場では通信が途絶えたことに不安を持ったが、 通信機の故障も予想されたため、 広東飛行場に上海号が現れるのを待った。 しかし到着予定時刻の午後4時を過ぎても機影を確認することができなかった。 燃料が枯渇する午後5時過ぎ、 中華航空は遭難の気配濃厚として支那派遣軍総司令部に報告した。 連絡を受けた司令部は大混乱となり、 その日のうちに不時着機の捜索が開始された。
そして12月3日に、 日本陸軍の偵察機(九八式直協機)が仙頭と広州の中間付近の獅朝洞高地に不時着している上海号を発見した。 事故原因は明らかではないが、 悪天候により山岳地帯に迷い込み不時着を余儀なくされたと推測されている。 なお上海号の機首は相当破損していたが胴体部分が原型を留めており生存者がいる可能性があった。 しかし、現場は敵地内であり救出は難しかった。 そのうえ当時は、敵地内に不時着した場合、 軍人は交戦の上自決、民間人は捕虜もしくは軍人同様に自決であり、 日本軍が介入する事態ではなかった。 しかし日本軍は機体発見直後に、 不時着機を爆撃機で爆撃し破壊した。 これは事故機に12月8日に予定されていた対米英開戦時における香港攻略作戦の作戦命令書及び暗号書など機密性の高い書類が積まれており、 それが敵側に渡るのを恐れての行為であった。

1942年1月16日

事故発生日:西暦1942年1月16日
便名:トランスコンチネンタル・アンド・ウエスタン・エア 3便
機種:ダグラス DC-3-382
死者:乗員乗客22人全員が死亡
状況:ニューヨーク発ロサンゼルス行きの国内線が、最終給油地のラスベガスを離陸後間もなく近郊の山腹に墜落。俳優クラーク・ゲーブルの妻で女優のキャロル・ロンバードが母と共に巻き込まれた。

1942年2月24日

事故発生日:西暦1942年2月24日
便名:中華航空
機種:大型双発軍用臨時機 九龍 MC5101(三菱航空機 MC-20 ?)
死者:乗員・乗客7人全員が死亡
状況:
状況:3月24日、インド独立連盟のプリタム・シンら3人とインド工作に従事していた森本大佐などを乗せてバンコクから東京へ向かっていた中華航空機が消息を絶つ。
同年9月24日、 静岡県水窪町(現在は浜松市に併合)の樵夫が遠望する中で、 同町の白倉山御料林内に墜落していることを確認した。

1942年10月23日

事故発生日:西暦1942年10月23日
便名:1) アメリカン航空 28便
   2) アメリカ陸軍航空軍 実務機(機体記号:41-38116)
機種:1) ダグラス DC-3-178
   2) ロッキード B-34 ヴェンチュラ IIA
死者:アメリカン航空機の乗員乗客12人全員が死亡
状況:陸軍機の機長が偶々友人だったアメリカン航空機の副操縦士の気を引こうとして接近したところ、 誤ってアメリカン航空機の後尾部分に接触、 同機は機体制御を失いカリフォルニア州チノキャニオン付近に墜落した。 陸軍機は無事だった。

1946年3月10日

事故発生日:西暦1946年3月10日
便名:アンセット航空 便名不明(機体記号:VH-AET
機種:ダグラス C-47 DL
死者:乗員乗客25人全員が死亡
状況:ホバートからメルボルンに向かうオーストラリア国内便が、 不適切な操縦のために離陸直後にダーウェント川河口に墜落。 2007年にガルーダ・インドネシア航空200便墜落事故が起きるまで、 オセアニアでは最も重大な航空事故とされた。

1947年1月26日

事故発生日:西暦1947年1月26日
便名:KLMオランダ航空 便名不明(機体記号:PH-TCR)
機種:ダグラス DC-3C
死者:乗員6人乗客16人、合計22人全員が死亡
状況:1947年KLMオランダ航空ダグラス DC-3コペンハーゲン墜落事故は、 1947年1月26日にアムステルダムからコペンハーゲンを経由してストックホルムに向かうKLMオランダ航空の便が墜落した事故である。 この事故はダグラス DC-3がデンマークのコペンハーゲン空港から離陸した直後に発生し、 乗客と乗員22人全員が死亡した。
事故の犠牲者の中にはスウェーデンのグスタフ・アドルフ王子、 アメリカのオペラ歌手のグレース・ムーア、 デンマークの女優のゲルダ・ノイマンが含まれていた。 グスタフ・アドルフ王子はスウェーデンの現在の国王であるカール16世グスタフの父親であり、 彼の葬儀には10万人が出席した[要出典]。 グレース・ムーアの遺体は別のKLMオランダ航空の飛行機でパリに運ばれ、 1947年2月3日に500人以上が出席して埋葬された。
事故の原因は飛行機を駐機中に昇降舵を固定していたガストロックを取り外さなかったことであると断定された。 この事故は当時デンマーク史上最悪の航空事故であった。

1947年5月30日

事故発生日:西暦1947年5月30日
便名:イースタン航空 605便
機種:ダグラス C-54B-15-DO
死者:乗員乗客53人全員が死亡
状況:ボルチモアへ向けて下降中、突然垂直降下した上に反転して墜落。偶然後方に民間航空委員会(CAB)の事故調査官が搭乗した機が飛行しており、一部始終を目撃したが、事故原因は解明出来なかった。

1948年1月30日

事故発生日:西暦1948年1月30日
便名:ブリティッシュ・サウスアメリカン航空 (BSAA) “スター・タイガー”
機種:アブロ 688 チューダー 1
死者:乗員乗客31人全員が死亡
状況:アゾレスからバミューダに向けて大西洋横断飛行をしていた旅客機がバミューダ近海で失踪。 失踪した地点が「バミューダトライアングル」と呼ばれる海域であることから、 ミステリアスな状況で消えた航空機の1つとされている。 しかし実際には強い向かい風を避けるために低空飛行したが、 風に流され航路を外れて自機の位置確認が出来なくなり、 バミューダの手前で電波誘導を依頼したところで通信が途絶しており、 燃料切れで海上に墜落した可能性があるという。

1948年7月4日

事故発生日:西暦1948年7月4日
便名:1) スカンジナビア航空 “Agnar Viking(機体記号:SE-BDA)乗員7人乗客25人
   2) イギリス空軍(機体記号:MW248)乗員6人乗客1人
機種:1) ダグラス DC-6
   2) アブロ アブロ ヨーク C.1(機体記号:MW248)
死者:両機の乗員乗客39人全員が死亡
状況:1948年ノースウッド空中衝突事故は、 1948年7月4日の現地時間15時3分にイギリスの首都ロンドンのノースウッド上空で、 イギリス空軍のノーソルト空軍基地へ向かっていたスカンジナビア航空のDC-6と、 同じくノーソルト空軍基地へ向かっていたイギリス空軍第99飛行隊のアブロ ヨーク C.1が空中衝突し両機とも墜落、 双方の乗員乗客39人全員が死亡した事故である。
この事故はスカンジナビア航空にとって最初の重大事故であり、 当時のイギリス国内で最悪の航空事故であった。

1949年1月17日

事故発生日:西暦1949年1月17日
便名:ブリティッシュ・サウスアメリカン航空 (BSAA) “スター・エリエル”
機種:アブロ 688 チューダー 4B
死者:乗員乗客20人全員が死亡
状況:バミューダからジャマイカのキングストンに向けて離陸した旅客機が大西洋上で失踪。 失踪したのが前年と同じ航空会社、同じ機種の旅客機であり、 さらに同じ「バミューダトライアングル」付近であったため、 こちらもミステリアスな事件とされている。

1949年5月4日

事故発生日:西暦1949年5月4日
便名:Avio Linee Italiane 便名不明(機体記号:I-ELCE)
機種:フィアット G.212CP
死者:乗員4人乗客27人、合計31人全員が死亡
状況:スペルガの悲劇とは、 1949年5月4日、イタリア・トリノ郊外の丘陵地、 通称「スペルガの丘」で発生した航空事故である。
アリタリア航空のフィアットG.212 型機は、 ポルトガル・リスボンからイタリア・トリノへ向かった。 この時トリノ周辺の天候は激しい雷雨で、視界不良の状態にあった。 着陸寸前に視界不良からコントロールを誤って郊外のスペルガ聖堂に激突、 この事故でマッツォーラを含むACトリノの選手18名と、 監督・コーチおよびクラブのフロントら5名、 そして乗員ほか8名の計31名全員が死亡した。

1949年10月28日

事故発生日:西暦1949年10月28日
便名:エールフランス 便名不明(機体記号:F-BAZN)
機種:ロッキード L-749-79-46 コンステレーション
死者:乗員11人乗客37人、合計48人全員が死亡
状況:1949年エールフランスロッキード コンステレーション墜落事故とは、 1949年10月28日に発生した旅客機の墜落事故である。
エールフランスのロッキード L-749A-79-46 コンステレーションがパリ=オルリー空港発ニューヨーク行き国際定期旅客便として飛行中、 経由地のポルトガル領アゾレス諸島サンタマリア空港へ着陸しようとする間にサンミゲル島バラ山(ピコ・ダ・バラ)に激突した。 この事故で搭乗していた48人全員が死亡した。

1950年3月12日

事故発生日:西暦1950年3月12日
便名:フェアフライト チャーター便(機体記号:G-AKBY)
機種:アブロ 689 チューダー 5
死者:乗員乗客83人中80人が死亡
状況:アイルランドのダブリンからウェールズのランドウに向かっていたラグビーチーム「ウェルシュ」のサポーターを乗せた臨時便が、 着陸の最終段階で失速し墜落。
事故原因は規定よりも乗客が6人多く、 機内の重量配分がアンバランスであったため失速したとされた。

1950年6月23日

事故発生日:西暦1950年6月23日
便名:ノースウエスト・オリエント航空 2501便(機体記号:N95425)
機種:ダグラス DC-4
死者:乗員3人乗客55人、合計58人全員が死亡
状況:ノースウエスト・オリエント航空2501便墜落事故は、 1950年にアメリカ合衆国で発生した航空事故である。 乱気流に巻き込まれ墜落したとされたが、機体が発見されず詳細は不明である。
ノースウエスト・オリエント航空2501便は、 ニューヨーク・ラガーディア空港発で、 ミネソタ州ミネアポリスとワシントン州スポケーンを経由しワシントン州シアトルに向かうアメリカ大陸横断便であった。 運航はダグラス DC-4レシプロ旅客機(機体記号:N95425)で行われており、 乗客55名、乗員3名が搭乗していた。
1950年6月23日(CST)の深夜に飛行中、 事故発生の少し前に、 当該機は管制へ2,500フィートへの降下を要請したが、 航空路の錯綜を理由に拒否された。 23時15分(CST)に行われたそのやり取りの後、 2501便は消息を絶った。 この時の推定位置は、 ミシガン州ベントンハーバーの北北西20マイルのミシガン湖上である。 ...
墜落地点と見られる湖面では、 オイルや乗客の持ち物など軽い遺留品が浮遊しているのが発見された。 だが、音響探知機等を使用して捜索したにもかかわらず、 機体は発見されなかった。 これは、ミシガン湖の墜落現場の湖底は水深50 mであったが、 泥が約10 m堆積していたためであった。

事故原因については、活発な乱気流空域へ突入し、 機体構造破壊もしくは操縦不能となって墜落したと推測されたが、 墜落原因の明確な根拠を見付けることは出来なかった。

現在でも、ミシガン州にある非営利組織であるMichigan Shipwreck Research Associatesが、 他の沈没船同様湖底にあるはずの2501便機体を捜索しているという。

1950年8月31日

事故発生日:西暦1950年8月31日
便名:トランス・ワールド航空 903便
機種:ロッキード L-749A コンステレーション
死者:乗員7人乗客48人、合計55人全員が死亡
状況:トランス・ワールド航空903便墜落事故とは、 アメリカ合衆国の航空会社であったトランス・ワールド航空の旅客機がエジプトで墜落した航空事故である。
1950年8月30日。 トランス・ワールド航空903便はインドボンベイを出発し、 ニューヨークアイドルワイルド国際空港へ向かう定期国際線であった。 当日はレシプロ旅客機ロッキード・L749Aの愛称「スター・オフ・メリーランド」(機体記号:N6004C)で運航されていた。
経由地であるエジプトカイロより次経由地であるイタリアのローマへ向けて夜間飛行に向かった。 当日は好天であり乗客48人と乗員7人の55人を乗せ現地時間23時35分にカイロを離陸した。 903便が10,000フィートを上昇中に、 第3エンジンが火災を起こしてしまった。 そのため操縦乗員は直ちにカイロへ緊急着陸すると報告した。 しかし途中でエンジンが機体と分離したため、 カイロより65マイルの砂漠不時着陸を試みたが、 着地の衝撃で機体は現地時間の8月31日2時03分にバラバラとなった。 生存者はいなかった。 ...

調査の結果、 火災は潤滑油異常によりベアリングが破壊したためであると判明した。
第3エンジン後部のマスターロッドベアリング破壊が引き金となって、 エンジン構造が次々と破壊し、 オーバーヒートし、 遂に燃料パイプが切断され火災となった。 なおベアリング破壊は潤滑油の中にある不純物が詰まったためとされたため、 事故対策として潤滑油交換頻度を上げたり、 潤滑油フィルター改良などが行われた。

1952年4月9日

事故発生日:西暦1952年4月9日
便名:日本航空 301便 もく星号
機種:マーチン 2-0-2
死者:乗員乗客37人全員が死亡
状況:もく星号が消息を絶った当日午後、 「浜名湖西南16キロの海上で…米軍救助隊が…全員救助」「舞阪沖…で遭難」など、 いずれもアメリカ軍筋を出処とする複数の発表があり、 これに捜索が振り回された結果、 機体の発見は遭難から丸一日経ってからとなった。
この事故で大きな謎とされたのは、 高度6千フィートで大島上空を通過するはずのもく星号が、 海抜2千数百フィートの三原山に激突していることであった。 運輸省による航空事故調査会は人為的なミスにしぼって、 アメリカ人機長と航空管制センター(埼玉・米空軍ジョンソン基地内)との交信テープの提出をアメリカ軍に要請したが拒否され、 タイプ打ちした紙の記録の提出で片づけられた。 航空事故調査会は一か月という異例の早さで調査を終えることとなり、 事故原因は推定のまま残された。
その原因を巡って、 高度計異常説、爆破説、米軍謀略説、機長飲酒説など巷間でさまざまに憶測された。 事故発生の同月末、日本国の独立が回復し、 日本航空も同年秋から自主運航を開始したが、 米軍航空管制下に起きたこの事故の真相は、未だ不明のままである。

1952年4月11日

事故発生日:西暦1952年4月11日
便名:パンアメリカン航空 526A便
機種:ダグラス DC-4
死者:乗員乗客69人中52人が死亡
状況:プエルト・リコのサンフアンを離陸後、4機のエンジンの内2機が停止したため引き返したが、途中で海上に緊急着水。機体がわずか3分で水没したため多くの乗客が溺死した。この事故が教訓となり、定期旅客便では離陸前に必ず緊急着水時用のライフジャケットと救命いかだの説明をするようになった。

1952年4月29日

事故発生日:西暦1952年4月29日
便名:パンアメリカン航空 202便(機体記号:N1039V)シップネーム:クリッパー・グッドホープ
機種:ボーイング 377 ストラトクルーザー 10-26
死者:乗員9人乗客41人、合計50人全員が死亡
状況:パンアメリカン航空202便墜落事故は、 ボーイング377ストラトクルーザー旅客機がブラジル奥地へ墜落した航空事故である。 後に事故はプロペラ設計ミスが引金となって機体破壊が発生したものと判明した。
4月29日午前3時06分(以下世界時)にリオデジャネイロ市のガレオン国際空港を離陸し、 北北西へ針路を向けて、 次経由地であったポート・オブ・スペインに10時間30分後に着陸する、 有視界飛行によるフライトプランであった。 午前6時16分にアマゾン熱帯雨林にあるバレリアス付近の位置通報地点で航空管制に対し「現在14,500フィートを巡航中、次の位置通報地点カロリナは午前7時45分に通過予定」と報告したのを最後に消息を絶った。 202便を最後に目撃したのはフォルモサとサンフランシスコという村の住民で、 最後の報告が行われた時間であった。 証言によれば202便は通常飛行をしていたという。
202便が消息を絶ってから、ブラジル海軍は海上を捜索すると共に、 ブラジル空軍と米空軍・海軍機による大規模な捜索が行われ、 5月1日になってリオデジャネイロから北北西約1,600 km、 アマゾン川河口にあるベレンより南へ1,050 km離れたパラー州南東部のアマゾンの熱帯雨林に墜落した202便残骸を発見した。 この事故で運航乗務員5名・客室乗務員4名・乗客41名、50名全員の死亡が確認された。 後に墜落したのは午前6時40分(現地時間午前3時40分)頃と推定された。

1952年5月26日

事故発生日:西暦1952年5月26日
便名:英国海外航空 (BOAC) 便名不明(機体記号:G-ALDN)
機種:ハンドレページ HP.81 ハーミーズ IV
死者:乗員乗客18人中1人が死亡
状況:リビアからナイジェリアに向かっていた旅客機が航路を逸脱し、 迷走の上燃料枯渇によりモーリタニアのサハラ砂漠に不時着した。
不時着時には全員が生存しており、 救助を待つためにオアシスに向かったが、 頭部を負傷していた副操縦士がオアシスで死亡した。

1953年5月2日

事故発生日:西暦1953年5月2日
便名:英国海外航空 (BOAC) 783便(機体記号:G-ALYV)
機種:デ・ハビランド DH-106 コメット1
死者:乗員6人乗客37人、合計43人全員が死亡
状況:英国海外航空783便墜落事故は、 歴史上初めて発生した民間ジェット定期便の全損死亡事故(航空事故)である。
1953年5月2日、英国海外航空(BOAC)783便は、 シンガポールよりロンドンへ向かうフライトプランの下、 コメットMk.I(イギリス・デハビランド製ジェット4発旅客機、機体記号G-ALYV)によって運航されていた。 経由地であるインドカルカッタのダムダム空港をデリーへ向けて現地時間4時29分に離陸した。
離陸後、高度7,000フィート(2,133 m)付近を上昇中に強い雷雲に突入して機体が空中分解し炎上、 カルカッタ北西約38 kmの西ベンガル地方ジャガロゴリ近郊へ墜落した。 この事故で乗員6名乗客37名の合計43名全員が犠牲となった。 この事故が商業路線に就航中のジェット旅客機としては世界初の航空事故となった。

1953年9月1日

事故発生日:西暦1953年9月1日
便名:エールフランス 178便
機種:ロッキード L-749A コンステレーション(機体記号:F-BAZZ))
死者:乗員9人乗客33人、合計42人全員が死亡
状況:エールフランス178便墜落事故は、 1953年9月1日、 パリ=オルリー空港からニース空港に向けて飛行していたエールフランスのロッキード コンステレーションが、 ファイナルアプローチ中にフランス南東部アルプ=ド=オート=プロヴァンス県バルスロネット近郊のアルプス山中で墜落した航空事故である。
墜落した原因は不明であるが、 操縦士は墜落する5分前に「万事OK」「予定通りニースに着陸する」と交信しており、 アルプス山脈の一角にあるモン・スニ山系を既に通り過ぎたと錯覚、 早く高度を下げてしまい山頂付近に激突したという航法上のミス説が報道された。
乗客33人、乗員9人全員が死亡。 ヴァイオリニストジャック・ティボーが秘蔵の名器ストラディバリウスと共に巻き込まれた。 事故機は墜落後3時間以上炎上していた。
同便は、パリを出発しニース・ベイルート・バグダード・カラチ・コルカタを経由してホーチミン市に向かう予定であった。
2015年3月24日、墜落現場の西1km余りの地点で、 ジャーマンウイングス9525便墜落事故が発生した。

1953年10月29日

事故発生日:西暦1953年10月29日
便名:英連邦太平洋航空 (BCPA) 304便(機体記号:VH-BPE)
機種:ダグラス DC-6 Resolution
死者:乗員8人乗客11人、合計19人全員が死亡
状況:英連邦太平洋航空304便墜落事故とは、 アメリカ合衆国のサンフランシスコで発生した航空事故である。 当時世界的な「天才ピアニスト」と呼ばれていたウィリアム・カペルが当該機に搭乗しており犠牲になった。
英連邦太平洋航空304便は、 オーストラリアから北米を結ぶ路線で、 ダグラス DC-6、愛称 Resolution(機体記号:VH-BPE)で運航されていた。 1953年10月29日、同便はシドニーからナンディ(フィジー)、 カントン島、 ホノルルに寄航した後、 サンフランシスコ国際空港への着陸アプローチ中に、 カリフォルニア州サンマテオ郡ウッドサイドの3マイル西南西に墜落し、 乗員乗客19人全員が死亡した。 ...
事故機となったDC-6の定期便には、 乗員8人と乗客11人が搭乗しており、 収納能力からすると搭乗率はかなり低かった。 ホノルルから9時間25分の飛行時間の後でサンフランシスコの海岸に近づいた午前8時7分(以下現地時間)に、 機長は管制塔に連絡した。 そのとき彼は有視界飛行をしており、 高度500フィートより下が雲に覆われていると通報した。

午前8時15分に、304便は降下を始めたが、 午前8時44分に標高1,950フィートの山地に激突した。 機体は0.5マイルの範囲に飛散していた。

民間航空委員会による事故調査によれば、 当時現場付近はサンフランシスコ特有の朝霧に覆われており、 地表の様子はわかりにくかった。 にもかかわらず304便は計器着陸による決められた着陸アプローチを行っていなかったとして、 パイロットミスによる事故と断定された。

1954年1月10日

事故発生日:西暦1954年1月10日
便名:英国海外航空 (BOAC) 781便(機体記号:G-ALYP)
機種:デ・ハビランド DH-106 コメット1(York Peter
死者:乗員6人乗客29人、合計35人全員が死亡
状況:英国海外航空781便墜落事故は、 1954年1月10日にイタリア・エルバ島沖のティレニア海上空で発生した航空事故である。
世界最初の実用的ジェット旅客機であるイギリスのデハビランド コメットで運航されていた英国海外航空781便(シンガポール発ロンドン行)が、 飛行中に空中分解して墜落した。 同時期、コメットに存在した技術上の欠陥によって発生した航空事故(コメット連続墜落事故)の1つである。 ...
1954年1月10日、 英国海外航空(現・ブリティッシュ・エアウェイズ)所属コメット3号機 "ヨーク・ピーター"(York Peter)(機体記号G-ALYP)は781便として、 シンガポールからロンドンへ向けて飛行していた。 経由地であるローマのチャンピーノ空港を世界時9時34分(現地時間10時34分)に離陸した。 同便には乗員6名(操縦乗員と客室乗務員3名ずつ)と乗客29名(うち子供10名)が搭乗していた。 またヨーク・ピーターは1952年5月に世界最初の定期ジェット旅客機として就航した輝かしい機体であった。

世界時9時50分ごろに管制塔へ定期通信を入れた後、 781便の11分前にローマを離陸して付近を飛行していた同僚の "アーゴノート" 機531便(カナディア製DC-4, 機体記号G-ALHJ、コールサイン"How Jig")と気象条件情報交換のため無線通信をしていた。 世界時9時52分頃、 781便のアラン・ギブソン機長(当時31歳)のメッセージが、 “George How Jig, did you get my...”(531便、そちらに私の…)と言ったところで途切れてしまった。 この時781便は地中海のエルバ島上空26,500フィート(8,077 m)を巡航していたが、 この瞬間にヨーク・ピーターの前側胴体天井外壁に設置されていたADF(自動方向探知機)アンテナの穴のフレームより亀裂が爆発的に広がり、 破壊が胴体後部、機首、主翼の順に起きたため、 あっという間に空中分解してバラバラとなった残骸が炎や煙に包まれて海上に落下して行った。

この時、爆発を目撃したエルバ島の漁師達が船で現場へ急行したが、 生存者を発見することは出来なかった。 この事故で35名全員が死亡した(そのうち遺体が回収されたのは15名)。 この事故の犠牲者の中には、 オーストラリア出身のBBCとABC記者チェスター・ウィルモットも含まれていた。 現在、エルバ島には事故犠牲者慰霊塔が立てられている。

なお、この事故でコメットは一時的に飛行停止となったが、 問題個所とされた部分を改修した後に飛行は再開された。 しかし、再開直後の4月に同型のコメットが墜落する事故が発生し、 耐空証明が取消され、 再度飛行停止措置が取られた。

原因究明のために、 通称「エルバ島作戦」とよばれる大規模な残骸の回収作業がイギリス海軍によって行われた。 またイギリスのロイヤル・エアクラフト・エスタブリッシュメント (RAE) で残骸の復元作業が行われたり、 与圧された胴体が外壁の疲労で破壊された可能性が指摘されたため、 巨大な水槽を建造してその中に実際にコメットの胴体を沈め、 水圧を掛ける事で地上で人工的な与圧状態を作り出すという極めて大がかりな実験が行われた。

その結果実際には低い強度しかなかったことが判明した。 そのため最終的にはコメットには当時の航空工学では判明していなかった設計上の瑕疵により、 与圧された胴体の繰返し変形による金属疲労が原因で空中分解事故を起こしたと断定された。 そのため、事故機と同型機コメット1は永久飛行停止措置が取られ、 就航から僅か2年余りで退役することとなった。

1954年4月8日

事故発生日:西暦1954年4月8日月日
便名:南アフリカ航空 201便(機体記号:G-ALYY)
機種:デ・ハビランド DH-106 コメット1
死者:乗員7人乗客14人、合計21人全員が死亡
状況:南アフリカ航空201便墜落事故は、 世界最初の商業用ジェット旅客機に起きた一連のコメット連続墜落事故最後の航空事故である。
1954年4月8日、 南アフリカ航空201便は英国海外航空からリースされていたコメット1型機(機体記号G-ALYY、コールサイン:"ヨーク・ヨーク"「York York」)で運航されており、イギリスのロンドンを出発して南アフリカ共和国のヨハネスブルグに向かう飛行計画であった。 しかし当日の201便は、前日、 経由地であったローマのチャンピーノ空港からの出発前点検で翼上パネルのボルト30本が緩んだうえに燃料系統にトラブルがあることが判明したため、 出発見合わせとなっており、 25時間遅れの18時32分(協定世界時、以下同じ)にチャンピーノ空港を離陸しカイロに向かっていた。
19時05分にカイロの航空管制塔に「カイロへの到着時間は21時02分」と送信した直後の19時07分ごろに、 ナポリ南東のストロンボリ島付近50km沖合のティレニア海上空高度30000フィートを巡航中に空中爆発し墜落した。 この事故で乗員(全て南アフリカ国籍)7名と乗客14名の21名全員が死亡した。 空中爆発直後に航空管制官が201便に何度も通信を試みたが、 返事が無いため遭難したと判明した。 この時の無線通信を傍受していたドイツのラジオ局によって事故の速報が世界中に流された。
翌日に英国欧州航空のアンバサダー旅客機や、 イギリス海軍所属の空母イーグルと駆逐艦ダーリンなどの船舶と空母艦載機アベンジャーによる空と海からの大捜索が行われたが、 いくらかの漂流していた機体残骸と5名の遺体を収容しただけに終わった。 その後、犠牲者1名の遺体が海岸に漂着した。 ...

事故機は1952年の製造から2年しか経過しておらず、 飛行時間は2704時間で、 飛行回数もわずか900回程度であった。
しかし、コメットは当時の航空工学では判明していなかった与圧胴体の金属疲労によって、 クラック(亀裂)が発生し、 最終的には針を刺された風船が破裂するように、 クラックから一気に噴出した与圧空気が胴体を引き裂く空中分解が発生したのが原因であったと判明した。 201便の墜落現場の水深は1000m近くもあり、 当時の技術ではサルベージ出来ないとされ回収されなかったが、 先に全く同じ状況で墜落した英国海外航空781便の機体検証や実機による実験によって、 空中分解のメカニズムが判明した。

1954年9月5日

事故発生日:西暦1954年9月5日
便名:KLMオランダ航空 633便(機体記号:PH-LKY)
機種:ロッキード L-1049C-55-81 スーパーコンステレーション「トリトン」
死者:乗員10人乗客46人、合計56人の内乗員3人と乗客25人、合計28人が死亡
状況:KLMオランダ航空633便墜落事故は、 1954年9月5日、 アムステルダム発ニューヨーク行き旅客便であったKLMオランダ航空633便がシャノン空港を離陸直後、 シャノン川に堆積した泥 (mudbank) の上に不時着した事故である。 この事故で28人が死亡した。
ロッキード・スーパー・コンステレーション「トリトン (Triton)」(機体記号:PH-LKY)を操縦していたパイロットは、 KLMでも最高齢の一人であるアドリアン・ヴィラリー (Adriaan Viruly) であった。 シャノンでの給油後、 事故機は2時30分頃に離陸し大西洋を横断する行程に入った。 同便には乗客46人、乗員10人が乗っていた。
事故機は部分的に浸水し、 墜落の間に燃料タンクのうち少なくとも1つが破裂した。 気化した燃料により多くの乗客や乗員が意識不明となり、 当時上げ潮だったため溺死した。 最終的に、乗員3人と乗客25人が死亡した。 シャノン空港を離陸してからわずか5分以内に事故が発生していたにもかかわらず、 航空士のヨハン・ティーマン (Johan Tieman) が陸まで泳いで湿地をさまよったあげく、 泥まみれになって空港にたどりつき「墜落した! ("We've crashed!")」と報告するまで、 空港当局はそのことに気付かなかった。 墜落から2時間半後のことである。 最初の救助ボートがようやく川の中の干潟に集まっていた生存者のもとに到着したのは朝の7時、 墜落から3時間半以上が経過してからであった。 ...

公式調査は、 ランディングギアが予期せず再度ギアダウンとなったことと、 これに対する機長の誤った行動が事故につながったと結論付けた。
定年まであと1年を残すのみであったヴィラリーは事故の責任を否認し、 KLMによる事故後の処置に対して怒りをぶちまけた。 後に受けたインタビューでヴィラリーは「単に反応する時間がなかっただけだ」と述べた。

1954年9月25日

事故発生日:西暦1954年9月25日
便名:青木航空 チャーター機
機種:ビーチクラフト双発機
死者:乗員乗客6人全員が死亡
状況:
状況:西暦1954年9月25日もしくは9月26日未明に発生した航空事故である。 墜落した機体はアジア航測がチャーターした便だった。
林野庁は、 西暦1954年5月に、 北海道支笏湖周辺で発生した風倒木被害の航空写真撮影をアジア航測に依頼。 アジア航測は、 青木航空のビーチクラフト C18をチャーター。 西暦1954年9月25日、 丘珠空港を目指して羽田空港を出発した。 当日は、洞爺丸台風が想定以上の速さで接近しており天候は急速に悪化、 北海道への飛行をあきらめ羽田空港へ引き返す途中、 福島県楢原町(現下郷町)結能峠付近に墜落した。 飛行機の捜索は航空機や巡視船を動員して行われたが見つからず、 翌月10月9日、 楢原町の住民により墜落した機体が発見された。 青木航空のパイロット2人、 アジア航測社員2人、日本林業技術協会職員1人、 林野庁職員1人の乗員・乗客全員が死亡。

1955年10月6日

事故発生日:西暦1955年10月6日
便名:ユナイテッド航空 409便((機体記号:N30062))
機種:ダグラス DC-4
死者:乗員3人乗客63人、合計66人全員が死亡
状況:ユナイテッド航空409便墜落事故は、 アメリカ合衆国の航空会社であるユナイテッド航空所属のDC-4(機体記号:N30062)がロッキー山脈に激突した航空事故である。
1955年10月6日、 409便はニューヨークからサンフランシスコまでを飛行する大陸横断便であり、 途中経由地であるデンヴァーからソルトレイクシティまで飛行するため午前6時33分出発した。 409便として運航されていたダグラスDC-4は、 予定航路を西へ30Kmも逸脱し、 現地時間午前7時25分ごろに、 ララミーから西へ50Km離れたワイオミング州センテニアル郊外にあるメディソン山(標高3500m)の山頂近くに衝突した。 この事故で乗客63名、乗員3名の全員が犠牲になった。

1956年3月23日

事故発生日:西暦1956年3月23日
便名:(所属)中日新聞社
機種:デ・ハビランド ビーバー2型
死者:乗員4人死亡
状況:高地で南極地域観測隊の訓練を撮影していた社機が乱気流に巻き込まれ、 長野県乗鞍岳乗鞍コロナ観測所付近の雪渓に墜落。 乗員4人が死亡。

1956年6月30日

事故発生日:西暦1956年6月30日
便名:1) ユナイテッド航空(UA) 718便(機体記号:N6324C)乗員5人乗客53人、合計58人
   2) トランス・ワールド航空(TWA) 2便(機体記号:N6902C)乗員6人乗客64人、合計70人
機種:1) ダグラス DC-7
   2) ロッキード L-1049-54-80 スーパーコンステレーション
死者:両機の乗員乗客128人全員が死亡
状況:グランドキャニオン空中衝突事故は、 1956年にアメリカ合衆国で発生した旅客機同士による航空事故(空中衝突)である。 事故の要因として、 有視界飛行や航空管制の不備が指摘されたため、 航空行政の改善の契機となった。
両機からのソルトレイクシティ航空管制への最後の通信は、 それぞれペインテッド・デザートという定められていた通過線附近を飛行中の午前10時31分に行われたが、 TWA2便の通信が突然沈黙した。 一方のUA718便からの最後の通信が入ってきたが、 それもすぐに沈黙した。 後に718便の通信は"Salt Lake, United 718...ah... we are going in."(ソルトレイク、こちらユナイテッド718便...我々は突っ込んでしまう!)と云いかけていたことが判明した。

1956年8月29日

事故発生日:西暦1956年8月29日
便名:カナダ太平洋航空 307便
機種:ダグラス DC-6B
死者:乗員乗客22人中15人が死亡
状況:太平洋横断便である当該機が経由地のアラスカ州コールドベイへ着陸進入中に、 向かい風で速度が低下していたにもかかわらず是正措置を取らなかったため空港手前に墜落。 この事故で国連における任務から帰任途中の日本初の女性外交官であった山根敏子が殉職した。

1956年10月16日

事故発生日:西暦1956年10月16日
便名:パンアメリカン航空 6便(機体記号:N90943)
機種:ボーイング 377 ストラトクルーザー 10-29
死者:なし(乗員7人乗客24人、合計31人)
状況:パンアメリカン航空006便不時着水事故は、 1956年10月16日、 パンアメリカン航空のボーイング 377 ストラトクルーザー旅客機が太平洋に不時着水した航空事故である。
不時着水から救助までの一部始終が映像に収められたため、 後にトラブルの対処や救助などが航空業界の手本とされたという。
なお、(1956年6月20日)の事故と同じ便名だが、別の事故である。

1956年11月27日

事故発生日:西暦1956年11月27日
便名:アエロポスタル・ベネズエラ (Linea Aeropostal Venezolana) 253便
機種:ロッキード L-749-79 コンステレーション
死者:乗員乗客25人全員が死亡
状況:着陸進入時の高度が低かったため、 カラカスの東南東18キロメートルの山岳地帯に墜落した。
犠牲者の中にはMLB・セントルイス・カージナルス在籍の野球選手チャーリー・ピートとその家族も含まれていた。

1956年12月9日

事故発生日:西暦1956年12月9日
便名:トランス・カナダ航空 810-9便
機種:カナディア DC-4M2 ノース・スター
死者:乗員乗客62人全員が死亡
状況:バンクーバーからカルガリーに向かっていたが、 エンジン火災のために引き返す途中に失踪。 翌年5月に山岳地帯で発見された。
事故は高度を下げていたところ着氷もしくは乱気流などのために操縦不能になり岩壁に激突したと推定。

1957年3月14日

事故発生日:西暦1957年3月14日
便名:英国欧州航空 (BEA) 411便
機種:ビッカース 701 バイカウント
死者:乗員乗客20人全員と地上の2人が死亡
状況:アムステルダムからマンチェスターに向かっていた定期便が、 着陸直前に住宅街に墜落。
原因は右翼フラップに装着されていたボルトの座金が工作不良のため疲労破壊し、 フラップの誤作動を引き起こしたためであった。 ターボプロップ旅客機として世界初の人身死亡墜落事故となった。

1957年3月17日

事故発生日:西暦1957年3月17日
便名:フィリピン空軍 大統領専用機(機体記号:2100925)
機種:ダグラス C-47A-75-DL スカイトレイン
死者:乗員乗客26人中25人が死亡
状況:フィリピンのマグサイサイ大統領が遊説先のセブから首都マニラへの帰途、 搭乗するフィリピン空軍運航の大統領専用機が、 離陸からおよそ40分後にセブ市北西35キロメートルのマヌンガル山山腹に墜落、 大統領はじめ同行の教育長官・下院議員・空軍総司令官などの要人が犠牲となった。
原因は離陸直後の上昇中に片方のエンジンのドライブシャフトが金属疲労により破損したことで必要な推力を得られなかったためと結論づけられたが、 事故機は記録飛行時間が100時間未満の新造機だったことから様々な憶測を呼んだ。

1957年7月16日

事故発生日:西暦1957年7月16日
便名:KLMオランダ航空 844便
機種:ロッキード L-1049C-55-81 スーパーコンステレーション
死者:乗員乗客68人中58人が死亡
状況:オランダ領イリアンジャヤ(現在のインドネシア)からアムステルダムに向かう定期便が、 離陸直後にビアク島沖へ墜落した。
原因は確定出来なかったが、 パイロットが乗客へのサービスとして離陸したばかりの島の情景を見せるための低空飛行を行ったことが判明しており、 夜間飛行で高度を誤認した可能性も指摘されている。

1957年9月30日

事故発生日:西暦1957年9月30日
便名:日本航空 108便 雲仙号
機種:ダグラス DC-4-1009
死者:なし(5人が負傷)
状況:雲仙号には運航乗務員2人と客室乗務員2人、乗客51人が搭乗していた。
伊丹空港を離陸直後に左翼にある第一エンジンが停止し、 ほかの3つのエンジンも不調に陥ってしまった。 そのため機体は失速状態になった。 この非常事態に機長は伊丹の滑走路に引き返すことは不可能と判断し、 不時着を決断した。 午後9時40分ごろに雲仙号は滑走路の延長線上にあった豊中市勝部の水田に不時着したが、 機体が電線に引っかかり損傷したため、 炎上しながらそのまま滑走した。 乗客は客室乗務員による迅速な避難誘導が行われたため、 衝撃により3人のけが人が出たが全員無事に脱出することができた。 この避難誘導は賞賛された。 また運航乗務員2人も重傷を負ったが、 運輸省航空局からは空港に引き返していた場合には途中で墜落していたとして、 判断は的確だったと賞賛された。

1957年11月7日

事故発生日:西暦1957年11月7日
便名:パンアメリカン航空 7便(機体記号:N90944)
機種:ボーイング 377 ストラトクルーザー 10-29
死者:乗員8人乗客36人、合計44人全員が死亡
状況:パンアメリカン航空007便失踪事故とは、 パンアメリカン航空のボーイング377ストラトクルーザー旅客機が1957年にハワイ沖で失踪した航空事故である。
後に、漂流していた007便の残存物から、 不時着に失敗した可能性が指摘されたが、 機体の主要部やエンジンを発見できなかったため、 原因不明とされた。 ...
パンアメリカン航空007便は、 サンフランシスコを基点とした世界一周便として運航されており、 1957年11月8日の便はボーイング377ストラトクルーザー(機体記号:N90944)"Clipper Romance of the Skies"で運航されていた。 この007便には乗員8名と乗客36名が搭乗していた。

サンフランシスコからハワイのホノルルに向かう国内航空区間を飛行していた007便は、 中間地点を少し過ぎた地点を巡航高度10000フィートで通過し、 順調に飛行中との定期通信を最後に失踪した。 大規模な捜索が行われたが、 1週間ほど経過した11月14日になって、 アメリカ海軍の「フィリピン・シー」が、 フライトプラン上の航空路から北に145Km離れたホノルルの北東約145kmの太平洋上に浮遊する機体の残骸の一部と機内装備品、 搭載されていた郵便袋、そして搭乗者19名の遺体を発見した。 搭乗者44名全員は死亡したと断定された。

007便失踪の直接の原因を確定できる証拠は発見されなかった。 しかし発見された犠牲者の遺体の中にはライフジャケットを着ていたものがあった事や、 死因も溺死が半数を占めていた事実から、 007便はなんらかのトラブルに遭遇して不時着水を決行したが失敗し、 機体が破壊されたものと推測された。

これは、同じパンアメリカン航空のストラトクルーザーで、 前年10月にハワイからサンフランシスコに向かっていた006便が、 レシプロエンジンの暴走によるトラブルで飛行が困難となり、 不時着水する事故が発生していたためである。 この時はアメリカ沿岸警備隊所属の観測船のそばに着水することができたため、 着水の衝撃で機体は分断され水没したものの、 搭乗者全員が無事救助されている。 この006便はトラブルから不時着水まで長時間飛行を継続できたが、 007便はトラブル発生から僅かな時間で、 メイデイ(緊急事態)通報をする間もないまま不時着水を余儀なくされたものと推測された。

なおトラブルの原因であるが、 空中爆発ないし空中火災の痕跡はなく、 エンジントラブルによって航路を逸脱したと推測されたが、 確定するまでに至らなかった。 また発見まで時間が経過していたため、 正確な墜落地点の特定も水没した機体の回収もできなかった。

1958年2月3日

事故発生日:西暦1958年2月3日
便名:富士航空
機種:セスナ機
死者:乗員4人全員が死亡
状況:志摩市立船越中学校校庭の人文字を撮影飛行中に、 何らかの理由で失速。
三重県大王町の船越神社境内に墜落。

1958年2月6日

事故発生日:西暦1958年2月6日
便名:英国欧州航空 (BEA) 609便(機体記号:G-ALZU)
機種:エアスピード AS.57 アンバサダー2
死者:乗員6人乗客38人、合計44人の内23人が死亡(重傷7人)
状況:ミュンヘンの悲劇は、 1958年2月6日、 西ドイツ(当時)・ミュンヘンのリーム空港(現在のミュンヘン空港とは異なり、メッセゲレンデの場所にあった空港)で起こった航空事故である。
イングランドフットボールリーグのチーム、マンチェスター・ユナイテッドのチャーター機の乗員乗客44名のうち、23名が死亡した。 そのうち選手は死亡8人、重傷7人。 ...
英国欧州航空(British European Airways、略称・BEA)のチャーター機・BE609便は、 選手の1人がパスポートを忘れたためベオグラードを1時間遅れで出発した。 チャーター便に割当てられたレシプロ・プロペラ機のエアスピード アンバサダーは短・中距離用機材でブリテン島まで無着陸飛行する航続能力はなく、 給油のためにミュンヘンへ立ち寄った。 給油後、2度離陸を試みるが速度が上がらず中止した。 不安を感じ当時安全とされた後部座席に移る者もいたが、 皮肉にもこれが犠牲者を増やす結果となった。 午後3時4分、3度目の離陸を試みるが離陸速度に達せずオーバーランし、 フェンスを突き破り300 m離れた空家へ突っ込み炎上した。 乗客のうち乳児1人は生存した選手であるハリー・グレッグが救出した。

西ドイツの調査委員会報告では当初、 翼に付着した氷で翼形が変わり、 必要な揚力が得られなかったことが原因で、 その確認を操縦士である事故当時36歳であった英空軍出身の機長ジェームズ・セインが怠ったためとされた。 セインは自身を信じて実験を行い西ドイツ当局に訴えたが、 西ドイツは頑なに自分達の過失を認めなかった。 当時の英国首相ハロルド・ウィルソンの発言によりマスコミが再度事故を取上げ、 68年イギリスの事故調査委員会の調査では、 離陸前の写真、 救出作業員の証言、 関係者証言に基づく実験によって滑走路上のシャーベット状になった氷雪(スラッシュ)が原因とされた。 この事故で得られた経験は、 これ以降世界中の常識となった。 事故後11年してセイン元機長の濡れ衣は晴れたが、 事故後解雇されてから心臓発作により54歳で亡くなるまで故郷でひっそりと養鶏で暮らした。

西ドイツがセインに責任を負わせたことを頑なに撤回しなかったのは、 翼が凍っていたならばセインの責任だが、 空港の滑走路上の氷雪がシャーベット状となった氷雪(スラッシュ)が原因ならば雪を放置した空港即ち西ドイツの過失ということになるため、 主任捜査官ハンス・ライケルが目撃者達の証言等を握り潰していたからであった。 その目撃者の内の1人は、 事故直後現場へ駆け付け、副操縦士を救出した男性であった。 彼は「救出のために主翼へよじ登った際に氷はなかった」と証言していた。 また、事故当時に空港にいた西ドイツの男性パイロットも目撃者の1人であった。

1955年より開始されたヨーロッパクラブ選手権であるチャンピオンズカップに初めてイングランド代表として乗り込んだのが、 当時黄金時代を迎えていたマンチェスター・ユナイテッドだった。 しかしこの参戦は孤立主義を掲げていたイングランドサッカー協会の警告を無視したもので、 国内リーグの日程を調整してもらうことも出来ず、 強行日程を強いられた。

準々決勝に進出したマンチェスター・ユナイテッドはユーゴスラビアの強豪、 レッドスター・ベオグラードと対戦。 ホームで2-1と勝利した後、 2月5日(水曜日)に敵地・ベオグラードに乗込み3-3の引分け、 総計5-4で準決勝進出を果たす。 現代でこそ当たり前となった水・土の連戦であるが、 当時の航空事情は良くなく、 共産圏の国で試合をしてまた帰って来るというのは、 強行日程であった。 また、土曜日には上位直接対決が控えており、 帰国を焦っていた事情もあった。 イングランドサッカー協会が日程を調整していれば余裕があった。 さらには、この時期は欧州全土を熱波が襲っていたという。

1958年5月18日

事故発生日:西暦1958年5月18日
便名:サベナ・ベルギー航空 便名不明(機体記号:OO-SFA)
機種:ダグラス DC-7C
死者:乗員乗客65人中61人が死亡
状況:ベルギーからベルギー領コンゴ(現在のコンゴ民主共和国)に向かっていた旅客機が、 エンジントラブルのためモロッコのカサブランカに緊急着陸しようとしたが、 早朝の濃霧により滑走路を確認出来なかった。 そのため着陸復行しようとしたが、 着陸のためのフラップを出したままで速度を充分に出さない致命的なミスをしたため失速し地上に激突した。

1958年5月21日

事故発生日:西暦1958年5月21日
便名:大和航空
機種:デ・ハビランド・カナダ DHC-2(ビーバー)
死者:乗員4人全員死亡
状況:八尾空港から大分経由で鹿児島に向かう途上で消息を絶つ。 後日、宮崎県北川村の大崩山で墜落した機体と乗員の遺体が発見された。
当日、機体は航空測量に従事していた。事故原因は不明。

1958年8月12日

事故発生日:西暦1958年8月12日
便名:全日本空輸 25便
機種:ダグラス DC-3(機体記号:JA5045)
死者:乗員3人乗客30人合計33人全員が死亡
状況:エンジントラブルのため羽田空港に引き返そうとしたが、 利島(としま。伊豆諸島に属する有人島)近海に墜落。 全日空下田沖墜落事故と呼ばれている。 日本の航空会社である全日本空輸が創業後、 初めて発生した人身死亡事故であり、 最終的に事故原因を究明することは出来なかった。

1958年8月15日

事故発生日:西暦1958年8月15日
便名:アエロフロート 04便(機体記号:CCCP-Л5442)
機種:ツポレフ Tu-104A
死者:乗員10人乗客54人、合計64人全員が死亡
状況:アエロフロート04便墜落事故は、 1958年8月15日に発生した航空事故である。 ハバロフスク空港よりヴヌーコヴォ国際空港へ向かっていたアエロフロート04便(ツポレフ Tu-104A)が、 ソビエト連邦のハバロフスキー地区へ墜落、 乗員乗客64名全員が死亡した。
この事故はTu-104による最初の死亡事故であった。 ...

04便はハバロフスク空港からイルクーツク国際空港を経由してヴヌーコヴォ国際空港へと向かう便であった。 パイロットが受け取った事故当日のハバロフスク-イルクーツク間の天気予報によれば、 ハバロフスク空港の上空300 - 600 m間に積乱雲と層状雲が存在し、 ビロビジャン - マグダガチ間では雷雨が存在するとのことであった。 また、当時の視界は4 - 10 kmであった。 04便は当初の予定より3時間35分遅れ、 現地時間21時45分にハバロフスク空港を出発した。

21時50分、04便は管制より高度9,000 mを維持するよう指示された。 150 kmほど飛行した後、 その上空を飛行するには高度が高過ぎる積乱雲に遭遇した。 そこで、04便は管制の許可を得て積乱雲を避け、 管制指示に従って飛行高度を変更した。 高度8,600 m地点で、 パイロットはさらなる積乱雲を避けるために高度を上げる許可を管制へ求めた。 この時の管制から指示は、 アルハラを通過するまでは高度11,000 mで飛行し、 その後は高度を9,000 mに下げるようにというものであった。 しかし、高度11,000 m地点ではまだ雲が残っていたため、 04便は高度12,000 mまで上昇する許可を与えられた。 22時12分に04便は、 高度11,600 m地点を通過して星が見えたと報告した。

22時14分、04便機長は管制へ同機が高度12,000 mへ到達したことを報告した。 その際パイロットは、 04便の前方に積乱雲があり、 避けられない場合はハバロフスク空港へ戻ると述べていた。 しかし、22時18分に管制官が04便と交信した際、 同機からは興奮した声で「1分、あと1分」との返答が返って来たのみであった。 1分後に再度交信を試みた際にも同様の返答が得られた。 その後、22時20 - 25分間に04便はハバロフスク空港より北西へ215 km離れた密林に60度の角度で墜落し、 機体の残骸が幅450 mの範囲に散乱した。 04便に搭乗していた乗員乗客64人は全員死亡した。

1958年10月17日

事故発生日:西暦1958年10月17日
便名:アエロフロート 便名不明(機体記号:CCCP-42362)
機種:ツポレフ Tu-104A
死者:乗員乗客80人全員が死亡
状況:北京発モスクワ行きが、 巡航高度で上昇旋回後の進路変更中に乱気流に巻き込まれ失速して墜落。 機長が最後に報告した通信記録により、 事故機は高高度での自動操縦による飛行では、突然の乱気流に対応することに難点があったことが判明し、 8月の事故原因も同様であったとされた。そのため水平安定板の改良が行われた。
なお、この事故で中国の作家・政治家の鄭振鐸が犠牲になった。

1959年2月3日

事故発生日:西暦1959年2月3日
便名:ドワイアー・フライング・サービス
機種:ビーチクラフト ボナンザ
死者:乗員1人乗客3人、合計4人全員が死亡
状況:音楽が死んだ日は、 小型飛行機がアイオワ州クリアレイク近郊に墜落し、 バディ・ホリー、 リッチー・ヴァレンス、 J.P."ビッグ・ボッパー" リチャードソンの3人のミュージシャンとパイロットのロジャー・ピータースンの4人全員が死亡する事故が発生した1959年2月3日を指す通称である。
1950年代末 - 1960年代初頭にかけて、 ロックンロールのスター達が、 スキャンダル、 懲役、 徴兵で次々と表舞台から姿を消して、 アメリカの大衆音楽は勢いを失い、 イギリスのミュージシャンがアメリカに上陸して来る(ブリティッシュ・インヴェイジョン)までの間、 スター不在の暗い時代が続いた。 この飛行機事故はロックンロール時代終わりを告げる象徴的な出来事となった。
音楽が死んだ日」という通称は、 ドン・マクリーンがこの悲劇を題材にした楽曲「アメリカン・パイ」の中で、 この出来事を「音楽が死んだ日」(The Day the Music Died)として歌ったことにより定着したものである。

1959年6月26日

事故発生日:西暦1959年6月26日
便名:トランス・ワールド航空 891便
機種:ロッキード L-1649A スターライナー
死者:乗員乗客68人全員が死亡
状況:ギリシャからアメリカに向かっていた当該機が、 経由地のミラノ空港を離陸後、空中爆発し墜落した。
故の原因は判明しなかったが、 静電気もしくは落雷で右翼タンク内の気化燃料に引火して吹き飛ばされ、 操縦不能になり墜落したと推定されている。

1959年6月26日

事故発生日:西暦1959年6月26日
便名:ブラニフ航空 542便
機種:ロッキード L-188 エレクトラ
死者:乗員6人乗客28人、合計34人全員が死亡
状況:ブラニフ国際航空542便(ロッキードL-188エレクトラ、登録番号N9705C)は、 テキサス州ヒューストン発ニューヨーク行きの国内定期便で、 ダラスとワシントンD.C.に予定通り着陸した。
1959年9月29日、ヒューストンからダラス・ラブフィールド空港までの41分間の飛行の23分後、 機体はテキサス州バッファローの南東約3.8マイルの空中で分解し、 乗客全員が死亡した。
事故後 6 か月間、フラッターの原因特定に向けたさらなる進展は見られず、 事件は未解決のままであった。
事故原因解明への突破口が開かれたのは、 1960年3月17日のノースウエスト航空 710 便の墜落後である。 この航空機 (別のエレクトラ) は、 ブラニフ機と同様に翼を失い、 空中で分解した。 ノースウエスト航空の墜落の調査で、 航空機の翼内での調和結合という新しい現象が発見され、 最終的に CAB によって両方の分解の原因であると特定された。
542便の最終的な事故報告書は、1961年4月28日に発行された。

1959年9月27日

事故発生日:西暦1959年9月27日
便名:産業経済新聞社輸送機おおとり号
機種:不明
死者:乗員2人全員が死亡
状況:和歌山県立田辺高等学校の校庭に新聞の号外を投下(2023年時点では航空法により物資等の投下は制限されている)するために飛行中、 機体にトラブルが生じたため和歌山県田辺市の約500m沖合に墜落。

1959年10月30日

事故発生日:西暦1959年10月30日
便名:ピードモント航空 349便
機種:ダグラス C-47A-90-DL
死者:乗員乗客27人の内、乗員3人と乗客23人が死亡
状況:ピードモント航空349便墜落事故とは、 1959年10月30日にピードモント航空349便(ダグラス DC-3)がバージニア州クローゼー付近のバックス・エルボー山 (Bucks Elbow Mountain) に墜落した事故である。
この事故で乗員3人と乗客23人が死亡した。 唯一の生存者、アーネスト・P・"フィル"・ブラッドリーは、 重傷を負い座席に縛りつけられたまま残骸付近の地面に横たわっていた。 その後の調査で事故原因は以下のとおりであると断定された。
ナビゲーションの省略により横方向のコース誤差が生じた。
それは精密計器進入手順の間検出されず補正されなかった。
事故に寄与する要因は、 精神的ストレスの結果として船長が没頭(pre-occupation)していた可能性がある。

バックアイ・ペースメーカー(Buckeye Pacemaker)と名付けられた事故機はN55Vとして登録されており、 製造番号は20447であった。 事故機は以前はメトロ・エア・トランスポートで N53593 として飛行しおり、 その後1956年12月にピードモント航空に売却された

1959年11月16日

事故発生日:西暦1959年11月16日
便名:ナショナル航空 967便(機体記号:N4891C)
機種:ダグラス DC-7B
死者:乗員6人乗客36人、合計42人全員が死亡
状況:ナショナル航空967便墜落事故は、 メキシコ湾上空でアメリカ合衆国の民間旅客機が消息を絶った航空事故である。 十分な証拠が得られず立件できなかったが、 飛行中に何者かによって爆破されたものと考えられている。 1959年11月15日、ナショナル航空967便は、 現地時間の午後11時32分にフロリダ州のタンパ国際空港を離陸した。 967便は夜行便でニューオリンズ経由でロサンゼルスに向う飛行計画であった。 このレシプロ旅客機は、 巡航高度14000フィート(4300m)を飛行してニューオリンズに向かっていた。 967便からの通信では天候条件に問題ないとしていたが、 これが最後の通信となった。
翌日16日午前0時55分ごろ、 967便はニューオリンズの東南東約190kmのメキシコ湾(北緯29度13分、西経88度40分)で管制レーダーから消えた。 徹底的な捜索が行われ、 海面に漂っていた搭乗者10人の遺体の全部または一部と機内装備品の残骸は発見されたが、 行方不明の32名と機体の主要部分は見つからなかった。 ...
この事故では早い時点で、 機内に仕掛けられた爆発物による事件の可能性が指摘されていた。 実際に機体は飛行中に破壊されたと見られること、 また遺体の中には焼け焦げたものがあったためである。 しかしながら、 意図的なものと実証できるだけの物的証拠を見つけられなかった。

この事故の被疑者として強く疑われたのが、 967便に搭乗していたはずの自然療法医、 ロバート・ヴァーノン・スピアーズであった。 彼は同便に搭乗する予定であったが、 ウィリアム・テイラーという別の男性を搭乗させ、 事故後行方をくらませていた。 事故から2ヵ月後の1960年1月に、 スピアーズはアリゾナ州フェニックスでテイラーの車を不法に所有していた容疑で逮捕された。 彼は保険金詐欺を企ててテイラーを脅迫して搭乗させ、 爆破装置も(彼に知らせずに)機内に持ち込ませて、 証拠を回収するのが困難な洋上で爆破したという疑惑が持ち上がったが、 物的証拠は得られず、 事故について立件されることはないまま釈放された。

テイラーにかけられていた保険金は、スピアーズの妻に支払われた。 その後、スピアーズは1969年5月2日にテキサス州で死亡した。

1960年1月18日

事故発生日:西暦1960年1月18日
便名:キャピタル航空 20便
機種:ビッカース バイカウント745D
死者:乗員乗客50人全員が死亡
状況:シカゴからノーフォークに向かっていたアメリカ国内定期便が、 エンジンの防氷装置を作動させるのが遅れたため、 エンジン2基が着氷し停止。 さらにエンジンを再起動させるために暖かい低空に高度を下げたところ、 残りの2基も停止した。 全てのエンジンが停止したため、 パイロットは再起動のために急降下したが成功せず、 ようやく片側のエンジンの再起動に成功したものの、 今度は最大出力にしたことから非対称となり操縦が困難になった。
最期の瞬間にパイロットが機首上げしたために前進スピードがゼロになりボルチモア近郊に墜落炎上した。 機体には樹木が突き刺さった状態で発見された。
この事故を契機としてエンジンの再起動のために高度を下げるマニュアルが廃止され、 いかなる高度であっても正しい手順で再起動すれば成功すると改められた。

1960年1月19日

事故発生日:西暦1960年1月19日
便名:スカンジナビア航空 871便(機体記号:OY-KRB)
機種:シュド・カラベル
死者:乗員7人乗客35人、合計42人全員が死亡。
状況:スカンジナビア航空871便墜落事故は、 1960年1月19日に発生した航空事故である。 アタテュルク国際空港からエセンボーア国際空港へと向かっていたスカンジナビア航空871便(シュド・カラベル)がエセンボーア国際空港へのアプローチ中に墜落し、 乗員乗客42人全員が死亡した。 この事故はカラベル初の死亡事故であった。
事故機のシュド・カラベル(OY-KRB)は製造番号14として製造され、 1959年11月8日に初飛行した機体で、 エンジンはロールス・ロイス エイヴォン 522を搭載していた。
871便は9時44分(UTC)にコペンハーゲン空港を離陸した。 ドイツのデュッセルドルフ空港とオーストリアのウィーン国際空港を経由した後、 17時20分にアタテュルク国際空港に到着した。 乗員を交替した後、 18時にアタテュルク国際空港を出発してエセンボーア国際空港へと向かった。 この時点で乗客は35人、 乗員は7人であった。 同機が空港へのアプローチを開始するまでは問題なく飛行していた。 18時41分、乗員は管制官に同機がFL135(約13,500フィート)からFL120(約12,000フィート)まで降下中であることを報告した。 18時47分、871便はアンカラ山脈とエセンボーア国際空港の間の標高3,500フィートの地点に激突した。 この事故で乗員乗客42人全員が死亡した。
エセンボーア国際空港への最終進入時に、 乗員が意図せず最低安全高度を下回って降下したことが事故原因であった。 しかし、降下した理由については決定的な証拠がないため確認できなかった。

1960年3月16日

事故発生日:西暦1960年3月16日
便名:1) 全日本空輸 25便
   2) 航空自衛隊 訓練機(機体記号:94-8137)
機種:1) ダグラス DC-3
   2) ノースアメリカン F-86D セイバー
死者:両機の乗員乗客34人中3人が死亡
状況:名古屋空港(小牧空港、現在の名古屋飛行場)の滑走路上で航空管制ミスにより、 2機が正面衝突した事故。
全日本空輸 25便には、 乗員3名・乗客30名の合計33人が搭乗していた。
航空自衛隊訓練機には乗員1人が搭乗していた。
この事故で全日本空輸25便の客室乗務員1人と乗客2人(夫婦)の3人が死亡した。 負傷者は乗客8人と自衛隊機の乗員1人が負傷した。

1960年3月17日

事故発生日:西暦1960年3月17日
便名:ノースウエスト・オリエント航空 710便
機種:ロッキード L-188 エレクトラ
死者:乗員乗客63人全員が死亡。
状況:プロペラ取り付け部分の設計ミスが原因で、 インディアナ州上空を飛行中に片方の翼が破損、 機体が空中分解し墜落した。
この事故で日本の警察官であった中村正己が殉職した。

1960年4月1日

事故発生日:西暦1960年4月1日
便名:毎日新聞社機
機種:Piper PA-23
死者:乗員4人中3人、住民1人が死亡、2人が重軽傷
状況:大阪空港から第32回選抜高等学校野球大会開会式の取材のため阪神甲子園球場に向かう途中の毎日新聞社機が、 兵庫県川西町加茂猪名の住宅に墜落して炎上。乗員4人中3人、住民1人が死亡、2人が重軽傷。
墜落の原因はキャブレターの凍結によるエンジントラブル。

1960年10月4日

事故発生日:西暦1960年10月4日
便名:イースタン航空 375便
機種:ロッキード L-188 エレクトラ
死者:乗員乗客72人中62人が死亡。
状況:ボストンのローガン空港を離陸直後、 ホシムクドリの群の中に突入、 全てのエンジンがバードストライクにより停止して推進力を喪失し、 錐揉み状態で空港近くの海上に墜落した。
なお、遺族の起こした民事訴訟では、 操縦席が急に後退したことで操縦桿を引いてしまい、 失速につながる機首上げが発生したとする推測が認められている。

1960年11月17日

事故発生日:西暦1960年11月17日
便名:全日本空輸 社用機(機体記号:JA3023)
機種:オースター オートカー
死者:乗員4人全員が死亡
状況:全日空の軽飛行機が空中分解し新得町の甜菜(てんさい。別名:サトウダイコン)畑に墜落。 視察と激励に向かう(???)同社副社長中野勝義や専務ら4人が搭乗していたが全員が殉職した。 中野の師である作家内田百閒はその死を悼み随筆「空中分解」を発表している。
「視察と激励」は何の視察か?
中野勝義の稿を見ると11月16日帯広で墜落。となっている。
2025/1/22 に見たWikipediaの文章は下記である。

状況: 全日空の軽飛行機が空中分解し新得町の甜菜畑に墜落。 視察と激励に向かう同社副社長中野勝義や専務ら4人が搭乗していたが全員が殉職した[26][27]。 中野の師である作家内田百閒はその死を悼み随筆「空中分解」を発表している。


1960年12月16日

事故発生日:西暦1960年12月16日
便名:1) ユナイテッド航空 826便(機体記号:N8013U)乗員7人乗客77人、合計84人全員が死亡。
   2) トランス・ワールド航空 266便(機体記号:N6907C)乗員5人乗客39人、合計44人全員が死亡。
機種:1) ダグラス DC-8-11
   2) ロッキード L-1049 スーパーコンステレーション
死者:両機の乗員乗客128人全員と地上の6人が死亡。
状況:1960年ニューヨーク空中衝突事故は、 1960年12月16日にアメリカ合衆国の国内線の旅客機2機がニューヨーク上空で衝突した航空事故(空中衝突)である。
この事故では、空中衝突事故を防止する航空管制が行われていたにもかかわらず、 事故を未然に防ぐことができなかった。
1960年12月16日、ニューヨーク上空で2機の旅客機が空中衝突した。1機はシカゴからニューヨーク・アイドルワイルド空港(現在のジョン・F・ケネディ国際空港)に向かっていたユナイテッド航空(以下UAL)826便のDC-8-11(機体記号:N8013U、愛称:Mainliner Will Rogers)で乗員7名、乗客77名が搭乗していた。もう1機はオハイオ州デイトンを出発しオハイオ州コロンバスを経由してニューヨーク・ラガーディア空港に向かっていたトランス・ワールド航空(以下TWA)266便ロッキードL-1049スーパーコンステレーション(機体記号:N6907C、愛称:Star of Sicily)で乗員5名と乗客39名が搭乗していた。

1961年1月28日

事故発生日:西暦1961年1月28日
便名:アメリカン航空 1502便
機種:ボーイング 707-123
死者:乗員6人全員が死亡。
状況:アメリカン航空1502便墜落事故は、 1961年1月28日に発生した航空事故である。 アイドルワイルド空港を離陸して訓練飛行を行っていたアメリカン航空1502便(ボーイング707-123)がニューヨーク州モントーク沖から5マイルの大西洋に墜落し、 乗員6人全員が死亡した。
1502便は午前11時(UTC-4)に快晴のアイドルワイルド空港を離陸した。 57分後、同機は最後の無線通信を行った。
午後0時20分(UTC-4)、 モントーク・ハイウェイを走行していた男性は、 頭上およそ100フィートを60-70度の降下姿勢で通過する1502便を目撃した。 1502便が砂丘の奥に姿を消したので男性は車をハイウェイの脇に寄せた。 ハイウェイにはモントークの漁師の男性もおり、 1502便のエンジンは燃えていて、 墜落前に1502便は何度も回転し、 その後真っ直ぐになっていたと話した。 1502便は左翼を下げた急姿勢のままナピーグビーチ沖の浅瀬に墜落し、 乗員6人全員が死亡した。 救急隊が現場に駆けつけると、 機体は広範囲に分断されており、 座席の一部は墜落の衝撃で真っ二つになっていたという。
この事故は、 過去2年間にニューヨーク首都圏で起きた最新型ジェット機の事故としては4件目で、 この事故までで計149人の人命が失われた。 この中には、前月に発生し当時世界最大の航空事故であった1960年ニューヨーク空中衝突事故も含まれている。 ...

事故発生時、乗員はエンジン停止と再始動、峡谷へのアプローチ、 またはエンジンの上昇操作を行っている途中であった可能性があった。 峡谷へのアプローチの手順ではフラップを30度に設定する必要があり、 残骸はこの設定を裏付けるものと思われた。 しかし、制御不能の原因を特定するための決定的な証拠はなかった。 そのため、FAAは公式に「原因不明の操縦不能」と事故原因を推定している。 さらに、墜落時に2基のエンジンが作動しなかったことも考察されたが、 簡潔な証明はできなかった。
この事故と1959年にロングアイランド上空でアメリカン航空のボーイング707が訓練飛行中に墜落した事故により、 FAAはすべてのボーイング707の飛行乗務員に対して同じ翼の2つのエンジンが故障した状態で着陸の訓練を行うことを義務付けないこととした。

1961年2月15日

事故発生日:西暦1961年2月15日
便名:サベナ航空 548便(機体記号:OO-SJB)
機種:ボーイング 707-329
死者:乗員11人乗客61人、合計72人全員と地上の1人が死亡。
状況:サベナ航空548便墜落事故は、 1961年2月15日にベルギーの首都のブリュッセル近郊で発生した航空事故である。 この事故で、同機の乗客乗員72人全員と地上にいた1人が死亡した。 同機にはチェコスロバキア(当時、現チェコ)のプラハで開催予定だった世界フィギュアスケート選手権に向かう途中のアメリカ代表チームが搭乗しており、 全員が犠牲となった。
サベナ航空 548便は、 ブリュッセル国際空港上空で着陸態勢に入るまでには特段のトラブルの前兆は見られなかった。 10時5分頃、パイロットは滑走路が空くのを待つために空港上空で旋回し始めた。 そのとき、目撃者の証言によると事故機の機体が制御を失って上昇と横傾斜を始め、 ついにはバンク角が90度ほどに達し、 そのまま空港近くの村落に墜落した。 事故機の機体は炎上し、乗員乗客全員が即死した。
村落の畑で働いていた住民の男性が機体から飛散したアルミニウム片の直撃を受けて死亡し、 もう1人の住民も残骸の飛散で脚部を切断する重傷を負った。 この事故の知らせを受けて、 当時のベルギーのボードゥアン1世国王とファビオラ王妃が事故現場に駆けつけ、 犠牲者の遺族に弔意を表し負傷者とその家族を見舞った。
この事故の正確な原因については決定されなかったが、 事故機の水平安定板は機首上げ側に10.5度の位置にあり、 これは事故当時の状況ではありえないものであった。 調査団は水平安定板のトリム調整機構の不具合が原因で機体が制御を失ったものと推定した。 ...
事故機には、1961年世界フィギュアスケート選手権に出場予定だったアメリカ代表チームの選手18名とコーチ、審判員、選手の家族など16名が搭乗していて全員が死亡した。 犠牲者の中には、 1932年レークプラシッドオリンピックのフィギュアスケート女子シングルの銅メダリストで全米フィギュアスケート選手権で9回優勝した経験のあるマリベル・ビンソンと、 マリベルの2人の娘で1960年スコーバレーオリンピック女子シングル6位、 1961年全米フィギュアスケート選手権女子シングル優勝者のローレンス・オーウェンと1960年スコーバレーオリンピックペア競技10位で1961年全米フィギュアスケート選手権ペア競技優勝者のマリベル・オーウェンなどが含まれていた。 このアメリカ代表チームの事故を受けて、 国際スケート連盟(ISU)はこの年の世界フィギュアスケート選手権の開催中止を決定、 翌年の1962年に改めてプラハで1962年世界フィギュアスケート選手権として開催することとした。

当時のアメリカ合衆国大統領であったジョン・F・ケネディはホワイトハウスから事故の犠牲者に対して哀悼の意を表す声明を発表した。 ケネディはとりわけ、 自身の個人的な友人でもあったペア競技の選手ダドリー・リチャーズ (Dudley Richards) の死に衝撃を受けていた。

犠牲者の中に当時最高と謳われたアメリカ・フィギュアスケートのコーチ陣や主力選手たちが含まれていたため、 1950年代から全盛を極めていたアメリカのフィギュアスケート界にとって有為な人材を多く失った本事故は壊滅的な打撃となった。 このため、本事故で有能な指導者を失ったアメリカフィギュアスケート界は、 欧州からカルロ・ファッシ(イタリア)やジョン・ニックス(イギリス)などといった指導者を招聘し、 再建に取り組むことにもなった。

1964年のインスブルックオリンピックで当時14歳と363日だったスコット・アレンが男子シングルで銅メダルを獲得しているが、 フィギュアスケート王国アメリカの復活は1968年グルノーブルオリンピックでのペギー・フレミングの女子シングル金メダル獲得とティム・ウッドの男子シングル銀メダル獲得まで待たなければならなかった。

また、本事故が発生する2ヶ月前に全米フィギュアスケート協会会長に就任したばかりだったフランク・リッター・シュムウェイは、 事故の犠牲者たちを記念するために全米フィギュアスケート協会メモリアル基金 (USFSA Memorial Fund) を設立した。 この基金はアメリカ国内の有望な若手フィギュアスケート選手の訓練を助成するためのもので、 2016年の時点でも存在している。

事故から50年後の2011年に、 1961年世界フィギュアスケート選手権アメリカ代表チーム(34名)は全米フィギュアスケート協会殿堂入りを果たしている。

1961年4月3日

事故発生日:西暦1961年4月3日
便名:ラン・チリ航空 621便(機体記号:CC-CLDP)
機種:ダグラス DC-3C
死者:乗員4人乗客20人、合計24人全員が死亡。
状況:ラン・チリ航空621便墜落事故は、 1961年4月3日マケウエ空港(テムコ)発、 ロス・セリージョス空港(サンティアゴ)行きのラン・チリ航空(現LATAM チリ)621便として運航されたDC-3が墜落し、 54年後の2015年1月にアンデス山脈で機体が発見された事故である。
事故機の乗客にはコパ・チリに出場したクルブ・デ・デスポルト・グリーン・クロスの選手8人、 スタッフ2人が含まれていた。 追悼のため、同年のコパ・チリはコパ・チリ・グリーン・クロスと命名された。 この経緯から、チリではグリーン・クロスの悲劇として知られている。
18時28分、621便はマケウエ空港から離陸した。 雨中を飛行したため主翼とプロペラに着氷し、 19時35分にはロス・アンヘレス上空より飛行高度の低下が要請された交信記録が残されている。 その後、サント・ドミンゴの無指向性無線標識の記録を最後に消息を絶った。
失踪した機体の捜索が行われた。 リナーレスの砲術学校所属のフアン・バンカラリ・サペティーニ大佐によりリナーレス近郊の山腹に衝突したと推測された。 4機のB-26が捜索と航空写真撮影のために用いられ、 10日に機体の残骸が確認された。 4月11日に尾部と何人かの遺体が発見されたことで、 墜落により死亡したものと認定され17日に葬儀が行われた。 犠牲者の葬儀はチリ中央サッカー協会で行われた。 グリーン・クロスの選手の棺は協会内の殿堂に安置されているが、 棺は象徴的なもので収められているのは遺体ではなく灰や石であると、 グリーン・クロスの選手で難を逃れたカルロス・アル=ノール・パラが証言している。

1961年5月30日

事故発生日:西暦1961年5月30日
便名:ビアサ 897便(機体記号:PH-DCL)
機種:ダグラス DC-8-53
死者:乗員14人乗客47人、合計61人全員が死亡。
状況:ビアサ897便墜落事故は、 1961年5月30日に発生した航空事故である。 ウンベルト・デルガード空港からサンタマリア空港(アゾレス諸島)へ向かっていたビアサ897便(ダグラス DC-8-53)がポルトガル沖の大西洋に墜落し、 乗員乗客61人全員が死亡した。 事故当時この事故は大型ジェット旅客機による3件目の旅客死亡事故であった。 また、1977年にTAP ポルトガル航空425便墜落事故が発生するまでポルトガル最悪の航空事故であった。
897便はローマを出発し、 マドリード、リスボン、サンタマリア島を経由してカラカスへと向かうチャーター便で、 0時06分にリスボンに到着した。 乗務員の交代とKLMオランダ航空の整備員による同機の点検の後、 897便は滑走路23からの離陸を許可された。 897便は乗員14人・乗客47人(うち子供8人)を乗せて1時15分に小雨の中離陸し、 サンタマリア島へと向かった。 1時18分に雲底が3,700フィートであることが伝えられ、 897便は周波数をリスボンの管制の周波数に変更した。 1時19分25秒、同機はリスボンの管制にカピラカのLS無線標識を通過し、 FL60(6,000フィート)まで上昇すると報告した。 その後早口で部分的にしか聞き取れない2文が同機から聞こえ、 897便との交信が途絶えた。 897便はこの最後の交信の間に左にスパイラル・ダイブし、 約20秒で左に90度まで傾きその15秒後に海面に墜落した。 墜落前の15秒間に過剰に右に姿勢が修正されていた。 右に30度傾き、 約25度のピッチ角で機首下げの姿勢で墜落したと推測されている。 ...
事故原因はポルトガル、オランダのいずれの当局によっても解明されなかった。 ポルトガルの公式の事故調査報告書は
多くの当局や専門家の協力を得て非常に時間をかけて調査を行ったが、 事故原因を特定することはできなかった

と結論付けている。

事故機の登録されていたオランダは
直接的な証拠はないが、事故調査委員会は897便が航空計器、 特に姿勢指示器の故障によってパイロットが計器を誤読した、 あるいはそれにパイロットが気を取られ、 通常の飛行経路から大幅に逸脱したためと墜落したと考えている。

とコメントしている。

1961年7月11日

事故発生日:西暦1961年7月11日
便名:ユナイテッド航空 859便(機体記号:N8040U)
機種:ダグラス DC-8-12
死者:乗員7人乗客115人、合計122人の内17人と地上の1人が死亡。
状況:ユナイテッド航空859便オーバーラン事故は、 1961年7月11日に発生した航空事故。
ネブラスカ州エプリー飛行場発コロラド州ステープルトン国際空港行きのユナイテッド航空859便(ダグラスDC-8-12)が、 ステープルトン国際空港への着陸後に滑走路を逸脱して炎上し、 乗員乗客122人中17人と地上の1人が死亡した。
事故機(N8040U)は、 建設機械を含むいくつかの空港車両に衝突し、 18人が死亡(地上に1人を含む)し、 84人が負傷した。
859便は途中で油圧の不具合が発生し、 クルーが油圧の不具合のチェックリストに従った後、 通常の着陸準備を行った。 859便は正常に接地したが、 エンジンのスラストレバーを逆噴射の位置に動かすと、 左側のエンジンのスラストリバーサーのバケットが正しく展開しなかった。 エンジンの推力を前方に向けるには、 バケットを閉じなければいけない。
この故障により、左側の第1エンジンと第2エンジンは通常時の推力、 右側の第3エンジンと第4エンジンは逆推力をという状態になった。 そのため機体は、非対称的な推力により、 右に逸れ始めた。 滑走路を逸脱し、建設中の新しい誘導路に接触した後、 右のメインギアが壊れた。 ノーズギアも壊れ、右翼の燃料タンクが破裂し、火災が発生した。 航空委員会(CAB)報告書は逆噴射状態にならなかった要因は、 逆推力インジケータライトを副操縦士が監視を怠った事だとした。
18人の死者のうち16人が一酸化炭素中毒が死因だった。 1人の高齢女性が避難中に両方の足首を負傷し、後でショックで亡くなった。
救助活動はほぼ直ちに開始されたが、 空港消防署は人員の不足に加えて設備も貧弱で、 車両は1940年代に導入されたものを使用していた。 さらに、近隣の空軍基地やデンバー市の消防施設からの援助の遅れによって被害が拡大した。

しかし、消防隊員は難しい状況のなか、 適切に行動し多くの人命を救ったとして賞賛された。

1961年9月12日

事故発生日:西暦1961年9月12日
便名:エールフランス 2005便(機体記号:F-BJTB)
機種:シュド・カラベル
死者:乗員6人乗客71人、合計77人全員が死亡。
状況:エールフランス2005便墜落事故は、 1961年9月12日に発生した航空事故である。
2005便は中央ヨーロッパ時間19時26分にオルリー空港をカサブランカへ向け離陸した。 2005便には経由地であるラバトまでは特に異常はなかったが、 22時09分にラバト=サレ空港へ着陸する際、滑走路04から8.4キロメートル (???5.2 mi; 4.5 nmi)離れ、 滑走路のセンターラインから1.4キロメートル (???0.87 mi; 0.76 nmi)左にズレた地点に墜落した。 機体は全損し、乗員乗客77人全員が死亡した。
事故調査の結果、 事故機には技術欠陥やクルー及び管制官の身体的な問題は認められなかった。 事故当時のラバト周辺の天候は霧が発生していて着陸をするのに好ましいとはいえず、 状況はどんどん悪化していた。 実際カサブランカにいた運行担当者はパイロットに対しラバトを諦めてカサブランカに直行するべきと言う進言をしており、 パイロットも一時はカサブランカに直行するかどうか悩んでいたという。
飛行中にクルーは現地の管制官から複数回天気の情報をもらい、 最終的に無指向性無線標識を使用してラバトに着陸する事を決断した。 管制官は標識が滑走路と合っていない事を警告したが、 返事は帰ってこなかったと言う。 最終的に事故調査報告書は計器の読み間違いを事故原因と認定した。

1961年9月18日

事故発生日:西暦1961年9月18日
便名:国際連合 チャーター機 運航はトランスエア・スウェーデン(機体記号:SE-BDY)
機種:ダグラス DC-6B
死者:乗員5人乗客11人、合計16人全員が死亡。
状況:国際連合事務総長のダグ・ハマーショルドがコンゴ動乱の停戦調停に赴く途上、 搭乗機が北ローデシア(現在のザンビア)のンドラで墜落。 現職の国連事務総長の事故死というニュースに加え、 操縦士が警護上の理由から事前にフライトプランを提出していなかったこと、 ソ連が国連のコンゴ動乱への介入を反ソビエト的だと非難し、 事務総長の辞任を求めていたことなどから、 同機の撃墜説や事務総長暗殺説が信憑性をもって広まったが、 事故調査では事故機に被弾や爆発の痕跡は発見されなかった。 同機の経由地である北ローデシ アのンドラ(Ndola)空港は海抜1270メートルである。 ところが最終目的地のコンゴにはンドロ(Ndolo)空港という海抜279メートルの空港があり、 この両者を操縦士が混同した結果、 ンドラ空港への着陸進入中高度が低くなり過ぎたことが事故原因と結論づけられたが、 機密情報で全てが開示出来ないこともあり、 再調査が続けられている。

1961年11月23日

事故発生日:西暦1961年11月23日
便名:アルゼンチン航空 322便
機種:デ・ハビランド DH 106 コメット 4
死者:乗員乗客52人全員が死亡。
状況:アルゼンチン航空322便墜落事故は、 1961年11月23日に発生した航空事故である。 ヴィラコッポス国際空港からピアルコ国際空港へ向かう予定であったアルゼンチン航空322便(コメット4)が離陸直後に墜落し、 乗員乗客52人全員が死亡した。
322便はエセイサ国際空港からヴィラコッポス国際空港、 ピアルコ国際空港を経由してジョン・F・ケネディ国際空港へと向かう予定であった。
322便は5時38分にヴィラコッポス国際空港を離陸し、 ピアルコ国際空港へと向かった。 高度約100メートルに達した後、 322便は高度を下げてユーカリの木に衝突し、 衝撃で燃料タンクが爆発した。

1962年3月1日

事故発生日:西暦1962年3月1日
便名:アメリカン航空 1便(機体記号:N7506A)
機種:ボーイング 707-123B
死者:乗員8人乗客87人、合計95人全員が死亡。
状況:アメリカン航空1便墜落事故とは、 1962年にニューヨークで発生した航空事故である。
1962年3月1日、 アメリカン航空1便はアメリカ大陸横断便としてニューヨークからロサンゼルスに向かうため、 アイドルワイルド空港(現在のジョン・F・ケネディ国際空港)の滑走路33Lを10時6分に離陸した。 1便はボーイング707-123B(機体記号:N7506A)で運航されていた。
だが、1便は左旋回しながら上昇していた時に水平飛行が出来なくなり、 そのまま左に傾きながら横転した状態になった。 そのため1便は離陸してから2分後に、 およそ1,500フィートの高度からニューヨーク東側にあるジャマイカ湾に時速370kmで激突し、 機体は海底の泥の中に埋没した。 事故により乗員・乗客95名全員が死亡。 当時、一機による事故としてはアメリカ国内最悪の航空機事故となった。
犠牲者の中には、後にポール・マッカートニーと結婚した写真家リンダ・イーストマン・マッカートニーの母親も含まれていた。 ...
事故当日のニューヨークの天候は大変良好であり、 機体になんらかのトラブルが発生したのが事故原因であるとみられていたが、 高速で衝突した機体の損傷は激しく、調査は困難を極めた。

その後アメリカ民間航空委員会の事故調査官がラダーの制御システムに深刻な異常があったことを突き止めた。 ラダーサーボ機構を制御する発電機の内部のケーブルが切断していたのだ。 そして、この電線の損傷は、製造ラインにある同型機においても発見された。 製造ラインを詳細に調査すると、 ケーブルを結束する作業工程で用いていたピンセットの使い方が不適切であったことがわかった。

つまり、アイドルワイルド空港を離陸直後に機体が制御を失いジャマイカ湾に墜落したのは、 製造時に損傷を受けたケーブルが、 それまでに受けた振動などによりついに断線し、 その結果航空機のラダーが誤作動したためであった。 ただし、同年7月初め、 アメリカ連邦航空局は誤って装着されていた規格外のコッターピン(割りピン)とボルトが欠落し、 ラダーを不作動にしたという見解を述べている。

1962年3月4日

事故発生日:西暦1962年3月4日
便名:カレドニアン航空 153便
機種:ダグラス・エアクラフト DC-7C
死者:乗員乗客111人全員が死亡。
状況:モザンビークからルクセンブルク行きのチャーター機が、 経由地のカメルーンからポルトガルに向かうためドゥアラ国際空港を離陸したところ、 上昇出来ず滑走路先の沼地に墜落した。
事故原因は右昇降舵のスプリング・タブが固着し、 通常の3倍の力でないと操縦桿を引き上げられない状態であり、 上昇出来なかったというものであった。

1962年3月16日

事故発生日:西暦1962年3月16日
便名:フライング・タイガー・ライン 739便(機体記号:N6921C)
機種:ロッキード L-1049H スーパーコンステレーション
死者:乗員11人乗客96人、合計107人全員が死亡。
状況:フライング・タイガー・ライン739便失踪事故は、 1962年にアメリカ本土から南ベトナムに向かっていた旅客機がグアムとフィリピンとの間を飛行中に失踪した航空事故である。 機体は発見されなかったため事故原因は不明である。
フライング・タイガー・ライン739便は、 アメリカ陸軍空輸サービス(MATS)の委託を受けて、 南ベトナムのサイゴンに陸軍将兵を送り届ける便であった。
アメリカ合衆国カリフォルニア州にあるトラビス空軍基地を出発した739便には、 民間人である乗員11名のほかの乗客は全てジョン・F・ケネディ政権が南ベトナムへの派兵決定を受けて同国に送られるアメリカ軍人であり、 アメリカ軍の将兵93名と南ベトナム軍将兵3名が搭乗していた。
経由地であるグアムのアンダーセン空軍基地から、 フィリピンのマニラにあるクラーク空軍基地に向けて離陸後、 夜間飛行をしていた最中に18,000フィートを巡航しているとの交信を最後に失踪した。 ただちに大規模な捜索が多くの航空機と船舶を動員して1週間にわたり行われたが、 一切の痕跡を発見することが出来なかった。 そのため107名全員は死亡したものと判断された。
後にフィリピン東方1,300kmを航行していた船舶の乗組員から、 739便がその近辺を飛行していたと思われる3月16日午前0時30分(現地時間)ごろ、 何かが空中で爆発し2つの火の玉になって海面に落下していったという証言があった。 そのためなんらかの原因で墜落したと推定されたものの、 機体の残骸という物証を得られなかったため、 事故原因も特定されることはなかった。

1962年6月3日

事故発生日:西暦1962年6月3日
便名:エールフランス 007便
機種:ボーイング 707-328
死者:乗員10人乗客122人、合計132人中130人が死亡。
状況:エールフランス007便離陸失敗事故は、 1962年6月3日 にフランスで発生した航空事故である。
パリ=オルリー空港からニューヨーク・アイドルワイルド空港へ向かっていたエールフランス007便(ボーイング707-328)が、 オルリー空港からの離陸時に、 水平安定板の異常によるトリム失調に機長が気が付いていなかったのが原因で滑走路をオーバーランした。 乗員乗客132人中130人が死亡した。 これは当時としては世界最悪の航空事故であり、 また史上初めて100人以上の死者を出したジェット旅客機の事故だった。
事故当時、エールフランスはアトランタに新事務所を設立したばかりで、 これがアトランタへ向かう最初の便だった。 生存者は機体後部に着席していた2人の客室乗務員だった。

1962年6月22日

事故発生日:西暦1962年6月22日
便名:エールフランス 117便 Chateau de Chantilly(機体記号:F-BHST)
機種:ボーイング 707-328A
死者:乗員10人乗客103人、合計113人全員が死亡。
状況:エールフランス117便墜落事故は、 1962年6月22日にグアドループのポワンタピートルで発生した航空事故である。 パリからサンチアゴへ向かっていたエールフランス117便(ボーイング707-328A)が着陸進入中に空港から25km地点に墜落し、 乗員乗客113人全員が死亡した。 当時、ボーイング707で発生した航空事故としては2番目に死者数の多い事故だった。 また、 グアドループで発生した航空事故としては2020年現在でも最悪の事故となっている。
悪天候かつ夜明け前の暗闇の状況で空港の手前25キロメートルに墜落。 事故原因は範囲=航空用無線標識局のVORが故障していたことや、 運航乗務員に気象情報が充分伝わらなかったこと、 事故機のADF(自動方向探知機)が雷雨に伴う磁気で狂ったことなどの複数の要因が複合したためと推測されている。

1962年7月7日

事故発生日:西暦1962年7月7日
便名:アリタリア航空 771便(機体記号:I-DIWD)
機種:ダグラス DC-8-43
死者:乗員9人乗客85人、合計94人全員が死亡。
状況:オーストラリアからイタリアに向かっていた旅客機が、 経由地のインドのボンベイへの着陸アプローチ中に滑走路手前約100キロメートルの山間部に墜落した。 インド政府の事故調査委員会はパイロットが位置を誤認し、 早めに降下したためとしたが、 運航会社は航空管制の不備が事故を招いたと指摘した。

1962年7月19日

事故発生日:西暦1962年7月19日
便名:アラブ連合航空 869便
機種:デ・ハビランド DH 106 コメット 4C
死者:乗員乗客26人全員が死亡。
状況:羽田発カイロ行きが、 経由地の香港を離陸しバンコクへの着陸アプローチ中に空港の北東80キロメートルの地点に墜落した。 事故原因はパイロットが位置を誤認して、早く高度を下げたためと推測されている。
乗客の多くはアラブ連合成立10周年記念式典に招待された香港や日本の新聞記者であったが、 日本人記者は朝日新聞社所属で同紙には出発前に撮影された記者と事故機SU-AMWの最後の写真が掲載された。 なお事故機は同年の4月に受領したばかりで、 飛行時間わずか600時間での喪失となった。

1962年7月22日

事故発生日:西暦1962年7月22日
便名:カナダ太平洋航空 323便
機種:ブリストル タイプ175 ブリタニア 314
死者:乗員乗客40人中27人が死亡。
状況:ホノルルからオーストラリアに向けて出発したターボプロップ機が、 離陸直後にエンジンの火災警報が作動したためホノルル空港(現・ダニエル・K・イノウエ国際空港)に緊急着陸しようとしたが、 着陸に失敗し大破炎上した。

1962年7月28日

事故発生日:西暦1962年7月28日
便名:アエロフロート 415便
機種:アントノフ An-10A
死者:乗員乗客81人全員が死亡。
状況:415便は、ウクライナ・リヴィウからロシア・ソチに向かっていたが、 アドレル空港(現・ソチ空港)への最終進入中に標高600メートルの山腹に墜落した。
事故機は管制から5000フィートまでの降下承認しか受けていなかったにもかかわらず、 2000フィートまで降下し激突していた。

1962年9月3日

事故発生日:西暦1962年9月3日
便名:アエロフロート 03便
機種:ツポレフ Tu-104A
死者:乗員乗客86人全員が死亡。
状況:ハバロフスクからペトロパブロフスク・カムチャツキーに向けて空港を離陸して10分後に墜落した。 フライトレコーダーが破損したため原因は解明されなかった。

1962年11月19日

事故発生日:西暦1962年11月19日
便名:全日本空輸 訓練機(機体記号:JA8202)
機種:ビッカース バイカウント828
死者:乗員4人全員が死亡
状況:羽田から小牧に向けて訓練飛行していた訓練機が愛知県西加茂郡猿投町(現・豊田市)の猿投山上空でスピンし墜落。 墜落したのは、全日本空輸のビッカース バイカウント828型機(機体記号JA8202)で、 1961年7月に納入された機体である。
1962年11月19日、 東京国際空港から名古屋空港に向けてパイロットの訓練飛行を行っていたが、 愛知県西加茂郡猿投町の上空、 高度3,500フィートでスピン(きりもみ)状態に陥り、 そのまま同町内の勘八峡(越戸ダム)近くの国有林に墜落した。
機体は地面に落ちてばらばらになり、 教官と訓練生計4人が死亡した。 なお墜落地点周辺には住宅や学校もあったが、 幸いにも地上での死者や負傷者はいなかった。
当時事故現場の天候は良好であった上、 昼間の事故であったために、猿投町の小学校の教師や児童の多くが墜落に至るまでの同機の飛行状況を観察していた。 しかしながらボイスレコーダーもフライトレコーダーも搭載されていなかったため、 事故に至る決定的な原因は解明できなかった。

1962年11月23日

事故発生日:西暦1962年11月23日
便名:ユナイテッド航空 297便(機体記号:N7430)
機種:ビッカース バイカウント 745D
死者:乗員4人乗客13人、合計17人全員が死亡。
状況:ユナイテッド航空297便墜落事故は、 1962年11月23日にアメリカ合衆国・ニュージャージー州ニューアーク国際空港発同国ジョージア州アトランタ空港行きのユナイテッド航空297便(ビッカース バイカウント 745D)が第1経由地のワシントン・ナショナル空港へ向かっている際に鳥の群れに遭遇、 少なくともコハクチョウ2羽が機体に衝突し深刻なダメージを与え、 制御不能に陥った結果メリーランド州ハワード郡エリコットシティ近郊に墜落し乗員乗客17人全員が死亡した事故である。
この事故により、 飛行中のバードストライクによって引き起こされる可能性のある機体への損傷をより深く把握することができた。 この結果連邦航空局 (FAA) は、 新しい航空機がバードストライクにより安全に飛行または着陸する能力に影響を与えることがないよう衝撃に耐えうる構造にすることを要求する新しい安全規則を発効した。

1962年11月27日

事故発生日:西暦1962年11月27日
便名:ヴァリグ・ブラジル航空 810便(機体記号:PP-VJB)
機種:ボーイング 707-441
死者:乗員17人乗客80人、合計97人全員が死亡。
状況:ブラジルからアメリカに向かう旅客機が、 経由地のペルーのリマへの着陸進行中に進入高度が高すぎたため、 着陸復航を行ったが、 リマ郊外のインカ時代の遺跡近くにある山頂に激突し爆発炎上した。
事故機にはリマで行われるFAO地域総会に出席予定だったキューバの国立銀行総裁らキューバ政府高官と、 ペルーの農務大臣夫妻も乗り合わせていたが全員死亡した。
事故機は航路を逸脱していたが、 その原因は確定することは出来なかった。 夜明け前の暗闇の中を飛行中のパイロットが不正確な航法情報を基に飛行していたため、 航路を誤認し逸脱に気が付かなかったものと推定されている。

1963年2月1日

事故発生日:西暦1963年2月1日
便名:1) ミドル・イースト航空 265便(機体記号:OD-ADE)乗員3人乗客11人、合計14人全員死亡。
   2) トルコ空軍 訓練機(機体記号:CBK-28)乗員3人全員死亡
機種:1) ビッカース バイカウント754D
   2) ダグラス C-47A スカイトレイン
死者:両機の乗員乗客17人全員と地上の87人が死亡。
状況:キプロスのニコシアからトルコのアンカラにあるエセンボーア国際空港に着陸しようとしていたレバノンの旅客機が、 トルコ空軍の訓練機に追い付く形で空中衝突し空中分解、 市街地に墜落したため多くの住民も巻き込んだ。
事故原因は角度の関係で衝突の直前まで旅客機のパイロットがトルコ空軍機を視認出来なかった(コリジョンコース現象)が原因と推測されている。 また事故が発生した空域は民間機の航路と空軍の訓練空域が重複していたが、 軍民の航空管制の連携が行われていたことも一因であるとされた。

1963年2月12日

事故発生日:西暦1963年2月12日
便名:ノースウエスト航空 705便(機体記号:N724US)
機種:ボーイング 720-051B
死者:乗員8人乗客35人、合計43人全員が死亡。
状況:ノースウエスト航空705便墜落事故は、 1963年2月12日に発生した航空事故である。 マイアミ国際空港離陸直後のノースウエスト航空705便(ボーイング720-051B)がエバーグレーズに墜落し、 乗員乗客43人全員が死亡した。
フロリダ州マイアミから出発する前に、 管制官が指示したコース上に乱気流があったため、 機長はコースの変更を求めたが拒絶された。 そのため、雷雨を伴う乱気流中を飛行していたが、 突風が上向きに来ると失速する危険があるため機首を下げて飛行したところ、 反対に下流気流に捕われて急降下してしまった。 そのため、機長は機体を引き起こそうとしたが、 設計運動速度を超過していたため昇降舵が吹き飛んだ。 これにより操縦不能に陥って錐揉み状態となり、 音速を突破して主翼が引き千切れ大地に激突した。

1963年4月4日

事故発生日:西暦1963年4月4日
便名:アエロフロート 25便(機体記号:CCCP-75866)
機種:イリューシン Il-18V
死者:乗員8人乗客59人、合計67人全員が死亡。
状況:アエロフロート25便墜落事故は、 1963年4月4日に発生した航空事故である。 シェレメーチエヴォ国際空港発イェメリャノヴォ空港行きだったアエロフロート25便(イリューシン Il-18V)が、 飛行中にエンジン故障に陥り、墜落した。 乗員乗客67人全員が死亡した。
25便は、3時12分にモスクワを出発し、 20,000フィートまで上昇した。 燃料消費を減らすため、 パイロットは26,000フィートへの上昇を要求したが、 付近にTu-104がいたため当初は許可されなかった。 4時15分、Tu-104がカナシュを通過したと報告し、 その時点で25便から40-50km離れていたので、 4時22分に26,000フィートまでの上昇を許可した。 4時26分、25便は上昇の許可を確認し、 24,600フィートでライシェヴォを通過したと報告した。 これが管制官との最後の交信となり、 4分後に管制官が呼び掛けた時には応答はなかった。
26,000フィートへの上昇中に突如、 第4エンジンが逆推力になった。 そのため、機体は右に傾き始めた。 パイロットは、 右翼側のどちらのエンジンに異常が起きたか分からなかったため、 どちらのエンジンもフェザリングにした。 激しい抗力により機体は急降下し、 490フィート - 660フィート付近で一時的にコントロールを取り戻した。 しかし、機体を急降下から立て直すには高度が低すぎ、 4時30分に270ノット - 324ノット (500 - 600 km/h)の速度で地面に激突した。

1963年4月24日

事故発生日:西暦1963年4月24日
便名:全日本空輸 60便
機種:ビッカース バイカウント
死者:なし(2人が負傷)
状況:千歳空港を飛び立ち、 羽田空港へ着陸し滑走路を高速で走行している最中に、 突然前輪後輪共に引っ込んでしまい胴体着陸状態になってしまった。 この事故で客室乗務員1名と乗客1名が打撲など負った。

1960年5月1日

事故発生日:西暦1960年5月1日
便名:日東航空 つばめ号(機体記号:JA3115)
機種:デ・ハビランド・カナダ DHC-3 オッター
死者:乗員2人乗客9人合計11人の内乗客全員の9人が死亡。乗員2人が負傷。
状況:日東航空つばめ号墜落事故と呼ばれている。
大阪空港から徳島へ向かっていた日東航空(日本エアシステムなどを経て現在の日本航空)のDHC-3オッター水陸両用旅客機「つばめ号」が、 淡路島の兵庫県三原郡南淡町(現在の南あわじ市)にある諭鶴羽山に墜落したのは、 1963年5月1日8時56分ごろであった。 つばめ号は8時11分に大阪を離陸したが、 濃霧の中を飛行していたため航路を誤り、 諭鶴羽山中腹の標高約300m地点に墜落し大破炎上した。 事故機は1958年4月に新造機で購入した機体で、 事故の1か月ほど前にオーバーホールした時点では何も問題はなかったという。
事故の連絡を受け、 所管の三原署は警察車両5台を現場に向かわせると共に、 近くの南淡中学校に現地対策本部を立ち上げた。
運航乗務員2名は操縦席左右のハッチから脱出して救助されたが、 乗客の9名全員が犠牲となった。 乗客は着席してシートベルトを締めたままだった事もあり、 火の回りが速く逃げ出す余裕がなかったためとされた。 遺体は洲本で荼毘に付されたあと各遺族へ引き渡された。 日東航空は5月6日に大阪市北区の東本願寺で合同葬儀を行うと発表したが、 一部の遺族はこれに反対した。
なお、機長の業務上過失致死傷、航空法違反について大阪高裁で有罪判決が下されたが、 最高裁は上告を棄却した。 航空事故に関する裁判としては最高裁では最初のものである。

1963年5月10日

事故発生日:西暦1963年5月10日
便名:全日本空輸 802便
機種:ダグラス DC-3
死者:なし(乗員3人乗客数:不明の内7人が重軽傷)
状況:仙台空港に着陸しようとしていた全日空所属のダグラス DC-3が着陸に失敗し乗員乗客あわせて7人が重軽傷を負った航空事故である。 刑事裁判で「アベレッジ・パイロット」(平均的技量)の考え方を取り入れた、 当時としては画期的判例となった。 仙台地方検察庁は「操縦ミス」があったとして機長を業務上過失致傷罪で起訴した。 1966年3月31日、仙台地裁は判決文の結論で『もしも被告人の技量がより優秀であったら本件事故の発生はなかったろうが、被告人は飛行機操縦者に一般に要求される技量を有し、また本件の具体的操作にあたって技量の怠慢や誤りを認められない(=アベレッジ・パイロット)』として被告・弁護側の主張をほぼ認めて無罪を言い渡した。
1963年5月10日、 千歳空港発羽田空港行き(三沢、仙台経由)の全日空802便(DC-3、機体記号:JA5040)が午後4時53分頃、 途中経由地の仙台空港に着陸したが機体が左右に蛇行を起こして不安定となったため着陸復航を決意。 エンジンを全開にしたが滑走路からそれてしまい、 草地で浮上したものの右主翼端を吹き流しのポールに激突させて飛行不能になり、 さらに地面についた右主翼端を雨量観測用の穴に引っ掛けたため機体が180度回転して地面に激突。 この衝撃で乗員乗客7名が重軽傷を負った。 なお事故機は修理不能とされ登録を抹消された。

1963年6月3日

事故発生日:西暦1963年6月3日
便名:ノースウエスト航空 293便
機種:ダグラス DC-7C
死者:乗員乗客101人全員が死亡。
状況:アメリカ軍から依託され、ワシントン州からアラスカ州に向けて軍人とその家族を乗せて運航されていたレシプロ旅客機が、カナダのクイーン・シャーロット諸島沖合の北太平洋で遭難。機体の残骸は発見されたが機体の引揚げは出来なかった。事故原因は究明されなかったが、墜落時には機体は横転した状態で海面に激突したこと、事故当時現場付近は着氷しやすい気象条件であったことが判明している。

1963年7月28日

事故発生日:西暦1963年7月28日
便名:アラブ連合航空 869便(機体記号SU-ALD)
機種:デ・ハビランド DH 106 コメット 4C
死者:乗員8人乗客55人、合計63人全員が死亡。
状況:アラブ連合航空869便墜落事故とは、 1963年(昭和38年)に東京発カイロ行きの旅客機がインド洋上で墜落した航空事故である。 犠牲者の中には2名の日本人含まれてがいた。
869便は、経由地のインドのボンベイにあるサンタクルス空港へ着陸進入中にマハーラーシュトラ州バンドラ沖15kmのインド洋に墜落した。 この事故で乗員8名、乗客55名の63名全員が犠牲になった。
事故機の機長はガマール・アブドゥン=ナーセル大統領搭乗の特別機のパイロットを務めたことがあるベテランであった。 事故機は着陸のために洋上で旋回中に、 高速で海面に激突したため、 残骸が粉々になっていて殆ど回収できず、 犠牲者も10名しか収容できなかった。 この事故の原因が断定できるほどの証拠は発見できなかったが、 激しい乱気流と大雨のために旋回時に操縦不能になったと推測されている。
前年の1962年7月19日に同じ便名のアラブ連合航空のコメット4C(SU-AMW)がタイのバンコク近郊に墜落し、 乗員乗客26人全員が死亡する事故が発生している。 この時には朝日新聞社所属の日本人記者1名が犠牲になっている。

1963年8月17日

事故発生日:西暦1963年8月17日
便名:藤田航空 臨時便(機体記号:JA6155)
機種:デ・ハビランド DH-114 ヘロン1B
死者:乗員3人乗客16人全員が死亡
状況:羽田空港と八丈島空港間に定期便を就航させていた藤田航空は、 浅草旅行会一行(全41名)の団体客輸送を依頼される。 定員15名ほどのデ・ハビランド DH.114 ヘロン型旅客機3機で八丈島空港から羽田空港へ向かったが、 1番機だけが到着しなかった。 懸命の捜査を行ったが見つからず、 遭難から3日目となる8月20日の午前8時55分、 八丈島空港から10km程離れた八丈富士8合目の雑木林に激突して炎上、 大破した状態で墜落していた1号機(JA6155)を発見した。
警察官や消防団などが墜落現場に駆け付けたが、 生存者は無く乗客16名・乗務員3名の合計19人全員が犠牲となった。 事故機は尾翼のみを残した状態でほとんど原型を留めていない状態であり、 墜落の衝撃や燃料による火災で機体はほぼ全焼していた。
最終的に事故原因を特定することは出来なかった。

1963年8月21日

事故発生日:西暦1963年8月21日
便名:アエロフロート 366便(機体記号:CCCP-45021、SSSR-45021)
機種:ツポレフ Tu-124
死者:なし。(乗員7人乗客45人)
状況:モスクワへ向かうはずの366便は、前脚が完全に引っ込んでいないことに気づきレニングラード(現・サンクトペテルブルク)へ向かった、 レニングラードでは、 火災の危険を低減するために高度1,650フィートで周回飛行し、 燃料を消費しようとしたが、 その間に前輪を出す作業に夢中になり、 燃料切れでネヴァ川に不時着した。

1963年9月4日

事故発生日:西暦1963年9月4日
便名:スイス航空 306便(機体記号:HB-ICV)
機種:シュド・アビアシオン SE-210 カラベル Ⅲ
死者:乗員6人乗客74人、合計80人全員が死亡。
状況:スイス航空306便墜落事故とは、 1963年9月4日、スイスで発生した墜落事故である。 この事故ではスイスのフンリコン村の住民が多く巻き込まれたことが大きな悲劇とされた。
この日、スイスのチューリッヒを出発しジュネーヴを経由しイタリア・ローマに向かうスイス航空306便が、 チューリッヒ空港を離陸しようとしていた。
午前6時4分(欧州夏時間、以下同じ)に出発したが、 当時空港は濃霧であったため、 ジェットエンジンの排気で霧を吹き飛ばすために滑走路の半分から逆走し滑走路の端に向かう許可を得た。 午前6時13分に離陸したが、 その直後に出火(目撃証言によれば、左翼付け根から炎上し煙をひいていたという)。
午前6時20分に高度2,700メートルから降下し、 チューリッヒ西南西約25キロメートルに位置するデュレネッシュ近郊に墜落した。 この事故で乗員6名、乗客74名の合わせて80名全員が死亡した。 また事故の衝撃によって直径20メートル、 深さ6メートルの陥没穴が出現し、 近くの農家2軒も損傷した。 ...

事故機に搭乗していた乗客のうち43名はスイスにあるチューリヒ州フンリコン村の住民であった。 いずれもジュネーブ近郊の農場視察に向かうために搭乗していた。 この村の当時の人口は217名であり、 この事故で5分の1の住民を失ってしまった。 また独身者2名を除いて全て家庭では未成年の子供の保護者であったため未成年39名が孤児になり、 うち6人が養子に貰われていった。 また犠牲者の中には村の郵便局員と学校の管理者などに加え、 村の議員全員が含まれていたため、 村の機能に重大な損失を被ることになった。
なお10月26日と27日に新たな議員を決めるための村議会議員選挙が行われたが、 有権者は52名に過ぎなかった。 また収穫期を迎えた村の農作業は農民がいなくなったため出来なかったが、 周辺の農村から集まったボランティアによって収穫が行われた。
2005年現在人口は427名であるが、チューリヒ州の中でも最も人口の少ない村である。

1963年10月22日

事故発生日:西暦1963年10月22日
便名:ブリティッシュ・エアクラフト・コーポレーション 試験飛行機(機体記号:G-ASHG)
機種:BAC 1-11 200AB
死者:搭乗者7人全員が死亡。
状況:この日、事故機は重心が様々な位置にあった場合を想定した失速、 及び失速からの回復試験を行っていた。 試験では、回復中の飛行性能などを記録していた。 重心を許容範囲の最後部近くにし、 フラップとギアを上げた状態で4回の試験を行った。 5回目の失速試験では、 高度16,000フィートで、 フラップを8度まで展開した状態で行った。 機体は、5度から10度ほど機首を上げた状態で失速した。 パイロットは、失速から回復させるために操縦桿を前に押したが、 機首は上がり続け50度近くに達した。 最終的には対気速度はほぼ無くなり、 機体は急速に降下をし始めた。 パイロットは、方向舵と補助翼を使い、 左右に傾斜させることや、 エンジン出力を最大にすることで回復を試みたもののうまくいかず、 失速から140秒後に機体は、 ウィルトシャーチクレード付近にあるCratt Hillに墜落し、 乗員7人全員が死亡した。 ...
事故原因は、ディープストールに陥ったことであった。 ディープストールは、T字翼機特有の現象であり、 失速時に昇降舵に当たる空気が主翼に阻害され、操縦不能に陥る現象である。 この事故は、ディープストールにより墜落した始めての航空事故であった。
また、この試験方法はブリティッシュ・エアクラフト・コーポレーションが前年に開発したビッカース VC-10で行ったものであり、 どちらもエンジンを胴体後部に設置した、 リア・エンジン方式でT字翼機だったが、 VC-10は大型かつ4発機であるという違いがあった。

ディープストールが認知された後、 失速する前にパイロットに速度の低下を知らせるスティックシェイカーと、 失速速度に近づくと機首を自動で下げるスティックプッシャーが開発され、 他の航空機にも搭載された。

1963年11月29日

事故発生日:西暦1963年11月29日
便名:トランス・カナダ航空 831便(機体記号:CF-TJN)
機種:ダグラス DC-8-54F
死者:乗員7人乗客111人、合計118人全員が死亡。
状況:1963年11月29日、 モントリオールのドーバル空港(現在のモントリオール・ピエール・エリオット・トルドー国際空港)発、 トロント国際空港(現在のトロント・ピアソン国際空港)行きであったトランスカナダ航空831便は、 悪天候の中、離陸数分後にケベック州テレセ・デ・ブランビル近郊にて墜落し、 118名(乗客111名、乗員7名)全員が死亡した。
墜落による衝撃は大きなクレーターを発生させるほどであり、 機体はひどく壊れていたため、 原因は解明できなかった。 1965年に出された公式発表は、 ピッチ角を制御する揺れ防止装置の不具合の可能性があるとしている。 その理由は、 数ヶ月後に別のイースタン航空304便のDC-8が同様の状況で墜落しているからとしている。
エア・カナダの前身のトランスカナダ航空は、現場近くに記念公園を造った。

1963年12月8日

事故発生日:西暦1963年12月8日
便名:パンアメリカン航空 214便(機体記号:N709PA)
機種:ボーイング 707-121
死者:乗員8人乗客73人合計81人全員が死亡。
状況:ボルチモアを離陸した214便は、 フィラデルフィアの航空管制官からフィラデルフィア国際空港の強風が収まるまで空中で待機するように指示された。 時折霰か雨混じり、雷が地上に落ちる悪天候のなか、 自家用小型機を含む旅客機など5機とともに、 高度5,000フィートの空中待機コースを飛行していた。
214便は、午後8時58分に落雷を受け非常事態宣言を発し操縦不能を宣言したが、 この通信を最後に午後8時59分メリーランド州エルクトン にあるトウモロコシ畑へ火焔につつまれたまま墜落した。 この事故で乗員8名、乗客73名のあわせて81名が犠牲になった。
地上と空中の目撃証言、 事故機の残骸検証などから事故原因を「落雷を受けた際、左翼燃料タンク(No.1燃料タンク)の空気孔からもれて気化した燃料に高電圧がかかったことにより、引火爆発、左翼端が失われると共に、燃料タンク内の燃料に引火して火災となり、墜落に至ったもの」と推定した。
雷が放電索へ誘導されず発火した原因について、 2機の準同型機(アメリカ空軍所属の707-100型機と、パンアメリカン航空保有の707-139型機を借上げ)で検証を行ったが、 メカニズムは充分に解明できず、 ストリーマ現象が発生したのではないかと推定された。
事故直後、アメリカ連邦航空局(FAA)はアメリカ国内で登録されている民間ジェット旅客機に対して、 放電装置の増設設置を勧告する耐空性改善通報を発行し、 各航空会社はそれを実施した。

1964年2月18日

事故発生日:西暦1964年2月18日
便名:日東航空 101便 おやしお号
機種:グラマン G-73 マラード(機体記号:JA5067)
死者:乗員3人乗客7人合計10人中2人が死亡
状況:大阪空港から徳島へ向けて乗員3名、乗客7名の合計10名を乗せた日東航空のグラマン マラード水陸両用旅客機おやしお号が、 滑走路を離陸した後、 滑走路先の空港排水路の堤防に機体の下部を当て、 そのまま右側へ旋回をしながら、 午前8時22分に大阪空港の滑走路から約1kmほど南の兵庫県尼崎市田能にある水田に墜落した。
墜落と同時にエンジン部分から出火し、 伊丹・豊中・尼崎の各警察署と消防署は直ちに署員200名、パトカー・消防車20台余りを現地へ急行、 火の回りが早く、機体の前半分は完全に燃え落ちた後に消火された。 そしてこの事故により スチュワーデスの麻畠美代子と乗客1名の計2名が死亡、 乗客7名が負傷した。
事故後の機体を調査したところ、 機体左側プロペラは3枚とも曲がっているのに対して、 機体右側プロペラは曲がってるのは1枚だけで残り2枚は全く曲がっていなかった。 以上の事から、同機は離陸時に何らかの原因で機体右側エンジンが止まり、 それにより推力が不足して墜落したものと推測された。
この事故で殉職した麻畠美代子(あさはた みよこ)はミス京都やミス・ワールド・ジャパン準優勝の経歴を持ち、 一人取り残されていた乗客を救出しようとして犠牲になった。 この行動を称え、六甲山の山上にみよし観音が建立されている。

1964年2月25日

事故発生日:西暦1964年2月25日
便名:イースタン航空 304便(機体記号:N8607)
機種:ダグラス DC-8-21
死者:乗員7人乗客51人、合計58人全員が死亡。
状況:ニューオーリンズ空港を離陸した直後に墜落。 ピッチ・トリム・コンペンセーター(PTC)に欠陥があり、 機首が下がり急降下したため、 パイロットは逆推力装置を使って機体をほぼ水平にしたがその直後にポンチャートレイン湖の湖面に激突した。

1964年2月27日

事故発生日:西暦1964年2月27日
便名:富士航空 902便
機種:コンベア CV-240-0
死者:乗員5人乗客37人合計42人の内20人が死亡。残りの22人も全て重軽傷を負った。
状況:富士航空902便は、 鹿児島空港から旧大分空港(大分県大分市)を経由して東京国際空港へ向かう国内定期便だった。 使用機体はコンベア240(レシプロ双発旅客機、機体記号JA5098、1948年製造)で、 乗員5名と乗客35名の合計40人が搭乗していた。
午後3時20分頃、 旧大分空港の滑走路12への着陸時にオーバーランし、 空港東側にある大分川支流、 裏川河川敷に墜落、炎上した。 乗客18人と客室乗務員2人の合わせて20人が死亡した。

1964年2月29日

事故発生日:西暦1964年2月29日
便名:英国イーグル航空 802便
機種:ブリストル タイプ175 ブリタニア 312
死者: 乗員乗客83人全員が死亡。
状況:オーストリア西部のインスブルック郊外の山中に墜落。
悪天候の中、地上目標物を視認しようとして、 安全高度以下に降下し激突したものと思われる。 なお、事故機は墜落による衝撃で発生した雪崩により押し流され、 斜面に散乱していた。

1964年3月2日

事故発生日:西暦1964年3月2日
便名:パラダイス航空 901A便
機種:ロッキード L-1049 コンステレーション
死者:乗員乗客85人全員が死亡。
状況:カリフォルニア州・サンノゼよりネバダ州・タホ湖へ向かっていた途中にタホ湖東側の山中に墜落。事故原因はパイロットの不適切な操縦とされた。これは着陸しようとしていた空港に計器飛行方式が設定されておらず、視認飛行方式でアプローチしなければならなかったにもかかわらず、悪天候下の計器飛行を強行した。その結果迷走飛行し雪に覆われた峰に激突したと推定された。

1964年5月3日

事故発生日:西暦1964年5月3日
便名:不明
機種:セスナ機
死者:乗員3人が死亡
状況:富山県砺波市で開催されたイベントのため飛行していたセスナ機が低空飛行中に失速して墜落。 墜落場所が田んぼだったため地上で巻き添えになった者はいなかったが、 イベント会場にいる1万人近くの人々の目の前で墜落した。

1964年9月2日

事故発生日:西暦1964年9月2日
便名:アエロフロート 721便
機種:イリューシン Il-18V
死者:乗員乗客93人中87人が死亡。
状況:クラスノヤルスクから樺太(サハリン)に向かった国内線で、ユジノサハリンスクに着陸する際パイロットが早く降下したためにユジノサハリンスク空港の手前の山に墜落した。

1964年11月15日

事故発生日:西暦1964年11月15日
便名:ボナンザ航空 114便
機種:フェアチャイルド F-27A
死者:乗員乗客29人全員が死亡。
状況:ラスベガスのマッカラン空港へ着陸進入中に空港手前の山頂に激突。計器進入時に使用するチャートの通過高度記載が不適切であったために、機長が進入高度と激突した山頂の標高とを読み誤ったことが原因とされている。

1964年11月23日

事故発生日:西暦1964年11月23日
便名:トランス・ワールド航空 800便(機体記号:N769TW)
機種:ボーイング 707-331
死者:乗員11人乗客62人合計73人中50人が死亡。
状況:800便は13時05分にフィウミチーノ空港の滑走路25までタキシングし、 その1分後に滑走路上で加速し始めた。 しかし、時速148キロメートルに達した時点で計器が第4エンジン推力がゼロであることを示し、 すぐに第2エンジンの逆噴射装置を作動させるためのインジケーターが点灯した。 パイロットは滑走路端から800~900メートル手前の地点で離陸を中止したが、 機体はパイロットが予想していたよりもすぐには減速せず、 右に旋回した後に第4エンジンが地上にあったロードローラーに衝突した。 この衝突で機体は炎上し始めたが、 同機はさらに260メートル程進んだ。 機体が完全に静止する前に機体中央の燃料タンクが爆発し、 これによって機体は完全に破壊された。 この事故で乗員5人(副操縦士と客室乗務員4人)と乗客45人が死亡したが、 残りの23人は負傷しつつも生存した。
事故調査の最終報告書によれば、 事故原因は第2エンジンの逆噴射装置が作動しなかったことであった。 これは、エアインテークが断裂してエアシリンダーの空気圧が不足したことが原因とされている。 これにより、 4基のエンジン全てのスラストレバーが逆噴射の位置にあったにもかかわらず、 第2エンジンは機体を前方に進ませる推力を発生させることとなった。

1965年2月8日

事故発生日:西暦1965年2月8日
便名:イースタン航空 663便(機体記号:N849D)
機種:ダグラス DC-7B
死者:乗員5人乗客79人、合計84人全員が死亡。
状況:ジョン・F・ケネディ国際空港を離陸した663便と着陸に向けて降下中であったパンアメリカン航空のボーイング707との間にニアミスが発生する可能性が生じた。 そのため管制官は663便に針路を変更して上昇を続けるよう指示した。 しかし663便のパイロットは安全高度差があるにもかかわらず、 錯覚からパンナム機と同じ高度を飛行しているように誤認した。
そのため663便は衝突を回避するために降下に転じたが、 パンナム機も衝突の危険を感じて降下率を増していた。 空中衝突の危険を感じた663便のパイロットは急旋回して回避しようとしたが、 気が動転し旅客機の限界を超えた角度になったため操縦不能になりニューヨーク沖の浅瀬に墜落し爆発した。
事故当時の視程は良好であったが、 夜間のため水平の基準となるものがなく、 人工水平儀も参考にしていなかったことから墜落に至ったとされた。

1965年2月14日

事故発生日:西暦1965年2月14日
便名:全日本空輸 貨物機(機体記号:JA5080)
機種:ダグラス DC-3
死者:乗員2人全員が死亡
状況:全日本空輸の貨物機が巡航中失踪した航空事故である。 後に墜落していたことが判明したが、 機体が発見されたのは22ヵ月後であり、 そのうえ捜索範囲から大きく離れた地点であった。 失踪当日は悪天候ではあったが、 墜落原因は不明となっている。
失踪していたJA5080の残骸が発見されたのは、 事故発生から22ヶ月後の1966年12月29日であった。 沿岸部から遠く離れた浜松市の北北東約70kmの静岡県磐田郡(現在の浜松市天竜区)にある南アルプス中ノ尾根山(2,296m)の山頂付近・標高2200mの国有林で、 静岡県磐田郡の鹿狩りのハンターが雪の中から発見したものである。
現場に落ちていたフライトプランなどの遺留品からJA5080機であることが判明した。 事故機は大地に衝突したのではなく、 空中分解したかのようにバラバラになっていた。 また乗員2名の遺体も、 12月31日に行われた警察による捜索で機体残骸の下から発見された。

1965年2月27日

事故発生日:西暦1965年2月27日
便名:日本航空 訓練機(機体記号:JA8023)
機種:コンベア 880-22M-22(JA8023, KAEDE)
死者:なし(2人が重症)
状況:日本航空のコンベア880-22M (JA8023, KAEDE) が、 壱岐空港(長崎県壱岐市)でタッチアンドゴーの訓練中、 操縦ミスにより主脚を滑走路末端に引っ掛け墜落した。 機体は大破炎上し全損となり、乗員6名中2名が重傷を負った。

1965年2月20日

事故発生日:西暦20年月日
便名:パキスタン国際航空 705便(機体記号:AP-AMH)
機種:ボーイング 720-040B
死者:乗員13人乗客114人、合計127人中121人が死亡。
状況:パキスタン国際航空705便墜落事故は、 1965年5月20日にエジプトで発生した航空事故である。 ジンナー国際空港からロンドン・ヒースロー空港へ向かっていたパキスタン国際航空705便(ボーイング720B)が経由地のカイロ国際空港への着陸進入中に墜落し、 乗員乗客127人中121人が死亡した。 ボーイング720で発生した航空事故としては4番目に死者数が多く、 エジプトで発生した航空事故としては当時最悪のものだった。
705便は、 経由地カイロ空港への着陸進入中に急降下して空港の手前8キロメートルの地点に墜落した。 通常の3倍以上の降下率で降下したことや、 墜落するまで速度を増加し続けたことが判明したが、 異常な降下の原因を断定するまでには至らなかった。

1965年8月16日

事故発生日:西暦1965年8月16日
便名:ユナイテッド航空 389便(機体記号:N7036U)
機種:ボーイング 727-22
死者:乗員6人乗客24人、合計30人全員が死亡。
状況:ユナイテッド航空389便墜落事故は、 アメリカ合衆国で発生したボーイング727最初の航空事故(人身死亡事故)である。
ユナイテッド航空389便はニューヨークのラガーディア空港からシカゴ・オヘア国際空港に向かう国内線であった。 当時は夏の薄暮の宵の入りの状況であった。 389便は着陸に向けて航空管制から巡航高度35000フィートから降下した。 進入管制官は「高度6000フィートで高度を維持せよ」とこの高度で水平飛行して待機するように指示されていた。 しかし389便はなおも降下を続け現地時間の21時21分に空港から45km離れたミシガン湖の湖面に激突した。 搭乗者に生存者はいなかった。 なお、事故機は導入されたばかりであり、飛行時間わずか611時間で喪失した。 ...
航空事故調査委員会は、 389便のパイロットが航空管制から指示された6000フィートで何故水平飛行に移らなかったかについて、 合理的な説明はできないとして「原因不明」とした。 そのためこの事故は、 機体には異常がないにもかかわらず何故か事故に至ったという「CFIT」のカテゴリーに分類される。

公式には不明とされたとはいえ、 原因についてはいくつかの主張がされている。 その一つにパイロットが高度計を誤読した人為的ミスという説がある。 これは事故機に装着されていた高度計が三針式(三本の針がそれぞれ1万、千、百フィートの数値を表示し、三つを組み合わせて高度を読み取る)であったため、 航空管制から降下を指示された際に既に6000フィートになっていたにもかかわらず、 1万の針を誤読し16,000フィートと認識し、 さらに降下を続けた為激突したというものである。 同様の誤読による事故がイギリスで実際に発生しているため説得力あるものとされた。 しかしこの説に対しては、 乗員達は計器だけでなくコクピットの窓から外を視認でき、 迫り来る水面にも気付くはずではないかとの疑問も提示されている。

また激突前に空中分解したとの目撃証言もあったが、重要視されることはなかった。 なお事故機のフライトデータレコーダーのケーシング部分は回収できたものの、 記録メディアを含むデバイス内部が回収できなかった。 これにより事故機の最後に関する情報が得られなかったことも事故原因究明が困難になった一因でもある。

この事故の翌年2月に、 日本の東京湾で同型機が同じ着陸進入中に墜落する事故(全日空羽田沖墜落事故)が発生したが、 フライトデータレコーダーが装備されていなかったこともあり、 パイロットミスを示唆しつつも同様に「原因不明」とされている。

1965年9月17日

事故発生日:西暦1965年9月17日
便名:パンアメリカン航空 292便(機体記号:N708PA)
機種:ボーイング 707-121B
死者:乗員9人乗客21人、合計30人全員が死亡。
状況:パンアメリカン航空292便墜落事故は、 1965年9月17日に発生した航空事故である。 マルティニーク・エメ・セゼール国際空港からVCバード国際空港へと向かっていたパンアメリカン航空292便(ボーイング707-121B)がチャンスピークに墜落し、 乗員乗客30人全員が死亡した。
292便はフランスのマルティニーク・エメ・セゼール国際空港を出発し、 VCバード国際空港、 ルイス・ムニョス・マリン国際空港を経由して、 ニューヨークのジョン・F・ケネディ国際空港へと向かう定期便で、 乗客21人と乗員9人が搭乗していた。 荒天の中、高度2,760フィートでVCバード国際空港へと進入している際に、 標高3,002フィートにあるチャンスピークに墜落し、 火災が発生した。 この事故で乗員乗客30人全員が死亡した。
原因はパイロットのミスであると判断された。 乗員は航法上のミスを犯し、 自らの位置が不明なまま最低安全高度を下回って降下していた。

1965年11月8日

事故発生日:西暦1965年11月8日
便名:アメリカン航空 383便(機体記号:N1996)
機種:ボーイング 727-23
死者:乗員5人乗客57人、合計62人中58人が死亡。
状況:アメリカン航空383便墜落事故は、 1965年11月8日にアメリカ合衆国のケンタッキー州で発生した航空事故である。 ラガーディア空港からシンシナティ・ノーザンケンタッキー国際空港へ向かっていたアメリカン航空383便(ボーイング727ー23)がシンシナティ・ノーザンケンタッキー国際空港への最終進入中に墜落し、 乗員乗客62名中58名が死亡した。
383便は北西から空港へ向かって飛行し、厚い雲と雷雨に見舞われた。 パイロットは気付くことなく急速に降下した。 空港は標高853フィートに位置しており、 383便は空港の北東約5マイルを飛行していたが、 空港の上空553フィートの高さまで降下していた。 その後、空港の上空わずか3フィートの高さまで降下したが、 その時点で1,000フィートよりわずかに低い正しい高度を下回っていた。 川を横切って南岸に戻りながらオハイオ川の谷を下り、 滑走路に合わせて最終ターンをした時、 滑走路の標高を下回る高度で滑走路から北へ3kmの谷の森林の斜面に墜落して爆発炎上した。
乗員乗客62人の内、 客室乗務員1人と乗客3人を除く58人が死亡した。 尚生存した乗客の一人に音楽プロデューサーのイスラエル・ホロヴィッツがいる。

1965年11月11日

事故発生日:西暦1965年11月11日
便名:ユナイテッド航空 227便(機体記号:N7030U)
機種:ボーイング 727-22
死者:乗員6人乗客85人、合計91人中43人が死亡。
状況:ソルトレイクシティ国際空港へ着陸しようとしていた旅客機が、 滑走路手前100メートルの地点に墜落し滑走した後に炎上した。
原因は着陸直前の高度が高過ぎたため、 通常の3倍の降下率で降下していたのを副操縦士が降下率緩和のためスラストレバーを押し出そうとしたに関わらず、 機長はそれを制止した。 しかしこの措置はスラストレバーの操作から遅れてエンジンが反応するという事を把握していなかったものであり、 機長が激突することに気付いて出力を上げたときには手遅れであった。 そのため事故報告書も生存した機長が過大な降下率を適切な操作で抑制しなかったと断言している。

1965年12月4日

事故発生日:西暦1965年12月4日
便名:1) イースタン航空 853便(機体記号:N6218C)乗員5人乗客49人、合計54人の内4人死亡。
   2) トランス・ワールド航空 42便(機体記号:N748TW)乗員7人乗客51人、合計58人。死者負傷者なし。
機種:1) ロッキード L-1049 スーパーコンステレーション
   2) ボーイング 707-131B
死者:両機の乗員乗客112人中4人が死亡。
状況:1965年12月4日、 イースタン航空853便はロッキード1049Cスーパーコンステレーションで運航されており、 ボストンからニューアークに向かっていた。 853便はニューヨーク上空を高度10,000フィートで飛行していた。 この時トランス・ワールド航空42便のボーイング707もニューヨークのジョン・F・ケネディ国際空港に着陸するため高度11,000フィートを飛行していた。 ともに計器飛行方式で飛行しており、 高度差が1,000フィートあったため、 衝突する危険性は全く無かった。
この時、両機は雲の上を飛行していたが、 853便の機長は正面から別の雲の雲頂付近を飛んできた42便が同じ高度で飛んでいるものと錯覚した。 そのため、853便の機長は回避を試みて急上昇したが、 引き上げから10秒後の午後4時19分(アメリカ東部時間)に空中衝突した。 この衝突で、 42便の左主翼は第一エンジン附近まで3分の1がもぎ取られたが、 緊急着陸に成功し乗員乗客58名にけが人はいなかった。
一方、 853便は右水平尾翼と右垂直尾翼をもぎ取られたため操縦不能に近い状態になった。 機長はエンジンの推力操作で機体の制御を行い、 ニューヨーク郊外のノースセーラムの原野に不時着した。 接地の際に左主翼が樹木に接触しもぎ取られたため、 火災が発生したが乗員乗客54名のうち50名が緊急脱出に成功した。 だが、残りの4名は犠牲になった。 犠牲者4名のうち1人は機体が停止する前に衝突でできた穴から機体の外に逃げようと飛び出したために死亡し、 唯一の乗員の犠牲者は最後まで機内に留まり乗客の脱出の手助けをしていた機長であった。

1965年12月25日

事故発生日:西暦1965年12月25日
便名:日本航空 813便 KAMAKURA(機体記号:JA8006)
機種:ダグラス DC-8-33
死者:なし(乗員10人乗客31人。負傷者もいなかった)
状況:サンフランシスコ国際空港から東京国際空港へ向かっていた日本航空813便(ダグラス DC-8-33)の第1エンジンが離陸直後に爆発した。 パイロットは対岸のオークランド国際空港に緊急着陸を行い、 乗員乗客41人は全員無事だった。
爆発した第1エンジンは1965年8月に日本航空の東京工場でオーバーホールされたもので、 11月20日にJA8006に搭載され、 12月24日に運用に復帰した。 オーバーホールでは低圧コンプレッサーのトルクリングに疲労亀裂が見つかったため、 リングが交換されていた。
機長は40歳の日本人男性で、 DC-8のほかにコンベア880、 ダグラス DC-4、 ダグラス DC-6、 ダグラス DC-7での飛行資格があった。 総飛行時間は8,031時間で、 DC-8では909時間の経験があった。 この機長は後に日本航空351便ハイジャック事件にも巻き込まれた。

1966年1月24日

事故発生日:西暦1966年1月24日
便名:エア・インディア 101便(機体記号:VT-DMN)
機種:ボーイング 707-437
死者:乗員11人乗客106人、合計117人全員が死亡。
状況:101便はインド・ボンベイ(現・ムンバイ)からレバノン・ベイルート、ギリシャ・アテネを経由してロンドンへ便である。 その101便は次の寄港地スイスのジュネーヴ・コアントラン国際空港に着陸しようとしていた。
着陸の際に管制官より、 雲上から1000フィート離れた高度まで降下し、 その高度を維持するように指示を受けたが(雲の高度がわからない。次の「19000フィート」という絶対値との比較ができない)、 機は約19000フィートまで降下を続け、 モンブランの山頂付近に激突した。 これにより乗員11人、乗客106人の合わせて117人全員が犠牲になった。 墜落地点は標高4810mのモンブランでしかも厳寒の季節であった為遺体の収容も捗らなかったという。
事故機に2個設置されていたVOR (超短波全方向式無線標識)の1個が故障していたのを知った機長が、 自機の位置を確かめようとして管制官に「我々はモンブランの横を通過したと思う」と報告した。 それを聞いたジュネーブの管制官はモンブランは5マイル前方にあるという意図で「貴機はモンブランまで5マイルある」と訂正して通告した。 しかし内容が曖昧だったため、 機長は「モンブランの横から5マイル離れている」と判断してそのまま山頂に衝突したものと推測される。

1966年2月4日

事故発生日:西暦1966年2月4日
便名:全日本空輸 60便(機体記号:JA8302)
機種:ボーイング 727-81
死者:乗員7人乗客126人合計133人全員が死亡
状況:千歳空港から羽田空港へ向かっていた全日本空輸60便は、 東京湾上空をショートカットする形での有視界飛行方式 (VFR) による着陸ルートを選択したが、 19時00分23秒を最後に管制塔からの呼びかけに応答しなくなった。
その後、 23時55分に捜索機が木更津北方7海里付近において全日空の標示のある翼の一部を発見し、 機体の内張りの一部および乗客の衣類を収容し、 午前0時5分に捜索船が羽田灯標東南東6.4海里で最初の遺体2体を収容した。 具体的な墜落時刻は不明なものの、 19時00分20秒に最後の交信があってから応答がなくなるまでの数十秒の間と思われるが、 写真では航空機関計器盤の時計が19時05分12秒を指して止まっているのが確認される。
1966年当時において一機の単独事故としては世界最大の墜落事故となった。 原因不明。乗員乗客133人全員が死亡。
乗客1名を除く乗客乗員132名の遺体は4月14日までに発見された。 収容された乗客の遺体の検視結果は、 墜落の衝撃による頸骨骨折、 脳や臓器損傷によるものと溺死によるものが多数を占めた。 5月10日に遺体の捜索は打ち切られたが、 最後の乗客1名の遺体は8月9日に横須賀の夏島の岸壁に漂着しているところを発見された。 収容時に遺体の頭部は失われていたが、 着衣から本人と確認されたという。

1966年3月4日

事故発生日:西暦1966年3月4日
便名:カナダ太平洋航空 402便
機種:ダグラス DC-8-43
死者:乗員10人乗客62人、合計72人の内64人が死亡
状況:香港発東京経由バンクーバー行きのカナダ太平洋航空402便が、 東京国際空港(通称羽田空港)への着陸時に、 悪天候のため滑走路が視認しづらく高度を下げすぎたことにより墜落した。
この事故で運航乗務員3名・客室乗務員7名・乗客62名の合計72人のうち、 乗務員10名全員と乗客54名の合わせて64人(うち日本人5名)が犠牲となり、 乗客8人が救出された。
なお、この事故の1ヶ月前には全日空羽田沖墜落事故が発生しており、 翌日には英国海外航空機空中分解事故が発生したため日本社会に大きな衝撃を与えた。 ...

1966年3月5日

事故発生日:西暦1966年3月5日
便名:英国海外航空 (BOAC) 911便
機種:ボーイング 707-436
死者:乗員11人乗客113人、合計124人全員が死亡
状況:乗員11名・乗客113名の合計124名(日本人13名を含む)を乗せた、ボーイング707型機が富士山付近の上空で乱気流に巻き込まれ、 空中分解して墜落するという航空事故である。
羽田空港を離陸し巡航高度に上昇中の14時15分ごろ、 静岡県御殿場市付近上空15,000フィート (4,600 m)を飛行中、 乱気流に遭遇して右翼が分断されるなどして機体は空中分解し、 御殿場市の富士山麓・太郎坊付近に落下した。
空中分解してから墜落するまでの様子を目撃していた自衛隊員などによると、 空中分解した後に両翼から白いジェット燃料を吹き出しながら機体中心部が地面に衝突し、 爆発音とともに黒煙が上がったという。 その後操縦席を含む機首部分が焼失した。 機首付近は本来燃料タンクが無いため炎上しないはずだったが、 911便は乱気流遭遇時に主翼付近のタンク隔壁を燃料が突き破って機首付近に溜まっていたことが火災の原因となった。 翌朝になっても機首を含めた機体の一部はまだ燃え続けており、 ジェット燃料の白い煙と臭いが絶えない状況であった。

1966年4月22日

事故発生日:西暦1966年4月22日
便名:アメリカン・フライヤーズ航空 280便
機種:ロッキード L-188C エレクトラ
死者:乗員乗客98人中83人が死亡。
状況:兵士移送のためチャーターされた機が、 給油のためオクラホマ州アードモア空港に着陸進入中、 当時59歳だった機長が心臓発作を起こし死亡、 副操縦士による低高度からの機体姿勢の回復も成功せず墜落した。
機長には心臓病と糖尿病の長い病歴があったが、 自らが運航会社の社長という地位を利用して健康診断報告書を偽造し機長免許を更新していた上、 事故当時16時間勤務しており、 病状悪化を誘発したとされた。

1966年7月4日

事故発生日:西暦1966年7月4日
便名:ニュージーランド航空 訓練機(機体記号:ZK-NZB)
機種:ダグラス DC-8-52
死者:乗員5人中2人が死亡。
状況:1966年ニュージーランド航空DC-8墜落事故は、 1966年7月4日にニュージーランド航空で発生した航空事故てある。 オークランド国際空港で飛行訓練を行っていたダグラス DC-8-52が離陸時に墜落し、 乗員5人中2人が死亡した。 この事故はニュージーランド航空が起こした最初の死亡事故だった。
15時50分、DC-8は訓練飛行のため滑走路23へ向けてタキシングを開始した。 訓練は約2時間の予定で、15時59分に離陸許可を得た。 パイロットは離陸時に、急速な機首上げを行った。 そのため、機体尾部が滑走路に接触しかけた。 また、機体は右に傾きだし、スリップしながら高度を失い始めた。 最終的に機体は右に50度近く傾き、 右翼が地面に接触し、分離した。 そのまま機体は機首から地面に激突し、大破した。 事故により機長と航空機関士が死亡し、3人が負傷した。
制御を失った原因は第4エンジンが逆噴射状態になったことだった。 パイロットは第4エンジンが故障した状態を想定するためにスロットルレバーをアイドル位置まで戻したが、 スロットルの動きが急速だったため慣性力が働き、 誤ってリバースレバーが作動した。 これにより、速度が最小制御速度まで増加せず、 機体がスリップし始めた。 パイロットは逆噴射装置の作動に気づいたが、 その時にはすでに機体の姿勢を回復するだけの十分な高度と時間が無くなっていた。

1966年8月26日

事故発生日:西暦1966年8月26日
便名:日本航空 銀座号(訓練機、機体記号:JA8030)
機種:コンベア CV-880-22M-3
死者:乗員5人全員が死亡(乗客はいなかった)
状況:日本航空の訓練機が、 試験項目の一つであるワン・エンジン・クリティカル・カット・アウト(離陸時にエンジン一発故障の想定で離陸続行)で、 滑走中に第4エンジンが手動停止された。 この操作によって風下の外側の推力がゼロとなり、 機体は急激に片滑りし始めた。
目撃証言によれば、 C滑走路から右へ逸脱し始め、 左車輪が折れてC滑走路とA滑走路の間で左向きになった上で、 右車輪も折れてしまった。 その衝撃で胴体着陸して爆発炎上し、 乗員が脱出する時間もないまま全焼した。
事故原因は、 前述の操作が困難な機体に加え、 訓練生のミスも誘発されて離陸直後の墜落に至ったとされている。 なお、民間人がこの時の様子を写真に収めたものが新聞に掲載され、 NHKニュースでは、 民間人が8ミリ映画で撮影した墜落の瞬間が放送された。
また専用の訓練飛行場も無く、 発着の旅客機で常に混雑している羽田空港で試験飛行を行わなければならないという危険な事実も明らかになった事故でもある。
乗員訓練飛行につき乗客の搭乗はなかったが、 同社員4名と運輸省(現:国土交通省)航空局職員1名の5名全員が犠牲になった。

1966年9月18日

事故発生日:西暦1966年9月18日
便名:全日本空輸 60便(機体記号:JA8617)
機種:フォッカー F27 フレンドシップ双発ターボプロップ旅客機
死者:なし(乗員2人乗客なし乗員1人が軽傷)
状況:板付飛行場(福岡空港)から午前7時55分に離陸し鹿児島へ回送中のフォッカー F27 フレンドシップが、 旧鹿児島空港(鹿児島市郡元町、1972年に新空港が開港したため廃止)に着陸しようとしたが、 当時は激しい雨が降っており、視界も9.6kmぐらいであった。 回送便は1200m滑走路の真中600mに接地し停止しようとしたが止まりきれずオーバーランし滑走路を逸脱、 滑走路の北側の50m先の海中に突っ込んでしまった。 機長(当時41歳)と副操縦士(当時26歳)のうち1名が軽傷であった。

1966年10月1日

事故発生日:西暦1966年10月1日
便名:ウエストコースト航空 956便(機体記号:N9101)
機種:ダグラス DC-9-14
死者:乗員5人乗客13人、合計18人全員が死亡。
状況:ウエストコースト航空956便墜落事故は、1966年10月1日に発生した航空事故である。
ユージーン空港からポートランド国際空港へと向かっていたウエストコースト航空956便がオレゴン州のクラカマス郡に墜落し、 乗員乗客18人全員が死亡した。 この事故はDC-9初の機体損失事故であり、 ウエストコースト航空にとっても初の人身死亡事故であった。
なお、ウエストコースト航空は1968年に運行を停止している。

1966年11月13日

事故発生日:西暦1966年11月13日
便名:全日本空輸 533便(機体記号:JA8658)
機種:日本航空機製造 YS-11-111
死者:乗員5人乗客45人、合計50人全員が死亡
状況:松山空港への着陸に失敗したため、着陸復行したが瀬戸内海沖合に墜落。
1966年11月13日、 大阪国際空港(伊丹空港)発松山空港行き全日空533便は、 午後5時45分出発予定だったが悪天候と航空券のオーバーセール(定員超過)により、 機種がフレンドシップから日本航空機製造YS-11(機体記号:JA8658)に変更され、 予定を1時間半余り遅れて伊丹空港を飛び立った。
松山空港(愛媛県松山市)へは同日午後6時35分到着予定だったが、 以上の遅れから午後8時半に到着し、 小雨が降る中で着陸態勢に入った。 同機は滑走路中央付近にいったん接地してすぐさま上昇に転じたが、 副操縦士のゴーアラウンドの無電を空港管制塔に残したまま、 午後8時32分に松山空港西方約2kmの海上に墜落した。 ...

1966年11月15日

事故発生日:西暦1966年11月15日
便名:パンアメリカン航空 708便(機体記号:N317PA)
機種:ボーイング 727-21
死者:乗員3人全員が死亡。
状況:パンアメリカン航空708便墜落事故は、 1966年11月15日に発生した航空事故。
パンアメリカン航空708便(ボーイング727-21)がフランクフルト国際空港発ベルリン・テーゲル空港行の飛行中、 目的地であるベルリン・テンペルホーフ空港から10km手前の地表に墜落し、 乗員3人全員が死亡した。 墜落現場が東ドイツであったため、 アメリカ合衆国の調査官が現場に立ち入ることをソビエト連邦が許可せず、 調査が行えなかったことから原因の特定には至らなかった。 また、機体の残骸は半分ほどはアメリカ合衆国に返還された。

1966年11月24日

事故発生日:西暦1966年11月24日
便名:TABSO 101便
機種:イリューシン Il-18V
死者:乗員乗客82人全員が死亡。
状況:ブルガリアのソフィア発東ベルリン行きのブルガリアの旅客機が、悪天候のためダイバートしていたチェコスロバキアのブラチスラヴァを離陸した直後に8キロメートル先のカルパティア山脈に激突して爆発炎上。悪天候の中での離陸強行や、操縦士が周囲の地形に馴れていなかったことなどが原因とされた。

1966年12月24日

事故発生日:西暦1966年12月24日
便名:フライング・タイガー・ライン 貨物便(機体記号:N228SW)
機種:カナディア CL-44
死者:乗員4人全員と地上の107人が死亡。地上での負傷者数50人
状況:1966年フライング・タイガー・ラインCL-44墜落事故は、 1966年12月24日に発生した航空事故である。 立川飛行場からダナン国際空港へ向かっていたフライング・タイガー・ラインのカナディア CL-44がダナン国際空港へのアプローチ中に墜落し、 乗員4人全員と地上の107人が死亡した。 この事故はカナディア CL-44による航空事故の中で死者数が最多の事故となっている。
事故機は雨と霧の中、燃料も残り少ない状態でダナン国際空港へ接近していた。 同機にはアメリカ空軍のための軍需品や貨物が搭載されていた。 前述の通り同機の燃料タンクは空に近かったため、 着陸を中止することは不可能であった。 現地時間19時15分、 同機はダナン国際空港から南に1kmの地点で木に衝突し、 そのままビンタイ村に墜落した。 この事故で乗員4人全員と地上にいた107人が死亡し、 50人が負傷した
事故原因はCFITであるとされた。 悪天候のためか事故機はグライドパスの示す高度を下回ってダナン国際空港に進入し、 このことが事故に繋がったと考えられている。

1967年2月9日

事故発生日:西暦1967年2月9日
便名:日本国内航空 851便
機種:コンベア CV-240
死者:なし(機長が重症)
状況:静岡県浜松市上空3000メートルを飛行中、 風防が破損しその衝撃で機長が胸を強打し重傷を負った。
機内の与圧されていた空気が機外に噴出したが、 飛行に影響せず名古屋空港へ緊急着陸した。
機長以外にはけがは無かった。

1967年3月5日

事故発生日:西暦1967年3月5日
便名:ヴァリグ・ブラジル航空 837便(機体記号:PP-PEA)
機種:ダグラス DC-8-33
死者:乗員19人乗客71人、合計90人中51人と地上の5人が死亡。
状況:ヴァリグ・ブラジル航空837便墜落事故は、 1967年3月5日に発生した航空事故である。 フィウミチーノ空港からモンロビア・ロバーツ国際空港へと向かっていたヴァリグ・ブラジル航空837便(ダグラス DC-8-33)がモンロビア・ロバーツ空港へのアプローチ中に墜落し、 乗員乗客90人中51人と地上の5人が死亡した。 これはリベリアで発生した航空事故の中で死者数が最多である。
837便はイタリアのフィウミチーノ空港を出発し、 リベリアのモンロビア・ロバーツ国際空港を経由してブラジルのアントニオ・カルロス・ジョビン国際空港へと向かう便であった。 837便はモンロビア・ロバーツ国際空港の滑走路04へのアプローチ中に墜落し、火災が発生した。
事故調査官は事故原因を「837便ががロケータービーコン上を通過する際に着陸復行をせず、 誤って低い高度で急速に降下したこと」であるとした。

1967年3月9日

事故発生日:西暦1967年3月9日
便名:1) トランス・ワールド航空 553便(機体記号:N1063T)乗員4人乗客21人、合計25人全員死亡。
   2) 個人所有機(機体記号:N6127V)乗員1人全員死亡。
機種:1) マクドネル・ダグラス DC-9-15
   2) ビーチ・エアクラフト バロン 55
死者:両機の乗員乗客26人全員が死亡。
状況:トランス・ワールド航空553便空中衝突事故は、 1967年3月9日に発生した空中衝突事故である。 ピッツバーグ発デイトン行きのトランス・ワールド航空553便(DC-9-15)が、 デイトンへのアプローチ中にデイトン市営空港(当時、現・デイトン国際空港)から南に29マイル (25 nmi; 47 km)離れた地点で、 個人所有のビーチクラフト バロンと空中衝突し、 両機の乗員乗客26人全員が死亡した。 ...
グレーター・ピッツバーグ空港(現:ピッツバーグ国際空港)から飛び立った553便にはコロンバス上空通過後、 航空管制よりFL200 (海抜20,000フィートほど)から3,000フィートへの降下指示が出た。 事故機は無制限空域を飛んでいたが、 デイトンのアプローチのエリアに入っていた。 事故18秒前に管制官は553便に対し、 やや右に曲がり1マイル先にVFRで進入するよう指示し、 553便のクルーも了解した。 553便が高度4,500フィート 付近を南西方向に323ノットで飛行していた所、 前方右側に北から飛んできたビーチクラフトバロンが衝突。 衝突した両機はシャンペーン郡アーバナ近郊にあるコンコードのウッドビル・パイクとメロディー・レーンの交差点の北東に墜落した。

事故発生時は両機が「見て回避する」というのが原則だった有視界飛行方式で飛行していた。 その上に管制官は事故発生の22秒前になるまでビーチクラフト機をレーダー上で確認する事は出来なかったと証言している。 管制官はその上で事故が発生した空域はレーダーで小型機を探知する事は難しいと証言していたが、 周辺のフライトチェックで原因を特定する事は出来なかった。

国家運輸安全委員会は事故調査に乗り出し、 553便の降下角度が高すぎた上に手遅れになるまでビーチクラフト機を視認出来なかった事が原因だと結論付けた。 事故当時の天候は広く散らばった薄い雲と小雨で、 視界はVFRで必要な3マイルの2倍程の 6マイル - 7マイル 程度であった。

1960年ニューヨーク空中衝突事故を受けて1961年に施行されたFARパート91.85では、 目的地の空港より30海里以内の高度10,000フィート以下の空域に速度制限を設けていた。 この事故を受けて10,000フィート以下の高度では250ノット (290 mph; 460 km/h)以下のIASで飛ぶよう義務付けられた。 また、この事故は連邦航空局が発着回数が多い空港周辺にターミナルコントロールエリア (TCA)を設けるきっかけになった。 ただし、事故が発生したデイトン国際空港周辺の空域はTCAに指定される事なく1980年代にクラスC空域に指定された。

1967年3月30日

事故発生日:西暦1967年3月30日
便名:デルタ航空 9877便(機体記号:N802E[1])
機種:ダグラス DC-8-51
死者:乗員6人全員と地上の13人が死亡。18人が負傷。
状況:デルタ航空9877便墜落事故は、 1967年3月30日にルイジアナ州ニューオーリンズで発生した航空事故である。 ニューオーリンズ国際空港を離陸し訓練飛行を行っていたデルタ航空9877便(ダグラス DC-8-51)がニューオーリンズ国際空港への最終進入中に墜落した。 乗員6人全員と地上の13人の計19人が死亡し、18人が負傷した。
CST23時14分、気象情報に関するブリーフィングが行われた。 ニューオーリンズ国際空港付近は濃霧で、視界は3km程まで低下すると予想された。 機長は右座席に着席し、副操縦士は左座席に着席していた。 0時40分、9877便は滑走路へのタキシングを開始した。 0時43分、9877便は滑走路28から離陸した。 0時47分にパイロットは滑走路01へのベースレグについて報告した。 滑走路01への着陸は第2エンジンを停止した状態で行われることとなり、 着陸後は滑走路19から離陸する予定だった。 管制官は9877便が最終進入を行うのを目撃した。 0時50分、9877便は電線に接触しながら空港手前の住宅街に墜落した。 墜落時、機体は60度近く傾いており、 操縦は副操縦士が行っていた。 墜落により複数の家屋ヒルトン複合施設が破壊された。 ヒルトンホテルには当時、36人のウィスコンシン州の高校生が宿泊していた。 この内13人が建物から投げ出されるなどして死亡した。
国家運輸安全委員会が事故調査を行った。 最終報告書では機長の監視不足とパイロットによる出力調整が不適切だったことが事故原因とされた。 これにより機体の制御が失われた。

1967年4月20日

事故発生日:西暦1967年4月20日
便名:グローブ・エア 旅客便(機体記号:N802E)
機種:ブリストル ブリタニア313
死者:乗員10人乗客120人、合計130人の内126人が死亡。負傷者は3人。
状況:事故機はドンムアン空港からバンダラナイケ国際空港、チャトラパティ・シヴァージー国際空港、カイロ国際空港を経由してユーロエアポート・バーゼル=ミュールーズ空港へと向かう旅客便であった。
チャトラパティ・シヴァージー国際空港を出発した時点で同機には乗員10人・乗客120人が搭乗していた。 予定では次にカイロ国際空港に着陸することになっていたが、 当時悪天候のため同空港は閉鎖されていた。 飛行計画によれば、 この際代替空港としてレバノンのベイルートにあるラフィク・ハリリ国際空港へと向かう予定であったが、 事故機はその代わりにキプロスのニコシアへと向かった。
しかし、ニコシアも当時雷雨に見舞われていた。 事故機はニコシアの空港の滑走路32に進入しようと試みたが、 1回目は機体の高度がグライドパスよりも高かったため失敗し、 2回目のアプローチを試みることになった。 予定ではこのアプローチが左旋回によって行われることになっていた。 しかし、1時13分に同機は低高度で旋回中に丘に墜落し、 機体は尾翼部分を除いてほぼ完全に破壊された。 この事故で乗員乗客130人中126人が死亡し、 客室乗務員1人、 乗客3人(スイス人1人・ドイツ人2人)の4人が生存した。 2020年現在、 この事故はキプロス最悪の航空事故であり、 かつブリストル ブリタニアによる航空事故の中でも最悪の事故となっている。

1967年6月23日

事故発生日:西暦1967年6月23日
便名:モホーク航空 40便(機体記号:N1116J)
機種:BAC 1-11 204F
死者:乗員4人乗客30人、合計34人全員が死亡。
状況:40便はEDT14時39分頃にエルマイラ・コーニング地域空港の滑走路24から離陸した。 5分後、40便は管制から高度16,000フィートまで上昇することを許可された。 その9分後、ペンシルベニア州のマンスフィールドから南に向かって飛行中に、 40便の尾翼の大きな破片が機体から分離して胴体から炎と煙が出ているのを複数人が目撃した。 その後40便は制御不能となり、 未舗装の道路のみが通っていた森林地域に墜落した。 地上の死傷者は出なかったものの、 この事故で40便の乗員乗客34人全員が死亡した。 事故後にニューヨークの管制がパイパー PA-23を40便の遭難地点の上空に向かわせたところ、 同機のパイロットは炎上している飛行機の残骸を視認したと報告した。
40便は91m×460mの範囲の木々をなぎ倒した。 また、40便の尾翼は墜落地点から370m離れた地点で発見された。 事故の目撃者の中には炭鉱の作業員もおり、 彼らはすぐにブルドーザーを使用して1.5マイル離れた事故現場まで2本の道路を通した。
事故直後、モホーク航空の社長はFBIによる調査を要求した。 社長はFBI長官へ宛てた電報の中で「事故の犠牲者の近親者への通知の過程で、40便に対する妨害行為を強く示唆する証拠が得られた。モホーク航空はFBIに妨害工作の可能性を調査するよう正式に要求する」と述べた。 しかし、社長はその「証拠」の内容には触れなかった。

1967年6月30日

事故発生日:西暦1967年6月30日
便名:タイ国際航空 601便(機体記号:HS-TGI)
機種:シュド・アビアシオン SE-210 カラベル Ⅲ
死者:乗員7人乗客73人、合計80人の内24人が死亡。
状況:1967年6月30日、台湾・台北発英国領香港(当時)行きタイ国際航空601便シュドアビアシオンSE-210カラベル3(HS-TGI)が、 香港・啓徳国際空港へ着陸進入中、海上に墜落した。
この事故で乗員7名、乗客73名、計80名のうち乗客24名が死亡した。
事故機は台風による強い暴風雨の中をILSアプローチで進入中であった。 機長は地上物標を探すのに注意を裂かれており、 最低高度である415ftを割り込んで降下していることに気がつかなかった。 事故当時は副操縦士が操縦していたが、 グライドスロープを80ft下回ったとき、 急に機首方位を変更して、 そのまま高い降下率に陥り、 滑走路手前の海上に墜落した。
機長は、タイ国際航空が低視程時の進入について定めた「captain monitored」の手順を厳守せず、 アプローチを十分にモニターしなかった。 副操縦士は、最低高度以下に降下した後で操縦を誤って高度を喪失した。 高度の喪失にはダウンドラフトが関与したと推測された。 事故機は1960年に製造された。
元ネタ

1967年7月19日

事故発生日:西暦1967年7月19日
便名:1) ピードモント航空 22便(機体記号:N68650)乗員5人乗客74人、79人全員が死亡。
   2) ランスエア 便名不明(機体記号:N3121S)乗員1人乗客2人、3人全員が死亡。
機種:1) ボーイング 727-22
   2) セスナ 310
死者:両機の乗員乗客82人全員が死亡。
状況:ノースカロライナ州のアシュビルの空港から離陸した旅客機と、 着陸しようとしていたセスナ機が、 空港から南東15キロメートルにあるヘンダーソンビル上空6132フィートで旅客機の胴体前部左側にセスナ機の機首が衝突し、 双方とも墜落した。 事故原因はセスナ機が進入経路を外れて旅客機の離陸上昇コースに入り込んだためであるが、 詳細については当事者死亡により解明出来なかった。 また同空港に管制レーダーが設置されておらず、 両機の接近を空港管制官が知りえなかったことも問題であった。 なお、事故の犠牲になった22便の乗客のなかには、 2週間後に合衆国海軍長官に就任予定だったジョン・マクノートンがいたため、 アメリカ国内では大きく報道された。

1967年9月5日

事故発生日:西暦1967年9月5日
便名:チェコスロバキア国営航空 523便
機種:イリューシン Il-18
死者:乗員8名乗客61人、合計69人の内、乗員4人乗客33人合計37人が死亡。
状況:1967年9月5日世界標準時午前5時10分、 チェコスロバキア(現・チェコ)・プラハ発アイルランド・シャノン経由カナダ・ニューファンドランド州ガンダー経由キューバ・ハバナ行きチェコスロバキア航空523便イリューシンIL-18D(OK-WAI)が、 ガンダー空港を離陸直後にガンダー近郊に墜落した。
この事故で乗員8名、乗客61名、計69名のうち、乗員4名、乗客33名、計37名が死亡した。
事故機は、ガンダーまでの運航は正常であり、 ガンダーにおいて給油を行った後、 最終目的地のハバナに向けて離陸した。 離陸後、事故機は非常に浅い角度でしか上昇を開始することが出来ず、 高度の維持もままならないまま滑走路端から約4000ftの地点に墜落し炎上した。 事故原因は不明である。
元ネタ

1967年10月5日

事故発生日:西暦1967年10月5日
便名:日本航空仙台乗務員訓練所所属機
機種:ビーチクラフト双発機
死者:3人(重傷1人)
状況:飛行中に突然エンジンが不調となり山形県村山市郊外に墜落、炎上。 機長は脱出に成功したものの、同乗していた訓練生3人が焼死した。

1967年11月4日

事故発生日:西暦1967年11月4日
便名:イベリア航空 062便(機体記号:EC-BDD)
機種:シュド・アビアシオン SE-210 カラベル 10R
死者:乗員7人乗客30人、合計37人全員が死亡。
状況:062便はUTC19時30分にマラガ=コスタ・デル・ソル空港を出発し、 ロンドン・ヒースロー空港へと向かった。 断続的に霧雨が降っておりやや霧もあったが、視界は概ね良好であった。
その後特に問題もなく順調に飛行し、 062便はロンドン・ヒースロー空港への着陸進入に備えた降下中に、 FL110(11,000フィート)からFL60(6,000フィート)への降下が許可された。 その約5分半後の22時02分頃、 管制により指示された高度6000ftを割り込んで降下し、 ブラックダウンの木々に衝突した後、 大きな生垣を突き破って牧草地を横切り、 巻き込まれた65頭の羊が死亡、 さらに23頭が致命傷を負った。 062便はそのまま進み、 ガレージやアッパー・ブラックダウン・ハウスの屋根の一部も破壊した。 この事故で乗員乗客37人全員が死亡した。
062便に搭載されていた燃料により、 森林に覆われた丘の中腹で小規模な火災が発生した。 また、機体の破片は062便が通過した約355ヤードの広範囲に散乱した。
墜落に至るまで降下を継続した理由は明らかにならなかった。

1967年11月6日

事故発生日:西暦1967年11月6日
便名:トランス・ワールド航空 159便(機体記号:N742TW)
機種:ボーイング 707-131
死者:乗員7人乗客29人。合計36人中1人が死亡。
状況:アメリカ合衆国・ケンタッキー州のシンシナティ・ノーザンケンタッキー国際空港で、 離陸滑走中であったトランス・ワールド航空159便(ボーイング707-131)が、 滑走中に異音を認め離陸を中止したが滑走路内で止まりきれずオーバーラン、 乗員乗客36人中1人が事故での負傷が原因で後日搬送先の病院で死亡した事故である。

1967年11月16日

事故発生日:西暦1967年11月16日
便名:アエロフロート 2230便(機体記号:CCCP-75538)
機種:イリューシン Il-18V
死者:乗員8人乗客99人、合計107人全員が死亡。
状況:事故当時、コルツォヴォ国際空港の空は高度150~170mの層状の雲に覆われ、 視界は6kmであった。 2230便は76度の方向に向かって離陸を開始した。 現地時間21時02分40秒空港のディスパッチャーに離陸することを報告した。 時速340~350km/hで滑走路の端から1,900m(離陸滑走開始地点から4,300m)の地点において高度140~150mに到達したが、 突然右に急旋回し、 地面に向かって急降下した。 その後、対気速度400km/h、垂直速度20m/sで2230便は約37度右に傾いて滑走路端から2,900mの地点の耕作地に右翼から墜落した。 機体の残骸は未舗装の道路を横切り、長さ320mの範囲に散乱した。 この事故で乗員乗客107人全員が死亡した。
機体の全てのユニットとアセンブリが完全に破壊されたため、 事故調査委員会は事故原因を特定することができなかった。 主な原因として次の2つが推測された。
  1. 第4エンジン(機体の一番右)のシステムの故障により、一時的に逆噴射状態になった。
  2. Put-1Mディレクターの計器のシステムの要素に不具合が生じ、姿勢指示器の誤表示に繋がった。
これらのいずれかが他の要因と組み合わさったことで大惨事に繋がった可能性があるとされている。

1967年11月20日

事故発生日:西暦1967年11月20日
便名:トランス・ワールド航空 128便(機体記号:N821TW)
機種:コンベア 880-22-1
死者:乗員7人乗客75人、合計82人中70人が死亡。
状況:128便はロサンゼルス国際空港を東部標準時(以降同様)17時37分に出発し、 シンシナティまでは特に問題は発生していなかった。 当初の飛行計画ではシンシナティ空港の滑走路18(現:滑走路18C)へILS方式で着陸する予定だったが、 着陸予定の滑走路の中央のマーカービーコンやグライドスロープ、 及び進入灯が使用不可になっていた。 こういった状況では本来は操縦士が滑走路を視認するまで1,290フィートの最低アプローチ高度を維持する必要があった。
20時56分、128便はアウターマーカーを通過した事を報告し、 着陸許可が出た。 クルーは降下を開始し、 着陸時の最終チェックリストの確認を開始した。 しかし、着陸進入中に高度875フィートに達した128便は、 滑走路18のセンターラインから9,357フィート手前で、 429フィート右にズレた地点の木に激突した。 生存者の証言によるとその時の衝撃はハードランディングのようだったと例えられ、 そこから複数回バウンドした後最後の衝撃が続いたとしている。 128便は滑走路から6,878フィート手前の森林で止まり、 そこで機体はバラバラになり炎に包まれた。
事故機に乗っていた82人の内、 60人は即死し、 事故後数日以内に更に10人が死亡した。 残りの12人(乗客10人乗客2人)は負傷したものの生存した。 生存者の一人によると事故機は目の前で崩壊し、 爆発する寸前に間一髪機体から降りて走って逃げたという。
国家運輸安全委員会(NTSB)が事故調査を行った。 NTSBは最終事故調査報告書で、 クルーが天候が悪化する状況だったにもかかわらず有視界飛行方式によって高度計を確認せずにそのまま着陸しようとしたパイロット・エラーが原因だと結論付けた。 当時のオハイオ州知事だったジム・ローズは事故を受けシンシナティ空港の滑走路18を閉鎖するよう命じた。 その後滑走路の使用が再開された時はNTSBの推奨に従って手前の丘に高出力の灯やグライドスロープのビーコンを設置した。

1968年2月16日

事故発生日:西暦1968年2月16日
便名:民航空運公司 010便(機体記号:B-1018)
機種:ボーイング 727-92C
死者:乗員11人乗客52人、合計63人中21人と地上の1人が死亡。
状況:1968年2月16日、民航空運公司010便は香港の旧・香港国際空港(啓徳空港、1998年廃止)から、 台北市の台北松山空港に向かっていた。 しかしながら、この機を操縦していたのは機長ではなく、 運行会社の運航担当役員であり、 正規の操縦乗員ではなかった。 彼はボーイング727の操縦資格を持ってはいたが、 商業路線のフライトライセンスを持っておらず、 完全に違法行為であった。
010便はILSに誘導されて計器進入による着陸態勢にあったが、 自機の現在位置を誤って把握していたため、 早めに高度を下げる致命的な操縦ミスをした。 機長の Stuart E. Dew は高度が低すぎることに気付いてすぐに操縦桿を引き、 ゴー・アラウンドを図ったが時すでに遅く、 地表に接触して200mほどはげしくロールし、 その後一旦は浮上したが、 空港の手前で樹木や小屋などに衝突しながら台北県林口郷に墜落、 炎上した。 松山空港の消防隊と現地に駐留していた在台米軍が直ちに救援活動に当たったが、 この事故で乗員11人乗客52人のうち乗員3人乗客18人の合わせて21人が犠牲になった。 ボイスレコーダーには、 墜落直前の機長の「Go to hell!」という叫び声が記録されている。

1968年2月29日

事故発生日:西暦1968年2月29日
便名:
機種:
死者:乗員乗客84人中83人が死亡。
状況:モスクワからクラスノヤルスクを経由してペトロパブロフスク・カムチャツキーに向かっていた便が、 ブラーツク近郊上空2万6000フィートを巡航中に燃料漏れが発生したために降下したが、 原因不明の要因で突然急降下した。 途中高度1万フィートでターボプロップエンジンが主翼から4機とも分離し機体も空中分解した。 乗客1名が奇跡的に軽傷で生還した。

1968年3月5日

事故発生日:西暦1968年3月5日
便名:エールフランス 212便(機体記号:F-BLCJ)
機種:ボーイング 707-328C
死者:乗員11人乗客52人、合計63人全員が死亡。
状況:チリのサンティアゴ発パリ行きだった当該機は、 ペルーのリマ、エクアドルのキト、ベネズエラのカラカスを経由して、 仏領グアドループのポワンタピートル近郊のルレゼ空港に着陸予定だった。 着陸の承認を受ける前のキャプテンの「空港を視認している」という報告の2分後の20時32分、 空港の南南西約12マイル約25キロメートル)のスフリエール山に墜落し、 非番の乗員3名と乗員11名を含む63名全員が死亡した。
原因は同じ島の別の町、 バステールをポワンタピートルの町と誤認したことによるパイロットミスとされたが、 事故機に搭載されていたフライト・レコーダーは必死の捜索にもかかわらず発見出来ず、 機体からも事故に直接結びつくような痕跡も確認出来なかったため、 十分な証拠も得られず、 断定は出来なかった。

1968年4月20日

事故発生日:西暦1968年4月20日
便名:南アフリカ航空 228便(機体記号:ZS-EUW)
機種:ボーイング 707-344C
死者:乗員12人乗客116人、合計128人中123人が死亡。
状況:228便はヤン・スマッツ国際空港からウィントフック・ホセア・クタコ国際空港、クアトロ・デ・フェベレイロ空港、グラン・カナリア空港、フランクフルト空港を経由してヒースロー空港へ向かう国際定期旅客便だった。 ヤン・スマッツ国際空港からは70人の乗客が搭乗しており、 ウィントフック・ホセア・クタコ国際空港でさらに46人が搭乗した。GMT18時49分、228便はウィントフック・ホセア・クタコ国際空港から離陸した。 事故当夜は新月であった。機体は650フィートまで上昇し、 水平飛行に移った。
30秒後、228便は降下を開始した。 離陸から50秒後、 228便は滑走路から5,327m離れた地表に271ノット (502 km/h)の速度で衝突した。 墜落時、機体は僅かに左に傾いた姿勢で、 4基のエンジンが最初に地面に接触した。 墜落時の衝撃により主翼内の燃料が発火し、 2ヶ所で火災が発生した。 現場は起伏の激しい場所であったため、 救助隊が到着したのは40分後のことだった。 機体前方部に着席していた9人の乗客が救助されたが、 後に4人が死亡し、死者数は123人となった。

1968年5月28日

事故発生日:西暦1968年5月28日
便名:ガルーダ・インドネシア航空 892便(機体記号:PK-GJA)
機種:
死者:乗員14人乗客15人、合計29人全員と地上の1人が死亡。
状況:1968年ガルーダ・インドネシア航空CV-990墜落事故は、 1968年5月28日に発生した航空事故である。 クマヨラン空港からアムステルダム・スキポール空港へ向かっていたガルーダ・インドネシア航空のコンベア CV-990-30A-5が、 サンタクルズ国際空港を離陸直後に墜落した。 乗員乗客29人全員と地上の1人が死亡した。 この事故はCV-990で発生したはじめての死亡事故だった。
892便はジャカルタからムンバイ、カラチ、カイロ、フィウミチーノを経由してアムステルダムへ向かう国際定期便だった。 892便は、ムンバイのサンタクルズ国際空港を夜間に離陸した。 離陸から約5分ほどで、エンジンが故障した。 機体は急降下し、ほぼ垂直な姿勢で地表に激突した。 残骸によりBilalpada村の村人1人が死亡し、数人が負傷した。
調査から、離陸後5分以内に複数、 または全てのエンジンが故障していたと判明した。 エンジン故障の原因は、 サンタクルズ国際空港での給油時に誤って航空燃料ではなくベンジンを補給したためであった。

1968年9月11日

事故発生日:西暦1968年9月11日
便名:エールフランス 1611便(機体記号:F-BOHB)
機種:シュド・アビアシオン SE-210 カラベルⅢ
死者:乗員6人乗客89人、合計95人全員が死亡。
状況:1611便はコルシカ島のアジャクシオからニース行きのフランス国内線として運行されていた。 しかし現地時間の午前10時半頃に着陸しようとしていたニースの沖合い40kmの地中海で消息を絶った。 搭乗員に生存者はいなかった。
事故の直前3分前に操縦乗員からトラブルが発生したと送信があり、 機内で火災が発生したと告げていた。 1611便の最後の通信は「このままだと、墜落する」であった。
事故機の残骸は深さ2300mの海底で発見され、 2年をかけてそのうち10トン弱が回収された。 回収された残骸から事故機は海面に急角度で衝突したことが判明し、 客室右後部から火災の痕跡が発見された。
事故から43年後の2011年、 元フランス軍軍事長官ミシェル・ラティがフランスのテレビ局TF1の番組に出演し、 「あの事故はフランス軍が誤ってエールフランス機を撃墜したのが真相だ」と 証言し。 彼は「当時フランス軍はルヴァン島のミサイルテストセンターで地対空ミサイルの発射実験を行っていて、 古い軍用機をテスト用標的として発射されるようにプログラムされていたが、 レーダー探知範囲に入ったエールフランス機に誤って発射された」 「弾頭はテスト用のダミーだったので、命中しても空中で大爆発を起こすことなくあのような墜落に至った」と語った。 これを切っ掛けとして事故原因の再調査を求める動きが起き、 2019年9月にエマニュエル・マクロン大統領によって事故関連の軍事機密を解除・公開するに至っている。

1968年11月22日

事故発生日:西暦1968年11月22日
便名:日本航空 002便(機体記号:JA8032)
機種:ダグラス DC-8-62
死者:なし。(乗員11人乗客96人、合計107人)
状況:1968年11月22日、日本航空002便は東京・羽田空港を出発し、 サンフランシスコを経由してニューヨークに向かう飛行計画であった。 当該機には乗員11名と乗客96名(うち日本人40名)が搭乗していた。
当日のアメリカ合衆国のサンフランシスコ湾上空は、 朝霧が発生しており、視程は1.5キロメートル、 霧高は90メートルであった。 002便はサンフランシスコ国際空港への着陸降下を行っていた。 002便は9時22分(日本時間10月23日2時22分)に霧を抜けたが、 操縦乗員らが下に見たのは空港の滑走路ではなく海面であった。 機長はただちに着陸復行するために機首をあげ、 エンジン出力を最大にしようとしたが間に合わず、 右車輪から海面に突入し着水した。 着水地点はサンフランシスコ空港の滑走路から5キロメートル、 サンマテオ市コヨーテ岬ヨットハーバーから500メートル沖合いの海面であった。 機体には大きな損傷はなかった。 また、降着装置の開口部から浸水したことから、 すぐに水没しはじめたものの、 海底に車輪が届く程度の水深であったため、 機体の4分の1が沈んだところで止まった。
乗客たちは救命胴衣をつけ非常口から主翼に脱出し、 そこから救命筏に乗り移った。 空港管制塔から沿岸警備隊に遭難したとの連絡が迅速に行われたため、 ただちに救助が行われ、救命筏は海岸に曳航された。 乗客たちは空港周辺のモーテルで休むことが出来た。 この事故では乗員乗客107名全員が無傷で救助された。
事故発生当初、運航乗務員が計器の数値がおかしかったと証言したことから、 計器異常が疑われた。 しかし1970年6月30日に、 運輸省航空事故調査委員会(当時)は、 原因は所定の飛行方式からの逸脱によるものであり、 この逸脱は同型式機に装備されている装置について慣熟しておらず、 使用する頻度の少なさが不適正な操作につながったとする操縦ミス(パイロット・エラー)とされた。

1968年12月12日

事故発生日:西暦1968年12月12日
便名:パンアメリカン航空 217便(機体記号:N494PA)
機種:ボーイング 707-321B
死者:乗員9人乗客42人、合計51人全員が死亡。
状況:事故当日、217便はジョン・F・ケネディ国際空港を出発し、 シモン・ボリバル国際空港へと向かっていた。 しかし、217便がカラカスに近づいていた頃、 同機は突然航空管制のレーダー画面から消失した。 217便は現地時間22時05分にカリブ海に墜落し、爆発していた。
217便の捜索はベネズエラ海軍に要請され、 同機の残骸はカラカスから11.4マイルの地点で発見された。 本事故で乗員乗客51人全員が死亡した。
機体等の捜索と回収作業にはベネズエラ海軍や民間の航空機やボートが使用された。 多くの犠牲者の遺体が鮫に食べられたとの報告もある。 本事故は翌年にビアサ742便墜落事故が発生するまでベネズエラ史上最悪の航空事故であった。
事故原因は、 カラカス市の上向きの明かりによって引き起こされた目の錯覚に起因するパイロットエラーであると考えられた。 この目の錯覚により、 パイロットは海に激突するまで降下を続けた可能性があるとされている。 一方、NTSBは事故原因は不明であると述べた。

1969年1月2日

事故発生日:西暦1969年1月2日
便名:中華航空 227便
機種:ダグラス・エアクラフト DC-3D
死者:乗員5人乗客19人、合計24人全員が死亡。
状況:1969年1月2日午後8時12分、 台湾・花蓮発同国台東経由同国高雄行き中華航空227便ダグラスC-47A-10-DK(B-309)が、 巡航中に同国Paku山に墜落した。 この事故で、乗員5名、乗客19名、計24名全員が死亡した。
事故機は、台東空港を午後7時54分に出発し、消息を絶った。 Paku山の山腹6420ft地点に墜落しているのが発見されたのは、 翌日の午後6時55分であった。 山岳地帯上空を巡航中に突然下降気流を伴った激しい乱気流に遭遇し、 高度を喪失し、山腹の木々に衝突し墜落したものと見られる。  事故機は1944年に製造された。
機体の製造メーカーおよび機種に関しては、 出展により異なっている。
ダグラス・エアクラフト DC-3D:Wikipedia
ダグラスC-47A-10-DK(B-309):事故No,19690102a
Paku山

出展サイトでも詳細がわからないのでこのような表現にしたのだろう。
調べてみたが、やはりわからなかった。

1969年1月5日

事故発生日:西暦1969年1月5日
便名:アリアナ・アフガン航空 701便
機種:ボーイング 727-113C(YA-FAR)
死者:乗員8人乗客54人合計62人の内、乗員5人乗客43人合計48名と地上の住民2名の計50名が死亡。
状況:1969年1月5日午前2時35分、 アフガニスタン・カブール発イギリス・ロンドン行きアリアナアフガン航空(本社:アフガニスタン)701便 ボーイング 727-113C(YA-FAR)が、 ロンドン・ガトウィック空港に着陸進入中、 滑走路端から約2.5Kmの地点に墜落した。
この事故で、乗員8名、乗客54名、計62名のうち、乗員5名、乗客43名、計48名と地上の住民2名の計50名が死亡し、乗員3名、乗客11名、地上の住民1名の計15名が重傷を負った。
事故当時は霧で視界は不良だった。 事故機は墜落直前まで計器着陸装置による自動操縦で進入を行っていたが、 フラップを25度に設定すべきところを誤って15度に設定したために、 自動操縦では調整しきれなくなり、 警報ランプが点灯し、 グライドスロープよりも上になりすぎたため、 機長は自動操縦を手動に切り替えた。 ところが、グライドスロープ上のコースに乗る措置をとらず、 降下率が増大したまま降下を続けたため引き起こしが間に合わず惨事となった。 視界不良の天候下で地上物標を参考にしようとしすぎた結果、 計器のモニターが疎かになったことがグライドスロープ以下になっても降下し続けた原因であるとされた。

1969年1月6日

事故発生日:西暦1969年1月6日
便名:アレゲニー航空 737便(機体記号:N5825)
機種:コンベア CV-580
死者:乗員3人乗客25人、合計28人中11人が死亡。
状況:737便はワシントンD.C.をペンシルベニア州のハリスバーグ、 ブラッドフォード、 エリーを経由してミシガン州デトロイトへ向かう便として離陸した。 同便はブラッドフォードへの着陸進入を開始するまでは順調に飛行していた。 天候は曇りで視界は1.5マイルであり、 雪が降ったりやんだりしていた。 空港から10マイルのところで、 737便は滑走路32ではなく滑走路14への計器進入を要請し承認された。 同便は空港から5海里の位置で真下の梢と接触し、 雪で覆われたゴルフ場へ裏返しで墜落した。

1969年1月18日

事故発生日:西暦1969年1月18日
便名:ユナイテッド航空 266便(機体記号:N7434U)
機種:ボーイング 727-22C
死者:乗員6人乗客32人、合計38人全員が死亡。
状況:離陸直後の18時18分30秒ごろ、第1エンジンの火災警報のベルが鳴った。 クルーは標準手順に則り消火用レバーを操作して直ちにこのエンジンを停止させた。 このことで第1発電機も停止し、 残った動作中の発電機が1基しかない状態となった。 管制塔に対して無線で、 「第1エンジンの火災警報が鳴ったので停止させた。(ロサンゼルスに)戻りたい」と連絡した(18時19分5秒)。 これが管制塔との最後の交信となった。 その5秒後に管制塔のレーダー上から当該機のトランスポンダ信号が消失した。 このとき機上では残っていた第2エンジンの発電機のサーキットブレーカが動作し、 3基あるエンジンにそれぞれ1基ずつ備えられた、 都合3基の発電機の全部が動作しなくなった。 さらにそのおよそ10秒後、 管制塔レーダー上の機影は速度を増しながらやや左に旋回をはじめたところで消失した。
コックピット内では操縦の継続と電源の復旧のための努力がなされた。 当該機種は発電機が全部動作しなくなった事態に備えてバッテリーを電源とするバックアップシステムが搭載されているが、 これが起動しなかったか、あるいは起動できなかった。 姿勢指示器への電源が絶たれて読み取ることができず、 また当時の天候は小雨と霧のため月明かりも無く、 地表の目印となるものが見いだせない状態のなかで自機を真直ぐな状態に保つためにはどのような操縦操作が必要なのかが分からなくなった。 その結果コントロールを失い、 最終的には深い機首下げ姿勢で海に突っ込み、 機上の全員が死亡した。

1969年2月18日

事故発生日:西暦1969年2月18日
便名:ホーソーンネバダ航空 708便(機体記号:N15570)
機種:ダグラスC-49J(DC-3)
死者:乗員3人乗客32人合計35人全員が死亡
状況:1969年2月18日午前5時10分、 アメリカ・ネヴァダ州ホーソーン発同国カリフォルニア州バーバンク経由同国同州ロングビーチ行きホーソーンネバダ航空 708便 ダグラスC-49J(DC-3)(N15570)が、 巡航中にカリフォルニア州ローン・パインの西約20kmの地点に墜落した。 この事故で、乗員3人乗客32人、合計35人全員が死亡した。
事故機は、ホーソーンを有視界飛行方式で午前3時50分に出発し、 午前5時10分、ローン・パインの西約20km、 ホイットニー山東斜面標高11770ft地点の、 垂直に切り立った岩壁に衝突した。 機体の大半は岩壁を500ft滑り落ちた所で止まっていた。 事故機が消息を絶った後、地上と上空からの捜索活動が行われたが、 深い積雪、捜索期間を通じて垂れ込めた低い雲、 極めて険しい地形などに阻まれ、残骸が発見されたのは、 1969年8月8日のことであった。
事故機は、 無線航法援助施設が設置されていない険しい山岳地帯を計器飛行状態の天候下で運航したために、 定められた飛行経路を逸脱した。 本件事故を契機にFAAは、遭難機捜索用のビーコンの仕様を策定した。 事故機は1943年に製造された。

1969年2月24日

事故発生日:西暦1969年2月24日
便名:遠東航空 104便(機体記号:B-2009)
機種:ハンドレページ ダートヘラルド
死者:乗員4人乗客32人、合計36人全員が死亡。
状況:遠東航空104便のフライトプランは、 高雄空港から台湾島を縦断飛行して台北松山空港に向かうというものであった。 機材はハンドレページ・ダートヘラルド(イギリス製双発ターボプロップ機、機体記号:B-2009、製造番号(msn):157)であった。
当日は旧暦の正月である春節の連休が終わった直後であった。 104便は定刻よりも13分遅れの午後12時03分に高雄空港を離陸した。 しかし10分後、 機長からエンジントラブルで緊急事態にあるとの通信があり、 その2分後には機長は台南県帰仁郷(現在の台南市帰仁区)の水田に緊急着陸を試みる。 しかし機体は用水路に墜落して爆発炎上、 乗員4名乗客32名の合わせて36名全員が死亡した。 事故原因は右エンジン(ロールス・ロイス製ダート)に深刻な故障が発生して高度を維持できなくなったためであり、 空港に引き返すこともできなかったとされる。

1969年3月16日

事故発生日:西暦1969年3月16日
便名:ビアサ 742便(機体記号:YV-C-AVD)
機種:マクドネル・ダグラス DC-9-32
死者:乗員10人乗客74人、合計84人全員と地上の71人が死亡。(その他、地上の住民100名以上が重軽傷)
状況:ビアサ742便は、 離陸後滑走路端付近に航空当局への反対派が抗議のために設置していた高さ50mの電線と接触しマラカイボのラ・トリニダード地区に墜落、 搭乗者84人全員と地上の71人が死亡した。 そのほか、100人以上が怪我をし、 墜落とそれによる火災で20軒以上の家屋と多数の自動車が被害を受けた。
事故原因は滑走路に沿って設置された温度センサーが故障のため誤った情報を伝え、 その情報をもとに計算したことにより過積載(5,000ポンド以上超過)となった。 結果、本来より長く地上走行し上昇角が小さくなり、 電線を飛び越える高度に届かなかった。 事故の2日後、 ベネズエラの公共事業大臣は滑走路が短かったことも事故の一因であると述べた。

1969年3月20日

事故発生日:西暦1969年3月20日
便名:アラブ連合航空 不定期便(機体記号:SU-APC)
機種:イリューシン Il-18D
死者:乗員7人乗客98人、合計105人中100人が死亡(重症者5人)。
状況:事故機はサウジアラビアのジッダからエジプトのアスワンへ向かう国際線の非定期旅客便であり、 巡礼に抽選で当選したイスラム教徒が搭乗していた。 同機がアスワン国際空港への着陸を試みた頃は早朝で暗く、 砂が吹き付けていたため視界が2~3kmまで狭くなっていた。 事故機は2度着陸に失敗した後3度目の着陸を試みたが、 機体が右にバンクしてアスワン国際空港の滑走路の左側に衝突した。 右主翼が引き裂かれ、 燃料が流出して同機は炎上した。
パイロットが滑走路灯をはっきりと確認せずに最低安全高度以下まで降下したことが事故原因とされた。 また、パイロットが適切な休憩を取らずに長時間乗務していたこともその一因であると考えられている。

1969年4月2日

事故発生日:西暦1969年4月2日
便名:LOTポーランド航空(機体記号:SP-LTF)
機種:アントノフAn-24B
死者:乗員5人乗客48人、合計53人全員死亡。
状況:1969年4月2日、 ポーランド・ワルシャワ発同国クラクフ行きLOTポーランド航空のアントノフAn-24B(SP-LTF)が、 クラクフの南方約80kmの同国ザウォジャ村のポリカ山(標高1368m)の標高約1200m地点に墜落した。 この事故で、乗員5名、乗客48名、計53名全員が死亡した。
事故当時の天候は吹雪で濃霧も出ていた。 事故機はクラクフを通り過ぎ、通常の経路を大幅に逸脱していたが、 事故原因は明らかにならなかった。 事故機は1966年に製造された。

1969年4月21日

事故発生日:西暦1969年4月21日
便名:インディアン航空(機体記号:VT-DOJ)
機種:フォッカーF-27フレンドシップ200
死者:乗員4人乗客40人、合計44人全員が死亡した。
状況:1969年4月21日午後2時59分、 東パキスタン(現バングラデシュ)・クルナに向かっていたインディアン航空のフォッカーF-27フレンドシップ200(VT-DOJ)が、 着陸進入中にクルナに墜落した。 この事故で、乗員4名、乗客40名、計44名全員が死亡した。
事故機はクルナへの着陸進入中に極度のスコールと激しい下降気流のエリアに突入した。 パイロットは低高度のまま、 そのエリアを通過しようと試みたが、 激しい下降気流でコントロールを喪失し、墜落した。 事故機は1962年に製造された。

1969年6月4日

事故発生日:西暦1969年6月4日
便名:メキシカーナ航空 704便(機体記号:XA-SEL)
機種:ボーイング 727-64
死者:乗員7人乗客72人、合計79人全員が死亡。
状況:704便はモンテレイへ向けて現地時間の午前7時02分にメキシコシティを出発した。 フライトは着陸体制に入るまで特に問題はなく、 1500ft-1600ft/分 (460m-490m/分)で降下を始めた。 デル・ノルテ国際空港へのアプローチ中にクルーは管制官に天候と空港の状況を問い合わせ、 管制側からは視界が150m程で霧と小雨があり、 そして空港には他の航空機がいない事の報告を受けた。 その後クルーはシエネガ・デ・フロレスの無線標識局が稼働しているかを問い合わせたが、 停電の為稼働していないとの回答を得た。 その後704便はこの標識局から発せられていたビーコンとよく似たビーコンを何故か受信しているとの連絡をした後、 空港を視認したと連絡した。 これが704便からの最後の通信だった。
その後機体は空港から20km程離れたシエラ・デル・フライレ山に激突し、 搭乗していた79人全員が死亡した。 事故機は墜落の5分前から過大な降下率と飛行速度となり、 管制の指示であった左旋回での待機も右旋回で行なうなど不可解な行動を取っていた。

1969年6月24日

事故発生日:西暦1969年6月24日
便名:日本航空 90便(機体記号:JA8028)
機種:コンベア CV-880-22M-3
死者:乗員5人中3人が死亡。(2名が重傷)
状況:15時01分、事故機はこの日2回目の訓練飛行を終えて駐機場へ到着した。 記録によると、 事故機の燃料計と副操縦士席側の姿勢指示器に若干の表示不良が確認されていた。 しかし、飛行に問題をきたすような不具合はエンジン始動から離陸まで確認されなかった。 この飛行では、副操縦士席に機長が機長席に訓練生Aが着席しており、 航空機関士は機関士席に、 2人の訓練生はオブザーバー席と客室の座席に着席していた。 予定では、3回のタッチアンドゴー訓練を行うこととなっていた。
15時37分、90便のパイロットは管制官に気象情報を聞いた。 管制官は、240度から15ノットの風が吹いており、 突風は20ノットであると伝えた。 16時01分、パイロットは滑走路32Rからの離陸準備ができたと報告し、 管制官は離陸許可を出した。
離陸に際して、機長は第4エンジンの出力を下げ、 訓練生Aは緊急手順を実行した。 90便は6,500フィートほど滑走した後に離陸したが、 50フィートほど上昇したところで機体が30度ほど右へヨーイングし始めた。 機体は第4エンジンが地面に接触するまで傾き続けた。 機体は右にスリップしながら墜落し、 数秒後に火災が発生した。
燃え盛る機体から機長と航空機関士、訓練生2人の4人が脱出したが、 訓練生2人はその後死亡した。 機長と航空機関士は一命をとりとめたが重傷を負った。 航空機関士は病院に搬送され、 皮膚移植などの手術を行い、退院には4ヶ月を要した。 残りの訓練生1人の遺体はコックピットの残骸から発見された。 墜落の衝撃と火災により機体は完全に破壊された。 火災が鎮火したのは1時間後の事だった。 初期の報告では第2エンジンと第3エンジンの故障により操縦不能に陥ったことが原因だと伝えられた。

1969年9月9日

事故発生日:西暦1969年9月9日
便名:1) アレゲニー航空 853便(機体記号:N7374J)乗員4人乗客78人、合計82人全員死亡。
   2) 個人所有機 乗員1人全員が死亡 機種:1) ダグラス DC-9-31
   2) パイパー PA-28-140 アーチャー
死者:両機の乗員乗客83人全員が死亡。
状況:アレゲニー航空853便は、 ボストンとセントルイスをボルチモア、シンシナティ、インディアナポリス経由で結ぶ定期便だった。 853便は現地時間の15時15分にインディアナポリスへ向けシンシナティの空港を離陸し、 IFRでインディアナポリスへ向かっていた。 インディアナポリスの管制官は853便にシェルビービルのVORを6,000フィート (1,800 m)の高度で通過後2,500フィート (760 m)へ高度を下げるよう指示した。 その後機体は280度の方向へ進んだ。
一方その頃、民間のパイパーPA-28が南東方向へ飛行していた。 この機体はVFR方式の飛行計画を提出していて、 計画上では3,500フィート (1,100 m)の巡航高度が示されていた。 このPA-28にはトランスポンダが搭載されておらず、 航空管制との連絡を取っていなかった。 また、レーダースコープにも同機は認識されていなかったとされている。
2機は相対速度350 mph (300 kn; 560 km/h)で衝突した。 衝突により853便の尾翼部分が破壊され、 制御を失った機体はひっくり返りそのまま400 mph (350 kn; 640 km/h)の速度で大豆畑に墜落した。
一方のパイパーは左翼の付け根付近にダメージを受け、 こちらもそのまま墜落している。

1969年9月20日

事故発生日:西暦1969年8月20日
便名:1) エアベトナム 便名不明(機体記号:XV-NUG)[69]
   2) アメリカ空軍 艦上戦闘機(機体記号:67-393)
機種:1) ダグラス DC-4
   2) マクドネル F-4E ファントム II
死者:エアベトナム機の乗員乗客75人中 74人と地上の2人が死亡。
状況:1969年9月20日午後4時、 南ベトナム(当時)サイゴン(現ホーチミン)から同国ダナン空軍基地に向かっていたエア・ヴェトナムのDC-4(XV-NUG)とアメリカ空軍のマクダネルF-4Eファントム2(67-393)が、 ダナン空軍基地への着陸進入中、 高度約300ftで空中衝突し、エア・ヴェトナム機が墜落した。 この事故でエア・ヴェトナム機の乗員6名、乗客71名、計77名のうち、 乗員6名、乗客69名、計75名と地上の住民2名の合計77名が死亡し、 乗客2名が負傷した。 アメリカ空軍機の乗員2名は、1名が脱出し軽傷、 もう1名も機体を着陸させるのに成功し無事であった。
エア・ヴェトナム機は滑走路17Lに着陸予定であったが、 アメリカ空軍機に出された滑走路17Rへの着陸許可を自機への指示と勘違いし誤った進入を行なっていた。 衝突によりエア・ヴェトナム機は右水平尾翼を失い、 着陸復行を試みたが途中で操縦不能となり墜落した。

1969年9月21日

事故発生日:西暦1969年9月21日
便名:メキシカーナ航空 801便(機体記号:XA-SEJ)
機種:ボーイング 727-64
死者:乗員7人乗客111人、合計118人中27人が死亡。
状況:801便はシカゴ・オヘア国際空港からベニート・フアレス国際空港へ向かう国際定期旅客便だった。 乗客の多くはアメリカ人観光客だった。 現地時間17時20分頃、 801便はベニート・フアレス国際空港の滑走路23LへILS進入を行っていた。 機体は突然高度を失い始め、 滑走路から1.5km地点で前方部と前脚が鉄道用の盛り土に激突し、 浮かび上がった。 パイロットはエンジン出力を上げたが801便は制御不能に陥り、 滑走路手前の沼地に墜落した。 衝撃により機体は3つに分断され、 複数の乗客が機外に投げ出された。 乗員乗客118人中26人が死亡し、91人が負傷した。 うち重傷者5人を含む56人が病院に搬送され、 1人がその後死亡した。 生存者の1人である客室乗務員の女性は1986年に発生したメキシカーナ航空940便墜落事故に巻き込まれ死亡した。
残骸から、ギアが降ろされた状態で、フラップが30度に設定され、 水平尾翼は10.25度の機首上げ位置に設定されていたことが判明した。 フライトデータレコーダー(FDR)は回収され、 ワシントンに送られた。 しかし、事故の2日前に技術者が正規の手順に従って設置しなかったためデータは記録されていなかった。 また、同じ技術者がコックピットボイスレコーダー(CVR)を取り外した後、 代わりの物を設置していなかったためCVRは未搭載の状態だった。 そのため事故原因は特定できなかった。

1969年9月26日

事故発生日:西暦1969年9月26日
便名:LAB航空
機種:ダグラス DC-6B(CP-698)
死者:
状況:1969年9月26日、ボリビア・サンタクルス発同国ラパス行きロイド・アエロ・ボリビアーノ(LAB航空)のダグラス DC-6B(CP-698)が、巡航中にラパスの南東約176km地点に墜落した。 この事故で乗員5人乗客69人、合計74人全員が死亡した。 事故機はチョケタンガ山の約15500ft地点に墜落した。 事故原因は不明である。 事故機には、当時ボリビア国内で最強を誇っていたサッカーチームの選手全員が搭乗していた。 事故機は1951年に製造された。

1969年10月20日

事故発生日:西暦1969年10月20日
便名:全日本空輸 104便(機体記号:JA8708)
機種:日本航空機製造 YS-11A-213
死者:なし(乗員4人乗客49人、合計53人の内43人が負傷、負傷者の内8名が重傷)
状況:1969年10月20日、 鹿児島空港(旧)を離陸した全日本空輸104便はYS-11で運航されていた。 午後2時ごろに宮崎空港を日向灘方向から自動誘導着陸方式で進入し、 東側から着陸滑走中、 過走帯末端から逸脱し滑走路端200m離れた山内川の土手で欄座(???)し、 機首と主翼が大破した。 この事故で乗員4名乗客49名のうち乗員乗客43名が負傷し、 そのうち8名が重傷だった。 負傷者の中には新婚旅行中のカップルも含まれていた。 また空港は一時閉鎖されたが、 事故機と反対側の滑走路は使用可能であるとして数時間後には再開された。

1969年11月20日

事故発生日:西暦1969年11月20日
便名:ナイジェリア航空 825便
機種:ヴィッカース VC-10-1101
死者:乗員乗客87人全員が死亡。
状況:1969年11月20日午前8時30分、 イギリス・ロンドン発イタリア・ローマ経由ナイジェリア・カーノ経由同国ラゴス行きナイジェリア航空825便BAC VC-10(5N-ABD)が、 ラゴス空港へ着陸進入中、空港の北約13Kmの地点の林に墜落した。 この事故で乗員11名、乗客76名、計87名全員が死亡した。 事故調査委員会は事故原因としてクルーの不注意と先入観を指摘したが、同時に疲労が原因となった可能性を否定できないとした。

1969年12月3日

事故発生日:西暦1969年12月3日
便名:エールフランス 212便(機体記号:F-BHSZ)
機種:ボーイング 707-328B
死者:乗員11人(21人)乗客51人(41人)、合計62人全員が死亡。()内はWikipedia
状況:212便はアルトゥーロ・メリノ・ベニテス国際空港から4つの空港を経由してパリ=オルリー空港へと向かう便であった。 212便は現地時間19時02分にベネズエラのシモン・ボリバル国際空港の滑走路08Rから離陸した。 その1分後、 212便は高度約3,000フィートまで上昇してから海へと墜落し、 機体は水深160フィートの海中へと沈んだ。 この事故で乗員乗客62人全員が死亡した。
フランス航空事故調査局(BEA)が事故調査報告書を公表しなかったため事故原因は不明のままである。 BEAの調査に関する文書はフランス国立公文書館において19880360/49と19880360/50として分類されており、 事故から60年後の2029年まで公開されない予定であった。 しかし2017年7月、 複数のパイロット組合ALTER、SNGAF、SNOMAC、SNPL エールフランス(ALPA、SNPNC、SPAF、UNAC、PNC UNSA)が文書の早期公開を要求した。 212便の墜落に関しては、 事故当時近くにいたアブロ 748との衝突を避けようとしたことによる操縦不能や爆弾による爆破、 空間識失調、機内火災、エンジンの故障、 燃料への異物混入など様々な陰謀説が唱えられている。 BEAとパリ警察によって「軍事機密」に分類された文書は機内における爆発物の爆発の可能性を調査するものであったと推定されている。 もしこれらのいずれかが確認されれば、 212便の墜落事故はフランスの民間航空に対する初のテロ行為となる。

1969年12月8日

事故発生日:西暦1969年12月8日
便名:オリンピック航空 954便
機種:ダグラス DC-6B
死者:乗員乗客90人全員が死亡。
状況:954便はクレタ島のハニアとアテネを結ぶ国内定期旅客便であった。 アテネへのアプローチ中、 954便は降着装置を格納した状態で高度約2,000フィート地点のパネイオ山(????)に衝突した。 事故当時の天気は雨であり、 また強風が吹いていた。 この事故で乗員乗客90人全員が死亡した。
事故原因は、 954便がILSアプローチ中に適切な航路から外れて最低安全高度を下回るまで降下したことであるとされた。
この事故は約36年後にヘリオス航空522便墜落事故が発生するまでギリシャ史上最悪の航空事故であった。 また、DC-6による事故として、 かつオリンピック航空による事故としては2024年現在も最悪の事故となっている。

1969年12月14日

事故発生日:西暦1969年12月14日
便名:1) 全日本空輸 547便(機体記号:JA8743)乗員4人乗客41人、死者負傷者なし
   2) 読売新聞社 取材機(機体記号:JA5022)乗員1人乗客なす、死者負傷者なし
機種:1) 日本航空機製造 YS-11A-213
   2) ビーチクラフト C-50 ツイン・ボナンザ
死者:なし
状況:乗員4人と乗客41人が搭乗する全日本空輸547便のYS-11型機が、 兵庫県淡路島上空で読売新聞社所有のビーチクラフト機と接触。 幸い両機とも大阪空港に無事に着陸した。 この接触事故で死傷者はいなかった。
接触によりビーチクラフト機は方向舵が利かなくなり、 プロペラが曲がる損傷。 全日空機は事故で左主翼の先端を接触で失ったが、 製造中の主翼を流用して1か月後に復帰した。 なお、全日空機は退役後、 香川県のさぬきこどもの国で保存展示されている。

1969年12月22日

事故発生日:西暦1969年12月22日
便名:エアベトナム 便名不詳
機種:ダグラス DC-6B
死者:乗員乗客70人のうち約60人と地上の約30人を含め90人前後が死亡。
状況:サイゴン発ニャチャン行きの国内便で、 ニャチャンの手前24km付近で操縦席付近が爆発。 機体は炎上しながらニャチャン空港の滑走路上空を低空で飛行した後、 住宅地へ墜落した。 乗員乗客70人のうち10人程度は墜落した機体から脱出することができたが、 住宅地にあった小学校の学童など約30人が犠牲となった。

1970年1月13日

事故発生日:西暦1970年1月13日
便名:ポリネシアン航空 208B便
機種:ダグラスC-47B-45-DK
死者:乗員3人乗客29人、合計32人全員が死亡。
状況:1970年1月13日午前2時54分、 西サモア独立国(現・サモア独立国)・アピア発アメリカ領サモア・パゴパゴ行きポリネシアン航空 208B便 ダグラスC-47B-45-DK(5W-FAC)が、 離陸直後、西サモア・ファレオロ国際空港の沖に墜落した。
この事故で乗員3人乗客29人、合計32人全員が死亡した。
事故機は、離陸約1分後にウインドシアと降雨を伴った乱気流に遭遇し、 ピッチ角を増した。 事故機は失速して海上に墜落し、爆発炎上した。 風向の変動により、回復不可能な失速に陥ったことが原因とされた。 事故機は1945年に製造された。

1970年1月14日

事故発生日:西暦1970年1月14日
便名:フォーセット航空
機種:ダグラスRC-54V(DC-4)
死者:
状況:1970年1月14日、ペルー・トルヒーヨ(Trujillo、トゥルヒージョ)発同国フアンフイ(Juanjui)行きフォーセット航空のダグラスRC-54V(DC-4)(OB-R-776)が、 巡航中に同国プマコナ山に墜落した。 この事故で、乗員4人乗客24人、合計28人全員が死亡した。 事故機は標高約10500ft地点に墜落した。
推定原因としては、 パイロットインコマンドの精神状態が判断と能力に悪影響を与えたこと、 パイロットインコマンドによるヒューマンエラーがあったこと、 航空交通管制に誤りがあったこと、 悪天候であったこと、 航路上の航法援助施設に故障があったことが挙げられた。 事故機は1945年に製造された。

1970年1月28日

事故発生日:西暦1970年1月28日
便名:アエロフロート航空
機種:アントノフAn-24B
死者:乗員乗客計34名全員が死亡。
状況:1970年1月28日、 ソビエト連邦ロシア連邦共和国(現・ロシア連邦)・バタガイに向かっていたアエロフロート航空のアントノフAn-24B(CCCP-47701)が、 着陸進入中にバタガイから40kmの地点に墜落した。 この事故で乗員乗客計34人全員が死亡した。
事故機は、降下を開始したのが時期尚早であったため丘に墜落した。 事故機は1965年に製造された。

1970年2月6日

事故発生日:西暦1970年2月6日
便名:アエロフロート 便名不明(機体記号:CCCP-75798)
機種:イリューシン Il-18V
死者:乗員7人乗客85人、合計92人全員が死亡。
状況:アエロフロート航空のイリューシンIL-18(SSSR-75798)が、 ウズベキスタン・サマルカンド空港に着陸進入中、標高1500mの山腹に墜落した。 この事故で乗員乗客92人全員が死亡した。 悪天候のため捜索隊の到着が事故の3日後になり、生存者も全て凍死していた。
事故直前、管制官が誤って事故機の位置を実際よりも8Km空港寄りに伝えたために、 パイロットが早く降下を開始したこと、 加えてパイロットが規定の進入方式を守らなかったために、 安全な高度が維持できなかった。

1970年2月10日

事故発生日:西暦1970年2月10日
便名:東京航空
機種:富士重工業 FA-200 エアロスバル(機体記号:JA3141)
死者:搭乗者3人全員が死亡
状況:かりふぉるにあ丸遭難事故取材のためにフジテレビがチャーターした航空機が、 千葉県沖に不時着水し行方不明に。 原因は杜撰な飛行計画のために燃料が枯渇し不時着水を余儀なくされたこととされた。

1970年2月15日

事故発生日:西暦1970年2月15日
便名:ドミニカーナ航空 603便(機体記号:HI-177)
機種:マクドネル・ダグラス DC-9-32
死者:乗員5人乗客97人、合計102人全員死亡。
状況:603便はサントドミンゴ近郊にあるラス・アメリカス国際空港とプエルトリコのサンフアンにあるルイス・ムニョス・マリン国際空港を結ぶ国際線であった。 現地時間の18時30分にラス・アメリカス国際空港を離陸した603便は2分後に右エンジンが停止。 クルーは右エンジンが停止した事を伝えた上で緊急事態を宣言。 すぐに引き返そうとするも、今度は左エンジンも停止。 操縦不能となった機体は高度を徐々に下げ、空港から3キロ(5km)ほど南にあるカリブ海に墜落。 97人の乗客及び5人の乗員は全員死亡した。

1970年2月21日

事故発生日:西暦1970年2月21日
便名:スイス航空 330便
機種:コンベア CV-990-30A-6(HB-ICD)
死者:乗員9人乗客38人、合計47人全員が死亡。
状況:1970年2月21日午後1時15分(時刻については午後1時34分との情報もある)、 スイス・チューリッヒ発イスラエル・テルアビブ行きスイス航空330便コンベアCV-990-30A-6(HB-ICD)が、 チューリッヒ近郊で墜落した。 この事故で、乗員9人乗客38人、合計47人全員が死亡した。
離陸9分後にパイロットは客室与圧に異常が発生したことと空港へ引き返していることを管制官に報告し、 次いで、後部貨物室での爆発が疑われる旨も報告した。 空港へ引き返す途中で、事故機は、電力を喪失し、 航法のための計器類も使えなくなった。 コックピット内には煙が充満し、森に墜落した。
事故調査の結果、 客室後方に仕掛けられた爆弾が離陸直後に爆発したことが分かった。 パレスチナの過激派によってイスラエルの住所に宛てて送られた小包の中に高度の変化で起爆する爆弾が収められていたものと見られている。 なお、同じ日にフランクフルト発ウィーン行きのカラベルも離陸後に機内に仕掛けられた爆弾が爆発したが、 この便は無事に着陸している。 事故機は1962年に製造された。

1970年3月14日

事故発生日:西暦1970年3月14日
便名:Transportes Aereos(パラエンス航空輸送)
機種:フェアチャイルド FH-227B(PP-BUF)
死者:乗員5人乗客35人、合計40人のうち、乗員4人乗客34人、合計38人が死亡。
状況:ブラジル・ベレンに向かっていたParaense Transportes Aereos(パラエンス航空輸送)のフェアチャイルド FH-227B(PP-BUF)が、 着陸進入中ベレン沖合の海上に墜落した。 この事故で、乗員5人乗客35人、合計40人のうち、乗員4人乗客34人、合計38人が死亡した。
事故機はベレン空港への着陸進入中で、 ベースレッグ上を降下中に滑走路の手前の800mのグァジャラー湾に墜落した。 事故当時の天候は嵐であった。 事故機は1967年に製造された。

1970年4月1日

事故発生日:西暦1970年4月1日
便名:モロッコ航空(Royal Air Maroc)
機種:シュドアビアシオンSE-210カラベル3
死者:乗員6人乗客76人、合計82人のうち、乗員5人乗客56人、合計61人が死亡。
状況:1970年4月1日午前8時16分、 モロッコ・アガディールから同国カサブランカに向かっていたモロッコ航空(Royal Air Maroc)のシュドアビアシオンSE-210カラベル3(CN-CCV)が、 着陸進入中にカサブランカ近郊に墜落した。 この事故で、乗員6人乗客76人、合計82人のうち、乗員5人乗客56人、合計61人が死亡した。
事故機は着陸進入中に高度約500ftでコントロールを喪失し、 滑走路の手前約9.7km地点に墜落した。 事故当時は霧に覆われていた。墜落の衝撃で機体は大きく2つに割れた。
事故機は1960年に製造された。

1970年4月21日

事故発生日:西暦1970年4月21日
便名:フィリピン航空 215便
機種:ホーカシドレーHS-748-209 Srs.2(PI-C1022)
死者:乗員4人乗客32人、合計36人全員が死亡。
状況:フィリピン・カウアヤン発同国マニラ行きフィリピン航空215便ホーカシドレーHS-748-209 Srs.2(PI-C1022)が、 巡航中にマニラの北約120kmの山岳地帯に墜落した。 この事故で、乗員4人乗客32人、合計36人全員が死亡した。
事故機は10500ftを巡航中に後部ラバトリー(トイレ・洗面所)で爆発が発生し、 機体の後部が分離して墜落した。
事故機は1968年に製造された。

1970年5月2日

事故発生日:西暦1970年f5月2日
便名:ALM アンティリアン航空 980便
機種:マクドネル・ダグラス DC-9-33CF
死者:乗員6人乗客57人、合計63人中乗員1人、乗客22人合計23人が死亡。
状況:1970年5月2日午後3時49分、 アメリカ・ニューヨーク州ニューヨーク発オランダ領西インド諸島セント・マーテン行きアンティリアン航空 980便(但し機材及び運航乗務員はオーバーシーズ・ナショナル航空からリースを受けた)980便DC-9-33CF(N935F)が、 アメリカ領ヴァージン諸島サン・クロワの東北東約30マイルの海上に墜落した。 この事故で、乗員6人乗客57人、合計63人中乗員1人、乗客22人合計23人が死亡した。
国家運輸安全委員会(NTSB)によって調査が行われた。 報告書では、燃料の管理不十分や、 気象条件や複数の混乱によってパイロットが注意散漫になったことが事故原因とした。 主に、燃料消費率の誤算、燃料ゲージの誤読、 および着陸時に残ると予想した燃料量の誤りが燃料を枯渇させたと述べた。 NTSBは、「この事故の原因は、燃料が無くなるまで空港への着陸を行わず、代替空港にも向かわなかったこと」だとした。
また、着水前後で乗員同士での話し合いが足りなかったために、 犠牲者を増やす要因となったと述べた。 報告書では、緊急着陸および脱出のチェックリストに「乗客へ警告する」こと、 パブリック・アドレスを使用すること、 古いタイプのシートベルトを段階的に廃止し新しいものにすることを提言した。 ...

980便はジョン・F・ケネディ国際空港から通常通りに離陸し、 カリブ海上空を飛行していた。 その後、管制官から10,000フィート(3,000m)までの降下許可を得たが、 プリンセス・ジュリアナ空港の天候が悪く、 視界もあまりないことを知らされた。 機長は予定通りにプリンセス・ジュリアナ空港へ着陸することにし、 暫くすると管制官が空港の天候が回復したと告げた。

980便は最初の進入で滑走路を視認できず、着陸復航を行った。 2度目の進入は滑走路との位置が合わず、 3度目は機体が高すぎ着陸できないと判断して復航した。 天候と燃料の状況確認をした後、 乗員はセント・トーマス島へのダイバートを決断した。 この時点で、乗員は、 計算した燃料残量と実際の残量に食い違いがある可能性について気づいた。 乗員は、セント・トーマス島よりさらに近くにあるセント・クロイ島への着陸を試みようとしたが、 結局燃料が足りなかった。 機長は管制官に不時着水すると伝え、 カリブ海への着水準備を開始した。 現地時間15時49分に機体は不時着水した。 不時着水を行うというパイロットの報告は付近を飛行するパンアメリカン航空454便なども聞いていた。

パイロットは着水前にシートベルトサインを付けたが、 客室の何人は気付かなかったか、理解しなかった。 その結果、乗員乗客の一部は着水時に立っていたかシートベルトをしていなかった。

機体は、着水後も変形はしなかったが、 約5,000フィートの海中に沈んだ。 パイロットはどちらも生き残っていた。 ヘリコプターによる生存者の救出は、 着水から約1時間半後に開始され、 救助開始から1時間後に最後の生存者である副操縦士が救出された。 最終的に、乗員1人と乗客22人が死亡した。

救助活動は、沿岸警備隊、海軍、海兵隊によって行われた。 パンアメリカン航空の航空機が救助ヘリを現場まで案内した。

1970年5月23日

事故発生日:西暦1970年5月23日
便名:中華航空 802便
機種:ボーイング707
死者:地上にいた空港職員1人が死亡。
状況:諸般の事情で大幅に到着の遅れていた台北発大阪経由東京行きが、 大阪を通過し滑走路閉鎖中の羽田空港C滑走路に特例として4時に着陸することになった。 しかし、滑走路で標識塗り替え作業を行っていた作業員に管制塔が連絡していなかった上に、 航空機からもスモッグの影響で作業員の姿を確認できず、 そのまま着陸進入を続行。 そのため空港事務所のライトバンに旅客機の主脚が接触、 運転席にいた職員が圧死した。 旅客機のほうは無事に着陸し搭乗者11人に怪我はなかった。

1970年7月3日

事故発生日:西暦1970年7月3日
便名:ダン・エア・サービス (Dan-Air Services) 1903便
機種:デ・ハビランド コメット4B
死者:乗員7人乗客105人、合計112人全員死亡。
状況:イギリスのマンチェスターからスペインのバルセロナ向かっていたチャーター便が、 着陸アプローチ中に空港から65キロメートル手前の山に激突し爆発炎上した。 事故機の航法装置が故障し、 航路を東に約25キロメートル逸脱していたことに操縦士も管制官も気付かなかったことが事故原因であった。 管制官はレーダースクリーン上の輝点のいずれかが事故機のものか認識していなかったため、 事故機を左旋回させて輝点の動きで見極めようとしたが、 実際には事故機はレーダーの範囲外にありスクリーン上には映っていなかった。 このため管制官は他機の機影を事故機と勘違いして降下を承認。 これを受けて事故機は高度を下げたが、 地表が雲に覆われていたため激突寸前まで危険な降下をしている事に気が付かなかった。 事故後、バルセロナには二次レーダーが導入され、 トランスポンダーを搭載した航空機については機影を取り違えることはなくなった。

1970年7月5日

事故発生日:西暦1970年7月5日
便名:エア・カナダ 621便
機種:マクドネル・ダグラス DC-8-63
死者:乗員9人乗客100人、合計109人全員死亡。
状況:カナダのトロント空港での着陸復行中に、 副操縦士が抗揚力装置であるスポイラーをアームド状態にしようとしたが、 誤って立ててしまった。 そのため失速して滑走路上で激しくバウンドし、 第4エンジンが脱落。機体は着陸復航のために上昇旋回しようとしたが、 今度は右主翼が爆発炎上し操縦不能に陥り、墜落した。
事故調査委員会は「飛行中にグランドスポイラーが展開しないような改修が必要である」と指摘したが、 アメリカ合衆国の連邦航空局 (FAA)は改修工事は行わず、 運航乗務員に注意喚起をする表示装置をつけただけであった。 1972年にモスクワで離陸中にスポイラーを立ててしまい墜落する同様の事故(日本航空シェレメーチエヴォ墜落事故)が発生したことで、 ようやく改修工事が行われた。

1970年7月27日

事故発生日:西暦1970年7月27日
便名:フライング・タイガー・ライン 45便
機種:マクドネル・ダグラス DC-8-63AF
死者:乗員4人全員が死亡
状況:アメリカ軍占領下の沖縄・那覇で発生したフライング・タイガー・ラインの貨物ジェット機の墜落事故である。 東京の羽田空港を9時29分に離陸したアメリカの航空貨物会社・フライング・タイガー・ライン45便は、 琉球政府(当時アメリカの占領下であった沖縄)の那覇空軍基地に向けて飛行していた。 45便は、当時世界最大級の民間向け貨物機であったDC-8-63AF貨物機(機体記号N785FT)で運航されており、 最終的には当時ベトナム戦争の最中であった南ベトナムのダナン基地に向かうフライトプランであった。
同便はPAR進入により那覇空軍基地の滑走路18へ最終進入中であった11時36分に滑走路から670メートルの海上に墜落した。 この事故により運航乗務員4名が犠牲になった。 なお貨物機のために乗客は搭乗していなかった。 事故機は計器飛行方式で沖縄に向かっていたが、 最終進入中の段階で豪雨を伴った低く垂れ込めた雲の中から抜けた直後に海上に墜落したものであった。
NTSBの調査によれば、 事故機は進入中に熱帯性の局地的な豪雨に遭遇しており、 視程は1マイル(およそ1.6キロメートル)にも満たない状態であったが、 豪雨をもたらした雲を事故機が通過した瞬間に、 周囲の明るさが10 - 100倍にもなり、 パイロットが一時的に盲目状態となり、 操縦が困難になったことが原因と結論した。

1970年8月6日

事故発生日:西暦1970年8月6日
便名:パキスタン国際航空
機種:フォッカー F-27 フレンドシップ200(AP-ALM)
死者:乗員4人乗客26人、合計30人全員死亡。
状況:1970年8月6日午前2時17分、 パキスタン・ラーワルピンディから同国ラホールに向かっていたパキスタン国際航空フォッカーF-27フレンドシップ200(AP-ALM)が、 ラーワルピンディの南東約20kmの地点に墜落した。 この事故で乗員4人乗客26人、合計30人全員が死亡した。
事故機は午前2時14分、ラーワルピンティ(ベナジル・ブット国際空港と考えられる)を離陸した。 離陸約3分後、左主翼を下げ、高速で墜落した。 事故当時空港周辺は悪天候で、 雷を伴う豪雨でガストを伴った強風が吹いていた。
事故機は1960年に製造された。

1970年8月9日

事故発生日:西暦1970年8月9日
便名:LANSAペルー航空
機種:ロッキード 188A エレクトラ(OB-R-939)
死者:乗員乗客100人のうち99人と地上の住人2人の合計101人が死亡。
状況:1970年8月9日午後3時、 ペルー・クスコから同国リマに向かっていたLANSAペルー航空のロッキード188Aエレクトラ(OB-R-939)が、 クスコを離陸直後に墜落した。 この事故で乗員10人乗客90人、合計100人のうち、 重傷を負った副操縦士を除く乗員9人乗客90人、合計99人と地上の住民2人の合計101名が死亡した。
事故機は離陸滑走中に右翼第3エンジンに故障が発生し、 上昇旋回中に空港近くの丘に墜落した。

1970年8月12日

事故発生日:西暦1970年8月12日
便名:中華航空 206便(機体記号:B-156)
機種:日本航空機製造 YS-11
死者:乗員5人乗客26人、合計31人中14人が死亡。
状況:中華航空206便(機体は日本航空機製造YS-11双発ターボプロップ機、機体記号B-156)は、 花蓮から台北に向かっていた。 206便は当時、悪天候に見舞われており、 そのため台北・松山空港への着陸アプローチに失敗、 空港の西側にある山林に墜落した。 一説には圓山飯店(台北で著名な大型ホテル)近くの林に接触しながら墜落したという。
事故機には乗員5名、乗客26名の合計31名が搭乗していたが、 この事故で14名が死亡、17名が負傷した。

1970年8月29日

事故発生日:西暦1970年8月29日
便名:インディアン航空
機種:フォッカー F-27 フレンドシップ400(VT-DWT)
死者:乗員5人乗客34人、合計39人全員が死亡。
状況:インド・シルチャルから同国グワハティに向かっていたインディアン航空フォッカーF-27フレンドシップ400(VT-DWT)が、 離陸直後に同国Kumbhirgram(カンバールグラム)から約19kmの地点に墜落した。 この事故で乗員5人乗客34人、合計39人全員が死亡した。
事故機は、シルチャル空港を離陸直後に丘に墜落した。 パイロットはシルチャル上空でセクターの最低安全高度まで上昇しないままグワハティへの直行飛行を継続した。
事故機は1967年に製造された。

1970年9月2日

事故発生日:西暦1970年9月2日
便名:アエロフロート 3630便
機種:ツポレフ Tu-124(CCCP-45012)
死者:乗員乗客37人全員が死亡。
状況:3630便が、 高度27000ftを巡航中にコントロールを喪失して、 ソビエト連邦ウクライナ共和国(現・ウクライナ)・ドニプロペトロフシク近郊に墜落した。 この事故で乗員乗客37人全員が死亡した。

1970年9月22日

事故発生日:西暦1970年9月22日
便名:フリーライフ(機体記号:N2079)
機種:ロジェ気球
死者:乗員3人全員が死亡。
状況:気球による大西洋横断飛行中に空気を加熱するシステムが故障し、 救助を要請する内容の交信を最後に消息を絶った。
捜索によってゴンドラの部品が発見されたものの、 3人は行方不明となっている
フリーライフ(Free Life:登録番号 N2079)は1970年に大西洋横断飛行に挑戦して失敗した気球である。 1970年9月20日にアメリカ合衆国ニューヨーク州から出発したが、 30時間後装置の故障で遭難し、 3人の乗員は行方不明になった。

気球で大西洋を横断するという冒険を思いついたのは、 ロドニー・アンダーソンとその妻のパメラ・ブラウンで、 パメラは親族にケンタッキー州知事やKFCの経営者をもつ女性である。 大西洋横断後にその経験を書いた本を出版して、 冒険にかかった費用を回収しようという計画であった。 経験豊富なイギリス人気球乗りのマルコム・ブライトンが雇われた。 ブライトンはフリーライフの飛行が100回目の飛行になるパイロットで、 ヨーロッパで多くの熱気球を製作した経験を持っていた 。

1970年10月2日

事故発生日:西暦1970年10月2日
便名:ゴールデンイーグル航空 108便
機種:マーチン4-0-4(N464M)
死者:乗員3人乗客37人、合計40人のうち、乗員2人乗客30人、合計32人が死亡した。
状況:1970年10月2日午後1時、 アメリカ・カンザス州ウィチタ発同国コロラド州デンヴァー経由同国ユタ州ローガン行きゴールデンイーグル航空(Golden Eagle Aviation)108便マーチン4-0-4(N464M)が、 巡航中にコロラド州シルバー・プルームの西約17kmの地点に墜落した。
この事故で乗員3人乗客37人、合計40人のうち、乗員2人乗客30人、合計32人が死亡した。 ...
事故機は、ウィチタ州立大学のフットボールチームとスタッフをユタ州ローガンまで運ぶためにジャック・リチャーズ航空機会社(Jack Richards Aircraft Company)がGolden Eagle Aviationからチャーターした2機のマーチン4-0-4のうちの1機であった。 両機とも運航乗務員はゴールデンイーグル航空(Golden Eagle Aviation)の乗務員であり、 事故機の副操縦士はゴールデンイーグル航空(Golden Eagle Aviation)の社長が勤めた。

両機はオクラホマ州オクラホマシティーからフェリーされた後、 カンザス州ウィチタで乗客を搭乗させ、 給油のための経由地デンヴァーに向けて出発した。 事故機がデンヴァーに向けて巡航中に副操縦士が客室を訪れた際に、 数名の乗客がデンヴァーからローガンを飛行する際は、 景色の良いルートを飛行してはどうかと助言をした。 事故機がデンヴァーに到着したのは午前11時19分頃であり、 両機は給油などのサービスを受けた。

その間、事故機の副操縦士は景色の良いルートを検討するためにこのセクションの航空路図を数枚購入した。 もう1機のマーチン4-0-4であるN470Mは、 事前に予定していたフライトプラン通りにデンヴァーに向けて離陸した。

事故機は副操縦士がパイロットフライングとして左席に座り、 午後0時29分、デンヴァー・ステープルトン国際空港を離陸した。 事故機は谷に抜けるために僅かに南に旋回し航空路を外れた。 事故機はUSハイウェー6のやや南をハイウェーに沿いにラブランド・パス(Loveland Pass)に向けてジョージタウン(Georgetown)とシルバー・プルーム(Silver Plume)を通過して飛行しようとした。 ジョージタウン(Georgetown)の標高は8512ftでシルバー・プルーム(Silver Plume)は9118ftであった。 谷底の標高はその後も上昇し続け、 ラブランド・パス(Loveland Pass)では11990ftに達して上昇し続けた。 Dry Gulch近くを飛行中に、副操縦士は、 おそらく事故機が前方のロッキー山脈分水界を超えることが出来ないことに気付き、 右旋回を開始した。 旋回の後、機長が操縦を交代し左旋回を開始したが、 機体が振動し始めた。機長は機首を下げたところ、 31度の左バンク、 4度の降下角でTrelease山(標高12447ft)の標高10800ft地点の木々に衝突した。 木々は425ftにわたって切り倒された。

事故調査報告書は、運航乗務員が前方の障害となる地形を回避するために、 高度を上げることも、 コースを引き返すこともしなかったことを推定原因に指摘した。 また、事故に関する顕著な要因として、 事故機が渓谷の上空に到達した際、 5165ポンド過積載であったこと、 デンバー-ローガン間の飛行ルート選定の際の飛行計画立案が事実上欠如していたこと、 運航乗務員にマーチン4-0-4の性能や限界に対する知識が不足していたこと(同型機での飛行経験が機長には123時間、副操縦士には30時間しかなかった)などが指摘された。

事故機は1952年に製造された。

1970年11月14日

事故発生日:西暦1970年11月14日
便名:サザン航空 932便
機種:マクドネル・ダグラス DC-9-31(N97S)
死者:乗員4人乗客71人、合計75人全員が死亡。
状況:1970年11月14日午後7時36分、 ノースカロライナ州キンストンからウェストバージニア州ハンティントンに向かっていた国内便が、 着陸進入中に着陸進入中に最低降下高度 (MDA) よりも低く降下したため滑走路手前に激突した。 なお、犠牲者にはハンティントンにあるマーシャル大学アメリカンフットボールチームの選手36名とコーチングスタッフ9名(5名?)が含まれていた。
事故機は、午後6時38分キンストンを出発し、 ハンティントンアプローチコントロールとは午後7時23分に交信を開始した。 管制官はハンティントン・トライステート空港の滑走路11へのローカライザーアプローチを許可した。 午後7時34分、事故機はアウターマーカー通過を管制官に報告し、 着陸許可を受けた。 事故当時の天候は霧と小雨で雲は低く垂れこめていた。 事故機は最低降下高度(MDA)以下に降下して、 滑走路の手前約1.6kmの丘の木々に衝突して墜落し、炎上した。 滑走路が目視出来ない悪天候下の非精密進入において、 最低降下高度以下に降下したことが、推定原因とされたが、 この降下の理由について事故調査委員会は、 気圧高度計を使用すべきところを電波高度計を使用したためか、 あるいは気圧高度計が故障したためか決定出来なかった。 なお、副操縦士がコールアウトを適切に行わなかったことや機長が進入の間、 自動操縦の使用を継続したこともあわせて指摘された。
事故機は1969年に製造された。

1970年11月27日

事故発生日:西暦1970年11月27日
便名:キャピトル・インターナショナル航空 C2C3/26便(機体記号:N4909C)
機種:ダグラス DC-8-63CF
死者:乗員10人乗客219人、合計229人中、乗員1名乗客46名、合計47人が死亡。
状況:1970年11月27日午後5時5分頃、 アメリカ・ワシントン州タコマのマコード空軍基地発アラスカ州アンカレッジ経由東京(横田基地)経由南ベトナム(現・ベトナム)・カムラン米空軍基地行きキャピトル・インターナショナル航空 C2C3/26便DC-8-63CFが、 アンカレッジ国際空港を離陸時にオーバーランした。 この事故で、乗員10人乗客219人、合計229人のうち、 乗員1名乗客46名、合計47人が死亡した。
アメリカの軍事航空輸送部隊(Military Airlift Command:MAC)のチャーター便であった事故機は、 アンカレッジ国際空港で離陸滑走中にエアボーン出来ずにオーバーランし、 木製の塀、ILS設備、深さ12ftの排水溝に衝突し炎上した。
事故機は、離陸滑走中に離陸に必要な速度を得ることが出来なかったためオーバーランした。 運航乗務員は、V1(離陸決心速度)に達するまで加速が足りないことに気付かなかった。 主脚のブレーキシステムが作動(油圧ブレーキの故障によるものかパーキングブレーキが不意に作動したことによる)しており、 車輪がロックした状態であった。 事故当時、滑走路は一部凍結していた。
事故機は1969年に製造された。

1971年1月18日

事故発生日:西暦1971年1月18日
便名:バルカン・ブルガリア航空 130便
機種:イリューシンIL-18D(LZ-BED)
死者:乗員8人乗客39人、合計47人のうち、乗員7人乗客38人、合計45人が死亡。
状況:1971年1月18日午後3時49分、 フランス・パリ発スイス・チューリッヒ経由ブルガリア・ソフィア行き、 130便がチューリッヒ・クローテン空港へ着陸進入中に空港付近に墜落した。
この事故で乗員8人乗客39人、合計47人のうち、乗員7人乗客38人、合計45人が死亡した。
事故機のパイロットは、パリを離陸前に、 悪天候のためチューリヒを経由しないことを決定したが、 離陸後にチューリヒの天候が改善したとの報告を受けたため、 予定を変更してチューリヒに向けて飛行した。 着陸進入はRVR1000mの低視程下で行われた。 事故機はミドルマーカーでグライドパスの右下にずれたため、 パイロットは修正操作を行った。 しかし、左主翼端と脚が地上に接触して墜落した。
事故機は1966年に製造された。

1971年1月29日

事故発生日:西暦1971年1月29日
便名:1) トランス・オーストラリア航空 592便
   2) CPエア 301便
機種:1) ボーイング 727-76(機体記号:VH-TJA)
   2) ダグラス DC-8-63(機体記号:CF-CPQCF-CPQ)
死者:なし、負傷者もなし。(両機の登場者240人全員が生存)
状況:現地時間21時29分に、 トランス・オーストラリア航空592便は滑走路16までのタキシング許可を管制官から受けた。 一方で、21時30分20秒、CPエア301便が滑走路16への計器着陸進入を許可され、 乗員はアウター・マーカーで再度報告するよう指示された。 301便は着陸を許可され、 592便は誘導路で待機していた。 301便が滑走路の端を通過したことを確認し、 592便のパイロットは滑走路16に進入し待機した。 着陸した301便が滑走路の終端に近づくと管制官は「…誘導路を右折し、121.7で交信せよ(…take taxiway right-call on 121.7)」と伝えた。 しかし、301便はその場で右旋回し、 滑走路上を592便の方向へ直進し、 誘導路Tとの交差点で停止してしまった。
管制官は301便が旋回を終了したことを視認し、592便に離陸許可を出した。 301便のパイロットたちは、 地上管制官と交信するため、 周波数を121.7に切り替えており、 592便に離陸許可が出されたことに気付かなかった。 しばらくして、301便の機長が着陸灯が接近してくるのに気付き、 推力をあげ滑走路から出ようとした。 一方、592便のパイロットは離陸速度の131ノットに達するまで301便に気付かなかった。 機長は、離陸を中断するには距離が近すぎると判断し、 オーバー・ローテーションに注意しながら離陸を継続した。 離陸時に、 592便の主脚と胴体中央部の右下側が301便の垂直尾翼上部に衝突した。 301便のパイロットは、衝突があったという報告は受けたものの、 大きな振動などがなかったため、 駐機場へ向かった。 592便は衝突により油圧を1系統失ったものの22時16分、 滑走路16への緊急着陸に成功した。

1971年5月23日

事故発生日:西暦1971年5月23日
便名:アビオジェネックス航空
機種:ツポレフTu-134A(YU-AHZ)
死者:乗員乗客計83人の中、客室乗務員3人乗客75人、計78人が死亡。乗員3人乗客1人、計4人が重傷。
状況:1971年5月23日午後8時頃、 イギリス・ロンドンからユーゴスラビア(現:クロアチア)・リエカに向かっていたアビオジェネックス航空のツポレフTu-134A(YU-AHZ)が、 リエカ空港に最終進入中滑走路に墜落した。
この事故で乗員乗客計83人のうち、客室乗務員3人、乗客75人、計78人が死亡し、運航乗務員3人、乗客1人、計4人が重傷を負った。
事故機はILSに従ったアプローチを行っていたが、 滑走路端から4Km、 高度300mの地点で激しい雨と乱気流に遭遇し、 アプローチ経路から逸脱した。 パイロットはビジュアルアプローチに切り替えてアプローチを継続して針路を修正し、 滑走路に正対することが出来たが、 高度がグライド・パスよりも高かったので、 スロットルを絞り機首を下げる操作を行った。 事故機はそのまま滑走路にたたきつけられ、爆発炎上した。
死者の多くは墜落の衝撃ではなく、 火災による一酸化炭素中毒、 あるいは一酸化炭素が発生したことによって救出活動が遅れたことによるものであった。 また墜落直前のパイロットの操作は激しい雨によって発生した光学的屈折による錯覚(滑走路が実際よりも近く見え、高過ぎると錯覚する)に基づくものと推測された。

1971年6月6日

事故発生日:西暦1971年6月6日
便名:1) ヒューズ・エア・ウエスト 706便(機体記号:N9345)乗員5人乗客44人、合計49人
   2) アメリカ海兵隊(機体記号:151458)乗員2人
機種:1) マクドネル・ダグラス DC-9-31
   2) マクドネル F-4B ファントムII
死者:706便:乗員5人乗客44人、合計49人全員が死亡。
   海兵隊機:乗員2人中1人が死亡。
状況:カリフォルニア州ロサンゼルス発ユタ州ソルトレークシティー経由ワシントン州シアトル行きフューズ・エアー・ウエスト706便は、 ロサンゼルス国際空港を現地時間の午後6時02分に離陸した。 一方のアメリカ海兵隊所属のF-4B ファントムII戦闘機は、 ネバダ州リノ近郊のファロン基地を午後5時16分に離陸し、 カリフォルニアのエルトロ海兵隊基地に向けて有視界飛行していた。
706便が巡航高度33,000フィートにむけて離陸上昇中であった午後6時11分に、 15,150フィートで2機はほぼ直角で空中衝突した。 ファントムIIの垂直尾翼が706便の操縦席の左下方を突き破り、 右翼が客室を切り裂いてしまった。 空中衝突した地点はロサンゼルスのダウンタウンから北東30km離れたサン・ガブリエル山脈上空であった。
706便はフィッシュキャニオンに激突して大破・炎上したため生存者がいなかった。 また、ファントムIIのパイロットはキャノピーが外れず機体と運命をともにしたが、 同乗していたレーダー迎撃士官はパラシュートで脱出することに成功し、 ただ1人の生存者であった。 ...

NTSBは、両機の外部監視と回避操作に怠慢があったとしながらも、 回避操作が時間的に難しかったことも認めた。 また、海兵隊機が航空管制センターから進入許可を受けないまま空域内に侵入していたことやトランスポンダーが故障して周囲が認識しにくい状態であったことなどが指摘された。 この事故を契機に軍用機の大部分は計器飛行方式で飛行するようになった。

1971年6月7日

事故発生日:西暦1971年6月7日
便名:アルゲニー航空(USエアーの前身)485便
機種:コンベア CV-580(N5832)
死者:乗員3人乗客28人、合計31人のうち乗員2人乗客26人、合計28人が死亡。
状況:1971年6月7日午前9時49分、 アメリカ・コネティカット州グロートン発、 同国同州ニューヘイヴン行きアルゲニー航空(USエアーの前身)485便コンベアCV-580(N5832)が、 ニューへイヴン空港へ着陸進入中に滑走路の手前に墜落した。
この事故で乗員3人乗客28人、合計31人のうち乗員2人乗客26人、合計28人が死亡した。
事故機は、 非精密計器進入中に滑走路の手前約4890ft地点の海辺のコテージの列に衝突して墜落した。 機長が、悪天候下を進入中に適切な前方の視程あるいは滑走路の視認を欠いたまま、 定められた最低降下高度以下に意図的に降下させたことが事故原因とされた。 機長は最低降下高度到達を告げた副操縦士の報告を無視して、 降下率と速度を維持した。 しかし事故調査によっても、 定められた運航手順と高度制限を機長が無視した動機は明らかにならなかった。
事故機は1956年にコンベア440として製造され、 1967年9月にコンベア580に改造された。

1971年7月3日

事故発生日:西暦1971年7月3日
便名:東亜国内航空 63便 ばんだい号(機体記号:JA8764)
機種:日本航空機製造 YS-11A-217
死者:運航乗務員2人、客室乗務員2人、乗客64人合計68人全員が死亡。
状況:ばんだい号墜落事故は、 1971年7月3日に函館空港(北海道函館市)に着陸直前であった東亜国内航空のYS-11旅客機が、 函館北方の横津岳(亀田郡七飯町)に墜落した航空事故。 乗客・乗員68人全員が死亡した。
事故原因については航空計器の誤読によるパイロットミスなど様々な説が唱えられたが、 確定されるまでには至らなかった。 ...

1971年7月25日

事故発生日:西暦1971年7月25日
便名:アエロフロート航空
機種:ツポレフ Tu-104B(SSSR-42405)
死者:乗員乗客130人のうち97人が死亡。
状況:1971年7月25日、 ソ連(当時)ノボシビルスク発同国イルクーツク経由同国ブラディボストーフ行きのアエロフロート航空のツポレフTu-104B(SSSR-42405)が、 イルクーツク空港に着陸進入中墜落した。 この事故で乗員乗客130人のうち97人が死亡し、乗員8人乗客25人、合計33人が救助された。
事故機はアウターマーカー通過時に管制塔から右にコースの修正が必要なことを指摘され、 修正操作を行ったが、 修正が大きすぎたため逆に左に旋回を始めた。 その間降下率が過大となり、 滑走路の手前約150mの地点に接地、 左の主脚が脱落し機体は左に横転し炎上した。
事故調査委員会は、事故の推定原因として、 パイロットの未熟な操縦技術と気圧高度計が実際の高度よりも高い高度を表示していたことを挙げた。

1971年7月30日

事故発生日:西暦1971年7月30日
便名:1)全日本空輸 58便(機体記号:JA8329)
   2)航空自衛隊
機種:1)ボーイング 727-281(機体記号:92-7932)
   2)ノースアメリカン F-86F セイバー(機体記号:92-7932)
死者:全日空機の乗員乗客162人全員が死亡。自衛隊機の乗員1人は脱出した(地元住民1人が負傷)
状況:全日空機雫石衝突事故は、 1971年(昭和46年)7月30日(金曜日)に日本で発生した航空事故である。
岩手県岩手郡雫石町上空を飛行中の全日本空輸(全日空)の旅客機と航空自衛隊の戦闘機が空中衝突し、 双方とも墜落した。 自衛隊機の乗員は脱出に成功したが、 機体に損傷を受けた旅客機は空中分解し、 乗客155名と乗員7名の計162名全員が死亡した。 自衛隊機の乗員1人は脱出して命をとりとめた。 当時日本国内の航空事故としては最大の犠牲者数を出した事故であり、 ANAの三大事故に数えられる。
   •  羽田沖墜落事故
   •  松山沖墜落事故
   •  全日空機雫石衝突事故(本件)

1971年7月30日

事故発生日:西暦1971年7月30日
便名:パンアメリカン航空 845便(機体記号:N747PA)
機種:ボーイング 747-121
死者:なし。(乗員19人乗客199人中、重軽傷者29人)
状況:1971年7月30日15時28分、 845便は管制官の許可を受け、滑走路01Rから離陸滑走を開始した。 速度が充分に出ていないまま滑走路端が急速に近づいて機体は浮上したものの、 その際に主脚を進入灯に衝突させたため、 衝突音とともに床を突き破って構造材が客室に飛び込んで来た。 機長は管制官に対し緊急着陸の許可を求め、 燃料を洋上投棄した後、 緊急着陸した。
乗客2人が衝突時に重傷を負い、緊急脱出時にも27人が負傷し、 そのうち8人が重傷を負った。

あああ

1971年8月3日

事故発生日:西暦1971年8月3日
便名:東亜国内航空 おき号
機種:日本航空機製造 YS-11
死者:なし
状況:広島空港で片側エンジンのみを使った離陸の訓練中、 エンジンコントロールに失敗。 滑走路を100mオーバーランして砂地にのめり込む。

1971年8月28日

事故発生日:西暦1971年8月28日
便名:マレーヴ・ハンガリー航空
機種:イリューシン IL-18(HA-MOC)
死者:乗員9人乗客25人、合計34人のうち、乗員9人乗客23人、合計32名が死亡。
状況:デンマーク・コペンハーゲンに向かっていたMalev Hungarian Airlines(マレーヴ・ハンガリー航空)のイリューシンIL-18(HA-MOC)が、 コペンハーゲン空港に着陸進入中にコペンハーゲン近郊のSaltenholm島(サルトホルム?)沖の海上に墜落した。
この事故で、乗員9人乗客25人、合計34人のうち、乗員9人乗客23人、合計32名が死亡した。
計器進入中に定められた最低高度以下に降下したことが事故原因とされた。
事故機は1961年に製造された。

1971年9月4日

事故発生日:西暦1971年9月4日
便名:アラスカ航空 1866便(機体記号:N2969G)
機種:ボーイング 727-193
死者:乗員7人乗客104人、合計111人全員が死亡。
状況:アメリカ・アラスカ州アンカレッジ発同国・アラスカ州ジュノー経由同国・ワシントン州シアトル行きの1866便が、 経由地の州都ジュノーに着陸進入中、 空港の西約30Kmのチルカット山岳地帯の標高750mの渓谷の斜面に墜落した。 アラスカ州からワシントン州に向かっていた同機が経由地の州都ジュノーに着陸進入中、 空港の手前の山岳地帯の斜面に激突した。 この事故で乗員7名、乗客104名、計111名全員が死亡した。
航法装置の誤った指示により、 パイロットが実際よりも空港近くに来ていると誤認し降下を開始したことが事故原因とされたが、 具体的にどの計器が誤表示をしていたかは特定できなかった。 なお、事故当時、事故機のパイロットがこの空域に迷い込んだ小型機との交信を管制官から依頼されており、 そちらに気を取られて進入時に定められた手順のいくつかを省略した結果誤認に気付かなかったこと、 また、天候が悪く地上が視認できなかったことも重なった。 この事故によりアラスカ州では同年の航空機事故による犠牲者数が自動車による交通事故の犠牲者数を上回ったという。 また、アメリカ国内で発生した単独の航空事故としては、最多の死者数を更新する航空機事故となった。 死者には日本人乗客が1人含まれていた。

1971年9月6日

事故発生日:西暦1971年9月6日
便名:パンインターナショナル 112便(機体記号:D-ALAR)
機種:BAC 1-11 515FB
死者: 乗員6人乗客115人、合計121人(122人?)中22人(21人?)が死亡。
状況:112便はドイツのハノーファーからハンブルクを経由してスペインのマラガへ向かうチャーター便だった。 ハンブルクでは57人の乗客が搭乗し、搭乗者数は122人となった。 CEST18時18分、 112便はハンブルグ空港滑走路34からの離陸を開始した。 離陸決心速度(V1)到達後、 パイロットはエンジン温度の上昇に気付いたが、離陸は継続された。 1,000フィートへの上昇中、 左エンジンが停止し、続いて右エンジンも停止した。 パイロットはエンジンの再始動を試みたが、推力は回復しなかった。 そのため、パイロットはハンブルク空港から約4.5kmほどにあるE45号線のアウトバーン 7への緊急着陸を決断した。 機長は後のインタビューで、エンジンが低下してから緊急着陸まで42秒しかなかったと話した。 降下率が高かったため着陸時の衝撃が大きく左主脚が破損した。 パイロットはブレーキを掛けて路上に留まろうとしたが、 建設中の陸橋の橋脚に激突してコックピットが機体から分離し、 胴体はそのまま滑って分解し炎上した。 この事故で21人の乗客と1人の乗員が死亡した。 事故後の火災による煙はハンブルクの中心部からでも確認できた。
事故現場には60台の救急車、11台の消防車と警察と軍のヘリコプターが急行した。 また、280以上の警察官も駆けつけ、救助に当たった。 機長と副操縦士は事故を生き延びた。 しかし、副操縦士の女性は1987年5月31日にセスナ サイテーションの墜落事故により死亡した。 ...
ブラウンシュヴァイクの連邦航空局から調査官が現場に派遣され、 機体の残骸はブラウンシュヴァイクに輸送された。 エンジンは解体され、検査が行われた。 調査から、水メタノール噴射装置[註 2]用のタンク5個のうち、 2つに蒸留水ではなくジェット燃料(Jet A-1)で満たされていたと判明した。 このためエンジンがオーバーヒートし停止した。

事故後、キール地方裁判所にて2度の裁判が行われ、 パンインターナショナルの電気技師と整備士にそれぞれ1,500マルクの支払いを命じる判決が出された。

1971年9月11日

事故発生日:西暦1971年9月11日
便名:東亜国内航空
機種:ヒューズ・ヘリコプターズ、ヒューズ500
死者:乗客1人死亡
状況:死者42人を出した三重県南部の土砂災害で読売テレビがチャーターし取材中、 ミカン畑の運搬用ケーブルに接触、 三重県熊野市波田須駅の南方200mの斜面へ墜落。

1971年9月13日

事故発生日:西暦1971年9月13日
便名:中国人民解放軍(機体記号:256)
機種:ホーカー・シドレー HS121 トライデント 1E
死者:乗員乗客9人全員が死亡。
状況:毛沢東共産党中央委員会主席に対する暗殺計画が失敗したため、 林彪共産党中央委員会副主席はソビエト連邦に向けて逃亡したものの、 モンゴル人民共和国ヘンティー県に墜落した。 ⇒ 林彪事件参照

1971年10月2日

事故発生日:西暦1971年10月2日
便名:英国欧州航空 706便(BEA)
機種:ビッカース ヴァンガード951(機体記号:G-APEC)
死者:乗員8人乗客55人。合計63人全員が死亡。地上での負傷者数1人。
状況:706便が、 飛行中に圧力隔壁が破損して空中分解し、 乗員乗客63人全員が犠牲となった。 原因は706便に使用されていた機体が、 設計ミスによって圧力隔壁に構造的欠陥を抱えていたためであった。
706便はヴァンガード951で運行されており、 ロンドンのヒースロー空港を離陸し、 オーストリアのザルツブルクに向けてベルギー上空巡航高度19,000フィートを順調に飛行していた。 しかし、現地時間午前11時10分ごろ、 ブリュッセル航空管制へ706便から操縦不能に陥ったと緊急遭難通信が入り、 まっ逆さまに墜落しつつあるとの報告があった。 706便はそのまま垂直に急降下してベルギーのウェスト=フランデレン州アールセル近くに激突し、 大破炎上した。 搭乗していた63人全員が犠牲になったほか、 近くの道路を走っていた乗用車の運転手1人も飛来してきた破片で負傷した。
706便の墜落現場よりも手前で、 胴体後部にある水平安定板と昇降舵の残骸が発見され、 空中分解が事故の引き金であったことが判明した。 圧力隔壁と胴体を接合していた金属板が48センチメートルも腐食しており、 圧力隔壁にも穴が空いていたことから、 この部分が客室の与圧に耐え切れなくなり、 706便運行中に客室内の空気が一度に流出したことによる風圧で水平安定板と外壁が吹き飛ばされ、 水平尾翼も崩壊したことから回復不能に陥ったと推測された。 金属板の腐食の原因はトイレの汚水漏れと推測されたが、 確定はされなかった。 また、圧力隔壁が崩壊した場合に機体後部は内部からの与圧空気に耐えられないという欠陥があったことも判明した。

なお、事故機のような腐食を当時の検査方法では見つけられなかったことが判明し、 当時の運行会社が保有するヴァンガードのうち8機からも事故機とよく似た腐食が発見された。 そのため、圧力隔壁の改修と検査方法の見直しが行われた。

1971年12月24日

事故発生日:西暦1971年12月24日
便名:LANSA ペルー航空 (en:Lineas Aereas Nacionales S.A.) 508便
機種:ロッキード L-188A エレクトラ
死者:乗員乗客92人中91人が死亡。
状況:ペルーのリマからイキトスへ向かう途中、 アマゾン上空で激しい乱気流と落雷に遭遇、 右翼を大きく損傷後空中分解し、 山岳地帯の森林へ墜落した。
片目を怪我し鎖骨骨折などの重傷を負ったものの即死を免れた17歳の少女、 ユリアナ・ケプケは密林の中を歩き続けてカヌーを発見し、 何時間か昏睡していたところをハンターによって事故10日後になって奇跡的に救助された。
機体の残骸は事故後14日を経て発見されたが、 墜落直後には10人以上が生存していたものとみられ、 捜索救助活動の遅れが悔やまれた。
西暦1974年にはこの事故を描いた『奇跡の詩』(Miracles Still Happen) という映画も製作され、 西暦1987年には開隆堂の中学2年の英語の教科書にも取り上げられた。

1972年1月7日

事故発生日:西暦1972年1月7日
便名:イベリア航空 602便(機体記号:EC-ATV)
機種:シュド・アビアシオン SE-210 カラベル VI-R
死者:乗員6人乗客98人。合計104人全員が死亡。
状況:バレンシア空港からイビサ空港へ向かっていたイベリア航空602便が最終進入中に滑走路手前の山に墜落し、 乗員乗客104人全員が死亡した。 この事故は当時、カラベルで発生した事故としては最悪のものであり、 スペインで発生した航空事故としても2番目に死者数の多い事故だった。
事故原因はパイロットが有視界飛行での着陸進入中に最低降下高度を遵守しなかったことだとされた。 事故後、アタラヤサ山付近のSes Roques Altesに追悼碑が建てられた。
602便はバレンシア空港からイビサ空港へ向かう国内定期旅客便だった。 機長は37歳の男性で総飛行時間は7,000時間程だった。 搭乗していたのは6人の乗員と98人の乗客で、 乗客のほとんどは年末年始をバレンシアへ帰省し、 イビサへ帰る労働者だった。 また、乗客にはアメリカ人とドイツ人が1人ずつ含まれていた。

602便がサン・ジュゼブ・ダ・サ・タラヤ付近の海岸を通過中、 14,000フィート (4,300 m)を通過したと報告した。 しかし、 この時の実際の高度は12,000フィート (3,700 m)だった。 パイロットは現地時間12時15分頃、 機長はイビサ空港の管制官と交信し、 5,500フィート (1,700 m)までの降下許可を求めた。 管制官によれば、 このとき機長は「ビールを用意してくれ、私たちはここにいる(Get me a beer ready, we are here)」と言った。

滑走路07へ進入中、 機体は2,000フィート (610 m)以下まで降下していた。 しかし、機長と副操縦士は管制官とサッカーの試合について話し込んでおり、 危険なほど機体が降下していることに気づかなかった。 602便は標高1,515フィート (462 m)のアタラヤサ山に激突し、 機体は2つに分断された。 機体前方部は山の反対側の斜面に滑り落ちた。 機影がレーダーから消えたとき、 管制官は墜落地点を海上だと誤解した。 そのため捜索活動は海上を中心に行われた。 しかし、地元住民の1人が霧のなか山へ降下していく602便を目撃していた。 捜索隊が現場へ到着したが、 生存者は居なかった。

1972年5月15日

事故発生日:西暦1972年5月15日
便名:日本航空 便名不明
機種:マクドネル・ダグラス DC-8-61(機体記号:JA8046)
死者:なし(16人が重軽傷)
状況:1972年(昭和47年)5月15日、 羽田発福岡行きのDC-8-61型機 (JA8046) が、 羽田空港を離陸中に滑走路端から2000フィート付近で滑走路を逸脱し、 横向きのまま約300メートル芝生上を暴走した。 暴走中に脚やすべてのエンジンが損壊・脱落したほか、 再び滑走路上に機体を乗り上げた際に第4エンジン取付け部付近から出火した。 16名が重軽傷を負った。
原因は、雨のため滑りやすくなっていた滑走路でこれに正対しないまま離陸滑走を始めたこと、 航空機の偏向の初動を発見するのが遅れたこと、 さらに偏向修正のためのステアリングとパワーの使用操作が適切でなかったことによる。
なお事故機は修復され、 その後も長らく日本航空で使用されて、 1987年(昭和62年)12月31日、 日本航空におけるDC-8として、 最後の営業飛行を行っている。

1972年5月30日

事故発生日:西暦1972年5月30日
便名:横浜航空 そよかぜ号
機種:セスナ 402A
死者:乗客8名、乗員2名、合計10人全員死亡
状況:不定期便を運行する横浜航空は当時、 北海道内の自治体から補助を受けて道内のローカル線に不定期便を就航していた。
同社が所有する双発レシプロ機・セスナ402A「そよかぜ号」はこの日の午前9時7分に紋別空港(現在の空港とは別の場所に存在していた)を離陸し、 約1時間後に札幌飛行場(丘珠空港)に到着する予定で、 有視界飛行方式にて飛行していた。 午前9時42分に滝川市上空を通過したことを札幌飛行場の管制塔に連絡した後、 通信が途絶え行方がわからなくなっていた。 その後北海道警察と自衛隊による捜索活動が開始され、 午後1時40分ごろに自衛隊のヘリコプターが札幌飛行場から北東約40kmの樺戸郡月形町の分監山の山頂下に墜落した機体を発見、 その日の夕方までに乗客8名、 乗員2名の合計10名の死亡を確認し遺体の収容を終えた。
原因については飛行中に局地的悪天候となり、 機長が飛行区域の地形を把握していないまま飛行を続けた結果、 機体が山腹に衝突したものと推測されている。
なお、横浜航空は事故から2年後の1974年、 日本近距離航空(エアーニッポンに社名変更した後全日本空輸に合併)に吸収合併されている。

1972年9月23日

事故発生日:西暦1972年9月23日
便名:東亜国内航空 583便
機種:日本航空機製造 YS-11
死者:死傷者無し
状況:奄美空港への着陸時に副機長が誤って車輪を引込むミスを犯して胴体着陸となった。

1972年12月8日

事故発生日:西暦1972年12月8日
便名:東亜国内航空 便名不明
機種:ボーイング727-100
死者:なし
状況:東京発大分経由鹿児島行きの東亜国内航空機が大分空港に着陸後、 エプロンに向かうためにUターンを行ったところ、 操作を誤り滑走路外へ逸脱。 草地へ突っ込み前脚を損傷した。 東亜国内航空はジェット機を導入したばかりで、 万全を期すために機長資格者2名同乗させるダブルパイロット制を採用。 さらに当該機は東亜国内航空の運行責任者が直々に操縦していたが事故を避けられなかった。

1973年2月11日

事故発生日:西暦1973年2月11日
便名:栄工業所有
機種:セスナ機(形式不詳)
死者:乗員3人が死亡
状況:福岡空港から八尾空港に向けて飛び立った栄工業所有のセスナ機が行方不明となった。 6年後の1979年10月5日、 愛媛県の東三方ヶ森北方で林道の測量業者が、 バラバラになった機体の部品と遺骨の一部を発見、 墜落したものとして確認された。
墜落原因等は不明ではあるが、 乗員の腕時計は11日1時56分を指して止まっていた。

1976年3月23日

事故発生日:西暦1976年3月23日
便名:大洋航空
機種:パイパーPA-28-140(機体番号:JA3551)
死者:操縦者(俳優の前野光保)は死亡、同乗者なし、児玉誉士夫邸に勤務していた家政婦1人が火傷。
状況:児玉誉士夫邸セスナ機特攻事件(児玉誉士夫邸セスナ機自爆事件とも)は、 1976年(昭和51年)3月23日、 児玉誉士夫の私邸に小型航空機が突入した自爆テロ事件(乗物による突入攻撃)である。
3月23日午前9時50分頃、 児玉(当時65歳)の私邸(東京都世田谷区等々力6丁目29番20号[1])に、 前野霜一郎(本名:前野光保、当時29歳)が操縦するPA-28-140型機(機体記号:JA3551)が突入し爆発炎上。 前野は機内から黒焦げの死体で見つかった。 事件発生当時、児玉は2階奥の8畳間にいたが、 棟違いで突入現場から20メートル離れており、 太刀川恒夫秘書(東京スポーツ新聞社会長)に背負われて1階仏間に避難、無事だった。 しかし、家政婦一人が火傷を負っている。 ...

1976年9月15日

事故発生日:西暦1976年9月15日
便名:大洋航空(近代航空によるチャーター)
機種:セスナ 172M(機体番号:JA3732)
死者:乗客2人が行方不明(死亡と推定)、乗員2名が負傷
状況:元高崎経済大学学長で経済学者の田中精一夫妻が、 近代航空に伊豆大島上空遊覧飛行の斡旋を依頼。 近代航空社長が大洋航空を紹介したが、 大洋航空幹部は「この夫婦は搭乗したいと何度も来社したが、様子がおかしいので乗せられない」と断った。 大洋航空機は、 近代航空の社長が同乗することを条件に調布飛行場を飛び立った。
伊豆大島を周回後、 相模湾上空の高度2,000m付近を飛行中に突然、 田中精一が機長の肩や首をナイフで切りつけたため、 副操縦席にいた近代航空社長が田中精一を殴ったところ、 田中精一の妻が医療用メスで近代航空社長に斬りかかった。
もみ合いになり、機が急降下したところで田中夫妻はそれぞれ両サイドのドアを開け、 機外へ飛び降りた。 機長が出血多量により意識朦朧となったため、 代わりに近代航空社長が操縦桿を握り、 約30分後に羽田空港に緊急着陸した。 田中夫妻は捜索が行われたものの発見できず、 機長は全治2か月の重傷、 近代航空社長は全治2週間の怪我を負った。

1977年9月8日

事故発生日:西暦1977年9月8日
便名:全日本空輸 855便
機種:日本航空機製造 YS-11A-500(機体記号:JA8755)
死者:なし(乗員乗客55名のうち乗客13名が全治3日から10日のけがを負った)
状況:1977年(昭和52年)9月8日午後1時に東京・東京国際空港を離陸した全日本空輸855便は、 YS-11(機体記号:JA8755)で運航されていた。 伊豆大島の大島空港に午後1時44分に南側から着陸しようとしたが、 1200m滑走路の中ほどに着陸したあと、 オーバーランし車輪を排水溝にひっかけて折損し、 胴体着陸し機体は中破した。 この事故で乗員乗客55名のうち乗客13名が全治3日から10日のけがを負った。
1980年(昭和55年)2月13日に、運輸省航空事故調査委員会は、 当事故の原因は、同機が着陸の際、雨にぬれた滑走路の中央標識付近に、 速い速度で接地したため、滑走路内に停止できず、 オーバーランしたものであると発表した。
事故を起こした機体は、 7年前の1970年(昭和45年)12月29日にも熊本空港で離陸できずにオーバーランをする事故を起こしている。 ただし、こちらの事故の原因は昇降舵の凍結によるものであり本事故との関連性は無い。

1978年6月2日

事故発生日:西暦1978年6月2日
便名:日本航空 115便
機種:ボーイング 747SR-46
死者:なし(乗員15人乗客379人、合計394人の内2人が重傷を負い23人が軽傷)
状況:伊丹空港へ着陸の際、 機体を引き起こしすぎたため胴体後部を滑走路に接触させるしりもち事故となった。
115便は羽田空港から伊丹空港へ向かう国内定期旅客便だった。 伊丹空港へはILSで滑走路32Lへ進入した。 1度目の接地で機体はバウンドし、 2度目の接地で尾部を激しく滑走路に擦り付けた。 死者はいなかったが、事故により2人が重傷を負い、23人が軽傷を負った。
同機体はボーイング社による圧力隔壁の不良修理の結果、 1985年の日本航空123便墜落事故を起こす遠因となった。

1978年8月3日

事故発生日:西暦1978年8月3日
便名:ジャパン・レンタル・プレーン(チャーター機)
機種:富士 FA-200 エアロスバル
死者:4人
状況:8月3日から行方不明になっていたが、 同月17日、栃木県男体山裏手の女峰山(にょほうさん)山麓に墜落しているのが発見された。

1979年1月30日

事故発生日:西暦1979年1月30日
便名:ヴァリグ・ブラジル航空 967便(機体記号 PP-VLU)
機種:ボーイング 707-323C
死者:乗員6人全員が死亡
状況:新東京国際空港(成田空港)を離陸後、 太平洋上空を飛行中に失踪。機体および乗員は発見されなかったため、原因不明。
成田空港開港初の遭難事故であり、乗員6名全員が犠牲になった。

1979年7月21日

事故発生日:西暦1979年7月21日
便名:東亜国内航空 381便
機種:日本航空機製造 YS-11-109
死者:なし(乗員4人乗客67人、合計71人に負傷者は出なかった)
状況:左後輪が出なかったことにより片脚着陸を行い胴体を滑走路に激しく擦り、 滑走路から外れてオーバランする事態となったが、 着陸は無事成功。 ...

1982年2月9日

事故発生日:西暦1982年2月9日
便名:日本航空 350便
機種:ダグラス DC-8-61(機体番号:JA8061)
死者:乗員8人乗客166人、合計174人の内乗客24人が死亡(95名が重傷、54名が軽傷)
状況:東京国際空港への着陸進入中に急激に降下し、 滑走路の手前の海面に墜落。 精神疾患を抱えていた機長が錯乱し、 突然機体の推力を急激に減少させながら機首下げを行ったのが原因。

1982年8月26日

事故発生日:西暦1982年8月26日
便名:南西航空 611便
機種:ボーイング 737-2Q3(機体番号:JA8444)
死者:なし(乗員5人乗客133人、合計138人の内重症者3人を含む48人が負傷)
状況:石垣空港への着陸時にオーバーランし、乗員乗客の脱出後に爆発炎上。 死亡者はでなかったが、乗員乗客138人中48人が重軽傷。 ...

1983年3月11日

事故発生日:西暦1983年3月11日
便名:日本近距離航空 497便
機種:日本航空機製造 YS-11A-208(機体番号:JA8693)
死者:乗客・乗員52人のうち機長と乗客3人の計4名が重傷、48名が軽傷を負った。死亡者はいなかった
状況:中標津空港に着陸進入中、滑走路手前の樹木に接触し墜落。 操縦士が吹雪のため滑走路の視認に気をとられ、 適切な進入角度を取らないまま着陸を行った。

1984年7月31日

事故発生日:西暦1984年7月31日
便名:1)大阪エアウェーズ
   2)毎日新聞社
機種:1)アエロスパシアル AS355F(機体記号:JA9581)
   2)ベル 206B(機体記号:JA9101)
死者:両機の乗員6人中3人が死亡
状況:朝日放送がチャーターし、 強盗事件の取材のため兵庫県明石市上空を飛行していた大阪エアウェーズのヘリコプターに、 毎日新聞社のヘリコプターが接触して双方とも墜落した。 大阪エアウェーズ機に搭乗していた3人全員が死亡した。

1985年8月12日

事故発生日:西暦1985年8月12日
便名:日本航空 123便
機種:ボーイング 747SR-46(機体番号:JA8119)
死者:乗員15人乗客509人、合計524人中520人が死亡
状況:日本航空123便墜落事故は、 1985年(昭和60年)8月12日(月曜日)、 日本航空123便(ボーイング747SR-100型機)が群馬県多野郡上野村の高天原山山中ヘ墜落した航空事故である。 日航ジャンボ機墜落事故とも言われる。 520名の死者を出し、 日本の民間航空史上最悪の事故であると共に、 単独機としては死者数において史上最悪の航空事故となっている。
原因は、製造元のアメリカ・ボーイング社による機体尾部修理不良と設計上の欠陥であり、 特に機体修理中に使用されたリベットの留め方が不適切だったことが明らかとなった。
この事故がきっかけで国土交通省から事業改善命令が出され安全啓発センターが設置されるなど、 航空安全および事故対策強化を求める動きを引き起こした。
現在でも本事故は航空安全の重要な教訓とされている。 ...
概要

1987年2月17日

事故発生日:西暦1987年2月17日
便名:海上保安庁福岡航空基地所属 捜索機(機体記号:MA825)
機種:ビーチクラフト 200T
死者:乗員5名全員が死亡
状況:午前7時25分頃、行方不明の漁船員捜索に向かう途中、 福岡・佐賀県境にある脊振山山頂付近に墜落。 機長・副操縦士・整備科員2名・通信員の5名全員が殉職。
なお、通信員は当時海上保安庁唯一の女性航空通信員で、女性海上保安官初の殉職者となった。

1987年8月2日

事故発生日:西暦1987年8月2日
便名:日本農林ヘリコプター
機種:アエロスパシアル AS350B(機体記号:JA9355)
死者:番組パーソナリティ(石田紀子)と番組スタッフ1名(その他の搭乗員3名も負傷)
状況:ラジオ番組「湘南ミュージックスカイウェイ」のために飛行していたヘリコプターが、 高度を下げすぎて海面に墜落。 番組パーソナリティ(石田紀子)と番組スタッフ1名が死亡。 番組はそのまま打ち切りとなった。 ...

1988年1月10日

事故発生日:西暦1988年1月10日
便名:東亜国内航空 670便(機体記号:JA8662)
機種:日本航空機製造 YS-11-109
死者:なし(乗員4人乗客48人、合計52人の内乗客8人が軽傷)
状況:米子空港を離陸滑走中、 凍結により昇降舵が適切に働かなくなり、 離陸中止を試みるもオーバーランして滑走路端の中海に突入。死亡者はなく乗客8人が軽傷。
同機のコックピット部分は、 現在川崎市の電車とバスの博物館内でフライトシミュレーターとして展示されている。

1988年1月18日

事故発生日:西暦1988年1月18日
便名:全日本空輸 779便
機種:ロッキード L-1011-385-1 トライスター1
死者:なし
状況:千歳空港への夜間着陸の際に滑走路を見失い、 滑走路接地後に再浮上して滑走路の左側端に接地後オーバーランし滑走路を右側に飛び出して停止した。
機体下面やエンジン下部を損傷するなど中破した。

1988年5月30日

事故発生日:西暦1988年5月30日
便名:全日本空輸
機種:ボーイング 737-281 Adv(機体記号:JA8455)
死者:なし(乗員3人負傷者もなし)
状況:沖縄県の下地島空港で片方のエンジンを止めた状態での離陸訓練をしていた際に、 滑走路を逸脱し空港エプロン上で停止した。 事故機は機体各部を損傷し、 損傷した左主翼から燃料漏れを起こしたものの、 負傷者は出なかった。
1988年9月30日付けで、航空事故調査委員会は本事故の原因を、 強い横風下で、 横風に対応する十分な訓練を受けていなかった練習生の操舵が的確でなかったため、 機体が左に急激に回頭し次いで左にロールして、 左翼端等を接地するに至ったためとし、 操縦教員が回復動作を行ったものの、 左翼端等が接地するまでの間が極めて短時間であったため奏功しなかった、 との航空事故調査報告書を発表した。
なお事故機は修理を受けて再び使用されたが、 1998年に売却されている。

19年9月27日

事故発生日:西暦19年9月27日
便名:阪急航空 204便
機種:川崎重工BK117-B1型
死者:乗員2人乗客8人全員が死亡
状況:宮崎空港発延岡ヘリポート行きだった旭化成の社用定期204便(川崎BK-117B-1型)が、 日向市大字日知屋の牧島山山頂付近に墜落した。 同機は旭化成によってチャーターされた機で、 乗員2人と乗客8人が搭乗しており全員が事故により死亡した。
延岡市に創業地工場群を持つ旭化成は、 本社のある大阪市、東京への社員の出張又そこからの出張の受け入れが多いが、 宮崎 - 延岡間は当時、鉄道は空港とつながっておらず、 高速道路もなかった。
そのため、旭化成は自社ヘリポートを用意し、 延岡工場と宮崎空港間を25分で結ぶヘリコプター路線を1989年3月に開設し、 年間1万5千人の社員と、6000人の訪問者を運ぶ予定であった。
しかしながら、この事故によりヘリコプターの運航を断念、 日豊本線の「高速化」や、日南線の空港アクセス活用の気運がにわかに高まり、 宮崎空港線敷設の契機となった。

1993年4月18日

事故発生日:西暦1993年4月18日
便名:日本エアシステム 451便
機種:マクドネル・ダグラス DC-9-41
死者:なし(乗員5人乗客72人、負傷者58人の内乗員1人乗客2人が重症)
状況:花巻空港に着陸進入中に激しい乱気流に巻き込まれ、 急激に降下したためハードランディングし機体が破損、炎上した。 死者はなく負傷者58人。

1994年4月6日

事故発生日:西暦1994年4月6日
便名:個人所有機 回送便
機種:セスナ 208B(機体記号:JA8898)
死者:乗員1人が死亡
状況:岡南飛行場(旧岡山空港)から広島西飛行場(旧広島空港)に回送していた小型機が、 着陸進入のために必要以上に高度を下げたことから、 滑走路はるか手前の広島県佐伯郡能美町(現在の江田島市)にある野登呂山山頂付近の斜面に激突大破した。
機長が夜間飛行に慣れていなかったこともあったが、 飲酒操縦をしていたことも事故要因であったとされた。

1994年4月26日

事故発生日:西暦1994年4月26日
便名:中華航空 140便
機種:エアバス A300B4-622R
死者:乗員15人乗客256人合計271人の内264人が死亡(生存者数7人)
状況:中正国際空港(現:台湾桃園国際空港)発名古屋空港(現:名古屋飛行場、通称:小牧空港)行き中華航空140便(エアバスA300B4-622R、コールサイン:Dynasty 140)が名古屋空港への着陸進入中に墜落し、 乗員乗客271人中264人が死亡した。
この事故は、中華航空(現:チャイナエアライン)が起こした事故としては最悪のもので、 日本の航空史上でも日本航空123便墜落事故(死者520人)に次ぐ惨事となった(平成最悪の航空機事故)。 エアバスA300型機で発生したものとしては、 イラン航空655便撃墜事件(死者290人)、 アメリカン航空587便墜落事故(死者265人)に次いで3番目に死者数が多い事故となっている。

1994年10月18日

事故発生日:西暦1994年10月18日
便名:1) 朝日新聞社 取材機(機体記号:JA9621)
   2) 毎日新聞社 取材機(機体記号:JA9250)
機種:1) アエロスパシアル AS355 F1
   2) アエロスパシアル AS350B
死者:朝日新聞社機の乗員3人全員が死亡
状況:和歌山県から戻る途中の朝日新聞社の取材ヘリコプターが、 大阪府泉佐野市にある上之郷インターチェンジ上空で毎日新聞社の取材ヘリコプターと空中衝突し墜落。 事故原因は双方の見張り不充分であったが、 山脈または市街地を背景に接近したため、 互いに視認しにくい状況でもあった。 なお、毎日機は損傷を受けたが無事に着陸でき、 また皮肉にも事故後に当事者と認識しないまま朝日機の墜落現場を上空から撮影していた。
状況:

1996年2月9日

事故発生日:西暦1996年2月9日
便名:長崎航空 回送便
機種:ブリテン・ノーマン BN-2B-20 アイランダー
死者:なし
状況:福岡空港から長崎空港へ飛行中、長崎県東彼杵郡川棚町の高見岳に墜落した。

1996年6月13日

事故発生日:西暦1996年6月13日
便名:ガルーダ・インドネシア航空 865便
機種:マクドネル・ダグラス DC-10-30
死者:乗員15人乗客260人、合計275人の内3人が死亡。地上では消防士53人が化学熱傷を負った
状況:福岡空港を離陸滑走中にエンジンが故障し離陸中断したが、 離陸決心速度を既に超過していたためオーバーラン、 空港に隣接する道路を横切り、 擱座・炎上した。
擱座した際の衝撃で、 右翼のランディング・ギア(着陸装置)が燃料タンクを貫通し、 機体は炎上した。 この事故で乗員15名・乗客260名の合わせて275名のうち3名が死亡し、 乗員2名・乗客16名の計18名が重傷、 91名が軽傷を負った。 また、救助活動や消火活動に従事していた消防士のうち53名が、 漏洩していたジェット燃料に長時間接触したことによる化学熱傷を負った。
2024年12月現在、日本国内で定期航空便が起こした最後の旅客死亡事故である。

1997年1月24日

事故発生日:西暦1997年1月24日
便名:日本フライングサービス
機種:アエロスパシアル AS365N2(機体記号:JA6681)
死者:乗員2名乗客6名全員が死亡
状況:トヨタ自動車の社員輸送のため、 静岡県裾野市から愛知県豊田市に向かっていたが、 悪天候による視界不良のため愛知県岡崎市鉢地町の三河湾スカイライン近くの山中に墜落した。

1997年6月8日

事故発生日:西暦1997年6月8日
便名:日本航空 706便
機種:マクドネル・ダグラス MD-11(機体記号:JA8580)
死者:なし(12(or14)人が負傷、その内重症を負った客室乗務員1人が1年8ヶ月後死亡)
状況:1997年6月8日、香港の啓徳発名古屋行きとして運航されていた、日本航空706便MD-11(機体記号JA8580、愛称「エトピリカ」・日本航空におけるMD-11の1号機、乗員11名、乗客169名、合計180名)は、 午後7時34分頃、三重県志摩半島上空高度約17,000フィートを着陸のため自動操縦により降下していたが、 機体が突如乱高下したことで搭乗員が負傷した。 この事故は「日本航空MD11機乱高下事故」別名を「日本航空706便事故」ともいう。
この事件は運輸省が航空事故であると指定したほか、 負傷した客室乗務員1名が事故の受傷により、その後死亡した。 事故機の機長が業務上過失致死で起訴されたが、2007年に無罪が確定した。

1998年11月14日

事故発生日:西暦1998年11月14日
便名:日本トランスオーシャン航空 022便
機種:ボーイング 737-200(JA8528)
死者:なし(負傷者5人の内2人が重症)
状況:日本トランスオーシャン航空022便が、 新島VORTACの西南約100キロメートル上空で急激な機体の動揺に襲われ、 乗客1名と客室乗務員1名が重傷を負い、 乗客2名と客室乗務員1名が軽傷を負った。
原因は、先行機のストロボ・ライトが急速に左右に離れたため航空機が急接近していると副操縦士が判断し、 とっさに回避動作を取ったためであるが、 機長は計器を見ていてこの灯火を視認していない。 乗客1名が事故発生直後に窓から反対方向に飛ぶ飛行機を視認していたが、 管制機関等の情報ではその存在を解明できなかった。

2000年2月16日

事故発生日:西暦2000年2月16日
便名:エアーニッポン 354便
機種:日本航空機製造 YS-11A-213
死者:なし
状況:札幌飛行場への着陸時に滑走路をオーバーランし、スノーバンクに衝突した。

2001年1月31日

事故発生日:西暦2001年1月31日
便名:1) 日本航空 907便(機体記号:JA8904)乗員16人乗客411人
   2) 日本航空 958便(機体記号:JA8546)乗員13人乗客237人
機種:1) ボーイング 747-400D
   2) マクドネル・ダグラス DC-10-40
死者:なし(907便の100人が負傷その内9人が重症)
状況:羽田発那覇行きの日本航空907便ボーイング747-400D (JA8904) と、 釜山発成田行きの日本航空958便マクドネル・ダグラス DC-10 (JA8546) が駿河湾上で異常接近し、 衝突回避動作をとった907便で重軽傷者100名を出した事故。
衝突こそ免れたものの、 航空管制官の複数のミスと、 TCASの指示より管制指示(国土交通大臣の命令)を優先した機長の判断ミスが原因。 これを機にTCASと管制指示が相反した場合の優先順位が明文化された。

2001年5月19日

事故発生日:西暦2001年5月19日
便名:1) 中日本航空 訓練機(機体記号:JA6787)乗員2人
   2) 中日本航空 訓練機(機体記号:JA4201)乗員2人乗客2人
機種:1) アエロスパシアル AS 332L1
   2) セスナ 172P
死者:両機の搭乗者6人全員が死亡
状況:三重県桑名市上空640メートルで、 同一会社に所属するヘリコプターと軽飛行機の訓練機同士が接触、 双方が墜落し大破した。ヘリコプターについては墜落後炎上し、 両機の乗員6人全員が死亡した。 また、この事故で民家2棟が類焼し、1人が怪我を負った。
事故原因は双方の見張り不足であった。

2002年1月21日

事故発生日:西暦2002年1月21日
便名:全日本空輸 391便
機種:エアバス A321-131
死者:なし(乗員6人乗客87人、合計93人の内、客室乗務員3人が軽傷)
状況:小牧空港発函館空港行きの全日本空輸391便は、 函館空港に着陸するため滑走路12の進入灯上空を飛行中であったが、 滑走路手前140メートル、 対地高度約53フィートの地点でウィンドシア警報が作動したため回復操作を開始した。
同機はエンジン推力を離陸最大推力にまで増加させる操作を行ったが、 上昇力の回復が間に合わなかったため、 13時3分ごろ、 機体の後部が滑走路に接触した。 この際に機体のフレームや後部圧力隔壁、 フロアビームに亀裂が入るなど損傷を受け、 客室乗務員3人が軽傷を負った。
その後再び着陸を試み、13時20分ごろ函館空港に着陸した。

2002年3月1日

事故発生日:西暦2002年3月1日
便名:航空大学校帯広分校 訓練機(機体記号:JA4055)
機種:機体記号:スリングスビー式T67M MKII型
死者: 乗員2名中1人(1人が負傷)
状況:帯広空港を離陸し、 有視界飛行方式によりスピンからの回復操作の訓練中、 帯広市美栄町西5線の防風林に墜落、大破した。

2002年6月26日

事故発生日:西暦2002年6月26日
便名:全日本空輸 訓練機
機種:ボーイング 767-281(機体記号:JA8254)
死者:なし(乗員3人の内1人が負傷)
状況:沖縄県下地島空港でタッチアンドゴーの訓練中に、滑走路をオーバーランして滑走路東側の草地に止ったものの機体を大きく損傷した。
6月26日12時54分頃、 沖縄県の下地島空港で片方のジェットエンジンを止めた状態でのタッチアンドゴー訓練をしていた全日空のボーイング767-200型機が、 滑走路をオーバーランして滑走路東側の草地に突っ込み、 誘導路灯を破壊しながら停止した。 この事故を受けて下地島空港は滑走路を閉鎖した。
機体は尾部や両主翼先端などが破損し、 3人の乗員中乗員1名(訓練生)が頭部を負傷した。
その後の調査の結果、 事故機は胴体尾部のフレームが破断し、 外板にはひび割れが起きていた。 さらに両主翼の先端エルロンやAPUにも損傷を負った。 その結果、下地島空港での修理が困難と判断され解体されることになり、 ボーイング767型機の日本における初の全損事故扱いとなった。 なお当時、ボーイング767は-300型への置き換えが進められており、 旧型である-200型は退役しつつあった。

2002年10月21日

事故発生日:西暦2002年10月21日
便名:日本航空 356便
機種:ボーイング 747-400D
死者:なし(33人が負傷)
状況:静岡県浜松市付近の上空でウインドシアに巻き込まれ、機体の一部が損傷。操縦士の未熟さが原因。
福岡発羽田行きの日本航空356便ボーイング747-400D (JA8903) が、 静岡県浜松市付近の海上上空にてウインドシアに巻き込まれ、 乗客3名と客室乗務員1名が重傷、 乗客18名と客室乗務員11名が軽傷を負い、 また機体の一部が損傷した。 事故原因として、 ウインドシアに遭遇した際の操縦特性を体得する機会がなかったことが挙げられている。

2003年1月27日

事故発生日:西暦2003年1月27日
便名:全日本空輸 908便(運航はエアージャパン)
機種:ボーイング 767-300
死者:なし(乗員10人乗客92人、合計102人。負傷者も出なかった)
状況:仁川国際空港発成田国際空港行きの908便が、 雨天追い風の中、操縦ミスで速度超過のまま着陸、 滑走路中央近くで着地したため停止できず、 B滑走路を約70メートルオーバーランし草地に突っ込み、誘導路灯や滑走路末端補助灯を倒し停止した。
このため開港後初めて事故による滑走路閉鎖が行われた。
なお、この事故は成田国際空港が1978年(昭和53年)5月20日に開港して以来初のオーバーラン事故である。

2003年6月7日

事故発生日:西暦2003年6月7日
便名:日本航空 322便(機体記号:JA8980)
機種:ボーイング 767-300
死者:なし(4人が負傷)
状況:2003年(平成15年)6月7日、 福岡空港から関西国際空港に向かう予定の日本航空322便ボーイング767-300 (JA8980) が、 福岡空港の滑走路に向けてタキシング中、 停止位置標識で止まるために急ブレーキをかけた。 客室乗務員1名が重傷、3名が軽傷を負った。

2004年1月1日

事故発生日:西暦2004年1月1日
便名:日本エアシステム 979便(機体記号:JA8297)運航はハーレクィンエア
機種:マクドネル・ダグラス MD-81
死者:なし(2人が負傷)
状況: 徳之島空港へ着陸時に左主脚を折損し、 左主翼が滑走路上に接触して動けなくなった。
原因は左主脚に金属疲労による亀裂が生じ、 着陸時の衝撃により折損したため。

2004年9月23日

事故発生日:西暦2004年9月23日
便名:日本航空ジャパン 2408便
機種:マクドネル・ダグラス MD-90-30
死者:なし(3人が負傷)
状況:伊丹空港へ向けて降下中、 気象レーダーの操作が不適切であったため、 本来は避けられるタービュランスに巻き込まれた結果、 機体を動揺させた。 この結果、 乗客の幼児に重度の熱傷を負わせたが、 救急車の要請をしないなどの不適切な対応であった。

2005年5月3日

事故発生日:西暦2005年5月3日
便名:静岡県警察航空隊 ふじ1号(機体記号:JA11PC)
機種:アグスタ A109K2
死者:乗員5人全員が死亡
状況:上空から高速道路の渋滞状況を監視中に、 静岡市清水区の住宅街にあるアパートの屋根に接触した後、 市道へ叩きつけられるように落下して墜落、 燃料タンクに引火し、 爆発を繰り返しながら全焼した。

2005年6月15日

事故発生日:西暦2005年6月15日
便名:日本航空インターナショナル 1002便
機種:ボーイング 767-300
死者:なし(乗客17人が軽傷)
状況:新千歳発羽田行きの日本航空1002便ボーイング767-300 (JA8986) が、 羽田空港へ着陸した際、 前脚が破損し滑走路上で自走不能となった。 この衝撃で機体が小破し、 乗客17名が軽傷を負った。
原因は着陸時の操縦桿の操作ミスにより前脚に過大な加重がかかったため。

2005年8月12日

事故発生日:西暦2005年8月12日
便名:JALウェイズ 58便(機体記号:JA8545)
機種:マクドネル・ダグラス DC-10-40
死者:なし(乗員13人乗客216人。負傷者もいなかった)
状況:福岡発ホノルル行のJALウェイズ58便が、 福岡空港を離陸後にエンジントラブルを起こし、同空港に引き返した。
当該機は19時45分頃、定刻通り福岡空港の滑走路34を離陸したが、 離陸後20秒後に突然左エンジンから出火。 パイロットもそれに気づき、管制塔に連絡後、 左エンジンを止め海上まで飛行、 燃料を消費してから約30分後に福岡空港に引き返し、 緊急着陸した。
乗員乗客ら229名は無事であったが、 離陸ルートのほぼ真下に位置する福岡市東区社領2丁目から3丁目の住宅街にタービンブレードの金属片が落下し、 それに自ら触れた5人が軽い火傷や軽傷を負ったほか、 乗用車のフロントガラスが破損した。
偶然にも取材で福岡空港に来ていたNHK福岡放送局の取材クルーがこの事故を撮影し、 その日の夜のNHKニュースなどで、 エンジンから出火する瞬間が放映された。
なお、本件は統計上は事故ではなくイレギュラー運航扱いである。

2007年3月13日

事故発生日:西暦2007年3月13日
便名:全日本空輸 1603便(機体記号:JA849A)運航はエアーセントラル
機種:ボンバルディア DHC-8-402Q ダッシュ8
死者:なし(乗員4人乗客56人)
状況:全日空機高知空港胴体着陸事故は大阪国際空港出発し高知空港行きとして運航されていた。 1603便は高知空港への着陸態勢に移ろうとしたが、「ノーズギア(前輪)が出ない」との報告があった。 手動操作でも前輪が出せるように設計されている機体のため、 手動で出そうとしたがこれも失敗し、 衝撃で前輪を降ろそうとタッチアンドゴーを繰り返したがやはり成功しなかった。
このため機長は最後の手段として胴体着陸を決断した。 この時、高知空港の滑走路は閉鎖され、滑走路横には消防車等の緊急車両が待機した。 空港脇にはトラブル発生の報を受け、報道陣や警察関係者が集まっていた。 また、この緊急着陸の様子は多くのテレビ局が生中継して全国放送された。
1603便は胴体着陸を決行し、 メインギア(後輪)のみを滑走路に接地させて機首を水平やや上方に保った状態で15秒ほど滑走した後、 緩やかに機首を下ろして滑走路と接触させながら減速し、 機首接地の15秒後には無事停止して緊急着陸に成功した。 乗員乗客60名にけが人はなかった。
この事故に際して高知新聞は、適切な緊急着陸操作を行った機長の技量の高さがうかがえると評価した。

2007年4月9日

事故発生日:西暦2007年4月9日
便名:アカギヘリコプター 輸送機(機体記号:JA9203)
機種:富士ベル・204B-2
死者:乗員乗客10人中2人が死亡
状況:富山県の北アルプス・水晶岳にある場外離着陸場から離陸直後に斜面に激突大破。
搭乗者10名のうち機長と乗客1名が死亡。
事故の状況は機長が視界の利かない状況で離陸したものの、 機体の姿勢を保てず強風の影響もあり斜面に激突した。 事故原因について国土交通省航空・鉄道事故調査委員会(当時)は、 機長に基本的な計器飛行の能力が劣っていたため、 有視界飛行によって機体の姿勢を制御しようとしたが、 風下側に旋回したため気流の影響を受けたため、 斜面に激突したとしている。
水晶岳(すいしょうだけ)  別名:黒岳  標高2,986m

水晶岳は、 富山市南東部に位置する標高2,986mの飛騨山脈(北アルプス)の山である。 山域は中部山岳国立公園に指定され、日本百名山に選定されている。

2007年8月20日

事故発生日:西暦2007年8月20日
便名:チャイナエアライン 120便
機種:ボーイング 737-809
死者:なし(乗員8人乗客157人、合計165人の内3人が負傷。他、地上の警備員1人が負傷)
状況:台湾(中華民国)の台湾桃園国際空港発那覇空港行きのチャイナエアライン(CI/CAL)120便(ボーイング737-800型機)が、 那覇空港到着直後にエンジンから出火し爆発、炎上した。
事故機には乗員・乗客165名が乗っていたが、 火災が広がる前に全員が脱出したため、機体は全焼したが死者や重傷者は出なかった。

2007年10月27日

事故発生日:西暦2007年10月27日
便名:大阪航空 体験飛行便(機体記号:JA102D)
機種:ロビンソン R22 Beta
死者:乗員1人乗客1人、合計2人全員が死亡
状況:大阪航空堺市墜落事故は、 大阪府堺市堺区の南海電鉄高野線、浅香山駅と我孫子前駅間の線路上に、 大阪航空所有のヘリコプターが墜落した航空事故。
事故は、飛行中に突風を受けた際に、機体の回復操作を困難とする急激な操縦操作を行った事による。 事故時には資格も経験も知識もない同乗者が操縦を行っていたために適切な回復操作がなされなかった。 体験飛行と称し操縦をさせるといった行為が、 いかに危険かを知らせる結果となった。

2008年7月6日

事故発生日:西暦2008年7月6日
便名:小川航空 取材機(機体記号:JA9755)
機種:アエロスパシアル AS350B
死者:乗員4名全員が死亡
状況:同日未明に発生した海上自衛隊護衛艦さわゆきの火災事故(後に放火事件と判明)の取材のため、 小川航空のヘリコプターに青森朝日放送のアナウンサー(報道記者も兼務)は技術協力会社のカメラマンの大森真二、 それにヘリの機長・副操縦士の計4名と搭乗し現場へ赴いたが、 青森県大間崎沖付近で消息を絶った。 当時、現場付近では濃霧注意報が出されていた。
青森海上保安部巡視船などによる捜索の結果、 翌7日には木村の社員証などが発見された。 同月9日に同乗していた副機長の遺体、 ヘリのキャビンが発見されたが木村を含む3人が行方不明のまま同月13日に捜索は打ち切られた。 機長の遺体はこの2日後の15日に発見されている。
2009年6月17日、事故を起こしたヘリコプターに搭乗していた青森朝日放送アナウンサーの木村 慎吾、 カメラマンの大森と共に行方不明のまま事故発生日の2008年7月6日を死亡日とする死亡認定を、 第2管区海上保安本部(宮城県塩竈市)より受けた。

2009年3月23日

事故発生日:西暦2009年3月23日
便名:フェデックス 80便
機種:マクドネル・ダグラス MD-11F
死者:乗員2人全員が死亡
状況:80便は強風の中を成田国際空港のA滑走路に着陸しようとしていた。 写真家の小久保陽一が事故機の着陸アプローチを撮影していた。 小久保によれば、アプローチ中の機体に特に異常は感じなかったという。 しかし事故機はハードランディングとなり、 2回バウンドした後に左主翼が滑走路に接触、 機体は炎と黒煙を吹きながら進行方向左向きに回転して完全に裏返しとなり、 滑走路脇の芝生の上に停止して爆発・炎上した。 裏返しになったときに左主翼が付け根から破壊され、 そこから漏れ出した燃料に引火して火災が広がったとみられる。 同機には積載貨物として約408キロの可燃性液体を積んでいたこともあり、 左主翼から出た火は数秒のうちに全機体に広がった。
着陸時、事故機には接地と縦揺れを繰り返すポーポイズ現象が発生していた。 ポーポイズ現象はMD-11のような大型機ではまれな現象である。 この現象で事故機の降着装置がダメージを受けており、 2度目のバウンドの際、前輪のタイヤが2本とも外れていたことも判明している。
事故から爆発炎上までの一連の事故発生の模様に関しては、 日本放送協会(NHK)をはじめ日本国内の各テレビ局が成田空港の第1ターミナルに設置した定点カメラによって撮影されていたことや、 事故発生時刻が早朝という事もあり、 事故発生直後に各テレビ局が自局の朝の報道番組(NHKニュースおはよう日本[10]等)の中で空港からの中継映像を放送するなどして臨時報道した。 また、事故の映像などは、世界各国の報道機関に即座に配信された。

2009年9月11日

事故発生日:西暦2009年9月11日
便名:岐阜県防災航空隊 若鮎2(機体記号:JA96GF)
機種:ベル・ヘリコプター ベル 412EP
死者:機長、整備士及び防災航空副隊長計3人が死亡
状況:岐阜県高山市の北アルプス奥穂高ジャンダルム付近にある通称ロバの耳の登山道付近において救助活動中に付近の岩壁に接触し墜落した。運輸安全委員会は、ホバリング中に高度が低下し後方に移動したため、メインローターブレードが付近の岩壁に接触し墜落したものと推定している。

2010年7月25日

事故発生日:西暦2010年7月25日
便名:埼玉県防災航空隊 あらかわ1(機体記号:JA31TM)
機種:ユーロコプター AS365N3
死者:乗員7人中5人が死亡
状況:埼玉県秩父市大滝の山中で、 滝つぼに転落した女性登山者の救助活動中に機体が樹木に接触して墜落。
運輸安全委員会は、障害物の確認が不適切だったことで、 フェネストロンが木と接触して壊れ、操縦不能に陥ったとしている。

2010年8月18日

事故発生日:西暦2010年8月18日
便名:海上保安庁 あきづる(機体記号:JA6796、所属記号:MH796)
機種:ベル 412EP
死者:乗員5人全員が死亡
状況:佐柳島沖海保ヘリ墜落事故は、 香川県仲多度郡多度津町佐柳島沖に、第六管区海上保安本部所属のヘリコプター「あきづる」が墜落した航空事故である。
「あきづる」は、 海上での油漏れや不審船舶などのパトロールの合間に、 香川沖を航行していた司法修習生が乗船していた船舶に対しデモンストレーション飛行を実施しており、 2度目のデモンストレーションまでの合間にパトロール業務をしていた。
低空飛行をしていた15時10分ごろ、 瀬戸内海に浮かぶ佐柳島と隣の小島(おしま)を結ぶ6000ボルト送電線(全長1179メートル、海面より最高地点105メートル)に機体が接触し、 そのまま海面に激突し大破沈没した。
目撃証言によれば、 事故機は送電線のすぐ上で前部を斜め上に向けて上昇しようとしていたが、 突然逆さまにひっくり返りローター部分を下にして、 後部から煙を出しながら海中に落ちていったという。 搭乗していた乗員5人は全員殉職した。

2011年7月28日

事故発生日:西暦2011年7月28日
便名:航空大学校 訓練機(機体記号:JA4215)
機種:ビーチクラフト モデルA36 ボナンザ
死者:乗員4人中3人が死亡
状況:航空大学校の訓練機が基本計器飛行訓練のため、 帯広空港を離陸して約10分後に北海道河西郡芽室町剣山の山中に墜落して大破・炎上した。
教官の指示で山間部に進入し、 山を覆う雲に近づいたことで目標物を見失い墜落したものと考えられている。

2011年9月6日

事故発生日:西暦2011年9月6日
便名:全日本空輸 140便(機体記号:JA16AN)
機種:ボーイング 737-781
死者:なし(乗員5人乗客112人、合計117人の内客室乗務員2人が足を捻挫するなどの怪我)
状況:全日空140便急降下事故は、2011年(平成23年)9月6日に発生した重大インシデントである。 重大インシデントとは、事故が発生するおそれがあると認められる事態であり、 事故と同様に国の運輸安全委員会が調査を行う。
那覇空港から東京国際空港へ向かっていた全日空140便が和歌山県串本町沖の上空を飛行中に背面飛行状態となり、急降下した。 乗員乗客117人のうち、 客室乗務員2人が足を捻挫するなどの負傷をしたが、死者は出なかった。
この重大インシデントに係る調査報告書の中で、 運輸安全委員会は、 連邦航空局に対して類似したスイッチの設計改善等を求めた。

2012年2月5日

事故発生日:西暦2012年2月5日
便名:全日空 731便
機種:エアバス A320-211
死者:なし
状況:仙台空港への着陸時に機長は着陸復航を行ったが、 この時に機体の尾部を滑走路に接触させた。 事故により機体の後部圧力隔壁なども損傷を受けた。

2015年2月12日

事故発生日:西暦2015年2月12日
便名:海上自衛隊鹿屋航空基地第211教育航空隊所属OH-6DAヘリコプター
機種:ヒューズ・ヘリコプターズ OH-6DAヘリコプター
死者:3名(機長かつ教官三等海佐、同乗三等海佐、操縦訓練生二等海曹)
状況:OH-6DAえびの墜落事故は、宮崎県えびの市で発生した海上自衛隊OH-6DAヘリコプターの墜落事故である。隊員3名が殉職した。
訓練生の航法訓練のため、薩摩半島を経由しながら北上。 しかし、鹿児島県出水市付近の天候不良により、 宮崎県えびの市上空を通過して大隅半島を南下するルートに変更。 北部の鹿児島県伊佐市上空で消息を絶った。 翌13日に、えびの市の山中で、機体とともに隊員3名の遺体が発見された。 海上自衛隊は、調査の結果、悪天候下で機長が「空間識失調」に陥ったことが原因と発表した。

2015年4月14日

事故発生日:西暦2015年4月14日
便名:アシアナ航空 162便
機種:エアバス A320-232
死者:なし(乗員8人乗客73人、合計81人の内28人が負傷)
状況:アシアナ航空162便着陸失敗事故とは、 広島空港で発生した韓国のアシアナ航空旅客機による航空事故である。
韓国の仁川国際空港発広島空港行きのアシアナ航空162便が、 広島空港へ着陸する際、 標準より低い高度で滑走路に接近し、 滑走路手前325メートルの滑走路10(西側滑走路)用のローカライザのアンテナ(高さ6.4メートル)に接触した。
接触後、同機は着陸したが滑走路を南側に逸脱し、横滑りしてほぼ180度回転し、 進入してきた東側を向いて滑走路横(南側)の芝生エリアに停止した。 滑走路横のフェンスまでは十数メートルしかなかった。 事故機はアンテナとの接触により、 左右の主翼が損傷しエンジンカバーが脱落した。 左水平尾翼は途中で折れ、左側エンジンから発煙があった。 左右のエンジンにはアンテナが吸い込まれて全損状態であった。 接触直後に推力を失ったと判断された。 車輪も破損しており、牽引で移動できない状態であった。
乗客・乗員計81人(乗客73人、乗員8人)は全員が脱出用シューターで脱出し、 徒歩で空港ターミナルビルへ退避した。 脱出の際、乗務員らによる避難誘導は無く、 開いたシューターを使って乗客同士が助け合って脱出した。
この事故により、27人が負傷したが、 1人を除いて即日帰宅。 打撲傷で入院した1人も15日中に退院した。

2015年7月26日

事故発生日:西暦2015年7月26日
便名:個人所有機(機体記号:JA4060)
機種:パイパー PA-46-350P マリブ・ミラージュ
死者:乗員1人乗客4人、合計5人の内2人と地上の1人が死亡
状況:調布市PA-46墜落事故は、 小型航空機パイパー PA-46が調布飛行場を離陸した直後に、 東京都調布市富士見町の住宅地に墜落した日本の航空事故。
消防庁では「東京都調布飛行場近隣住宅地における小型航空機の墜落火災」、 国土交通省運輸安全委員会では「東京都調布市における小型機墜落航空事故」と呼称している。
午前10時58分に調布飛行場を離陸し、 慣熟飛行を行うため伊豆大島に向かっていたパイパー PA-46 登録記号JA4060(定員6人、うち操縦士席2席、今フライトでの搭乗者数は5人、うち操縦士は1人)が、 数十秒後に調布市富士見町1丁目の住宅地に墜落した
。 墜落した機体との接触により、住宅9棟が破損および焼損し、 出火した住宅内にいた女性1人と事故機のパイロットおよび乗客男性の計3人が焼死、 接触した住宅内にいた女性2人と乗客3人が負傷した。 乗客のうち死者は、対面式の前側の客席に座っていた。

2015年8月28日

事故発生日:西暦2015年8月28日
便名:第一航空 101便
機種:バイキング DHC-6 ツイン・オッター400
死者:なし(乗員2人乗客12人、合計14人の内11人が負傷)
状況:第一航空機粟国空港着陸失敗事故は、 那覇空港発粟国空港行きだった第一航空101便が、 粟国空港への着陸時に滑走路を逸脱し空港外周のフェンスに衝突した。 乗員乗客14人中11人が負傷したが死者は出なかった。

2016年3月26日

事故発生日:西暦2016年3月26日
便名:個人所属機
機種:ムーニー M20C
死者:乗員4人全員
状況:八尾空港滑走路に着陸の際バウンドし復行を試みたが上昇中に失速しスピンに入り墜落した。乗員4人全員が死亡。

2016年4月6日

事故発生日:西暦2016年4月6日
便名:航空自衛隊飛行点検隊(入間基地)所属のU-125点検機
機種:U-125(母機:デ・ハビランド DH.125 , BAe BAe125-800型)
死者:乗員6名全員死亡
状況:U-125御岳墜落事故は、 航空自衛隊機U-125が高隈山地御岳山頂に墜落した航空事故である。 乗員6名全員が死亡した。
発生地点 - 鹿児島県鹿屋市、御岳山頂東側760m(鹿屋航空基地北約10km)、 発生時刻 - 2016年(平成28年)4月6日(水)14時35分頃
航空自衛隊飛行点検隊(入間基地)所属のU-125点検機(49-3043号機)は、 海上自衛隊鹿屋航空基地の飛行点検業務のため、 4月6日午前中に鹿屋基地に着陸。 午後、同基地を離陸した直後、 レーダーサイトから消失し、無線通信も途絶した。 4月8日午前までに、乗員6名全員の遺体を収容した。
航空自衛隊は7月29日に、 事故原因がヒューマンエラーを含む複合的なものだったと発表した。

2016年4月6日

事故発生日:西暦2016年5月27日
便名:大韓航空 2708便
機種:ボーイング 777-300
死者:なし(乗員16人乗客302人、合計318人。軽傷者40人)
状況:大韓航空2708便エンジン火災事故は、 東京国際空港で大韓航空2708便が起こしたエンジン火災事故(航空事故)である。
事故を起こしたのは大韓航空2708便(東京国際空港(羽田)発、金浦国際空港(韓国ソウル)行)のボーイング777-300型機である。 事故機は東京国際空港C滑走路34Rを離陸滑走中(北風運用、南側から北側へ滑走)に第1(左側)エンジンから煙が出て、後に出火した。 この事故で40名が負傷したが、死者は出ていない。
エンジン内のタービンブレードが多数破断し、 エンジンカウルも破損して滑走路に破片が散乱した。
事故発生後、C滑走路北側付近にて機体は停止した。 火災発生後、化学消防車が出動し、消火活動を行った。
乗員乗客は脱出スライドにて脱出した。 乗客は滑走路脇に避難後、バスで国際線ターミナルに戻った。 しかしながら、 運航中モードのドアを開くと自動的に展開するはずの緊急脱出用スライドが1箇所(R5)正常に機能せず、 シュータによる滑降の際に負傷を負った乗客も居ることが、 5月28日時点で判明しており、 5月30日時点で火元である機体左側のシューターが展開していたことも判明している。 当該機は満席に近く、 シュータがすべてまともに使用できていれば乗客がより迅速に脱出できていた可能性も指摘されている。
本事故は、国土交通省運輸安全委員会によって重大インシデントに認定された。

2017年1月19日

事故発生日:西暦2017年1月19日
便名:ANA1831便(JA461A)
機種:ボンバルディアDHC-8-Q400
死者:なし
状況:1831便が新千歳空港滑走路01R(B滑走路)に着陸後、 オーバーランして滑走路端の草地で停止した。
原因は機長による制動開始の遅れ及びパワーレバーがディスク位置にセットされず減速に必要な制動力を得られなかったことにあり、 また滑走路端周辺の積雪状態の悪さもオーバーランに関与したと見られている。

2017年1月19日

事故発生日:西暦2017年3月5日
便名:長野県 消防防災ヘリコプター「アルプス」(機体記号:JA97NA)
機種:ベル 412EP
死者:乗員9人全員が死亡
状況:山岳救助訓練のため、 パイロット1人、整備士1人、および長野県内の消防隊員7人の計9人を乗せ、 13時31分に長野県松本市の松本空港を離陸した後、 鉢伏山付近に墜落した。
目的地である高ボッチ高原の臨時ヘリポートに到着時刻を30分過ぎてもヘリは到着せず、 ヘリからの連絡も無かったため、 長野県警察航空隊「やまびこ2号」が捜索したところ、 墜落している機体を発見した。 事故当日に3人、 翌日に6人の死亡が確認され、 長野県最悪の航空機事故となった。
長野県警は被疑者不詳で、業務上過失致死容疑で捜査中。

2017年1月19日

事故発生日:西暦2017年5月15日
便名:陸上自衛隊北部方面航空隊 LR-2
機種:LR-2連絡偵察機(ビーチクラフト社スーパーキングエア350)
死者:乗員4人全員が死亡
状況:2017年5月15日に急患搬送のため出動した北部方面航空隊の所属機(乗員4名)が、 函館空港西方約30kmを飛行中に消息を絶った。 現場は厚沢部町・鶉ダム周辺の山中で、 視界不良のため計器飛行方式で飛行しつつ着陸準備をしていたとみられている。 当時は厚沢部町に雷・濃霧注意報、 函館市と北斗市に強風注意報が発令されるなど、 大気が不安定な状態であった。
5月16日朝になって北斗市の袴腰山山頂から東に3kmの山中で機体が発見されたが、 乗員4名はいずれも死亡が確認された。

2017年6月3日

事故発生日:西暦2017年6月3日
便名:新中央航空(機体記号:JA3989)
機種:セスナ セスナ172P
死者:乗員4人全員が死亡
状況:富山空港から松本空港に向かっていた軽飛行機が、富山県立山町の獅子岳南東斜面に墜落した。

2017年6月9日

事故発生日:西暦2017年6月9日
便名:崇城大学機
機種:ビーチクラフト社ビーチクラフト58
死者:なし
状況:長崎空港で崇城大学の小型双発プロペラ機ビーチクラフト58が車輪を出ていない状態で着陸をした結果、胴体着陸となり滑走路上で停止した。これに伴い滑走路が3時間余り閉鎖された。

2017年8月14日

事故発生日:西暦2017年8月14日
便名:個人所有
機種:ダエア・ソカタ ソカタTBM700
死者:乗員2人全員が死亡
状況:八尾空港から福島空港に向かっていた軽飛行機が奈良県山添村の山中に墜落した。

2017年8月17日

事故発生日:西暦2017年8月17日
便名:海上自衛隊しらせ飛行科CH-101
機種:CH-101(アグスタウェストランド AW101)
死者:なし(乗員8人中4人負傷)
状況:2017年8月17日14時20分頃、 岩国基地でCH-101 1機(8193号機)がホバリング中にバランスを崩し横転したまま墜落した。 事故で機体の一部が損傷したほか、乗員8人のうち4人が負傷した。
機体は、岩国基地の飛行艇用スロープ地区でドラム缶の機外吊り下げ訓練中だった。
同年9月22日海上自衛隊は事故原因は飛行中機体振動発生時の機長の処置判断不適切等の人的要因と推定し、 器材上の要因ではなかったと発表。

2017年8月26日

事故発生日:西暦2017年8月26日
便名:海上自衛隊第21航空群第25航空隊所属SH-60J
機種:三菱重工業SH-60J(シコルスキー・エアクラフトSH-60B)
死者:乗員4人中死亡2人(1人は救助され、もう1人は行方不明)
状況:22時50分頃、護衛艦「せとぎり」での夜間発着艦訓練中に同機の方位指示器に大きな誤差が出ていることが分かり、復旧操作を行うため艦から離れて復旧操作として姿勢方位基準装置の電源を切ったところ、自動操縦装置による姿勢の安定を維持する機能が低下し墜落した。翌27日までに現場付近の海域から機体の一部とフライトレコーダーが発見された。乗員4人のうち男性乗員1人は事故発生後約35分後に救助されたが、機長を含む残り3人は行方不明となった。同年10月中旬に水深2,600メートルの海底で上下逆さまとなった機体が発見され、10月27日に機体を揚収し内部を確認した結果、2名の行方不明者を発見したが、残る1名の発見には至らず捜索を終了した。

2017年9月23日

事故発生日:西暦2017年9月23日
便名:KLMオランダ航空 868便
機種:ボーイング777-200型
死者:なし
状況:KLMオランダ航空所属ボーイング式777-200型は、 平成29年9月23日(土)、 同社の定期868便として、 アムステルダム・スキポール国際空港へ向けて関西国際空港を離陸した。 同機が大阪市上空を加速上昇中、 右主翼後縁付け根上方の胴体フェアリング(整流板)のパネルが脱落した。 脱落したパネルが大阪市北区の道路上を走行中の車両に衝突した。

2017年10月8日

事故発生日:西暦2017年10月8日
便名:個人所属
機種:ビーチクラフト社 E33
死者: なし(1名重症)
状況:宮城県栗原市の瀬峰場外離着陸場で離陸中止後にオーバーランして水田の上に転覆し、 機体を損傷した。 オーバーランは離陸重量が同場外の滑走路長で安全に離陸できる重量を超過していたため、 離陸滑走中に滑走路端までの残り距離が少なくなり、 その際の機長による離陸中止の決断が遅れたことによるものと推定される。

2017年10月15日

事故発生日:西暦2017年10月15日
便名:個人所属
機種:ビーチクラフト A36
死者:なし
状況:福井空港の北西約4km、 高度約300mを飛行中に発動機の出力が継続的に損失したため、 川に不時着した。
選択されていた右燃料タンクの燃料油量が著しく低下したため、 発動機に燃料が供給されず、 発動機の回転数が低下し、 さらに、燃料セレクター・バルブを切り替えた後も状況が改善せず、 出力を損失した状態が継続したことによるものと考えられる。

2017年10月17日

事故発生日:西暦2017年10月17日
便名:航空自衛隊浜松救難隊UH-60J
機種:三菱重工業 UH-60J(シコルスキー・エアクラフト UH-60)
死者:3人(他行方不明1人)
状況:17時50分ごろ飛行訓練のため浜松基地を離陸後、 浜松基地沖の洋上に墜落し、 乗員4名のうち3名が死亡、1名が行方不明となった。

2017年10月18日

事故発生日:西暦2017年10月18日
便名:航空自衛隊 F-4
機種:マクドネル・エアクラフト F-4 ファントムII
死者:なし
状況:飛行訓練のために滑走路に向かっていたF-4戦闘機の主脚が折れ、 誘導路上で出火し、 約20分後に消えた。
出火は主翼と燃料タンクの一部が地面に接触し、 機体から漏れた燃料に引火したためだと思われる。

2017年11月8日

事故発生日:西暦2017年11月8日
便名:東邦航空回送便
機種:エアバス・ヘリコプターズAS332L
死者:乗員4人全員が死亡
状況:業務を終え、山梨県から栃木県のヘリポートに向かっていた回送便が長野・群馬県境を越えた後機体が制御不能に陥り、 上野村の橋付近に墜落、 炎上、大破した。
機体とテールローターを繋ぐボルトに亀裂が入ったまま飛行を続けたためにボルトが破断しテールローターが外れたのが原因。 しかも亀裂の事実が整備士(この事故で死亡)のみ知っていて共有されていなかった。

2017年12月29日

事故発生日:西暦2017年12月29日
便名:海上保安庁10管区所属サーブ340
機種:サーブ340
死者:1人
状況:日本エアコミューターの整備士が海上保安庁の航空機をけん引していたところ、 機体が傾き左翼が地面に接触し整備士の1人が下敷きとなり死亡した。

2018年03月24日

事故発生日:西暦2018年03月24日
便名:ピーチアビエーション 151便
機種:エアバスA320
死者:なし
状況:ピーチアビエーション 151便が福岡空港着陸後、前脚のタイヤ2つがパンクして動けなくなり、滑走路が約2時間20分閉鎖された。

2018年8月10日

事故発生日:西暦2018年8月10日
便名:群馬県防災航空隊「はるな」(機体記号:JA200G)
機種:ベル 412EP
死者:乗員9人全員が死亡
状況:8月11日に開通を予定している登山道「ぐんま県境稜線トレイル」の確認視察のため、 前橋市ヘリポートを離陸した群馬県防災ヘリコプター「はるな」が、 群馬県と長野県の県境付近を飛行中に消息を絶ち、 直ちに航空自衛隊などが捜索を開始。
群馬県吾妻郡中之条町の横手山に「はるな」の機体と見られる物体を発見。 その後、航空自衛隊や群馬県警察本部などによる捜索隊により「はるな」が墜落していることを確認し、 本機に搭乗していた群馬県防災航空隊員4名並びに吾妻広域消防本部職員5名の合計9名を救出し収容したが、 11日になって9名全員の死亡が確認された。
事故の原因は、天候悪化で雲の中を飛行して地形を確認できなくなり、 機長が高度や姿勢を把握できなくなる「空間識失調」に陥り、 正常に操縦できなくなったことが原因と結論づけた。

2019年2月20日

事故発生日:西暦2019年2月20日
便名:航空自衛隊 第8航空団 第6飛行隊 F-2戦闘機
機種:三菱重工業 F-2
死者:なし
状況:訓練で山口県沖の日本海を飛行中に、 レーダーから機影が消えて連絡が取れなくなって墜落した。
原因は、前席操縦者が飛行諸元・飛行姿勢を適切に把握せずに操縦をし、 適切な手順が実施できなかったため、 異常姿勢及びその後の操縦不能状態に陥ってしまった。 また、後席操縦者が操縦を交代し、 回復操作を試みたものの、 背面状態で体が浮き、 マニュアルモードにするスイッチに手が届かず、 また、前席操縦者に誤ったスイッチ操作の指示をしてしまい、 正しい回復手段を取れず、 操縦不能状態が継続した。

2019年4月9日

事故発生日:西暦2019年4月9日
便名:航空自衛隊所属 F-35A
機種:ロッキード・マーティン F-35
死者:なし(行方不明1人)
状況:青森県東方太平洋上(三沢基地の東約135キロ付近の洋上)で、 第3航空団第302飛行隊に所属するF-35A「79-8705」のレーダー航跡が消失。 機体の一部が海上で発見されたため、翌10日に墜落したと発表した。 F-35Aの墜落事故は本件が世界初である。

2020年2月1日

事故発生日:西暦2020年2月1日
便名:福島県警察航空隊 「あずま」(機体番号 : JA139F)
機種:アグスタウエストランド AW139
死者:なし(7人が重軽傷)
状況:臓器移植のための心臓を会津中央病院から福島空港に運んでいた福島県警察航空隊のヘリコプターが不時着、大破。
7人が重軽傷を負い、移植は断念された。

2022年10月3日

事故発生日:西暦2022年10月3日
便名:日本トランスオーシャン航空 036便
機種:ボーイング 737-800
死者:なし(客室乗務員1人が右足親指を骨折)
状況:美保飛行場(鳥取県)付近を飛行中だった那覇発小松行きの便が揺れ、客室乗務員の女性が右足親指を骨折した。

2023年3月2日

事故発生日:西暦2023年3月2日
便名:オールニッポンヘリコプター(機体番号:JA37NH)
機種:EC135T2
死者:なし
状況:燃料補給のために着陸した岡山空港の駐機スポットに接地する際に、 機体姿勢が不安定になり強めに接地した。 同機は大破したが火災は発生しなかった。
機長、整備士には怪我は無かったがカメラマンが軽傷を負った。 運輸安全委員会に航空事故と認定された。原因は調査中。

2023年4月6日

事故発生日:西暦2023年4月6日
便名:陸上自衛隊第8師団第8飛行隊(機体記号:43106)
機種:UH-60JA
死者:乗員10名(坂本雄一第8師団長を含む)全員が死亡
状況:宮古島沖陸自ヘリ航空事故は、陸上自衛隊の多用途ヘリコプターによる航空事故。
海岸地形に対する航空偵察のため、 航空自衛隊宮古島分屯基地を離陸した第8飛行隊(熊本県高遊原分屯地)所属のUH-60JA多用途ヘリコプターが、 宮古空港から北西約18kmの洋上空域でレーダーから消失し、 その後の捜索で航空機の残骸が発見された。

2023年4月18日

事故発生日:西暦2023年4月18日
便名:海上保安庁 訓練機(機体番号:JA-395A)
機種:セスナ 172
死者:なし(教官と研修生の2人は捻挫や挫傷を負った)
状況:エンジンの出力を100%まで上げるなどして、 操縦感覚を養う訓練を行っていた海上保安学校宮城分校北九州航空研修センター所属の訓練機が、 教官からの「エンジンの出力があがらない。緊急着陸する」との無線連絡の直後、 宇佐市の田んぼの中に不時着した。
教官と研修生の2人は不時着の衝撃で捻挫や挫傷を負った。

2023年9月7日

事故発生日:西暦2023年9月7日
便名:航空大学校訓練機(機体番号:JA018C)
機種:シーラス式SR22型
死者:なし()
状況:14時38分頃、釧路空港において連続離着陸訓練を行っていた、 航空大学校帯広分校所属の訓練機が滑走路を逸脱し、誘導路に着陸した。 その後当該機は空港敷地を囲むフェンスに激突し停止。
40代の男性教官1名と20代の男子学生3名が搭乗していたがいずれも怪我はなかった。 また当該機は3本のギア全てが損傷した。
本事故は当初、重大インシデントとされたが、その後航空事故に認定された。原因は調査中。

2024年1月2日

事故発生日:西暦2024年1月2日
便名:1) 日本航空 516便(乗員12人乗客367人、合計379人の内14人が負傷)
   2) 海上保安庁 みずなぎ1号(乗員6人、内5人が死亡)
機種:1) エアバス A350-941(機体記号:JA13XJ)
   2) デ・ハビランド・カナダ DHC-8-Q300(機体記号:JA722A)
死者:5名(海保機乗員)
状況:羽田空港地上衝突事故は、 東京国際空港(羽田空港)に着陸した日本航空(JAL)516便(エアバスA350-941)と、 離陸のため誤って滑走路上に進入していた海上保安庁(海保)の航空機が滑走路上で衝突した航空事故。
17時47分頃、 新千歳空港発のJAL機が羽田空港C滑走路へ着陸した直後に海上保安庁機と衝突、 両機ともに大破炎上した。 JAL機側に負傷者14名、 海保側の機長が重傷、機長を除いた海保機の乗員5人が死亡。 海保機は、前日夕方に発生した令和6年能登半島地震対応で物資を運ぶ為、 新潟航空基地(新潟空港)へ向けて離陸する予定だった。

2024年4月20日

事故発生日:西暦2024年4月20日
便名:1)海上自衛隊大村航空基地所属のSH-60K
   2)海上自衛隊小松島航空基地所属のSH-60K
機種:1)SH-60K
   2)SH-60K
死者:乗員8名全員が死亡
状況:

2024年6月4日

事故発生日:西暦2024年6月4日
便名:ポーラーエアカーゴ752便
機種:ボーイング 777F(機体記号:N714SA)
死者:なし
状況:成田空港を4日10時16分に離陸した直後のポーラーエアカーゴ機の右エンジンが破損、 銚子沖で燃料を投棄し成田に引き返した。 成田空港に設置されている日本放送協会(NHK)の定点カメラには右翼側の炎のような光が撮影され、 成田到着後に右エンジンの外装の破損が確認された。 国土交通省は同日夜、本事案を「重大インシデント」に認定。

1900年0月0日

事故発生日:西暦20年月日
便名:
機種:
死者:
状況:

あああ