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航空機事故詳細

作成日:2025/6/24

事故発生日:西暦1982年2月9日
便名:日本航空 350便(機体記号:JA8061)
機種:ダグラス DC-8-61
死者:乗員8人乗客166人、合計174人の内乗客24人が死亡(95名が重傷、54名が軽傷)
状況:日本航空350便墜落事故は、 西暦1982年2月9日(火曜日)に、 日本航空のマクドネル・ダグラス DC-8-61が羽田空港沖に墜落した航空事故である。 350便は福岡空港発・東京国際空港行定期便で、 乗員乗客174人中24人が死亡、149人が負傷した。
日航羽田沖墜落事故」・「日航逆噴射事故」などと呼ばれている。 ...
離陸から着陸準備まで
7時34分、350便は福岡空港滑走路16より離陸した。 7時51分、巡航高度の29,000フィートまで上昇し、 水平飛行に移った。 8時19分、管制官が16,000フィートまでの降下を指示し、 パイロットは降下を開始した。 350便は羽田空港の滑走路33R(旧C滑走路)へのILS進入を許可され、 8時39分に着陸装置が降ろされた。 2分後、フラップが50度まで展開された。

8時43分25秒、 副操縦士が500フィートのコールを行ったが、 機長は応答しなかった。 8時43分59秒、 副操縦士は200フィートのコール直後に決心高度を意味する「ミニマム」をコールした。 通常、機長はこれに対して「コンティニュー」または「ゴー・アラウンド」とコールアウトしなければならないのだが、 機長は「チェック」としかコールしなかった。
意図的墜落
8時44分01秒、 350便が高度164フィート130ノットの速度で飛行していた際、 機長は自動操縦を解除した。 ところがその後、 操縦桿を前に押し、 スロットルをアイドル位置まで引戻した。 航空機関士はエンジンの回転数が低下していることに気付き、 「パワー・ロー」と叫んだ。 機長はさらに、 第2・3エンジンスロットルを逆噴射位置へ操作した。 副操縦士は機首が異常なほど下がっていることと、 機長が操縦桿を押し込んでいることに気付いた。

副操縦士は操縦桿を引いたが、 機長は未だ操縦桿を押し込んでいたため「キャプテン、やめて下さい!」と発した。 8時44分07秒、 350便は滑走路33Rから510m手前、 空港南側の東京湾(多摩川河口付近)に墜落した。 墜落時、 機体は僅かに右へ傾いており、 右主翼が海上にある進入灯の一部を破損させ、 胴体部が機首部分に乗り上げる状態で停止した。

墜落後、 コックピットからは乗り上がった機体が見えた。 副操縦士は機長に「キャプテン、何てことをしてくれたんですか!」と怒鳴った。 これを客室乗務員2人が止めたが、機長は泣き出した。 また航空機関士は意識を失っており、 救助されたのは40分後のことであった。 機体後部の客室乗務員はコックピットとの連絡を試みたが、 墜落の衝撃でコックピットと機体が分離しており連絡不能状態であった。 そのため、乗客に救命胴衣を着けるよう指示をし、 脱出時の注意を説明した。

ホテルニュージャパン火災の翌日であり、 東京消防庁は対応に追われている中であったが、 特別救助隊や水難救助隊、 消防艇を出動させて救助活動に当たった。 救助隊は9時頃に現場に到着した。 それ以外にも羽田の漁師も救出活動を行った。
被害
この墜落に伴い、乗客24名が死亡した。 乗員乗客95名が重傷を負い、 54名が軽傷を負った。 客室前部の乗客の相当数は海中に投げ出された。 死者はいずれも客室前より11番目までに座っていた乗客で、 14名が頭部外傷、5名が溺水により死亡した。 また事故により乗員乗客はおよそ19-23Gを受けたと推定された。

機体は事故に伴い、大破した。 胴体が機首に乗り上げた状態であったが、機体尾部には損傷はなかった。 右主翼は胴体部より分離しており、エンジンも4基共に主翼から脱落していた]。 なお、滑走路33Rの第14・15・18番進入灯が事故に伴い損傷した。
残骸の分析
事故機スロットルは第1 - 3エンジンが出力全開位置に、 第4エンジンがアイドル位置にあった。 さらに第4エンジンのリバース・レバーは作動位置にあり、 右へ90度折れ曲がっていた。 スポイラーはアーム位置にあり、 フラップは50度まで展開されていた。 なお、自動操縦のスイッチはオフの状態だった。
機長精神異常
事故後、 副操縦士および航空機関士には事故によるもの以外の心身の異常は無かった。 だが、機長には精神的な変調が見られた。 関係者などの証言から、 機長の精神的な変調が以前よりあったことが判明した。

機長(当時は副操縦士)は西暦1976年秋頃より自信喪失のような思考が現れ、 友人との接触も少なくなっていた。 この頃から、幻覚も見始めたという。 関係者によれば機長は明るい性格であったが、 西暦1977年頃より口数が減り、 陰気な感じになったという。同僚にノイローゼを疑われたりしていた。

西暦1978年には家族にも不可解な行動をするようになり、 翌年に姉に「自分は日本人ではない」と真剣に相談したりもしていた。 西暦1980年頃より幻聴の症状が現れ、 10月頃からは体調不良に陥り乗務を取りやめることもあった。 11月には荒いブレーキ操作や、 旋回操作遅れによる飛行経路逸脱、 推力不足状態での着陸復航などのことをしたため、 上司より乗務予定を取り消されている。 この出来事の約10日後、 機長は精神科を受診しうつ病または心身症と診断された。 このため、日本航空は機長を業務より外し、療養するように促した。

治療継続後、 西暦1981年4月より国内線副操縦士として職場復帰した。 日本航空は機長のうつ病は治ったと認識していたが、 4月8日時点で機長は病院よりうつ状態と診断されていた。 同年10月6日、医師は機長について「自律神経症で抑うつ状態だが、飛行観察時にはこれらの症状は見られず機長として乗務しても問題はないと思われる」との意見書を日本航空に送付した。 そのため11月からは機長業務に復帰したが、 機長の妻は以前と変わらない状態で不安だと話した。 事故直前には「ソ連が日本を破壊させるために日本を2派に分断し、血生臭い戦闘をさせているんだ」などの強い信念(被害妄想)を抱くまでに至っていた。

事故当日の350便の乗務中には「敵に捕まって残忍な方法で殺されるよりも、自分から先に死んだ方がマシだ」という妄想を抱くに至り、 しばらく恐怖に震えた後に現実に戻るという精神状態にあった。 350便が200フィート以下に降下した後、 突然「イネ、イネ、……」という言葉が機長の頭全体に響き渡ったという。 これは「去れ」「死ね」「行ってしまえ」といった意味と思われるが、 機長は山彦のように聞こえる「お前も行くんだ、行くんだ」という幻聴に引き付けられるような気分となり、 手動操作に切り替え操縦桿を押し込み、エンジンを逆噴射させた。

航空機関士が直ちに機長のこの異常操作に気付き、 機長の右手を叩いて止めさせ、 リバース・レバーを戻した。 副操縦士は機首が急に下がったことに気付き、 反射的に操縦桿を引き起こそうとしたが、 機長が操縦桿を押し込む力が強く、 引き起こすことができなかった。 そのため副操縦士が「キャプテン、やめてください!」と叫ぶと、 機長は操縦桿への力を緩めた。 しかし、ミニマムのコールアウトからたった数秒間の異常操作であっても、 機を海面に叩き付けるには十分であり、 直後の8時44分7秒、 350便は滑走路進入端から510メートル手前の東京湾に墜落した。
刑事事件捜査
機長は業務上過失致死罪により逮捕されたが、 精神鑑定により妄想性精神分裂病(現:統合失調病)と診断され、 心神喪失状態にあったとして東京地方検察庁により不起訴処分で釈放となった。 機長は精神衛生法(現:精神保健及び精神障害者福祉に関する法律)に基づき、 東京都立松沢病院に措置入院となり、 約1年後に日本航空を諭旨解雇された。