状況:もく星号が消息を絶った当日午後、
「浜名湖西南16キロの海上で…米軍救助隊が…全員救助」「舞阪沖…で遭難」など、
いずれもアメリカ軍筋を出処とする複数の発表があり、
これに捜索が振り回された結果、
機体の発見は遭難から丸一日経ってからとなった。
この事故で大きな謎とされたのは、
高度
6千フィートで大島上空を通過するはずのもく星号が、
海抜2千数百フィートの三原山に激突していることであった。
運輸省による航空事故調査会は人為的なミスにしぼって、
アメリカ人機長と航空管制センター(埼玉・米空軍ジョンソン基地内)との交信テープの提出をアメリカ軍に要請したが拒否され、
タイプ打ちした紙の記録の提出で片づけられた。
航空事故調査会は一か月という異例の早さで調査を終えることとなり、
事故原因は推定のまま残された。
その原因を巡って、
高度計異常説、爆破説、米軍謀略説、機長飲酒説など巷間でさまざまに憶測された。
事故発生の同月末、日本国の独立が回復し、
日本航空も同年秋から自主運航を開始したが、
米軍航空管制下に起きたこの事故の真相は、未だ不明のままである。