事故発生日:
西暦1935年5月18日
便名:1) ソビエト連邦 マクシム・ゴーリキー号(機体記号:CCCP-I20)
2) ソ連空軍 戦闘機
機種:1) ツポレフ ANT-20
2) ポリカルポフ I-5
死者:両機の乗員乗客36人全員と地上の9人が死亡
状況:
西暦1935年5月18日、
イヴァーン・ヴァシーリエヴィチ・ミヘーエフとニコラーイ・セミョーノヴィチ・ジューロフの操縦によるマクシム・ゴーリキー号はANT-14、R-5偵察機、I-5戦闘機の3機と共にモスクワ上空のデモ飛行のために離陸したが、
翼の近くで突然宙返りしたニコラーイ・パーヴロヴィチ・ブラーギンの操縦するI-5と、衝突して墜落した。
この墜落で操縦クルーと招待された党幹部の計45人が死亡し、
機体も全損してわずか1年ばかりの生涯を閉じた。
ソ連当局は、ブラーギンが急接近した状態で無理な宙返りをしたのが事故の原因だと発表したが、
この宙返り自体が事前に当局から命じられたものであったとされている。
その後、
西暦1938年に旅客機としてANT-20bisが1機製造された。
ANT-20bisはエンジンの強化で主翼の6基のみでの飛行が可能になっていた。
ANT-20bisは登録記号「PS-124」が与えられた後にアエロフロートでモスクワ - ウズベキスタン間の定期飛行に就役したが、
西暦1942年に事故で墜落し、
乗員36名全員が死亡した。