小窓
命をかけて乗客を守った2つの話

作成日:2024/7/10

塩狩峠・鉄道員長野政雄殉職

塩狩峠・鉄道員長野政雄殉職 西暦1909年明治42年)2月28日

長野政雄は鉄道の庶務主任であり、敬虔なクリスチャンだった。 結納のために妻となる吉川ふじ子の家に向かっていた。 名寄から札幌に向かう途中の急勾配の塩狩峠にさしかかった時、 最後尾の客車連結器がはずれ、 客車は急速度で坂を下り始めた。 同乗していた長野政雄は、デッキのハンドブレーキ装置に気付き、 力一杯締め付けた。列車の速度は弱まり徐行になったが完全には止まらない。 少しして「ゴトン」と客車が止った。 乗客は全員無事であった。 しかし、客車の下には血まみれの長野の遺体があった。 長野政雄は、 自身の身体を輪止めとし、 暴走した客車を止めたのである。

彼は、三浦綾子の小説『塩狩峠』のモデルとなり、映画にもなった。 また、塩狩峠記念館近くに「長野政雄殉職の地」顕彰碑も建てられている。

打坂峠・長崎自動車車掌鬼塚道男殉職

打坂峠・長崎自動車車掌鬼塚道男殉職  西暦1947年昭和22年)9月1日

これは、 バスの車掌として勤務していた当時21才の鬼塚道男(おにづかみちお)が、 故障し、ブレーキが効かなくなったたバスを 自らの身体を輪止めとしてバスを止め、 殉職した話である。

その日、鬼塚道男が乗り込んだ木炭バスには約30人の乗客が乗っていた。 午前10時ごろ「地獄坂」と呼ばれていた急勾配の打坂峠(現時津町)にさしかかり、 登り切ろうとしたとき、 ギアシャフトが故障し、 徐々に加速しながらバスが後退し始めた。 後退する先は、10メートル以上の崖だった。

鬼塚道男はすかさず車内から飛び出し、 近くの石をタイヤの下に差し入れたが止まらなかった。 最後に鬼塚道男が選んだ手段は、 自らの身をていすることだった。 バスは転落寸前で止まったが、 鬼塚道男は後輪の下敷きになり殉職した。

鬼塚道男の供養と交通安全祈願のため、 西暦1974年10月19日、 現場となった時津町打坂に、 彼の尊い犠牲と勇気を称えるために地蔵尊が建立され、 毎年、慰霊法要が行われている。