数え2歳(満7か月と11日)で親王宣下・立太子し、その日のうちに践祚した。これが歴代最年少での皇位への即位である。その1ヶ月後の7月27日に即位式が行われるが、途中で泣き出して中断したために、参議・中山忠親が赤ん坊には儀式よりも乳の方が大切だと機転を利かせ、慌てて乳母の蔵人頭藤原邦綱女・成子が授乳してやっと落ち着かせたという。政務は外伯父の摂政・近衛基実と邦綱が表向きを取り仕切った。 在位2年8か月で祖父後白河上皇の意向により、叔父の憲仁親王(高倉天皇)に譲位して歴代最年少の太上天皇となった。その後は後白河院の庇護下に置かれたが[4]、これは六条院が反対派に擁されることを防ぎ自己の王権を安定させるための後白河院の措置だったとみられる[5]。その後元服を行うこともなく、数え13歳(満年齢11歳8ヶ月)で崩御、死因は赤痢と言われる[6]。后妃も子もなかった。 父の二条天皇は在世中に親政を行おうとして後白河院と対立した上、異母弟・憲仁親王の擁立を画策したとして、憲仁親王の叔父・平時忠を流罪、平教盛・藤原成親・坊門信隆を解官して後白河院の院政を停止させた。しかし二条天皇の崩御後に、政治の実権を奪われていた後白河院が平清盛と手を結んで甥から叔父へという不自然な皇位継承を実現させた。
陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市東山区清閑寺歌ノ中山町にある清閑寺陵(せいかんじのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は円丘。かつては高倉天皇陵と同所にあったが、近世になって区分された。 また皇居では、宮中三殿のひとつ皇霊殿において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。