ヘブライ王国 / イスラエル王国 / イスラエル・ユダ連合王国
作成日:2021/6/3
ヘブライ王国/イスラエル王国 紀元前1021年? - 紀元前922年頃分裂
メソポタミアの北西付近で生活を送っていたセム語系の遊牧民族であるヘブライ人は、
紀元前1500年頃にカナーンに移住してきた。
カナーンとは当時の呼称であり現在のパレスチナに相当する地域を指す。
他民族たちは彼らを「ヘブライ人」呼んでいたが、
彼らは自らを「イスラエル人」と呼称していた。
カナーンに移住したヘブライ人であったが、
飢饉に遭遇しエジプトへ移住することになる。
紀元前1021年に部族生活を送っていたヘブライ人が統一され、
パレスチナの地にヘブライ王国(イスラエル王国あるいはイスラエル・ユダ連合王国とも呼ばれる)を建国した。
「イスラエル」という国名は、
ユダヤ民族の伝説的な始祖ヤコブが神に与えられた名前にちなんでいる。
紀元前922年、ヘブライ王国は北王国として知られるイスラエル王国と、
南王国として知られるユダ王国に分裂した。
その後、イスラエル王国は紀元前722年にアッシリアの
侵攻により滅亡した。
イスラエル王国の滅亡により、
ユダ王国はアッシリアに従属する事になったが、
紀元前586年に滅亡した。
歴史
- • 紀元前1500年頃。ヘブライ人はカナーンへ移住してきた。のちにエジプトへ移住する。
-
メソポタミアの北西付近で生活を送っていたセム語系の遊牧民族であるヘブライ人は、
紀元前1500年頃にカナーンに移住してきた。
カナーンとは当時の呼称であり現在のパレスチナに相当する地域を指す。
他民族たちは彼らを「ヘブライ人」呼んでいたが、
彼らは自らを「イスラエル人」と呼称していた。
カナーンに移住したヘブライ人であったが、
飢饉に遭遇しエジプトへ移住することになる。
- • 紀元前13世紀、エジプトから脱出する。(『旧約聖書』「出エジプト記」)
-
飢饉に遭遇しエジプトへ移住することになったヘブライ人(イスラエル人)は、
エジプトでは奴隷として扱われていた。
エジプトの圧政から逃れるため紀元前13世紀、
モーセに率いられエジプトを脱出し(『旧約聖書』「出エジプト記」)カナーンへ帰還した。
カナーンへの帰還の途中シナイ山にてモーセは神から「十戒」を授かったと記されている(『旧約聖書』)。
-
- ∘ 預言者モーセの誕生
-
モーセはヘブライ人(イスラエル人)のレビ族である。
父アムラム、母ヨケベドとの間に生まれる。
モーセには兄と姉がいた。
当時エジプトのファラオ(王)はヘブライ人が増えるのを抑止するため「これから生まれてくるヘブライ人の男児は全て殺す」ように命令した。
モーセも殺される運命にあった。
かごに入れられてナイル川に流されたが、
偶然それを見つけたファラオの王女が拾い上げ、
『モーセ』と名付けて育てることにした。
(『モーセ』とはヘブライ語で「引き上げる」の意味である。また、モーセの姉の機転で母親のヨケベドは乳母として雇われた。)
モーセという呼び方
この稿では「モーセ」と表記しているが、「モーゼ」と表記する場合もある。
外国語を日本語(カタカナ)に訳す場合の表現のゆれである。
確かに昔は「モーゼ」と表記してあった記憶もある。
しかし最近では教科書でも「モーセ」の表記になっているらしい。
- ∘ モーセ、エジプト人を殺してしまう。
-
成長したモーセはある日、エジプト人がヘブライ人を鞭で打って虐待しているところを見る。
モーセはなんとかヘブライ人を助けようとたが、
誤ってエジプト人を殺してしまった。
このことがファラオに知れてしまい、
命を狙われたモーセはミディアンの地(アラビア半島)に逃げ込んだ。
そして、そこで司祭エトロの娘の一人ツィポラと結婚し、羊飼いとしてそこで暮らした。
- ∘ モーセ、神から出エジプトの使命を受ける。
-
ある時、モーセは義父である司祭エトロの羊の群れを連れ、
神の山ホレブ山のふもとへ訪れると、
炎に包まれた柴の中から天使が現れる。
柴が燃え尽きないことに驚くモーセ。
近づいてみると「この地は聖地である。履物を脱げよ。」と父なる神の声が聞こえた。
続けて父なる神はモーセに自らの存在を明かし、
イスラエルの民をエジプトから連れ約束の地カナンへ向かえと啓示する。
これには兄のアロンも同行することとなる。
- ∘ モーセ、エジプトのファラオにヘブライ人の開放を求める。
-
モーセは兄アロンと共にエジプトへ戻り、
ファラオに対し、イスラエルの民を解放するよう要求する。
当然ファラオはその要求を断る。
モーセは神の意向であることを示すため、
そして、この啓示に報わないと戒めが下ることを告げるため、
ファラオの前で杖を蛇へ変え奇蹟をおこすが、
ファラオの家臣たちによって、
それはイカサマとされてしまう。
- ∘ モーセ、エジプトに十の災厄を下す。(過越祭/過越しの日)
-
モーセは、父なる神の意向を受け入れないファラオとエジプトの民に対し、
十の災厄を下す。
- ナイル川の水を赤い血に変える。
- 無数の蛙でエジプトの地を覆う。
- 塵が蚋(ブヨ)に変わり、エジプトの民や家畜に害を及ぼす。
- 虻(アブ)の群れによる災害。
- 牛馬への疫病。
- 塵がエジプトの民や家畜に付き、膿み腫れを起こす。
- 雹(ひょう)による災害
- いなごによる災害
- 暗闇の災害
- 幼児虐殺
10番目の幼児虐殺について、
父なる神は
「エジプトに住まう、戸口に印のない家の、人間から家畜に至る全ての初子を殺す。」
とモーセに伝え、
イスラエルの民は子羊の血で戸口に≪T≫の印を付け、
この災いから逃れた。
以後、イスラエルの民は災厄が、
無事過ぎ越したことを感謝し、
過越祭(ペサハ)として祝うようになる。
ファラオはこの十の災厄を目の当たりにし恐れを抱き、
ついにイスラエル人の解放を許した。
- ∘ モーセ、海を割り紅海を歩いて渉る。
-
モーセに導かれエジプトを出国するイスラエルの民。
しかし、ファラオはイスラエルの民の解放を考え直し、
エジプト軍に追撃をさせる。
その頃、イスラエルの民は紅海の沿岸まで辿り着いていた。
すぐそこまで迫るエジプト軍。
神に祈りを捧げ紅海を二つに開くモーセ。
イスラエルの民は、
この奇蹟により開かれた紅海の地面(海底)を渡る。
イスラエルの民が渡り終えた頃、
エジプト軍も紅海を渡り始めていた。
しかし紅海は閉じ始め、再び、ひとつの海と化してゆく。
そして、多くのエジプト軍は紅海に飲み込まれていった。
中世では、この主題を新約聖書における洗礼の予知として救いの象徴と、
信者への迫害に対する神の処罰の象徴としても解釈された。
- ∘ マナの収集
-
奇蹟により無事に紅海渡渉し、
エジプト軍から逃れることのできたイスラエルの民であったが、
約束の地カナンへ、荒野を進む旅路は楽なものではなかった。
ある時、食料も乏しい一行の中から「食料の豊富なエジプトへ居た方が良かったのでは?」と不満が漏れる。
この声が父なる神へ届き、その翌日早朝、
霜のような薄く小さな円形のマナ(パンのようなもの)が天から地に降ってきた。
モーセは言う。
「これは父なる神より与えられしパンである。必要な分だけ集めよ」。
約束の地カナンへ辿り付くまでの40年間の旅路の間、
食料が尽きかけるとマナが地上に降り、
イスラエルの民は飢餓することなく旅を続けることができた。
- ∘ ホレブの岩
-
旅を続けるイスラエルの民がレフディムの地に居たとき、
「水がなくなった」とイスラエルの民から不満が漏れる。
モーセはホレブの岩を杖で二度打ち、水を出すと、
イスラエルの民の喉を潤した。
モーセはこのレフディムの地をメリバ(争いの意)と名付けた。
- ∘ モーセ、十戒を受け取る
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紀元前13世紀、古代イスラエル民族とその宗教を基礎づけたと伝えられる指導者。
紀元前1280年ごろ、イスラエル民族はモーセに率いられてエジプトから脱出し、
シナイ山において神ヤーウェ
(邦訳聖書(日本聖書協会刊)では文語訳で「エホバ」、口語訳で「主(しゅ)」。そのほか「ヤㇵウェ」「ヤーベ」とも表記される。
)との契約関係に入り、
ヤーウェの民になったという。
それ以前はヘブライ人とよばれる小家畜を飼育する諸部族の集合にすぎなかったが、
ヤーウェ宗教の受容によって、
一つの民族としての自覚をもつに至ったのである。
シナイ山における契約に際して、
モーセは神からイスラエルの民が守るべき「十戒」を授かった。
十戒は、『旧約聖書』の「出エジプト記」20章と「申命記」5章にほぼ同じ形で記録されており、
他神や偶像の礼拝を禁じ、殺人、姦通(かんつう)や窃盗を禁止するなど、
ユダヤ教とキリスト教における宗教と倫理の基礎をなすものとして重視されている。
- ∘ 十戒
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旧約聖書の出エジプト記20章3節から17節、申命記5章7節から21節に書かれており、
エジプト出発の後にモーセがシナイ山にて、神より授かったと記されている。
十戒の内容は神の意思が記されたものであり、
モーセが十戒そのものを考え出し、
自らもしくは他者に記させたものではない、とされている。
出エジプト記本文では神が民全体に語りかけたがそれが民をあまりにも脅かしたためモーセが代表者として神につかわされた、とされる。
シナイ契約、または単に十戒とも呼ばれる。
二枚の石板からなり、二度神から渡されている。
最初にモーセが受け取ったものはモーセ自身が叩き割っている。
正教会・聖公会・プロテスタント(ルーテル教会を除く)の場合
- 主が唯一の神であること
- 偶像を作ってはならないこと(偶像崇拝の禁止)
- 神の名をみだりに唱えてはならないこと
- 安息日を守ること
- 父母を敬うこと
- 殺人をしてはいけないこと(汝、殺す勿れ)
- 姦淫をしてはいけないこと
- 盗んではいけないこと(汝、盗む勿れ)
- 隣人について偽証してはいけないこと
- 隣人の家や財産をむさぼってはいけないこと
カトリック教会・ルーテル教会の場合
- わたしのほかに神があってはならない。
- あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
- 主の日を心にとどめ、これを聖とせよ。
- あなたの父母を敬え。
- 殺してはならない。
- 姦淫してはならない。
- 盗んではならない。
- 隣人に関して偽証してはならない。
- 隣人の妻を欲してはならない。
- 隣人の財産を欲してはならない。
「十戒」の読みについて。
これは「じゅっかい」と読むのではなく「じっかい」と読むのが正しいようだ。
疑問雑学のサイトでは「どちらも正しい」と解説してくれているが、
「じゅっかい」では変換してくれない。(使用しているIMEにもよると思うが。)
同じサイトの解説を引用してみる。
ただ一般的には十戒は「じっかい」と読むことが多いです。
また十戒(じゅっかい)のように「十(じゅっ)」が用いられている言葉は、
「十干(じゅっかん)・十進法(じゅっしんほう)」しか見つけることができませんでした。
十戒(じっかい)のように「十(じっ)」が用いられている言葉には、
「十干(じっかん)・十手(じって)・十哲(じってつ)・十指(じっし)」などがあります。
- ∘ イスラエルの民、十戒を破る。
-
モーセがシナイ山で神より十戒を授かっていた頃、
シナイ山の麓の一行はモーセの帰りが遅いことで不安を募らせ、
遂には兄弟のアロンに金の耳輪を溶かして、
その金から黄金の子牛を造り、
新たな神として崇め始める。
モーセが十戒を手にシナイ山の麓に戻り、
一行が黄金の子牛を崇め堕落した姿を目撃すると怒りに震え、
持ち帰った十戒を叩きつけて砕く。
黄金の子牛も火を入れて粉砕し、
その粉末を水の上に撒いて一行に飲ませた。
父なる神がモーセに石版を二枚用意させ、
そこにモーセが砕いてしまった十戒と同様の言葉を記し、彼に与えた。
- ∘ 約束の地カナーンへ到着する。
-
モーセは、シナイ山で神ヤーウェとイスラエルの間に契約を結ばせたあと、
神が先祖アブラハムに与えると約束したカナンの土地を民に得させるため、
40年間、荒野を放浪した。
その旅は困難を極め、疲労と飢えに不満が爆発して民はしばしば反抗したが、
彼は忍耐強く統率し、約束の地へ導いていった。
モーセは、「そのひととなり柔和なこと、地上のすべての人にまさっていた」(「民数記」12章)といわれている。
モーセは荒野の旅において、民が神に対して示した不信の責任を負わされ、
自らはカナンの地に入ることを許されず(「民数記」14、20章)、
ヨルダンの対岸に達しながら、
モアブの地からカナンを眺めるのみで死んだ。
120歳であった。
彼の墓の所在も知られないままだと記されている(「申命記」34章)。
- ヘブライ王国の建国
-
紀元前1200年頃には海の民が襲来し、
その一派であるペリシテ人がカナーンに住み着くようになり、
ヘブライ人はペリシテ人と抗争するようになった。
ヘブライ人は12の部族に分かれて生活していたが、
ペリシテ人に対抗するため統一が進み、
紀元前1021年ヘブライ王国が成立した。
海の民襲来の影響でエジプトやアッシリアといったオリエントの大国が衰退していたため、
大国からの侵攻を受けにくく建国がしやすい時期でもあった。
-
イスラエル王国の歴代の王(年代は全て紀元前)
- 1021年 - 1000年:サウル
- 1000年 :イシュ・ボシェテ。サウルの子。暗殺された。
- 1000年 - 962年:ダビデ
- 962年 - 922年:ソロモン。ダビデがバト・シェバとの間にもうけた子。
北イスラエル王国の歴代の王(年代は全て紀元前)
- 922年 - 901年:ヤロブアム1世
- 901年 - 900年:ナダブ
- 年900 - 877年:バシャ
- 877年 - 876年:エラ
- 876年 :ジムリ
- 876年 - 869年:オムリ
- 869年 - 850年:アハブ
- 850年 - 849年:アハズヤ
- 849年 - 842年:ヨラム
- 842年 - 815年:イエフ
- 815年 - 801年:ヨアハズ
- 801年 - 786年:ヨアシュ
- 786年 - 746年:ヤロブアム2世
- 746年 - 745年:ゼカリヤ
- 745年 - 738年:メナヘム
- 738年 - 737年:ペカフヤ
- 737年 - 732年:ペカ
- 732年 - 722年:ホセア
ユダ王国の歴代の王(年代は全て紀元前)
- 922年 - 915年:レハブアム
- 915年 - 913年:アビヤム
- 913年 - 873年:アサ
- 873年 - 849年:ヨシャファト
- 849年 - 842年:ヨラム
- 842年 :アハズヤ
- 842年 - 837年:アタルヤ
- 837年 - 800年:ヨアシュ
- 800年 - 783年:アマツヤ
- 783年 - 742年:ウジヤ
- 742年 - 735年:ヨタム
- 735年 - 715年:アハズ
- 715年 - 687年:ヒゼキヤ
- 687年 - 642年:マナセ
- 642年 - 640年:アモン
- 640年 - 609年:ヨシヤ
- 609年 :エホアハズ
- 609年 - 598年:エホヤキム
- 598年:エホヤキン
- 597年 - 587年:ゼデキヤ
- 初代王サウル
-
初代の王はベニヤミン族のサウルであった。
サウル (Saul)は、
旧約聖書『サムエル記』に登場するベニヤミン族である。
預言者サムエルに選ばれ、
ヘブライ王国最初の王になり、
部族長を中心とする寡頭制政治を敷く。
領土を広めたが慢心し、ペリシテ人との戦いで戦死した。
- 2代王ダビデ
-
サウルが王国建設途上で挫折した後を、
南部のユダ族の出身であったダビデが継いだ。
ダビデは、ペリシテ人を撃破するなど軍事遠征を成功させ、
近隣王国と友好同盟を結び、
イスラエルをその地方の強カな勢力に作り上げた。
その結果、
ダビデの権力はエジプトや紅海の境界からユーフラテスの川岸にまで広がっていった。
つまり、北はダマスカスから南はアカバ湾にいたる地域を確保し、
エルサレムを王都に定めてイスラエル王国の礎を築いた。
国内でもダビデは新しい統治を始めた。
イスラエルを構成する12部族を1つの王国に統一し、
エルサレムと君主政治を民族の支柱においた。
聖書の言い伝えでは、ダビデには多彩な才能が備わっていたようである。
彼の詩の才能、音楽の才能などは、
「ダビデの作」と言われている詩篇の中にうかがうことができる。
- 3代王ソロモン
-
ソロモンは、父ダビデが築いた国を継承し、
その王国をより強大にするためにもっぱら努カした。
近隣王国と条約を交わし、政略結婚を重ねて自国を強国に育てあげた。
とりわけエジプトに対しては、終始礼を尽くし属国として振る舞い、
ファラオの娘を娶ることで良好な関係を築いた。
ソロモンは外国との交易を広げ、
銅の採鉱や金属精錬など大きな事業を進めて国の経済を発展させ、
統治システムとしての官僚制度を確立して国内制度の整備を行った。
また、大規模な土木工事をもって国内各地の都市も強化している。
フェニキアの技術を導入してエルサレムに壮麗な神殿 (エルサレム神殿) を建立したことでも有名である。
これはユダヤ人の民族生活、宗教、生活の中心となった。
旧約聖書のなかの『箴言』と『雅歌』は、
かつてソロモンの手によるものと考えられていた。
しかし、晩年はユダヤ教以外の信仰を容認するようになり、
これがユダヤ教徒の厳格派から偶像崇拝と批判されることで、
ユダヤ教徒と他の宗教信者との宗教的対立を誘発。
国家分裂の原因の一つにまでなっている。
- 王国の分裂
-
ソロモンの長い統治は経済的繁栄と国際的名声をもたらしたが、
統一王国という支配体制は一般民衆の不満からほころぶことになった。
人々はソロモンの野心的な事業のために重税と賦役をになわされていたのである。
またソロモンが自分の出身部族を優待したことも他の部族を憤慨させ、
君主政治と部族分離主義者との対立が次第に大きくなった。
紀元前922年ごろのソロモンの死後、
部族間の統制を失った統一イスラエル王国は北王国として知られるイスラエル王国と南王国として知られるユダ王国に分裂した。
イスラエルが分裂した原因は、
『列王記』11章では「ソロモンが異教の神をあがめるようになったので主から見限られた」としているが、
預言者や聖職者ではない一般民衆はソロモンによる重税や苦役の緩和を聞き入れないレハブアムに怒り見限ったという説明が続く12章にあり、
いわば王国に内在していた矛盾がソロモンの死とともに一気に噴出して、
南北の2国に分裂することになったのである。
- 北王国とも呼ばれているイスラエル王国のその後の滅亡まで。
-
首都はシケム、ティルツァを経て最終的にはサマリアに落ち着いた。
人口の点でも耕地面積においてもイスラエル王国はユダ王国をしのいでおり、
経済的にも優位に立っていたが、多くの部族を抱えたイスラエル王国は、
反ユダ王国感情によってまとまっているにすぎず、
きわめて不安定でクーデターが頻発し、
王朝はたびたび交代した。
オムリ王朝の時はイスラエルとユダは同盟を組み、
王族同士の婚姻関係もあったが、他の時期は基本的に対立していた。
また、分裂直後からアッシリアの猛威に晒され続けた。
ヤロブアム2世時代にもっとも繁栄したが、
その後は凋落した。
預言者アモスはモラルの低下を鋭く弾劾したが、
凋落に歯止めがかかることは無かった。
末期には王が相次いで家臣に殺害され、
殺害した家臣が王位に就くという下克上的な政情不安が相次ぎ、
アッシリアの侵攻は激しさを増していく。
サマリアはアッシリア王シャルマネセル5世の包囲に耐えていたが、
シャルマネセル5世の死後王位に就いたサルゴン2世の猛攻によって紀元前722年に陥落し、
19代の王の下に253年にわたって存続した北王国は終焉を迎えた。
10支族の民のうち指導者層は連れ去られ、あるいは中東全域に離散した。
歴史の中に消えた彼らはイスラエルの失われた10支族とも呼ばれるが、
10支族の全員が連れ去られたわけではなかった。
- 南王国とも呼ばれているユダ王国のその後の滅亡まで。
-
ユダ王国は首都をエルサレムにおいた。
分裂直後レハブアムは一度は反乱を鎮圧させようと、
ユダとベニヤミンから兵士を招集しようとしたが、
今度は神の人とされるシマヤの進言を聞き入れ北部への遠征を中止した。
『歴代誌』下11章ではこの直後にユダ内部で都市の防衛を整える記述があるが、
名前をあげられている都市を見るといずれもエルサレムより南の物ばかりで北側の都市の防衛増強の説明がないことから対北イスラエル用ではなく他の地域の勢力向けで、
レハブアムは当初イスラエルが別勢力になったことを認めたと刺激したくなかったのだろうとギホンやヘルツォーグといった学者は推測している。
紀元前722年にアッシリアの侵攻によりイスラエル王国が滅ぶと、
ユダ王国はアッシリアに従属することになった。
その後、紀元前609年にメギドの戦いで一時的にエジプトの支配下に置かれたが、
紀元前605年にカルケミシュの戦いでエジプトが新バビロニアのネブカドネザル2世に敗北し、
ユダ王国も新バビロニアに抗戦したものの紀元前586年に敗北し王族や貴族たちが首都バビロニアへ連行され(バビロン捕囚)滅亡した。
このころからヘブライ人はユダヤ人と言われるようになった。
小窓集
イスラエルの失われた10支族
イスラエルの失われた10支族とは、
旧約聖書に記されたイスラエルの12部族のうち、
行方が知られていない10部族を指す。
- ルベン族
- シメオン族
- ダン族
- ナフタリ族
- ガド族
- アシェル族
- イッサカル族
- ゼブルン族
- マナセ族
- エフライム族
日本語では「失われた10部族」ともいうがどちらが正しいということはない。
ただし「失われた10氏族」という表記は誤りである。
オムリ
北イスラエル王国の第6代王 (在位:紀元前884年 - 紀元前876年(没年)) 。
旧約聖書以外の文献に登場する最初のヘブライ人の王でもある。
オムリはヘブライ語で「主の礼拝者」という意味である。
バシャの子エラが北イスラエル王国の王になって2年目(ユダ王国のアサ王の在位27年目)に、
将軍の1人であるジムリにクーデターを起こされ殺害された。
この時、ペリシテと北イスラエルの間に戦いがあり、
軍隊はギベトンに対して陣を布いており、
人々はティルツァでエラがジムリの謀反で謀殺されたという話を聞くと軍の総司令官オムリをその日のうちに王として宣言し、
ギベトンから攻め上り、ティルツァを包囲した。
ジムリは勝てないと悟って自害した。
クーデター鎮圧後、北イスラエルの人々は2派に分かれ、
片方はそのままオムリを王として支持し、
もう一方はギテナの子ティブニを王として支持して争った。
最終的(約4年後)にオムリ派が勝利してティブニは死に、
こうしてアサの在位31年目にオムリは北イスラエルの王になり12年間収めた後で彼は死に、
サマリアに葬られた。
ベニヤミン族
ベニヤミン族は、ベニヤミンを祖とするとされている古代イスラエルの部族である。
ヘブライ語で「ヤーミーン」が「南」を意味するところから、
この部族と南との関連性を指摘する学説がある。
創世記46章21節には、ベニヤミン族の10名が登場する。
その他、部族の系図が民数記26章38節-41節、第一歴代誌7章6節-12節、8章1節-40節に記録されている。
出エジプト後のカナンの定住の時の相続地は、ユダ族とヨセフ族の間にあった。
東の境界線はヨルダン川で、西はダン族、北はエフライム族、
南はユダ族の境界線に接する細長い地域である。
士師記では、あるレビ人のそばめが、
ベニヤミン族に乱暴され殺害されたことが発端になり、
ベニヤミン族が全イスラエルの征伐の対象になった。
ベニヤミン族は戦に敗れて民族滅亡の危機に陥った。
ペリシテ人の圧迫からイスラエルを助け出したサウル王はベニヤミン族であった。
西部のギブオン、ケティラ、ベエロテ、キルヤテ、エアリムはサウル時代まで先住民が占拠していた。
サウルが戦死して、後継者のイシュ・ボシェテも暗殺されると、
ユダ族のダビデが王位についたが、ダビデを支持したベニヤミン族もあった。
エブス人に占拠されていたエルサレムはダビデの攻略によってベニヤミン族の支配下になった。
ソロモン王は、ベニヤミン族を行政区の一つに入れた。
ヤロブアム1世の時代には、ベテルとベニヤミン部族領の東部が王の支配下にあった。
領内にはエリコがあったが、アハブ王時代に、ベテル人ヒエルが再建した。
後に、ユダ族とベニヤミン族は統合されていった。
主なベニヤミン族の人物:エフド、サウル、エステル、パウロ
レハブアム
レハブアムは、北王国とも呼ばれているユダ王国の初代の王である。
名前は「民は増え広がった」という意味である。
統一イスラエル王国第3代の王ソロモンとアモン人ナアマの間に生まれた。
紀元前930年のソロモンの死後、
シェケムを訪れた時に北部の諸部族からも王として迎えられ、
第4代イスラエル国王に即位する。
しかしソロモンの政策を引き継いで大事業を繰り返し、
重税と賦役を民衆に課した。
不満を持った人々はレハブアムに重税と重労働の軽減を要請したが、
レハブアムは全く聞こうともしなかった。
その結果、エジプトから呼び出されたヤロブアム1世率いる北イスラエル王国が離反して、
王国が二つに分裂した。
父ソロモンが築いたエルサレム神殿はレハブアムの治世には荒廃した。
紀元前925年にエジプト第22王朝のシェションク1世の
侵攻によって略奪・破壊され、
跡形も無くなったという。
ユダ王国はレハブハムの代にエジプトに侵略され属国となった。
ソロモンの時代にもエジプトの属国ではあったが、
婚姻を通じた緩やかな従属に対して、
侵略をうけた末の屈服という違いがあった。
レハブアムの生涯は神に背いた生涯だったが、
ダビデ王の功績の故に、王としてダビデの町に葬られた。
その後を継いだ子アビヤムもまた、父同様神に背いた政治を行った。
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